Okinawa 沖縄の旅 Day 33 (3/09/19) Study 第二尚氏王統 (1)
Study 第二尚氏王統 (1)
今日は図書館は休館。第二尚氏王統について調べた事を整理する為、おもろまちのメインプレイスに行く。今日はここに一日中いる事になる。
第二尚氏は、尚円王を始祖とし、即位の1469年 (成化6年) から1879年 (光緒5年) までの410年間、沖縄の琉球王国を統治した王家で、初代 尚円王から最後の尚泰王まで、19代続き、廃藩置県後は日本の華族となる。
(第二尚氏系図)
初代 尚円 (1415-1476 63才、在位1469 - 1476 8年間)
クーデターで第一尚氏王統を倒し、第二尚氏王統の初代国王に即位(在位 8年間:1469年 - 1476年)この即位の経緯については、沖縄で小学生が学んでいるのは、第一尚氏 最後の王の尚徳の急死の後、世継ぎの任命式で安里大親が異議を唱え、金丸の王への即位を主張、それに民衆が賛同し、その後、隠居していた金丸の説得をし、辞退する金丸を説き伏せ、遂に尚円王が誕生とある。あまりにも出来すぎたストーリーだ。ここには裏があるだろう。
- 尚徳の急死の原因は不明なるも、毒殺されたという説がある。家臣からは信頼を得ていなかった事は確かな様だ。琉球の行く末を考えると、この王で良いのか、独裁者的なやり方に古参の家臣は自分達の将来に不安を感じていたかもしれない。(事実、最も信頼出来た金丸ですら隠居に追い込まれた。) 個人的には、計画的な毒殺だと思う。その後のストーリーも出来上がっていただろう。
- 世継ぎの任命式で安里大親が異議を唱えて、すんなりと事が運んだのも妙だ。これも出来レースだろう。通常であれば、世子就任派と金丸擁立派が、ここで対立して然るべきだが、即時に体制が金丸擁立にまとまった。これは有力按司の間で話ができていたと考えられる。
- 金丸は何度か、辞退したとあるが、このストーリーは金丸が画策したか、重臣の計画に乗ったかのどちらかと思える。金丸の潔癖さを印象つける為の辞退は演技であっただろう。と言っても、金丸は自分の野心でこの行動に出たのでは無いと思う。先代の尚泰久王と琉球王朝の発展と安泰に尽力し、道半ばで、尚徳王に理想の実現が阻まれた。琉球王朝には障害になると思っただろう。この決断は恐らく断腸の思いでの上であったと推測する。
ここまで見てくると、琉球のこの時代は按司の力が強く、キングメーカーの役割をしていた事が分かる。王の権威はまだまだ強くなかった時代だ。
尚円こと金丸は、1415年に沖縄本島の北西部の伊平屋伊是名諸島の伊是名島に父 尚稷、母 瑞雲の長男として生まれ、童名は思徳金 (うみとくがね) と言った。24才になるまでは、ここで農業に励んでいたが、村人から盗水の嫌疑をかけられ、妻と15歳下の弟 (後の尚宣威) を連れて、国頭村へ逃亡。ここでも上手くいかず、27歳の時に首里に移住。ここで当時、王叔だった越来王子 (後の尚泰久王) に見い出されて、その家臣となり、下積みを経て、38才で当時の最高位まで上り詰めた。二年後、尚泰久が王に即位すると、西原間切の内間領主に任命され、自らの領地を有する。その後も出世街道を歩み、1459年(金丸49才) には、王への取次職でもあった御物城御鎖側官 (貿易長官) に就任。これにより、王への上申は金丸を経由する必要があり、事実上の最高権力を得た。尚泰久王の信頼が絶大であった事を表している。
翌年、尚泰久が死去し、尚徳の即位で風向きが変わる。歴史上では尚徳の悪政が綴られているが真偽は不明。家臣から信頼されていなかった事は確かなようだ。金丸との関係は上手くいかず、1468年に、金丸54歳の時に内間村に隠遁することになる。(この隠居期間に宇喜也嘉 (オギヤカ) との間に第3代王となる尚真が生まれている。)
金丸の尚円王への即位の経緯は上に書いた通りだが、即位後の功績などについてはあまり書かれていない。尚泰久時代の政策の延長であったのだろう。1476年に63才で亡くなる。彼の死後、また一悶着が起きる。
琉球放送でこの尚円のテレビドラマ制作を企画している。先に放映した尚巴志に続く第二弾だ。来年には放送されるだろう。
第2代 尚宣威 (1430-1477 48才 在位1477)
(尚円と尚宣威)
尚円が亡くなった時に彼の世子 尚真が12才と幼いということもあり、群臣の推挙により即位した。尚円の意向はどうだったのだろう? これは気になる所だ。解説書によっては、ここの経緯は異なっている。尚円が生前に弟の尚宣威に即位を頼んだとなっているものもある。そうであれば、遺言に近いもので、家臣も周知していたはず。遺言通りに群臣が推挙したという事だろう。
しかし、その後まもなく異変が起こる。即位の半年後の事だ。新王を慶賀する「君手擦りの儀」で、女官を掌握していた尚真王の母の宇喜也嘉 (オギヤカ) の策略で、陽神キミテズリの神託と称して、神の意向は王は尚真であると公の場で女神官が言い放った。このことにより、尚宣威は半年で退位。これも、なんとなく胡散臭い。退位後、越来に隠遁し程なく薨去。彼の死因に宇喜也嘉が関わっているかとも疑いたくなる。確かに、一説では宇喜也嘉が尚宣威王の母と三女 居仁 を使い毒殺をしたという。(この説は特に歴史的根拠に基づいてものではなく、沖縄の地域信仰のノロが神がかりで話した内容で、沖縄の歴史諸説はこの手のノロの話によるものが多い様な気がする。この沖縄の地域信仰は沖縄を知る上では、理解すべきものと思う。ある地域ではこのお告げなる物が生活の一部になっているから....)
尚宣威王の死後、越来の地は、息子の朝理 (長男) 、朝易 (次男) の領地となった。墓は尚真王が宇喜也嘉の影響下で造営した玉陵ではなく、越来にある。玉陵を8/23に訪問した際のレポートで触れたが、玉陵の碑では尚宣威はこの玉陵にはいる事が禁じられていた。これも宇喜也嘉の影響と考えられる。後に編纂された琉球王朝の史書である中山世鑑では尚宣威については決して悪くは述べられていない。これも何か背景があるのではと思う。尚宣威に対しての後ろめたさが感じられる。
第3代 尚真 (1465-1527 62才 在位 1477-1527 51年間)
尚真については8/23に玉陵のレポートの際に詳しく述べたのでここでは捕捉だけにしておく。王位継承のゴタゴタに関連した事だが、調べて気になったのが、
- 尚真王の正妻が尚宣威の三女の居仁 (きょじん) である事。尚真の即位が13才なので、それ以降に結婚している事になる。玉陵では尚宣威の血筋を正当とは認めない事になるのだが、なぜ敢えて、その尚宣威の三女の居仁と婚姻をしたのか? 想像だが、尚真は叔父の尚宣威に対しては悪い印象は無かったであろうし、将来、尚宣威の血筋を王族から締め出そうとも思って見なかったのではないか。この時には尚宣威一族と蟠りは無いと表明の証として婚姻したのかもしれない。ただ、宇喜也嘉はこの婚姻に反対しなかったのか? (宇喜也嘉と尚宣威の三女の居仁の共謀説がある。婚姻という裏取引があったのか? )
- 居仁と婚姻までして、何故、彼女との間にできた嫡男 尚維衡を二度も廃嫡したか? 尚維衡の誕生は1494年で 1500年に廃嫡されている。翌年1501年に玉陵が造られ、宇喜也嘉主導で作られた埋葬リストから外された。駄目押しと言った感じだ。1505年に宇喜也嘉が亡くなった後、1508年に世子として復活するが、直ぐに廃嫡されている。この再廃嫡の顛末は “おっぱい事件” と言われている。父王の側室華后 (尚清の母) の胸に手を入れたということで、父王の怒りを買い、廃嫡。無論、華后の罠であった。これは興味ある出来事だ。宇喜也嘉の呪縛から解放されたと思っていたら、ミニ宇喜也嘉が登場していた。女性 つまり 妻の影響力はいつの時代でも大きい。それが我が子の事となると国政まで変えてしまう。恐ろしい!
8/23の尚真王の功績を列挙したが、もう一つ彼が実施したことがある。
- 殉死の廃止 それまでは王族が亡くなると、それに使えていたものが何人か選ばれ殉死する。母の宇喜也嘉が亡くなった際にこれを廃止した。「殉死の風習は人間の行うべき道ではない」と言ったという。流石、名君と言われるだけある。自分の母の宇喜也嘉の悪行は十分知っていただろう。死んでまで、まだ他人を巻き添えにするのか、今までは見て見ぬ振りをしていた自責の念もあったのではないか? 宇喜也嘉の死がこの殉死の廃止の強いきっかけにはなっただろう。
- あや船の派遣 1481年に足利義尚の将軍就任を祝賀する目的で派遣 (あや船(綾船・紋船)とは琉球の日本への正式な使節船で、船体に華麗な修飾を施したものである。室町幕府将軍や島津氏当主の代替わり、島津氏領内での戦争終結の祝賀など、様々な目的で派遣された。) この時代には、明国だけでなく、日本とも積極的な関係を築こうとしていた。この「あや船」がこれ以降の日本との関係の重要な鍵となっていく。
第4代 尚清 (1497-1555 59才 在位 1527-1555 28年間)
1527年に即位をするが、冊封は8年後となっている。これは明国側が、5男が跡を継ぐ事に疑問を感じ先延ばしにしていた為。(事実明国皇帝は福建の鎮巡官に調査命令を出している) これに対し、琉球側は国中から署名を集め、再・再度願い出てやっと冊封の儀が行われた。明国からも疑いをかけられる不自然な王位継承だったのだろう。尚清の主な功績は
- 軍事面で、1537年に奄美大島で起こった与湾大親による反乱を鎮圧、倭寇に対する防備も強化
- 首里城外門として守礼門を創建、南側外郭の整備及び、継世門/大美御殿の創建、城内の京の内の整備
- おもろさうし 第1巻編集
- 琉球への朝貢を絶ったという理由で、奄美大島へ親征
- 尚清王は廃嫡された兄尚維衡を玉陵に碑の文言に背いて移葬している。やはり、玉陵の碑文は誰にとっても不条理と映っていたのだろう。
1555年、59歳で死去。その後、王位継承争いが起こったが、翌年に世子であった第2王子の尚元王が継いだ。
第5代 尚元 (1528-1572 44才 在位 1556-1572 16年間)
- 三司官の国頭景明と城間秀信が指示する四男尚鑑心 (尚元が病弱であるという理由)と、もう一人の三司官の新城安基が支持する世子の尚元の間で王位継承争いが起こり、これに勝利し、1556年に即位。国頭と城間はその後流刑、後に放免となる。
- 1562年、明王朝から冊封。
- 1571年には、琉球への朝貢を再度、絶ったという理由で、王自らが奄美大島へ親征し、勝利した。
- ここで「あや船」が再度登場する。当時、薩摩は島津貴久が統治しており、琉球は島津氏とは良好な対等関係を保持していた。この関係が変わっていくのが、「あや船一件」と呼ばれている事件。薩摩は琉球に島津義久の当主の代替わりの祝賀の為、あや船の派遣を求めていたが、琉球側はこれを拒否していた。琉球にとってはあや船は好意を表すもので義務ではない事、足利将軍の祝賀には派遣したことはあるが、薩摩へは前例が無いとの見解であった。島津義久はあや船が派遣される事で対外的に薩摩支配が認められるという対外的なPR権威付けを狙っていた。しかし、琉球は方針変換して、要求通りに1559年にあや船を出すことになるのだが、それには琉球側の都合があった。1556年に即位した尚元王の冊封が1562年に予定され、冊封使一行の来琉にあたり那覇港の治安維持強化が必要となった。この為、薩摩に琉球渡海朱印状の発行を依頼する目的ではあや船を派遣した。薩摩にとっては琉球との貿易を一手に行えるという目論見で快く承諾した。琉球にとっては、民間による自由貿易が原則であり、琉球渡海朱印状は冊封使の滞在期間の臨時的措置と考えていた。ここまでは、琉球と薩摩の関係は良好であった。このあや船派遣と琉球渡海朱印状とは別個の出来事だが、これ以降、事態は複雑化していく事になる。1568年に薩摩に漂着した宮古島の船の漂着民を保護し琉球に送還した。これに対し琉球は翌年、僧を派遣して感謝の意を述べる。1570年に島津氏はこの琉球による漂着民送還の返礼を受けて薩摩弘済寺の僧の雪岑を琉球に送り、島津貴久から島津義久への守護職の代替わり祝賀のあや船派遣要請、琉球渡海朱印状の印章の交代も伝え、さらに、島津の朱印状を持参せずに渡航する商船への取り締まりを要請した。これは琉球が思っても見なかった方向に動きだしてしまった。この要求に琉球は返答に悩み、友好関係を維持するとのみ回答し、島津の要求に対しては、尚元が急死したこともあり、放置されてしまった。これが次の国王 尚永の代に問題化することになる。
1572年5月12日(隆慶6年4月1日)、44歳で死去し、後を第2王子の尚永王が継いだ。
第6代 尚永 (1559-1589 30才 在位 1573-1588 15年間)
1572年に尚元が死去すると、その長男の尚康が正妃の子でなかったため、次男であった尚永が即位した。1579年には明王朝から冊封を受ける。政務に特に見るべきところもなく、1589年に30歳で死去した。嗣子が無かったため、小禄御殿四世の尚寧王 (尚真王の長男・浦添王子朝満 [尚維衡]の曾孫)が後を継いだ。ここで第2代王 尚宣威の血をひいた王が出た。
この頃から、薩摩藩 (島津義久) が琉球に対して高圧的な対応をするようになっていた。日本は豊臣秀吉が天下を統一を成し遂げており、次は琉球へ出兵の可能性をもちらつかせ、琉球の秀吉へ入貢を促していた。この年の冬に尚永王は返信をしないまま病死する。
第7代 尚寧 (1564-1620 44才 在位 1589-1620 31年間)
前国王の尚永王には男子がなかったため、小禄御殿4世の尚寧王が尚永王の長女 阿応理屋恵 (あおりやえ) を娶り、あとを襲った。この時代は琉球王朝にとって激動の試練の時代となる。独立国としての琉球王朝最後の王。
NHKの大河ドラマで「琉球の風」(陳舜臣 原作) が1993年に放映された。丁度この尚寧王の薩摩からの侵攻で、苦しみながら道を探る琉球を描いている。この沖縄に到着後、久しぶりに見てみた。当時の評判は今一つだったが、沖縄を知るには良い番組だ。尚寧王には沢田研二、阿応理屋恵には寺島しのぶ、謝名親方は江守徹が演じていた。
ドラマでは繊細なイメージで描かれてはいるが、実際は活動的な聡明な王であったと言われている。
- 弟の具志頭王子 (ぐしちゃんおうじ 尚宏) を摂政に任命、三司官には謝名親方利山 (じゃなりざん 鄭迵 ていどう)、叔父である浦添親方朝師 (向里端)、名護親方良豊を起用し政務を行う。首里にもともと使えていた官僚と浦添から連れてきた官僚との間には亀裂があったが、尚寧は強引に纏め上げた力を持っていた。
- 浦添から首里まで道を整備し、西原間切と首里の境界である平良川に石造の太平橋を築く。尚寧王の道と呼ばれている。この太平橋は薩摩軍との激戦地となった所。
- 尚寧が即位した当時、琉球は、豊臣秀吉から朝鮮出兵に協力するよう要請されていたが、琉球は独立国家であるという理由で、要求には応じなかった。徳川幕府になっても圧力は続き、1609年、薩摩軍は琉球が要求に応じない事を理由に、琉球へ攻め込んで来た。薩摩軍は奄美大島、徳之島、沖永良部島を攻略、その後、沖縄本島北部の今帰仁グスクを占領。尚寧は一時停戦を求めるが講和は不成立。薩摩は那覇に兵を進め、那覇港での攻防では、一度は薩摩の船団を追い払うも、薩摩の主力軍は読谷から上陸、浦添経由の陸路で首里城を包囲する。崇元寺で薩摩側との話し合いで、最終的に尚寧は降伏を決断。首里城を明け渡し、薩摩へと向かう事になる。以後、琉球は日本 (薩摩藩) と明の二ヶ国に両属することになる。
- 100名余りの尚寧一行は薩摩を経由して駿府、江戸城に向かう。駿府城で徳川家康に対面。この駿府で弟の具志頭王子が病死する。江戸城へ登城。徳川秀忠との謁見。
- その後、薩摩へ帰り、琉球は奄美群島の割譲や、琉球が守るべき「掟十五カ条」を押し付けられ、尚寧らは薩摩に忠誠を誓う起請文を書かされた。この起請文への署名を最後まで拒否した徹底抗戦派であった謝名親方は斬首された。翌1611年にようやく琉球へと帰ることを許される。琉球を発ってから2年半が過ぎていた。
- 尚寧はこの拘留期間が長期になるであろう事は事前に予測して、朝貢貿易の継続や内政を後に斬首となる謝名親方に託して旅だった。用意周到であった。
- 帰国後も尚寧は精力的に内政の指示を出し、明国との関係を維持していた。薩摩に対しても、決して弱腰の対応ではなかった。色々調べると魅力的な王と思えるようになった。
- 明との朝貢関係は継続したが、薩摩の侵攻を受けたという事で、十年一貢とされる。
- 尚寧王はこの9年後に没し、浦添ようどれに葬られている。第二尚氏の陵墓は玉陵であるが、ここには入らず、故郷の浦添に戻った。王妃の阿応理屋恵とは仲睦まじかったと言われていたが、王妃は首里の天山陵に葬られていたが、王妃の死から100年以上経った1759年、彼女の遺骨は浦添ようどれへと移され尚寧王と再会する事になった。
- この他に、この時代に始まったのが、野国総監がサツマイモの苗を持ち帰り栽培が始まる。儀間真常が尚寧王と帰国するさい、木綿の種を持ち帰り、これを植えて収穫し綿布を織らせる。琉球での木綿の始まり。島津から譲り受けた朝鮮陶工・張献功を那覇湧田に住まわせ、陶器を教授させてる。(張献功の墓が那覇市内にあり訪問)
第8代 尚豊 (1590-1640 51才 在位 1621-1640 19年間)
第5代国王 尚元王の三男の尚久の四男。尚寧王の摂政であった。尚寧王には子がなく、王の親戚や三司官・群臣が集って相談し、浦添王子の子 尚恭を王位に就けようとするが、尚恭がまだ9歳と幼いという理由で島津家の承諾を得られず、尚恭の父の尚豊を王位に立てることになった。
- 福建でサトウキビからの製糖法を学ばせ、黒糖を製造し普及させる。
- 明国と朝貢を二年一貢に戻す交渉し、五年一貢に改善。更に交渉を重ね二年一貢に戻す事に成功。
- 薩摩と交渉を行ない、奪われていた裁判権を取り戻す
- 琉球人民の宗派の調査を行い、キリシタン狩りが行われた。全住民が戸籍を作り直す。
- 1636年、琉球国王の王号を薩摩藩から剥奪され、琉球国司を名乗る。
- 世子の館 (中城御殿 現在は首里高校グランド 訪問済) を創設、弁財天堂 (訪問済) と照太寺を修復。
- おもろそうし 第三巻以降を完成。
第9代 尚賢 (1625-1647 23才 在位 1641-1647 7年間)
生誕時から薩摩で育つ。尚元王の長男 尚恭が20歳で病死、次男の尚文も多病で即位できず、側室の子である尚賢が王位に就く。明王朝から清王朝へと代わり冊封も清朝から受ける。
- 遠見番をつくり、烽火の制を定めた。
- 薩摩より三司官の一人は三年間薩摩に留まるよう命じられる
- 清国との朝貢が五年一貢となり、財政困難となる。
- 黒糖、ウコンの専売制を始める。これには経緯があり、財政困難に陥り、薩摩への借金の資金として琉球王朝の専売とし、その利益を返済に充てていた。
- 最初の江戸上りも行われた。(将軍の世代わりには慶賀使、琉球国王の世代わりには謝恩使を江戸へ派遣することが義務付けられた。)
第10代 尚質 (1629-1668 40才 在位 1648-1668 20年間)
第8代国王尚豊王の子で、第9代国王尚賢王の弟。23歳という若さで没した尚賢王には世子がなく、王位は弟の尚質が継ぐ事になった。羽地朝秀を摂政とし、多くの改革を行い、疲弊していた国を立て直すのに成功。
- 羽地朝秀 (向象賢) が琉球最古の歴史書である「中山世鑑」(歴代国王の伝記を中心に中国との関係をまとめた正巻と薩摩など日本との関係をまとめた俯巻がある) を編集。羽地朝秀は薩摩留学経験から薩摩支配受容に傾き日琉同祖論を展開。(日琉同祖論で「日本は即ち本であり、本にそむくものは禍に遭う」との立場から琉球独自の風習には批判的。)
- 地方制度改革を行い間切と村を再編成。これにより徴税制度も改革
- 政教分離 政治と結びついて多額の出費があった土着の琉球神道を問題視して、聞得大君の格下げ、東御回り (あがりうまーい) への王参拝の禁止、諸祭事を縮小させるなどの改革を行う。
- 百姓が首里、那覇、泊、久米に転居することを禁止。
- 漏刻門に巨鐘を吊り、鐘を打って時を知らせることを開始
第二尚氏王統の半分まで見てきた。ここまでで歴史的に重要な役割を果たした王は初代 尚円、三代 尚真、七代 尚寧 の様だ。次は残り半分を見ていく。
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