Okinawa 沖縄の旅 Day 34 (4/09/19) Study 第二尚氏王統 (2)
Study 第二尚氏王統 (2)
第11代 尚貞 (1646-1709 63才 在位 1669-1709 40年間)
尚貞王のときに
- 蔡鐸 (蔡温の父) が中山世譜を編集。
- 御茶屋御殿 (首里 崎山) を建造。
- 焼失し何年も放置されていた首里城正殿を再建 (即位は大美御殿で挙行していた)
- 窯場の湧田・首里宝口・知花を壷屋に集結 (現在のやちむん通り 訪問済)
- 辻村や仲島村にジュリ (遊女) を集め遊郭ができる。
- 系図座を設置し、諸臣は家譜を作成するようになる。系図を持つ身分を士族とし、持たない身分を百姓として身分制度が強化する。同時に氏と名乗りも定められる。氏とは、中国風の氏で、名乗りとは、名前の最初の一文字を門中 (一族) で揃える事。さらに氏族の譜代と新参を規定。尚豊王の時代以前から王府に仕えている古株の士族を譜代とそれ以降に使えた氏族は新参とされた。別のくくりでは士族は、大名方 (だいみょうがた) と士 (サムレー) の階層に分けられ、大名方には王子、按司 (アジ)、親方 (エーカタ) で、里之子筋目 (サトゥヌシすじめ) とよばれ、上級士族として要職に従事、それ以外の筑登之筋目 (チクドゥンすじめ) は下級士族として一般事務にあたっていた。大名方は王府から一間切の領地を与えられ、王子/按司の屋敷を御殿 (ウドゥン)、親方の屋敷を殿内 (ドゥンチ) と呼んでいた。
尚貞王は在位41年で長期に渡り、1709年65歳で没する。この年、琉球は死者3千余名を出す大飢饉が起こる。再度にの失火で首里城炎上全焼となる。
第12代 尚益 (1678-1712 35才 在位 1710-1712 3年間)
尚純 (先王の尚貞の子) の世子で33歳で即位。在位は僅か年。尚貞王の息子たちがことごとく早死にしたため、長男の子である尚益が
王位に就く。
- 祖父の尚貞王の時代に魏士哲・高嶺徳明が中国に渡り補唇術を学び、帰国後兎唇であった尚益に補唇術を施す。日本で最初の全身麻酔での手術であり、華岡清洲が麻酔による乳がんの手術を成功させた 1804年より100年以上前になる。伝承では、尚益は口髭を生やして傷を隠したため、その子らも父が兎唇であった事を知らなかったそうだ。この魏士哲・高嶺徳明は久米村出身で久米村を訪れた時に紹介されていた。
- 薩摩の態度に変化が現れる。一国司と格下げされていたのを琉球国王としての地位が復活。
- 在位3年で病死。薩摩への報告は組踊の創始者の玉城朝薫であった。
第13代 尚敬 (1700-1751 51才 在位 1713-1751 38年間)
1712年に尚益王が薨去し、世子尚敬が王位に就いたのが12才の時。守役が沖縄の歴史上の偉人の蔡温であった。守役をしていた事で、蔡温と尚敬の信頼関係は揺らぎないもので、蔡温は、1728年48才の時、久米村出身でありながら政府高官らの選挙により三司官となり、留学で学んだ実学を基にして辣腕を奮い改革を実行する。まさに蔡温の時代であった。
- 1712年、薩摩藩から許され、琉球国司から琉球国王の王号に復した。
- 蔡温は三司官に就任後、羽地朝秀の改革を引き継ぎ、内政では、系図座規模帳、大与座規模帳、位階定などを編纂し制度の成文化を行う。
- 1732年、諸役人、農民の道徳規範、生活心得として御教条を公布。(御教条は1879年 明治12年 の琉球処分に至るまで教科書として用いられた)
- 農業政策、林業政策にも力を入れて農業の制度や経営について解説した農務帳を著し、1736年には5か月をかけ、自ら琉球北部の山林を巡視し、各地で治山の指導をするとともに山林の管理方法を杣山法式として編纂を行った。
- 尚敬は教育や文化振興に力を入れ、琉球を文化大国へ導く。この時代にには高名な教育者 程順則や組踊を創作した芸能家 玉城朝薫、和文学を大成した平敷屋朝敏 (へしきやちょうびん) など、多くの傑物が活躍している。
第14代 尚穆 (しょうぼく 1739-1794 55才 在位 1752-1794 42年間)
1751年、尚敬王世子尚喜が即位、後に名を尚穆と改める。
- 褒章制度を整備し、国民の模範となるものに物品や役職を授けた。
- この時代にから庶民も位牌を作るようになり、屋根の上や門柱に瓦獅子 (シーサー) を乗せる風習が始まり、石巌当も始まった。
- 首里城の寝廟殿や世添殿を創建
- 琉球科律完成
- 中国日本の刑書を参考に、始めて刑法の琉球科律が出来た。
- 1771年 明和大津波が先島地方を襲い、1万2千人以上が亡くなった。その後も飢饉や疫病で国の財政も破綻状態となる。
第15代 尚温 (1784-1802 18才 在位 1795-1802 7年間)
1788年に尚穆王の世子の尚哲が死去し、そのこの尚温が王位を継ぐ。尚温が僅か11才の時。19才で亡くなるまでの間には教育の普及に取り組んだと言われている。
- 久米村の蔡世昌を漢学の師である国師とし、この時代まで久米村人に限られていた官生を首里の氏族までに広げた。久米村の猛反対を受けるも、久米村弾圧で収める。
- 1798年に国学(現沖縄県立首里高等学校)平等学校を開く。
第16代 尚成 (1800-1804 4才 在位 5ヶ月間)
先王の尚温が19才で他界した事で、その世子の尚成が2歳で即位するが、わずか1年足らずで死去。
第17代 尚灝 (しょうこう 1787-1834 47才 在位 1804-1834 30年間)
14代尚穆王の世子であった尚哲の四男。次兄の15代国王 尚温が19才で薨去、その子の16代王 尚成が即位の翌年死去し、急遽、尚灝王が王位を継ぐことになった。
- この時代には何度も飢饉や疫病の蔓延に襲われ、国は疲弊していた。更に外国船の渡来も何度かあり王府はその対応にも追われる。舵取りが難しく時代だった。尚灝王は積極的な行動には出ず、政務を放棄して後宮に籠るようになったという。後宮に籠る尚灝王は8名の妾を持ち、26名の子をもうけた。正に国政を忘れ女色に溺れる王との印象。
- 晩年は精神病を患い、浦添の城間 (現 港川地内) で隠居生活を送り、1828年 世子の尚育が摂位を行う。晩年は坊主頭であったことから坊主御主 (ぼうずうしゅう) と呼ばれた。
- 1834年 海上で船遊びをしている途中に突然発狂して海に飛び込み水死したとの説もある。
- 在位中、宮古・八重山方面への派遣医師の増員のほか、琉球の刑法典である『琉球科律』を追補する『新集科律』の編纂事業があった。 (これらは摂政の尚育の功績であろうが...)
- 1816年には、バジル・ホールが調査目的で来琉している。後に「朝鮮半島西海岸及び日本海上大琉球探検航海記」を発表し、欧州ではベストセラーとなり、琉球への関心が高まった。
第18代 尚育 (1813-1847 34才 在位 1835-1847 12年間)
父・尚灝王が亡くなった1835年に22歳で即位。尚灝王の時代の1828年に摂位しており15歳で実質的な王位に就いていた。
- 士族の教育の為の学校を作るなど学問分野において力を入れるが、同時に財政が逼迫する。1835年に首里三平等のうちの各村に村学校所を設け、1837年に首里の国学内に孔子廟を創建。
- 1844年、フランス海軍が那覇へ来航すると、フランス側の要求で貿易と宣教師テオドール=オギュスタン・フォルカードを滞在させて布教するのを許可した。
- 1846年、フランスから開国を迫られ、入港を許可し、フランス海軍はフォルカードを伴い、帰国したという。同年、英国海軍が入港し、宣教師ベッテルハイムが逗留した。
- 翌1847年(道光27年)、キリスト教の宣教師が滞在していたことを薩摩藩に報告。
この時代にを舞台にNHK BSでテンペストという歴史ドラマが2011年に放映されている。フィクションだが、この時代を知るには良いだろう。
第19代 尚泰 (1843-1901 58才 在位 1848-1872 24年間)
1848年にわずか4歳にして即位した。
- 1853年にペリーが琉球に来航し、翌1854年に琉米修好条約を締結。1855年には琉仏修好条約を締結。1859年には琉蘭修好条約をを締結。これら一連の条約は国と国のものであるから、当時は欧米諸国から琉球国と日本は別の国で、琉球を独立国家と認識していた事になる。
- 日本で他府県の廃藩置県も済んだ翌年の1872年 (明治5年) に、琉球国王尚泰を琉球藩王に封じて華族とし、東京に藩邸を与えた。
- 1879年 (明治12年) の琉球処分により琉球藩は沖縄県となり、藩王の地位は剥奪、居城の首里城を退去させられ、琉球藩は消滅。尚泰たちは琉球王家の屋敷の一つ中城御殿に移ったが、明治政府の命令により華族として東京へ居を移し、実質上幽閉生活となる。
- のちに、華族令の発令に伴って尚泰は侯爵となる。
- 1901年に急性胃腸カタルのため59歳で没。東京に移住させられてから初めての帰郷は死後となり、玉陵に葬られた。
これでざっと琉球王朝の歴史を調べたが、あらためて思うのは、沖縄は日本とは異なる別個の国で、習慣、文化、考え方も日本とは違っている。その背景をベースに沖縄を考えていく必要があるだろう。
0コメント