Okinawa 沖縄の旅 Day 62 (2/10/19) 豊見城市 (4) Gibo Hamlet 宜保

Gibo Hamlet 宜保集落 (ぎぼ、ジフ)

  • 宜保公民館
  • トゥンチビラカ
  • 勢礼門中神屋
  • 宜保ビジュン
  • 宜保総合拝所 [東之御嶽 (アガリヌウタキ)、西之御嶽 (イリヌウタキ)、ミンタマヤー、ヤシザーカー、ユンチャガー、古島井、イランドーガー、按司墓]
  • アサギガー
  • 神根屋 (大屋)


Kakazu Hamlet 嘉数集落 (かかず、カカジ) 

訪問記は「Okinawa 沖縄 #2 Day 30 (11/07/20) 豊見城市 (15) Kakazu Hamlet 嘉数集落」に詳しくレポートしている。


Nesabu Hamlet 根差部集落 (ねさぶ、ミサシップ)

この集落については2020年7月7日に再訪になった。今回の訪問記も含めて、「Okinawa 沖縄 #2 Day 29 (07/07/20) 豊見城市 (14) Nesabu Hamlet 根差部集落」に詳しくレポートしている。


この宜保集落には2019年10月2日に宜保ビジュンを訪れたが、それ以外の文化財はこの時に参照した案内書にはなかったので、見れなかった。その後、まだまだ文化財があるということを知ったので2020年7月25日と28日の再訪となった。


Gibo Hamlet 宜保集落 (ぎぼ、ジフ)

沖縄の言葉ではジフと呼ばれている集落。豊見城中心部の隣ということもあり住宅街になっている。2019年末の人口は5,664人、世帯数は2,155世帯。字豊見城に次いで、真玉橋集落や上田集落などと人口が多い地区。健康食品で話題になったノニジュースや島とうがらしなどが名産品。明治13年 (1880年) 人口154人、31戸で田頭に次いで2番目に小さな字であったが、野菜栽培が盛んで、原山勝負では幾度となく優勝していた程で、比較的に裕福な地域だったという。沖縄戦当時の昭和20年には人口230名30戸でまだまだ小さな字だった。 戦後は那覇のベッドタウンとして人口が激増し、更に那覇市広域都市計画事業により宅地化が進み風景も一変してしまった。人口は沖縄戦当時に比べて約25倍に増え、世帯数は約72倍と増加率では豊見城市の中で断トツで、現在では字豊見城についで二番目に大きな字となっている。

2010年以降コンスタントに人口が増加。


宜保公民館

ここは元々は村屋 (ムラヤー) があった場所ではなく、西の池と東の池があり、そのまえは空地でだった場所。村屋 (ムラヤー) は大屋の屋敷にあったが手狭なのでこちらの方を公民館にしたのだろう。ここにも酸素ボンベの鐘が吊り下げられていた。戦後の苦労した時期を忘れないためだろう。

かつて御嶽があったヤンジャー原の丘陵に向かっての緩やかな坂に集落が広がっている。集落内には戦後建てられた沖縄の平屋形式の家が何軒かあったが、幾つかは空家となって朽ち果てている。


トゥンチビラカ

集落の北側に配所がある。村の神と霊石が三つある地頭火の神が祀られている。(写真右下) 更に二つの拝所 (写真左下) があるのだが、これが何なのかは調べたが不明。


勢礼門中神屋

トゥンチビラカの隣に勢礼 (シリー) 門中の神屋がある。宜保集落には、仲元 (ナカムトゥ)、勢礼 (シリー)、新屋敷 (メーヒチ) の三つの門中があった。勢礼 (シリー) 門中は絶えてしまい、その腹 (ハラ 分家) である屋号勢礼前 (シリーメー) 門中が神屋を管理している。


宜保ビジュン

2019年10月2日には宜保の史跡はここだけしか見なかった。このビジュンは、宜保のフンシ (守り神) で、アガリヌモーグヮー (東之毛小) という小高い丘の中央に祠に霊石を祀っている。ビジュンは漢字で美殿と書かれている。琉球には文字がなく、平仮名を公用の書き言葉としていた。漢字は当字で音からの当字や意味からの当字とかあり、一つの言葉でもいくつかの当て字もある。ビジュンも霊石と書かれているものや、美殿のものいろいろだ。読みも地域によって微妙に変わってくる。沖縄では村のことをシマと呼び、その地域の言葉を島言葉 (シマクトゥバ) という。ビジュンもその地域の島言葉 (シマクトゥバ) でビジュルと書かれているところもある。沖縄戦当時、ここで出兵軍人の壮行会が行われていた。沖縄戦では米軍が6月9日から宜保に進行して来て集落は、占領されている。ここにも米軍は陣地を築いて沖根司令部を攻撃した。


宜保総合拝所

この付近にアガリヌウタキ (東之御嶽) があり、宜保集落の聖地であった。アガリヌウタキはアガリヌグヮンとも呼ばれていた。琉球国由来記にある儀保の嶽、宜保の殿、ウツ原の殿のどれかだろうと考えられている。この御嶽は土地区画整理でここに移設されている。この場所は宜保集落が始まったところと伝わり、古島と言われている。この古島は沖縄戦後米軍宿舎となり、その跡地に豊見城中学校と上田小学校が建設されている。沖縄戦ではこの丘の斜面には日本軍壕がいくつもあったそうだ。

那覇市広域都市計画事業により、集落にあったほとんどの拝所 (御嶽、井戸拝所、按司墓) が、移設を余儀なくされ、まずはトゥンチビラカに仮安置され、その後、この宜保総合拝所に移設された。数多くの集落を巡った際に、幾つかの集落ではここと同じ様に、集落の拝所をまとめて祀っているのをみた。この合祀を集落の住民はどう思っているのだろうか? 集落によっては、拝所をそのまま保存しているところも多いのだが... ここの住民もそのまま残したかったに違いないと思うのだが、沖縄の拝所とは神が降りてくる目印なので、降りてきてもらう場所を変えただけと考えれば、信仰には影響はないのかもしれない。ただ、やはり、拝所の位置や石の形、井戸の形など、それを見てかつての生活を偲ぶことができるのは後世に歴史を残すということになるので、意味があると思う。一度、機会があれば住民の方にこのことを聞いてみたい。

東之御嶽 (アガリヌウタキ)西之御嶽 (イリヌウタキ) がここに合祀されている。移設される前の写真があった。写真左下が西之御嶽で、宜保と伊良波のそれぞれの香炉があり、現在でも伊良波の人々にも拝まれているそうだ。

五つの拝所としての井戸もここに合祀されている。
  • ミンタマヤー (赤嶺亀太氏宅の前) 旧正月の若水に使われたそうだ。
  • ヤシザーカー (部落の東前 前原) 東之御嶽 (アガリヌウタキ) の東にあった井戸
  • ユンチャガー (部落東入口現在の共同井戸) 旧正月の若水や豆腐作りに使われた水量が豊富なきれいな水だったという。
  • 古島井 (東獄の南西 前原)  東之御嶽 (アガリヌウタキ) の場所にあった井戸で、古島時代に使われた。
  • イランドーガー (イランドー原) イランドー原にはかつての伊良波集落があり、この井戸を生活に使っていたそうだ。今でも伊良波集落の住民はこのイランドーガーにお参りに来るそうだ。

按司墓 四つの按司墓が祀られているが、詳細は不明。この集落の国元 (クニムトゥ) の墓なのだろう。この集落の国元は北山系の勢利門中なので、その国元を祀っているのかもしれない。


アサギガー

宜保集落にあった拝所としての井戸はここを除いて、那覇市広域都市計画事業により、宜保総合拝所に移設されてしまっているので、昔の形が垣間見れる貴重な貴重な文化財だ。


神根屋 (大屋)

ここは神根屋 (カミニーヤ) と呼ばれ、集落の祭祀の中心であった。護佐丸三男の盛親の子孫といわれる大屋が根人であったが、大屋門中は絶えてしまい、その分家であった仲元 (ナカムトゥ) 門中が継承していた。その仲元 (ナカムトゥ) 門中も現在ではも絶えてしまっている。


10月3日はこの後、豊見城歴史民俗資料展示室を見学し、沖縄戦の生存者の証言のビデオを全編1時間ぐらい拝見。この資料室には戦争に関わる資料が数多くあった。文化財よりも戦争遺産に力を入れている様だ。

資料館を出ると直ぐにスコールがきた。パラパラと雨が降り始め、空を見ると黒い雲が一面を覆っている。直ぐに大雨になると思い、資料館に戻る。案の定、土砂降りに変わった。30分ほど雨宿りをし、5時を過ぎた。今日はここで切り上げて那覇に戻ることにした。

参考文献

  • 豊見城村史
  • 豊見城村史 第二巻 民俗編
  • 豊見城村史 第六巻 戦争編

豊見城村史

第4節 字宜保 

宜保部落は字豊見城の南西、字上田の北方にあって西北方には字我那覇がある。
現在の部落は後で出来たもので、昔は今の部落の南方で、現上田小学校の後方、森の北側にあった。ここを古島と呼んでいて御獄があり古島井等古井戸がある。古の部落は北向きであったので、現在の位置に移ったのだろうと言う。現位置は南向きであって寒さはしのぎよいようである。移動した年代は不明である。
部落の移動があったので御嶽を中心とした旧家の位置はまちまちである。 


世立ちと地組始め

宜保の世立ち始めは千草之巻によれば長嶺按司の御子宜保大主となっている。これを祖先宝鑑より見れば (北山系統図を参照) 

 五男宜保大主「この人は豊見城宜保村志礼という家にあり、その子五男二女あり、二男は座安村に住し、三男は伊良波村に住す」とある。すなわち天帝子の子北山大按司の孫で宜保大主といい、宜保の志礼が村造りをしたということである。

志礼 (勢利) は現在廃家となって、その分家の勢利の前 (尻前) に奉持されている。
宜保大主の父は祖先宝鑑では豊見城按司で在所は長堂仲村渠となっているが、千草之巻には長嶺按司となっている。この豊見城按司は長嶺按司のことを言うようである。 

勢利の前は元、天久姓だったようだが、昔赤嶺部落の役人 (掟?) となったので赤嶺姓をつけるようになったとのことである。これについては祖先宝鑑によれば (察度王系統図参照、為朝公系統図) 

   為朝公 ー 外子天久按司 (母は真和志村天久村志礼の川の、在所は真和志天久という家なり) 

また

察度王の弟天久桜司の四男に豊見城親方という人がいるが、この親方が勢利の養子に入ったのではないか研究の要がある。 

また為朝公の外子天久按司は母が志礼の川の娘である。屋号がにているのでこれも研究の要がある。
勢利の前 (尻前) の子孫は字伊良波、字与根等にも多数いる。 

宜保の地組を始めた人は不明であるが、神根屋として昔の大屋がある。今は廃家になっているが部落で神屋をつくって崇めている。この大屋の分家として屋号仲元がある。仲元の子孫は字饒波、中頭中城村にもいる。 

大屋の祖先は不明であるが、豊見城城や赤平按司世墓を部落で拝むところから豊見城按司 (豊見城大屋系) の分家のようである。 


地頭 

琉球政庁時代最後の宜保の地頭 (脇地頭) は宣保殿内といい宜保掌教という人が那覇市久茂地に住んでおられた。地頭火神は尻前の東隣にある。 


祝女

宜保には祝女はいない、平良祝女の支配下にあったのである。 


お嶽 

現在古島に東、西二つのお嶽があって村人に尊崇されている。由来記には宜保の御獄は記録されていないが、殿が二つある。宜保の殿、ウツ原の殿である。これは一つは御獄であり、一つは殿であって現在は東、西の御獄と言うているのであろう。 


その他の拜所 

名     称                          備     考 

  • アサギ     井戸  部落内    前ノ新西仲元 
  • イランドー      井戸                  イランドー原 
  • ミンタマヤー     井戸                  赤嶺亀太氏宅の前 
  • 古島                   井戸                  東獄の南西 (前原) 
  • ヤシザー     井戸                  部落の東前 (前原) 
  • ユンチャ     井戸                  部落東入口現在の共同井戸
  • 美賊 (ビジュン)            仲元の東
  • 慰霊塔 (紅葉の塔)           イランドー原旧三月清明祭
  • 谷口川                字高安 旧四月虫払い
  • 東按司墓 (アジバカ)             部落東入口
  • 赤平按司墓                      豊見城火番
  • 東ヨザ墓               我那覇東
  • サバキナ東按司墓           我那覇サバキナ
  • 田頭西按司墓             田頭の西、現当世墓の先の墓
  • 崎樋川                那覇
  • 瀨長島                瀨長島各样所 



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