Okinawa 沖縄 #2 Day 29 (07/07/20) 豊見城市 (14) Nesabu Hamlet 根差部集落
根差部集落 (ねさぶ、ミサシップ)
- 馬場跡 (ウマーイ)
- 根差部公民館 (砂糖小屋跡 サーターヤー)
- 根差部の石獅子
- 城之頂 (グスクチヂ、大島ヌ殿) / 西之井 (イリヌカー)
- 伊良部之殿 (イラブヌトゥン)
- 内間の殿 / 地頭火之神 / 大久佐の拝所
- 大井 (ウフガー) / クチャガー / 印部土手石 (しるべどていし)
- 雨乞嶽 (アミチヂグシク)
- 野堅井(ヌキンガー)
- 野堅之殿(ヌキン、ノキンヌトゥン)
- 御願山 (ウガンヤマ) / ウィソウサラシンガー / 東之井 (アガリヌガー)
- ミーヤ山
- ヌール井 (ヌールガー)
- 数々の神屋
今日は昨年10月2日にも訪れた根差部集落とその隣の嘉数集落を再訪する。昨年は、まだ資料に目を通して訪問する余裕はなく、豊見城市のインターネットサイトの観光案内に掲載されているものを巡ったのだが、今年は沖縄で生活を始め、沖縄の文化や習慣などを調べていくことにしたので、色々な資料に目を通している。その中で、まだまだ多くの文化財が存在していることが分かった。この文化財を見て回ることにより、だんだんと沖縄に対しての理解が増していくだろう。
根差部集落 (ねさぶ、ミサシップ)
かつては真玉橋、嘉数と共に真嘉部 (まかぶ) と呼ばれており、昭和以降に根差部と呼ばれる様になった。2019年末の人口は3,502人、世帯数は1,442世帯で、集合団地などか建設されたことにより、ここ10年でコンスタントに人口は増えている。
真玉橋からスンバラビラの坂を登り根差部に向かう。ビラとは琉球語で坂を意味する。沖縄は坂が多い。殆どの集落は丘陵地帯の中腹から上にあるので、自転車での集落巡りは通常の走行よりきつい。登りきった所が、かつての集落の西の端にあたる。ここにミーチュガーという井戸があったのだが、今はもう無くなっているのか見当たらない。
馬場跡 (ウマーイ)
ここは現在の集落の西南部にあたり、丘陵の高台だ。ここにはかつて馬場があった。丘陵の高台部分に長く伸びていた。現在は駐車場と集合住宅となっている。この馬場がある丘陵の下側に古島があった。古島は、もともと長嶺グスクの西の斜面にあった長嶺村に住んでいた人々が、移って来て集落を築き始めた場所。今はほとんど空き地となっている。時代を経るにつれて、住民は古島から新しい部落の中心部に移って行き、寂れてしまったのだろう。
馬場跡から丘陵の斜面を饒波川に向かって下る道路があるのだが、沖縄戦当時はこの古島と呼ばれた丘陵の斜面一帯 (前原) に海軍壕が28個も造られていた。今はコンクリートで固められて面影は無くなっている。
豊見城市が発行している「まだま第1号」にその壕の場所が載っていた。
根差部公民館 (砂糖小屋跡 サーターヤー)
集落内の散策には自転車は不向きなので、まずは公民館に行き、そこに自転車を停めて徒歩にて見て回ることにした。ここは村屋 (ムラヤー) 跡ではなく、砂糖小屋跡 (サーターヤー) だった。ここには西組 (イリンダカリ) の1棟、その前の石獅子がある広場に東組 (アガリンダカリ) の3棟のサーターヤーが集まっていた。他の集落で、複数のサーターヤーが集まっているところがあった。お互いに助け合う (ユイマール) のに一箇所に集まっている方が、何かと便利だったのだろう。
根差部の石獅子
公民館のすぐ前に石獅子がある。この石獅子は、ムラの守り神。石は磨り減って、獅子と言うよりはイルカに見える。昔、漫湖のガーナー森の大きな魔物が、真嘉部 (真玉橋・嘉数・根差部) の人々を食べようと、夜な夜な襲ってきて、村人が困っていたところ、天から3つの大きな石が降ってきて、魔物の尻尾を押え付けたため、魔物はそのまま動けなくなり、湖面に浮かぶ小島・ガーナー森になったという。村人たちは神の加護に感謝し、ふたたびガーナー森が集落に襲いかかってこないよう、シーサーを置いたと伝えられている。石獅子は今でもかつてのガーナー森のあった北西の方角を向いている。
現在は、この石獅子も信仰の対象にもなっており、女性たちによる拝みと祝宴の行事「三月遊び (サングヮチアシビ)」が続いている。三月の吉日に、シンムイという特徴的な供物を捧げ、女性達全員で祈願、その後、円陣を組んだ中、交代でシンムイを頭にのせて三月遊びの歌や舞いが賑やかに繰り広げられる。「シンムイ」は丸盆に饅頭を敷き詰め、その中に赤色に染めたねじりコンニャク15個を結んだツゲ (チギ) の枝をさした供物で、まず始めにシーサーにお供えし参加するをする。
城之頂 (グスクチヂ、大島ヌ殿) / 西之井 (イリヌカー)
公民館のすぐ北に林がある。集落では城之頂 (グスクチヂ、別名 鷹取り毛 タカトゥイモー) と呼ばれ、後原古墓群として発掘調査などが行われた場所。ここも大島之殿と呼ばれる拝所があるはずなのだが、探したが見つけ出せなかった。多くの古い墓があった。
公民館からここへの道の脇に西之井 (イリヌカー) がある。別名は城之頂之井 (グスクヌチヂヌカー) とも呼ばれている。
伊良部之殿 (イラブヌトゥン)
城之頂 (グスクヌチヂ) から北側をぐるっと回る道があり、集落に戻ることができる。その途中の大きなガジュマルの木の根本に拝所がある。この伊良部之殿 (イラブヌトゥン、別名 安里之殿 アサトゥヌトゥン) は、一説では源為朝の外子伊良部主の子孫 (玉城同村) の殿ではないかとある。ここにも為朝伝説があるのだ。ここにあるガジュマルは少し変わっている。写真右下にある様に、木の大枝から地面に二本別の幹が出ている。こうなるまでには相当の年月を経ているのだろう。
為朝伝説に関わる資料から系図を作ってみると、為朝の外子に伊良部主が出ている。為朝伝説は伝説でその信憑性には疑問はあるが、これほど多くの言い伝えが残っていることから見ると、何らかの出来事があったと考えるか、それとも為朝に対しての思いが尋常ではなかったのか、これは日本各地に残っている伝説よりも中身が濃いような気がする。
内間の殿 / 地頭火之神 / 大久佐の拝所
集落に戻ると内間の殿と書かれた拝所群が現れた。公園になっている。内間の殿と書かれてはいるが、琉球由来記では内原之殿と書かれている。そこに拝所が幾つかある。
内間の殿は下の写真上の二つだが、地頭火之神は写真左下で、中下が、近年に造られた大久佐 (ウフクサ、根差部の根人/根所と言われている) の拝所と思われる。
井戸も二つ。写真左がクサイモーと呼ばれる井戸跡
この公園の斜向かいにはヌル殿内がある。(写真左) 代々、この家からノロを出しており、根差部ヌルは、各門中から出される「供のかね」と呼ばれる神人 (カミンチュ) とともに、嘉数集落と真玉橋集落の祭事も含め、とり行なっていた。その隣が元の村屋 (ムラヤー 写真右) だった。ここから現在の村屋に移動したのだが、ここに移ってくる前は石獅子の場所の横側にあった。
大井 (ウフガー) / クチャガー / 印部土手石 (しるべどていし)
集落で主要な拝所とされる井戸は3つある。ここにある大井 (ウフガー) はその一つ。西組 (イリンダカリ) の産井 (ウブガー) であった。同じ場所にもう一つの拝所としてのクチャガーという井戸跡があるが、このクチャガーは元々はここにあったのではなく先程通った馬場跡の下の古島にあった。道路建設でここに移設形式保存してある。根差部では水道がひかれたのが昭和45年で、それまでは井戸が利用されていた。
同じ場所に印部土手石 (しるべどていし、ハル石) がある。印部土手石とは、琉球王朝の乾隆時代に蔡温が指示をして1737年から1750年にかけて各地の測量のための基準点として設置したもの。[元文 (乾隆) 検地] 豊見城市では、12個の印部土手石 (しるべどていし) が確認されている。この印部土手石には「千 し」と書かれている。印部土手石まで拝所になっていることは驚きだ。その様な性格のものでは無いのだが、あらゆるものが信仰の対象になるのが沖縄だ。元々ここにあったのでは無いだろう。多分ここに移設して集めてきたのでは無いだろうか?
野堅井(ヌキンガー)
集落の東側を散策。民家の敷地の中に井戸跡がある。香炉 (ウコール) が置かれてあるので、個人的なものではなく集落の井戸であったのだろう。地図では、野堅井(ヌキンガー)となっていた。
野堅之殿(ヌキン、ノキンヌトゥン)
御願山 (ウガンヤマ) / ウィソウサラシンガー / 東之井 (アガリヌガー)
東之井 (アガリヌガー) で、東組 (アガリンダカリ) の産井 (ウブガー) でもあった。東之井 (アガリヌガー) は前述の大井 (ウフガー) と クチャガーとともに、集落内では主要な拝所としての井戸。
ここは綺麗に草も刈り込まれて整備されている。一周して、ちょっとした看板が目に留まった。「ウガングランドゴルフ場」とある。拝所がグランドゴルフ場になっている。これは沖縄の人の信仰に対しての感覚を表しているのかも知れない。本土であれば神社内にグランドゴルフ場を造ると不謹慎と思う人がほとんどだろうと思うが、沖縄の信仰は本土の人に比べて、実際の生活に密接に関わっている。生活の一部と言っていいだろう。日々の生活の一部であるのと、殿とか拝所は神がいるわけでなく、御願を行う時にそこに降りてくるという目印のもの。だから、御嶽の周りが生活のためのグランドゴルフ場になっても特に違和感がない。
ミーヤ山
巫井 (ヌール井)
数々の神屋
公民館に戻る途中に幾つかの神屋があった。ほとんどは民家の敷地内に建物で大事に祀られている。集落巡りも長くなっているので、見れば拝所だろうと見当がつく様になった。この様な神屋が公民館への通りに3つもあった。何故、これ程多くの拝所があるのか? これは個人的な推測だが、集落の形成は長い年月を経ている。まずは国元 (クニムトゥ) と呼ばれる集落を始めた有力者の門中が祖先を祀るために拝所を作り、その後、この集落に移動してきた大きな門中が同じ様に拝所を設置する。それぞれの神屋には当該門中が紐づいていた。それが次第に集落全体の拝所となっていくのではないだろうか? 公民館に戻ったときに、何人か老人が涼んでいたので、この点を聞いてみると、現在は特に区別をせずに集落全体のものと考えて、各行事の際には拝所巡りをしているそうだ。ここは日本本土と異なることに好感を感じる。本土では神社には神主がおり、ほとんど全ての神社は神社本庁に属している。日本全体で神社が緩く組織化されている。沖縄ではこの様な職業神官は存在せず、村の住人が殿や御嶽の面倒を見ており、それが生活の一部として現在まで続いている。琉球王朝時代に神官制度を作ったのだが、上からの押しつけの制度というよりは、各集落にあった信仰を制度化したという様なものだったと思う。ここが日本と琉球の信仰に対しての対応が異なっていた様に思われる。
見つけた神屋の二つは赤嶺家の敷地内にあった。両方とも大きな家だ。赤嶺家は、屋号を東利 (アガリ) 門中と言い、この根差部集落を興した国元 (クニムトゥ) と言われている。この根差部集落では一番世帯数が多い。この訪問記の前半部に昭和20年の集落地図があるが、その中に東利小、四男東利前、前東利小などの屋号が見えるが、それはこの門中の分家などを表す屋号となっている。現在は番地で管理されているが数十年前まではこの様な門中の屋号で管理されていた事は、家の繋がりを大切にする沖縄ならではの事だろう。
これで、根差部散策は終了。この後、隣の集落の嘉数に向かう。(嘉数集落の訪問記は別途)
質問事項
- ミーチュガーはどこにある?
- 大島之殿はどこにある?
参考文献
- 豊見城村史
- 豊見城村史 第二巻 民俗編
- 豊見城村史 第六巻 戦争編
- まだま第1号
[豊見城村史 1964年(昭和39)発刊・1993年(平成4年)復刻]
- クチャ井 馬場の南古島にあり
- 大井(ウフカー) 公民館の下
- 東利の井 御城の下
千草之巻に
見差保村地組始「嘉数大殿内より来る宜保親方」となっている。この宜保親方についても祖先宝鑑には記録されていない。
右伊祖按司は「母は浦添沢岻根屋の女子、その次男は沢岻の安次嶺という家なり。安次嶺は昔は新垣と称した」ということである。
慰霊塔
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