Okinawa 沖縄 #2 Day 35 (28/07/20) 豊見城市 (21) Iraha Hamlet 伊良波集落
伊良波集落 (いらは、イラファ)
- 巫井 (ヌルカー)
- 大井 (ウフカー)
- 伊良波収容所跡 (2019年10月2日訪問)
- 産井 (ウブガー) (2019年10月2日訪問)
- カマガー (クムイガー) (2019年10月2日訪問)
- 伊良波新御嶽 (新御嶽 ミーウタキ)
- 上ヌ前門中 (インメー) 神屋
- 大屋神屋
- 神屋
- ヘーガー
- 伊良波公民館 (遊び場 アシビナー)
- 前道 (メーミチ) / 中道 (ナカミチ)
- ハマガー
- 豊見城歴史民俗資料展示室 (2019年10月2日訪問)
- 伊良波之殿 (大御嶽 ウフウタキ) /地頭火神
宜保集落を経由して、伊良波集落に向かう。この伊良波集落へは昨年10月2日に一度来ている。その時は、伊良波収容所跡、ウブガー、カマガー (クムイガー)、豊見城歴史民俗資料展示室を訪れた。今回は昨年見れなかった文化財をめぐる。
伊良波集落 (いらは、イラファ)
伊良波は元々玉城に住んでいた人々が平良に移住し、その後、宜保のイランドー原に移り大御嶽 (ウフウタキ) 付近に村を起こしたと言われている。この地を古島とか元島 (ムトゥジマ) と呼んでいる。ここから現在の地に集落を移した。
2014年から人口が増え始め、5年で25%もの人口増加を達成している。何が原因であろうか?
昭和20年の集落の地図。この当時の人口は450人、世帯数は110戸。この当時は比較的大きな字の方だったが、、現在は人口が低い方になっている低い方になっている。
巫井 (ヌルカー)
県道から伊良波御嶽への入口と思われる道がある。畑の間を道が通っておりその畑のなかに拝所と書かれた札が掲げられたコンクリートの小屋が見えた。地図から見るとここがヌルカーと思う。伊良波集落にはノロはおらず、かつては我那覇ノロによって祭祀が行われていた。この丘陵にある伊良波の御嶽で祭礼を催す前にこの井戸で身を清めたのでは無いだろうか? それでヌルカーと名付けられていると想像。
伊良波之殿 (大御嶽 ウフウタキ) /地頭火神
表示板は何も出ていないのだが、今まで、色々な御嶽を巡り、大体の御嶽の場所が分かれば、その周りを見渡し、入り口は80%ぐらいは分かる様になってきた。ここと思しき道をすすむとやはり御嶽の入口が見つかった。
更に上にすすむと広場が見えてきた。奥に倒木にもかろうじて逃れた三つの祠がある。これが大御嶽 (ウフウタキ) で、琉球国由来記の伊良波之殿にあたるとされている。集落にこれより新しい御嶽があるので、ここは古御嶽と呼ばれている。ここは嶽元といわれる大屋が管理している。
大井 (ウフカー)
伊良波収容所跡 (2019年10月2日訪問)
産井 (ウブガー) (2019年10月2日訪問)
カマガー (クムイガー) (2019年10月2日訪問)
伊良波新御嶽 (新御嶽 ミーウタキ)
集落の東側にある。ここは集落の先祖の墓 (アシジー) と考えられている。伊良波集落の元 (ムトゥ) の墓とも言われ、また別の言い伝えでは琉球王朝時代の薩摩侵攻時に亡くなった人を集めて弔った墓ともある。琉球国由来記にある伊良波之御嶽ではないかとも言われているが、はっきりとはしない。現在は綺麗な墓の拝所になっている。四つの香炉が置かれそれぞれは、「御嶽元」、「国元」、「南勢利前」、「国元」と書かれている。なぜか「国元」が二つある。この御嶽は集落の国元の上ヌ前門中 (インメー) が管理している。
かつての御嶽の写真が豊見城村史に載っていたが、この写真は新しい墓の奥にある古墓を見つけたのだが、それの様に思える。
上ヌ前門中 (インメー) 神屋
上ヌ前門中 (インメー) は伊良波集落の国元 (クニムトゥ) 集落を政治的のまとめてきたリーダーの門中。新御嶽を管理している。家の前庭に大きな神屋が建てられている。門を入り敷地内にあるので、お詣りもしないので、中に立ち入る事は失礼なので、道路から撮影。
大屋神屋
この伊良波集落の嶽元 (タキムトゥ) であった大屋 (ウフヤ) 門中の神屋が民家の前庭に建っている。この嶽元 (タキムトゥ) は文字通り、伊良波の殿 (大御嶽) を管理している。神屋は多くの場合、家の中では無く、村の人々が訪れやすいように、門を入った所に独立した小屋で祀っている。この門中の祖先を祀っているのだが、それはその門中に限定したものでは無く、村全体での信仰の対象になっているのが、沖縄祖先信仰の特徴で、それが今でも続いている。
神屋
ヘーガー
集落の南にある井戸で、ここも拝所としての井戸だ。見つけにくい所にある。この付近に井戸がある事を知って探さないと見つからないだろう。家と家の間の細い路地の向こうにある。ここで集落はなくなり、一面畑となる。井戸の横に果物が実った木がある。マンゴーの様なのだが、畑で栽培されているマンゴーと少し実のつき方が違うので調べてみると、野生のマンゴーの木であった。一本しかないので、商売で栽培されているのではなく、手もかけてもらえず自然に育ったマンゴーの木だ。こちらのほうが個人的には好みだ。
ちなみに畑で育っているマンゴーとの比較がこれ。左は長堂集落で撮った栽培されているマンゴー。葉の形も違う。沖縄ではマンゴーは本土と比べて安いのだが、スーパーでは見切り品を一個数十円で売っているので、時々買って食べる。見切り品とはいえ、非常に美味である。
伊良波公民館 (アシビナー)
メーミチ/ナカミチ
ハマガー
豊見城歴史民俗資料展示室 (2019年10月2日訪問)
2019年10月2日にこの伊良波周辺に来た時、一番に来たかった所がこの展示室。少し時間をかけて見学をする。豊見城市が運営している。主に豊見城市の歴史風俗を中心に展示していると言う。地域で運営している博物館は千差万別で、体裁だけつけている無気力な所や、よく考え工夫して本当に伝えたい事を試行錯誤で行なっている所など色々だ。この展示室は半分以上が沖縄戦についてのもので、沖縄戦の被災者の証言をテーマ毎に取材してビデオ編集までしていた。生の声を後世に伝えることは素晴らしい。取材はとても骨の折れる事だったと思う。多くの人が思い出したくないと言ってた口を開かない中、根気よく証言を集めまとめあげている。全てを見ると多分一日では終わらないだろうが、そのダイジェスト版が40分ぐらいに編集しているものがあったので、それを見た。内容はやはり重いもので、先に訪れた豊見城グスクにあった旧陸軍第24師団第二野戦病院壕に配属された積徳高等女学校学徒看護隊の生存者のインタビューでこの病院が閉鎖となり、糸満へ南下していく途中に道の至る所に死体が転がっていたが、もう見ても何とも思わなかったと言っていた。戦争により通常の感覚が麻痺していた。別の人達は、那覇から移ってきた日本兵に家や避難壕を占領され、追い出され、戦火の中をさまよったと証言していた。戦争の残酷さだけでなく、軍国主義が生んだ荒廃してしまった人の考えや行動も赤裸々に証言していた。ある意味で、沖縄の人は米軍兵以上に日本兵に怒りを持っていた様に思えた。米軍兵は国と国の戦いで敵として攻撃する事は、感情とは別の次元では理解できるが、味方であるべき日本軍の沖縄の人達への惨さには憤りが大きかった事を感じる。それ以外の展示では、沖縄の民衆の伝統的な生活様式の展示に力を入れていた。数ヶ所に跡があった龕屋も展示していた。この龕屋については那覇では全く見られなかったので、この地域の特徴なのであろうか?
質問事項
- 2014年から5年で25%もの人口増加の原因は?
- 新御嶽になぜ国元の墓が二つあるのか?
- 新御嶽の奥の古墓が元々の新御嶽では?
参考文献
- 豊見城村史
- 豊見城村史 第二巻 民俗編
- 豊見城村史 第六巻 戦争編
第10節 字伊良波
位置
古島
拜所
祖先、地組、世立
古北山の子屋比久里主「在所は豊見城伊良波村の地組み始められて、その村に住す。子は四男三女あり、長男は宜保村に行き、二男より相続す」とある。
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