Okinawa 沖縄 #2 Day 34 (25/07/20) 豊見城市 (20) Nakachi Hamlet 名嘉地集落
名嘉地集落 (なかち、ナカチ、ナーカチ)
- 名嘉地公民館 (村屋 ムラヤー)
- 名嘉地 シーサー
- 大御嶽 (ウフウタキ)
- 池 (イチ) グスク
- 越地 (クンザー) 之神屋
- 喜納御嶽 (キナウタキ)
- アタンジャー
- 壺 (坪) 川 (ツフカー)
- 池城川 (イチグスクカー)
- 長嶺井 (ナガミンガー)
- 産井 (ウブガー)
- 村井 (ムラガー)
我那覇集落 (がなは、ガナハ)
Okinawa 沖縄 #2 Day 34 (25/07/20) 豊見城市 (19) Ganaha Hamlet 我那覇集落
我那覇集落巡りの後、隣の集落の名嘉地に向かう。と言ってもこの二つの集落自体が隣接している。我那覇集落の東の端にあるバンジガーから1ブロック進むと、もう名嘉地集落だ。これほどお互いに距離的に近い集落は長堂集落と金良集落依頼だ。この集落にも昨年10月に来たので、今回2回目となる。
名嘉地集落 (なかち、ナカチ、ナーカチ)
名嘉地集落の始まりには諸説ある。今帰仁按司の子孫の沢岻門中という説。同じ沢岻門中だが浦添の英祖王統の子孫とする説。又、島尻の玉城按司の子孫というのもある。
2019年末の人口は1,606人、世帯数は745世帯となっており、他の字と比べると小さな字だ。この10年で人口はほとんど増えていないのだが、世帯数は増加しており、一世帯あたりの家族数は減少傾向にある。
名嘉地公民館 (村屋 ムラヤー)
いつも通りに、公民館に自転車を停めて集落を散策する。この公民館が建っているところは村屋 (ムラヤー) だった。
我那覇集落ほどではないが、この集落にも何軒か沖縄伝統形式の家屋がある。
名嘉地 シーサー
集落の東入口に位置し、外からやって邪気から集落を守っている。田頭に向けられていると言われているが、その理由は書かれていなかった。古くから名嘉地の守り神とされ、現在でも旧暦八月にムラの安全祈願をする「シーサー拝み」や旧四月の「アブシバレー (畦払い、虫祓い)」で拝まれ、字名嘉地の方々に信仰の対象となっている。ここの石獅子はカバに見える。
このシーサーがある道路がかつての前道 (メーミチ) で集落のメインストリートであった。
大御嶽 (ウフウタキ)、根神田 (ニーガンダー) 、池城井 (イチグスクカー)
越地御嶽 (クィージウタキ) とも呼ばれ、琉球国由来記にある越地之殿 (クィージヌトゥン) と推測されており、この場所に越地大御嶽の碑を建てている。敷地内には越地門中の神屋が建っている。しきたりとしてはまずこの神屋を拝んでから、越地御嶽 (クィージウタキ) を拝むことになっている。殿 (トゥン) の隣には池城 (イチグスク) の北側の川沿いにあった池城井 (イチグスクカー) の形式保存井戸跡と火の神 (ヒヌカン) が祀られている。
ここには、これ以外にも、海岸付近にあった威部之前 (イビヌメー) と坪川で田植えの祭儀を行なっていた根神田 (ニーガンダー) が合祀されている。
池 (イチ) グスク
かつては、この御嶽の北側の高台には池 (イチ) グスクがあり、この周辺がこの名嘉地集落の始まりの古島があった。現在は集合住宅が立ち並んで、グスクであった名残は一切見当たらない。池 (イチ) グスクについての情報は見つからなかった。
喜納之殿 (キナウタキ)
集落の北側にあり、琉球国由来記にある喜納之殿と言われている。名嘉地集落の古島に住んでいた喜納里之子が造った殿だそうだ。殿の前には広い広場になっている。ここが喜納里之子の住居であったのだろうか。表示は喜納之殿 (キナヌトゥン) であるべきなのだが、御嶽 (ウタキ) となっている。ここは明らかに殿 (トゥン) なのだが、いろいろな文化財で殿 (トゥン) を 御嶽 (ウタキ) と表示しているところがいくつかあった。御嶽 (ウタキ) の方が格が上なので、そう呼びたいのか、いつの時代にか、御嶽と殿の違いが曖昧になったのだろうか? 先に訪れた大御嶽 (ウフウタキ) も殿であったが御嶽と呼ばれる様になっている。
殿 (トゥン) の拝所の隣に、形式保存の井戸跡と霊石を3つ並べているので火之神 (ヒヌカン) があった。これも喜納里之子の屋敷にあったものなのだろうか?
アタンジャー
ここは嶽元 (タキムトゥ) と言われている旧家の神屋。アタンジャーの屋号を持つ門中は絶えてしまい現在は集落にはこの子孫はいない。
壺 (坪) 川 (ツフカー)
琉球国由来記ではフツカーと記載されている井戸で、集落の北側を流れる川のほとりにある。ここには井戸跡だけでなく、隣に越地 (クィージ) とも呼ばれ、琉球国由来記にある越地之殿 (クィージヌトゥン) と推測されており、この場所に越地 (クィージ) 門中三ヶ所と書かれた柱が立っており、三つの拝所がある。この集落内に,数カ所の越地 (クィージ) 門中に関わる文化財がある。さすが国元 (クニムトゥ) だけある。
ここを流れている川のほとりには大御嶽に移設されている根神田 (ニーガンダー) があったそうだ。根神田 (ニーガンダー) では田植えの祭儀を行なっていた。ここは集落から外れた北側にあり、当時は一面畑であったのだろう。
池城川 (イチグスクカー)
壺 (坪) 川 (ツフカー) の近くの池 (イチ) グスクがあった場所の北にあった井戸。この井戸の北にあるクィンジャームイの墓と一緒に御願された。写真の場所にあったのだが、今はこの井戸は残っておらず、先に訪れた大御嶽 (ウフウタキ) の場所に移設され、形式保存されている。
長嶺井 (ナガミンガー)
ノロ井とも言われている。
産井 (ウブガー)
集落の東にある。産井 (ウブガー) とあるから集落住民にとって大切な井戸であった。井戸にはパイプが通っているので、現在でも何かに使用されている様だ。
村井 (ムラガー)
こちらは集落の西側にある。
これ以外にも後井 (クシガー) があると書かれていたが、場所はわからなかった。
これで名嘉地集落訪問は終了。今日は午後から雨予報だった。午後になっても雨は降らなかったが、湿度は高く体感温度は高い様な気がする。夕方には雨が降るだろうから、帰路につく。(予想通り、家に着いた後、しばらくして雨となった。)
質問事項
- この集落の始祖とされている沢岻門中と国元と言われている越地 (クィージ) 門中との関係は?
- 我那覇集落との関係は?
- 池 (イチ) グスクの性格は? 按司の城塞?御嶽の聖域?
- 後井 (クシガー) の場所は?
参考文献
- 豊見城村史
- 豊見城村史 第二巻 民俗編
- 豊見城村史 第六巻 戦争編
豊見城村史
第6節 字名嘉地
位置
名嘉地の東隣りは字我那覇であり、西側は字田頭、北側は旧小禄村字松川となっていて那覇市 (旧小禄村)との境界にある。
古島
名嘉地の古島は今の部落の北方、旧小禄村字松川の西南にあったといわれているが、古島は北風があたるところであったため、丘から南下の北風のあたらない所に移ったと思われる。移った年代は不明である。
拝所
[御嶽] 由来記中祭祀の条の中に御獄の名がないが、年中祭祀の項の喜納之殿は現在でも喜納の御獄とよんで部落で尊崇しているのである。御獄と殿の地混同があったかも知れない (本村の分において) と思われる点がある。
喜納の御獄は部落の北方にあり、その御嶽の上の西側、道路をへだてて越名地の殿がある。御獄の東側に古屋敷が (元上沢岻小) 一つあり、御獄の下、道路をへだてて、古屋敷が並んでいることからみると、御嶽の上に屋敷がないので古島からの移転は古いものだと考えられる。御嶽の前西、道路をへだててアタンザおがん (家あり) があるが由来は不明である。
[井泉] 由来記中の稲二祭 (五月、六月御祭) 三日崇 (みちゃたかび) の時に拝む井戸にツフ川、神之川、池城川がある。現在稲二祭に拝む井泉はクシガー、ツフ井、アダンザ井、産井 (んぶがー) がある。クシガーは後で述べ 他の下にあるツフ井は越地の井で越地墓の北方にあり、アタンザ井はアタンザ御拝 (うがん) のそばにあり、産井は御嶽の前の屋敷より東三軒目の屋敷の東側にある。
[慰霊塔] 佐真下原にあり無念の塔といい、三月清明祭のときお祭りする。
[按司世墓] 喜納御嶽より北方、部落の後森の中に (古島) 越地 (クンザー) 按司世墓 (アジシー) がある。また越地の近くに沢岻按司世墓があり共に尊崇されている。この沢岻按司世墓は字我那覇安谷屋門中でも拝んでいるとのことだ。
世立ちと地組
名嘉地の世立ちはじめは千草之巻によれば「玉城仲村渠村より来たる百名大神在所川の前と云う」とある。しかし祖先宝鑑にも川の前については記録されていないようである。
地組始めについては千草之巻によれば「勝連より来る名嘉地大主在所越地という」とされている。部落の古老によれば、越地は今帰仁按司の子孫と言っており、越地が村造りをしたということである。祖先宝鑑には越地については不明であるが、現今帰仁村字越地と関係あるものと考えられるが、この字越地については祖先宝鑑にも見当らないし、千草之巻にも字名世立ち、地組始め等不明である。
思うに勝連より来る名嘉地大主とは、今帰仁按司の曾孫伊覇按司の三男勝連按司 (与那城屋慶名村屋 慶名という家) の子孫が移住して来たものではないか? なお古老によれば越地門中と一腹である川の上門中があるが、前記の「川の前」と関連がないか研究を要する。
なお祖先宝鑑によれば奥間大親の孫我那覇親方が名嘉地、座安、高安、嘉数、真玉橋村の屋敷囲をしたとなっている。(察度王系統図参照)
名嘉地の大屋門中、玉那覇門中は共に玉城村字玉城屋号仲嘉の子孫とされている。これは仲嘉のウサカテ表にあるのと、祖先宝鑑中にも、昔玉城按司之裔孫のところに豊見城邑名嘉地大屋門中も記されている。なお大屋門中は慶良間にもいるということである。
上沢岻門中は浦添間切沢岻より来たといわれている。伊良波の沢岻門中、与根の沢岻門中も一門とされている。
次に名嘉地と関連があると思われる系図を参考に供する。(祖先宝鑑より)。
右沢岻世主は浦添沢岻村世立初め (又は地組始め)た人、在所沢岻村根屋当間とあり、その孫我那覇主が我那覇に来て名嘉地に移ったのではないか、上沢岻の祖先ではないか? また
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