Okinawa 沖縄 #2 Day 25 (21/6/20) 豊見城市 (9) Takayasu Hamlet 高安集落
Takayasu Hamlet 高安集落 (たかやす、タケーシ)
- 高安公民館 (村屋 ムラヤー 2020年6月20日に訪問)
- サーター屋跡
- 高安自治会集会所 (村屋 ムラヤー?)
- 上クシザ井 (イークシザガー)
- 中陣之殿 (ナカジンヌトゥン)
- 世立ちの殿
- ノロ殿内 (ドゥンチ)
- 波平之御嶽 (ハビラヌウタキ)
- アジシー
- 主之前殿内 (スヌメードゥンチ)
- 高安のビジュン (2019年10月2日に訪問)
- 宜保殿内 (ギボドゥンチ)
- 世主姫
- ウスクガー (2020年6月27日に訪問)
- ミルク神・龍宮神の拝所
- 真川井 (マーカーガー)
- 西門井戸 (イリジョーガー 井戸跡) (2019年10月2日に訪問)
- 井戸跡
- 獅子之前 (シーシーヌメー、シーシウカミ)
- 高安の龕屋 (がんや)
- 崎山之殿 (サチヤマヌトゥン) (2020年6月20日に訪問)
天気予報では今日から一週間は全て雨予報。ただ、沖縄の天気予報は当てにならない。今日も雨予報なのだが、空を見ると、雨雲らしきものはでていない。近場であれば雨が降り出してもすぐに帰ってこれるだろうから、思い切って外出することにした。
豊見城市が発行して公開されている「豊見城村史だより」に高安集落について詳しい記載があり、もう一度訪れてみたくなったので、そこに行く。
Takayasu Hamlet 高安集落 (たかやす、タケーシ)
高安はこちらの言葉では“たけーし”と発音されていた。現在では“たかやす”と読んでいる。高安集落については1713年に編纂された琉球国由来記に初めて現れる。(沖縄の元々の呼び名から、通常の日本語読みに変わって来ている地名が増えて来ている。) 豊見城間切高安村であった。この集落は標高50-60mの丘陵にある。高安には11の門中があり (宜保殿内、波平、具志、外間、平田、新地、新垣、銘当、大座安殿内、座安殿内、上門) 、宜保殿内門中と波平門中が中心的な存在。高安ノロは代々、宜保殿内門中から出ることになっており、平成12年現在にはまだ続いているとなっている。(現在はどうなのかはわからないが...)
この集落の起源には多くの説が豊見城村史に書かれていた。古いことなのではっきりとはしないのだろうが、説の多くは南山系となっている。
高安の人口は他の字に比べて多い方ではるがここ10年では人口は2%減少している。高安は那覇市に近く早い時期からベットタウンとして発展したのだが、ここ10年は人口は減少傾向にある。2012年から微増に向いはしたが、2015年から再度、減少傾向となっている。10年前に比べて人口が減っている字はこの高安と与根のみで、高安は一番人口が減っている字になる。この理由が気になる。
高安公民館 (村屋 ムラヤー 2020年6月20日に訪問)
字高安は饒波 (のは) 川を挟んで広がっている。元の高安集落は饒波川の東側の丘陵の斜面にあった。村屋 (ムラヤー) は川の辺りにあり、かつての村屋は現在は公民館になっている。
サーター屋跡
村屋の前にはサーター屋公園という小さな広場がある。名の通り、製糖小屋があったのだろう。ここでもサトウキビが生産されて製糖が主な産業であったのだ。
「豊見城村史だより」に集落の聖地として地図があった。との集落と同じく、石獅子や拝所や井戸が残っている。今日はこの地図に従って巡ってみる。
高安自治会集会所 (村屋 ムラヤー?)
拝所が多く集中している丘陵の上部に高安自治会集会所があるので、そこまで自転車で上り、そこに停めて徒歩にて拝所を探すことにする。この高安自治会集会所もムラヤーの形に見える。想像では、元々の集落が形成されたのはこの丘陵の上であったのでは思う。周りは住宅街になっている。時代を経て、集落の中心は先日訪れた高安公民館があった丘陵の下に移っていったのではないだろうか?そうすると、この高安自治会集会所は元々の村屋 (ムラヤー) で、公民館は近世の村屋 (ムラヤー) ではないだろうか?
この自治会集会所の裏にある林が多くの拝所が集中している聖域だ。林の周囲を歩いてみても入口らしきものは見当たらない。強引に集会所の裏から林に突入。
上クシザ井 (イークシザガー)
林に入った途端に井戸跡に遭遇。地図には載っていない。名もわからない。石積みの井戸で、形式保存ではないので文化財になり得るものだが.... (後日、名前がわかったイークシザガーという名であった)
さらに草をかき分けて中に進む。道がないので、地図で目星をつけた方向に進む。林の中に空間が見えてきた。近くなってきているのだろう。
中陣之殿 (ナカジンヌトゥン)
地図ではナカジンと書かれた場所らしきところに配所がある。トーシーユーの拝所とも呼ばれている。住宅街からの入り口付近に一つとその奥に祠が作られた拝所があった。林の中を移動せずに、住宅街から入れる様になっているのだが、これは案内板でもない限りわからない。ナカジンとは何なのかを調べてもわからない。
世立ちの殿
ナカジンの奥にコンクリートの祠がある。この地域から高安集落が始まったと伝わっている。
ノロ殿内 (ドゥンチ)
ナカジンと思われるところから林の中に荒れた道があるので、そこを通って、草をかき分けて先に進む。広場が見えてきて、新しく建てられた小屋がある。ここがノロ殿内で、ノロの屋敷と礼拝所があった場所だ。琉球国由来記には高安村には3つの拝所が記載されており、ここはその一つで、高安巫火神が祀られている。表示版にはヌンドゥンチとノロ殿内となっている。巫女はノロ、ヌル、ヌンとところによって微妙に呼び方が違っているが同じことだ。小屋の中にはいくつもの香炉と霊石などが大切に保管されている。「豊見城村史だより」には平成12年現在で、この高安集落では、まだノロが継承されていると書かれていた。国元 (クニムトゥ) の門中の宜保門中がその任を継承しているそうだ。集落内には「宜保」の表札を出している家が数軒見られた。同じ門中の方々なのだろう。
波平之御嶽 (ハビラヌウタキ)
ノロ殿内 (ドゥンチ) の奥に御嶽がある。かつての波平殿内だった。琉球国由来記では波平之殿とある。いつ頃からか御嶽と呼ばれる様になったそうだ。波平之御嶽 (ハビラヌウタキ) で波平 (なみひら、ハビラ、ハンジャ) もこの高安集落では、宜保門中に次ぐ有力門中だ。琉球国由来記にある3つの拝所の一つだ。
アジシー
アジシーとは初代の祖先を祀ってある墓のことで、カミウファカ (神御墓) とかアジウファカ (按司御墓) とも呼ばれる。国元 (クニムトゥ) の宜保門中の先祖だろうか? 被葬者は不明だそうだ。集落内にはこれ以外にもアジシーがいくつかあるらしい。
主之前殿内 (スヌメードゥンチ)
スヌメーとは「だんな様」にあたる士族の成人男子に対して平民が用いる敬称だそうだ。地頭火之神のことを指している。地頭をスヌメー (だんな様) と呼んだからこの様な名前になっているのだろうか? 沖縄の各地にスヌメードゥンチと呼ばれるところがある。里主火之神と呼び地域もあるそうだ。ここは前が広場になっており、昔、王や貴族が来たときに、ノ口配下神人五、六人で接待して、舞踊する所だったといわれている。
高安のビジュン (2019年10月2日に訪問)
拝所群から集落の東の端に高安のビジュンがある。ビジュンとは「霊石を祀る習俗」の事。沖縄では一般的なもの。豊見城ではビジュンと呼ばれている。多くの拝所に石ころがあるので、何故かと思っていたのだが、石を霊石とする習慣があった訳だ。小祠の中にある真ん中の丸みのあるニービヌフ二 (細粒砂岩) を神体として祀っている。この拝所は標高60mぐらいの高台にあり見晴らしが良い。毎年旧暦の9月13日にアギーヘーシ (ビジュンヘーシ) と言われ、無病息災、家内安全を願い、このビジュンを拝むそうだ。本土でもそうだが沖縄にもこの様な霊石信仰が多く残っている。豊見城市では饒波、宜保、渡嘉敷にビジョンがある。特にこの高安のビジョンは霊験あらたかとされて、幾つかの伝承が残っている。
宜保殿内 (ギボドゥンチ)
「豊見城村史だより」の地図に従えば、この辺りに宜保殿内 (ギボドゥンチ) があるそうだが、それらしきものはなかなか見つからない。一つ見かけたのがこれ。これがその拝所かどうかは確かではないが、この辺りのはずだ。殿内 (ドゥンチ) は元々は親方家の邸宅のことだが、親方家自体にも使われる。この場合にはトゥンチと発音され濁らない。更に格式のある宗教施設にも殿内の呼称が用いられた。この場所は宜保門中の屋敷のことだろうか? 多くの場合、邸跡は拝所となっている。(後日、この宜保殿内について調べると、ここは宜保殿内門中の宗家の屋敷で村敷地内にアサギの神屋があり、そこで祖先や火の神が祀られているとある。宜保殿内とは屋敷の名であるのでギボドゥンチではなくギボトゥンチと読む方が正しいのだろう。) 写真右はアジシーではないかと思う。
集落内にはこれ以外にもいくつかの拝所に出会した。どれも案内板には載っていないのだが、集落を歩くと、この様に思いがけず見つかることが多い。
世主姫
集落内に小さな小屋でどう見ても住居ではなさそうな場所が時々ある。この様なところは神屋であることが多い。果たして神屋だった。集落の各門中がその祖先などを祀っている神屋も多く、それらは案内所などには載っていない。ここもそうなのだろうか?中を除くと、多くの香炉と仏像もあった。沖縄神道と仏教が融合している様だ。拝所の外に世主姫と書かれた拝所がある。世主姫が何であるのかはわからなかった。
ミルク神・龍宮神の拝所
丘陵にある集落の西の橋の道路沿いに別の拝所がある。二つ祠が立っており、向かって左側がミルク神 (弥勒神)、右が龍宮神を祀っている。この二つの神様も沖縄ではよく拝まれている。
真川井 (マーカーガー)
ミルク神・龍宮神の拝所の道を隔てた所に井戸がある。今でも使っている様で、井戸にパイプが敷設されている。
西門井戸 (イリジョーガー 井戸跡) (2019年10月2日に訪問)
高安の石獅子がある獅子之前 (シーシーヌメー) のすぐ近くにある井戸跡。西門 (イリジョー) と呼ばれているのだが、以前はここが集落の西の端だったのだろうか?
井戸跡
集落内でもう一つ名も無い井戸跡があった。
獅子之前 (シーシーヌメー、シーシウカミ)
シーシーヌメーとは「獅子之前」と書く。ここに獅子 (シーシ) があったのだ。元々の石獅子は残っておらず、新しい陶器製のシーサーに代替わりをしていた。獅子は龕屋方面を向いているのだが、何の邪気払いをしているのかは調べたが不明。(後日調べてわかった。龕は死者を運ぶものなので、汚れたがあるとし、龕の霊を鎮めるためだそうだ) 豊見城グスクに向けられているのではないだろうか?(この予測は外れた) 龕屋の祭りでは、最後に、この獅子之前 (シーシーヌメー) にもお詣りをし、龕を龕屋に納めるそうだ。
この岩の下にも按司墓 (アジシー) がある。按司墓 (アジシー) は按司の墓とはあるが、文字通りの按司の墓ではなく。地域の有力者の墓をアジシーと呼んでいた。
この周辺は高安集落の端で饒波集落に近い場所で、民家は少なくなり、古い墓群がある。
高安の龕屋 (がんや)
隣の集落の饒波の龕屋跡とそれほど離れていない場所に高安の龕屋がある。龕屋は龕 (がん) と呼ばれる死者を墓場まで運ぶ神輿の様な形をした物で、その龕を収める場所を龕屋と呼んでいる。12年に一度だけ辰年の旧暦8月9日にガンゴー祭 (龕講祭 ガンヌユーエー) が今でも饒波、高安、保栄茂で行われている。もう250年も続いているという。12年に一度だ龕屋を開け、龕を担いで集落内を道ジュネー (道行列) をし、龕の修復を行う行事。現在では龕は祭の時にだけ使用して、日常では使わなくなっている。
龕 (ガン) は地域によってコー、ゴー、ホー、ガンダラゴー、ゴウリュウ、タカラムン、ウフンマー、ガク、ヤギューと色々と呼ばれている。写真にもある様に龕は朱色の漆で塗られていることから赤馬 (アカウマー) とも呼ばれている。豊見城村では饒波、我那覇、保栄茂、嘉数でもこの龕が保有されていた。他の字はこの5つの字から龕を借用していた。
ここに、この龕の由来についての伝承が残っている。
「高安の龕はもともとテーラシカマグチ(平良にテーラシカマグチの墓の金武御墓がある) が唐旅の際に持ち帰り、沢岻家に与え、沢岻家に収められていたが、沢岻家の蔵の中にあった獅子とガンが毎晩激しく喧嘩をしたため、龕を高安の近くに捨て、獅子は我那覇へ譲った。高安ではそのを西外間 (イリフカマ) の屋敷裏に保管したが、後に龕屋を建てて納めたという。」
インターネットからこの龕屋の祭りの様子があったので拝借した。
ガンゴー祭はまずは龕を龕屋から出し、公民館に運び、組み立てを行う。これを龕のウンチケー (お迎え) と呼んでいる。
この後、頑集落の二つの宗家 (宜保門中、波平門中) を東西に分かれて祈願奉納する「両元ウガミ」が行われる。それぞれの旗頭に、東組 宜保門中にはやり (ヤイ)と旗文字の勧農、西組 波平門中にはナギナタと深耕 (原勝負 [原山勝負] で琉球王朝から与えられたとの伝承) を掲げて、それぞれの殿内に祈願奉納に向かう。[注: 原山勝負 (はるやましょうぶ) は、19世紀に始まり、各間切で耕地の手入れ、農作物、山林の植栽手入れ保護等の成績を品評した農事奨励法で、勝村には褒賞を与え、負村には制裁を加えた。同時に競馬などの余興も行われた。研究ではこの原勝負が歴史上認識できる最も古いものはこの高安で、ここの座安親雲上が考案したものと言われている。ただその原型は、祭温の時代の18世紀中の田地奉行の農村の指導監督を行なった春秋廻勤にあるともいわれている。西原町津花波でもこの原山勝負が功を奏していた。]
両元ウガミの後、龕を龕屋に戻すミチズネーの行列が始まり、獅子前 (シーシーメー) で祈願を行い、無事に収納し、コーヌユーエーと呼ばれる龕屋に戻したことのお祝いとして余興で祭りは終了。
崎山之殿 (サチヤマヌトゥン) (2020年6月20日に訪問)
琉球国由来記に記載されている高安の3カ所の配所の一つ。他の二つは、集落の北側の丘陵の上にある高安巫火神 (ノロ殿内) と波平之殿。
崎山之殿 (サチヤマヌトゥン) があるところにタングチ (谷口) 跡との表示もあった。饒波川に架かる石火矢橋から上流向け、高安のこの場所の谷口 (タングチ またはタングムイ) と呼ばれた一帯で、戦前は伝馬船の船着場だった。沖縄戦当時は、この流域に日本軍の特攻艇が配備されていた。(特攻艇とは小さなボートに爆薬をのせて、敵の船に体当たり攻撃を行う兵器) 特攻艇は川岸に垂れ下がる樹木の陰にかくしてつながれて配備されていたそうだ。
予定していた文化財をほぼみ終わったところで小雨が降り始めた。天気予報は雨となっていたので、この後本降りになる可能性があるだろうと思い。見学終了後、急いで自宅に向かう。
今晩は、ニラと小松菜の玉子とじと大盛り野菜サラダ。オール野菜。冷蔵庫がないので、野菜は葉物は2日で消費する様にして、肉は3日に一度という、かなりヘルシーな食生活。体調はすこぶる良い。
質問事項
- 高安の人口が減っている理由は?
- 高安自治会集会所は元々の村屋 (ムラヤー) で、公民館は近世の村屋 (ムラヤー) ではないだろうか?
- カジンとは何なのか?
- 今でも宜保門中でノロは存在しているのか?
- アジシーは国元 (クニムトゥ) の宜保門中の先祖だろうか?
- 主之前殿内 (スヌメードゥンチ) とは?
- 世主姫とは何を祀っているのか? ここにある拝所の性格は?
- 西門 (イリジョー) は、以前はここが集落の西の端だったのだろうか?
- 獅子は龕屋方面を向いている。何の邪気払いをしているのか? 同じ集落に向いているのは解せない。豊見城グスクに向けられているのではないだろうか?
- テーラシカマグチとは平良 (テーラ) に住んでいたエイサーを起こした人物のことか?
参考文献
- 豊見城村史
- 豊見城村史 第二巻 民俗編
- 豊見城村史 第六巻 戦争編
豊見城村史
第19節 字高安
位置
豊見城村役所は字上田境界にあるが、役所の東から字真玉橋迄の道路を11号線と称している。この11号線が饒波川を横切るところから川に沿って饒波行きの道路があるが、この道路と11号線に沿って高安部落はある。高安は東は饒波、西は宣保、上田、南は平良、北は根差部、豊見城に接している。 部落は北に丘があって、南に面していて、南下には饒波川が東から西に流れて、谷口の所で川は北折して漫湖に注ぐ。
拝所
ここは昔から部落としての移動は行なわれていない。琉球国由来記中高安には御嶽はないが、部落の北岡の上に御獄があって木が繁茂している。普通根屋の殿ともいう。獄の構内後方に由来記にも記録されている波平の殿がある。今は小さなセメント造りで昭和初年に改築されたものだという。 波平の殿から一段下った所に祝女の殿内がある。由来記の中の高安巫火神と称するものである。大きなセメント造りの (屋根は神殿造りのようなもの) 殿である。 波平の殿の西に主ヌ前殿内という広場 (拝所) があり、昔王又は高貴な方が来られたとき、ノ口配下神人五、六人で接待して、舞踊する所だったといわれている。
御嶽のすぐ東側、道路をへだてた一段と高い森の中に世立ちの殿と中陣 (なかじん) の殿がある。御獄のすぐ東が世立ちの殿で、その東側に中陣の殿はある。ただ香炉が一つ (石製) づつ置かれているだけであるが、高安の村造りはこの附近から初まったことを意味するものである。
由来記にある崎山の殿は、饒波川の川幅が広くなった所に谷口という所があるが、その谷口の東、川に面した所にある。現在はセメント造りの小さな祠 (ほこら) がある。戦前までは石造りで切石で囲いがされていた。ここは樟脳林であったが、今は林はない。この樟脳は大正の初年、村青年団によって植樹されたものである。この殿の前から豚をかついで通ると、この豚は太りが悪いと言われていた。
谷口橋近くにもう一つ拝所があったが (波平が管理) 詳しいことは不明である。
旧家の位置
旧家の古屋敷は御獄の東下側に宜保殿内、西下側に波平がある。外に上門、東リ上門、西リ安里等の古屋敷がある。この外にも古い家は高く傾斜地になった所にあったが、だんだん台風や水の関係でまた坂道のため、下の方に移って来て、現在では分家者は11号線道路の両脇に移転屋敷をかまえている。 明治初年までは今の宣保殿内屋敷は部落の前道であったといわれている。
世立ち、地組、祖先
千草之巻によれば 高江洲村 世立初「天孫子の孫高江洲大主根屋波平と云う」 地組始「今帰仁按司の孫我那糖親方、此の人は豊見城名嘉地村座安村屋敷囲置かれ、高安村嘉数村真玉橋村屋敷囲仕立置かれたる方なり」としてある。
天孫子の孫高江洲大主については祖先宝鑑には記されていないが、天孫子の子豊見城大君 (豊見城根屋 大屋が居所) には十二男あって間切内各所に移住しているから、豊見城大君の子であると考えられる。 屋号波平については祖九宝鑑によれば左のようなことが記されている。(知念系統図参照)
右、仲里按司については「在所は豊見城高安村波平という家なり、其子三男二女あり、内二男は同村大屋に行く、三男同平良村に行く」となっている。また
右、豊見城王子については「在所は豊見城高江洲村の波平と云う家にあり、其子五男二女あり」としてある。なお
右豊見城按司の四男については「高安村の波平に行く」とある。
右、英祖王の子玉城王子については「御祀と生せらる、玉城垣花村
根所にあり、後代は世持ちと言う、其の子六男四女あり、長男豊見城高安村波平と言う家に隠居せらる」となっている。なお南山系統との関連は
南山王の孫で大里若按司の七男が「豊見城高安村の波平という家を相続す」とある。
地組始めの我那覇親方については祖先宝鑑によれば (察度王系統図参照)
右の我那覇親方については「此親方は豊見城名嘉地村座安村屋敷囲仕立置かれて後高安村嘉数村真玉橋村屋敷囲仕立置かれて後、同饒波村に住み死去せらる。在所は大殿内なり」とある。
玉城村玉城仲嘉の御酒手表に宜保殿内、大殿内小、外間があり、仲嘉の子孫と言われている。祖先宝鑑の昔玉城按司の裔孫の項には記されていない。宜保殿内門中の玉城拝みは玉城村富里のセリ、大仲井間川畑と玉城のメントン、仲嘉、赤嶺を拝むということである。
拜所としての井泉
- 西リ門古屋敷の西の井戸
- 上クシザー井戸 (ノ口石サラシ井) 嶽の後方
- 大宜保屋敷の角 東西に二つあり
- 座安殿内前古屋数近くの井戸
- 波平古屋敷の井戸
- 宜保殿内屋敷の井戸
ビジュン
イビとは山岳の神を祀った所であるが、転じて神ということに使う。 またイビとはウビ (産水)、ウブ (産) と同語源から出て「産土の神」の意であると解されると故島袋源一郎氏 (沖縄史の著者) は言われている。
イビは直接神の名を称えることをさけて、その所在を指して言ったもので、威部 (斉辺をあてたものもある) をあてるが、国つ神とめいめいの祖神とを言い、外来の神々には言わないという。イビを厳霊のことを言うと書いた本もあり御神体をいうとしたのもある。 このイビから転じてイビカナシとなり、イビヂュルに転じ、ビジュルになってビンヅルとなった。そして石をもってし御神体を言う例が多くなった。 このビンヅルからビジュンに変ったと考えられている。本村には高安、饒波、宜保にビジュンがあって尊崇されている。 注・辞書には 賓頭區 (びんづる尊者) は (梵) 一六羅漢の一つ。白頭、長眉 (ちょうび) の相を備えている。
俗にその像をなでて病の回復を祈る風があったと記してある。
高安のビジュンは部落の東北方、一番高い所にあって、饒波との境にある。饒波と高安の境界は昔の首里から南山に通ずる道路であるが、この道路の西上にビジュンはある。 ビジュン参拝 (ヘーし) は旧九月十三日である。戦前はその前日、すなわち十二日に部落の役員が馬に乗って瀬長島のアマミキヨの前を拝んで来てから、その翌日ビジュン祭りが行なわれた。
ビジュンの前は少し平たくなっていて、そこで朝十時頃から酒肴をそろえて各人拝みに行くのであるが、すわる場所は門中別に一定している。このすわる場所の順と部落の世立ち初りと何か関連があるようだから研究してみて下さい。祭りは夜半までつづき、三味線をひいて大鼓をたたいて遊ぶのである。また子どもが生れると必ずこのビジュンにウプク (赤ごはんの盛飯) を供えて報告する。
このビジュンの由来については不明であるが、次のような話がある。 豊見城間切の保栄茂掟になる人は、病気したり死んだりしてよく勤まらなかったが、金良の西平のタンメーが保栄茂掟になったとき、この高安のビジュンに願掛けをしたら無事つとまったので、その後保栄茂提になる人は必ずこのビンュンを尊崇するようになったとのことである。
また、昔兼城間切の波平村の若者二人が、首里公事に神酒を納めるため、桶にかついで行く途中、このビジュンの下で一休みしていた。その時一人の若者が、このビジュンの神は非常に霊験あらたかだというから一つ御願いしてみようと言い出した。それで一人の若者は私が担いでいる神酒を軽くして下さいと願をかけた。今一人の若者は力を出させて下さい、そして無事首里までとどけさせて下さいと願をかけた。すると軽くして下さいと願った若者の桶の縄が途中で切れて神酒は全部こぼれてしまった。そして荷物は軽くなったが使命は果せなかった。 他の無事にとどけさせて下さいと願った若者はますます元気が出て無事首里に届けたとのことである。それで、なるほどこのビジュンは霊験あらたかなんだということで、部落に帰ってからこのビジュン神を分神して崇めたということである。
谷口について
高安部落の西、饒波川の川幅が広くなって、潮と水とが合う所であって、小さな橋がかかっていて、これを谷口橋といい、その橋の直ぐ西側が円形で大きな川になって、ここで水は遊水となって一時停滞するので ある。ここを谷口または池 (たんぐむい) という。ここは交通が不便な時代 に、ここまで砂糖をかついだり、馬背にのせたりし来て、ここから大きな天馬舟 (テンマー) に積んで那覇に運送した所で、村内はもちろん南部島尻からも運んで、ここから輸送したという。 この谷口の近くに明治時代には砂糖倉庫もあったということであるが、だんだん道路ができて交通の便が開けていくにつれて、ここの舟による運送はすたれたとのことである。 この谷口の上は林になっていて、そこに崎山の御郷 (由来記には殿、宜保殿内が管理) といって (前出) 石造りの拝所があったのである。この拝所の由来については確実なことは知られてないが、谷口の舟付場と関連があるものと思考される。 なお字豊見城の下、石火矢橋から谷口までに五カ所の舟付場があり、川を多く利用したことが知られる。
勘農旗印
高安出身の座安親雲上は豊見城間切はもちろん琉球での原勝負を初めた人であって、原勝負差別式の時、島 (字) ヌチャーイに大旗を押し立てて豊見城馬場に集ったが、その時の高安の旗印「勧農」は座安親雲上が公事より御拝領の印だと言われている。座安親雲上については第七章「人物」を参照のこと。
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