Okinawa 沖縄 #2 Day 26 (27/06/20) 豊見城市 (10) Ueta Hamlet 上田集落
真玉橋集落(まだんばし、マダンバシ) (2019年9月30日の訪問記に含む)
- 新井 (ミーガー)
- 神井 (カミガー)
- グシチングムイガー
高谷集落(たかやす、タケーシ) (2020年6月21日の訪問記に含む)
- ウスクガー
上田集落 (うえた、イータ)
- 上田公民館 (村屋 ムラヤー)
- 新井 (ミーガー)
- 仲原井 (ナカバルガー)
- 拝所 (名は不明)
- 古島井 (フルジマガー)
- 湊井 (ンナトゥガー)
- 根屋 (ニーヤ)
- 中之殿 (ナカヌトゥン)
- 上之井 (イーヌカー)
- 赤御墓 (アカウハカ)
渡嘉敷集落 (とかしき、トゥカヒチ・トゥカシチ) (2020年6月29日の訪問記に含む)
- 渡嘉敷グスク
今週は21日に高安集落を訪問して以来、翌日から5日連続で雨で、自転車での外出ができなかった。昨夜は豪雨だった。今日は晴れたのだが、昨夜の豪雨で足元に不安はあったが、思い切って次の集落を訪ねることにした。昨年10月に豊見城の各集落を巡ったのだが、この上田集落は豊見城の文化財リストには無かったので訪問しなかった。この上田集落の南隣の渡嘉敷集落には昨年に訪問したのだが、もう一度見たかったので、この上田集落を巡った後に足を伸ばすことにする。色々とこの集落を調べ且つ訪問して分かったのは、この二つの集落は祖先が共通の兄弟集落だったそうだ。渡嘉敷集落の祖先は玉城村玉城と大里村大城と考えられているので、この上田も同じ祖先ということになる。
上田集落 (うえた、イータ)
古くは宇栄田と書かれていた。(下の大正時代の地図には宇栄田と書かれている。) 沖縄戦当時は人口約300人、55戸の村で、サトウキビを主とした農業で生計を立てていた。製糖所は村には6カ所もあった。比較的裕福な村であったそうで、戸数の30%にあたる16戸は瓦葺きであったと言う。
2019年末の上田の人口は4,805人で豊見城市では4番目に多い字。沖縄戦当時の人口が300人であったので、16倍に増えている。上の地図 (左上から大正、右上1974-78、左下1992-1994、右下現在)でも集落は確実に広がっている。沖縄戦当時は比較的豊かな字であったので、その後の発展にもつながっているのかもしれない。
上田集落は渡嘉敷集落の国元の西り門 (イリジョー) 門中の弟が始めた村で、西り門 (イリジョー) 門中の分家筋だったのだろう。(上田集落の中にも西り門と書かれた民家がある) 現在は上田集落の方がはるかに大きくなっている。兄村の渡嘉敷が人口が沖縄戦から2倍にしか増えていないのに、弟村の上田集落が16倍にも増えている。なぜだろう?上田集落は豊見城市の中心部に近く、那覇にも近いせいかもしれない。
上田公民館 (村屋 ムラヤー)
沖縄戦ではこの村屋に野戦銃砲隊が駐屯していた。この他にも、ミージョー毛には弾薬貯蔵庫が構築され、村には歩兵第22連隊第2機関銃中隊が駐屯していた。 写真にある公民館の裏手にある丘陵が渡嘉敷グスクがある。
住民の避難壕は集落内の根屋があるウフモーに作られていた。沖縄戦が近づいてきたときに、村の21名が学童疎開として宮崎県北郷村に移動している。沖縄では村により、その村の指導者の違いにより、学童疎開が推進されたところと消極的なところがあった。この上田では積極的に学童疎開を推進していた。しかし、一般疎開はほとんどされなかった。子供は別として、村民は故郷を離れることに躊躇していた様だ。昭和20年5−6月に米軍が村に迫ってきて、ようやく村民は村から移動を始めた。「死ぬなら故郷で」と覚悟を決めて、村に残ったものも少なくはなかったそうだ。当時の避難経路は、一般的には渡嘉敷、保栄茂を通り、糸満の阿波根に行き、最終的には喜屋武に追い詰められたルートで、このルートを辿った住人の多くは戦死した。上田村の住民の一部は糸満の糸洲、小波蔵、束里、名城、真栄里に向ったそうだ。このルートを選んだ住民は、他の避難者と同じく米軍の捕虜となり生き延びることができた。上田村の沖縄戦での戦死者は113名と報告されている。疎開せずに村に残った村民の約40%にあたる。捕虜になった村民は伊良波の収容所に送られ、2−3日で別の収容所に移送されたそうだ。収容所から帰村する時期は収容所やその村によって異なる。上田村民は、村谷駐屯していた米軍が移動した後の昭和21年4月から始まった。村には焼失を免れたのはわずか7戸で、住民は分散してこの焼け残った家屋にわかれ、村の再建作業を始めたそうだ。次第に村の兵隊の復員や疎開者が帰村し、人口も増え、生活が戻り始めた。
上田集落は渡嘉敷グスクのある丘陵の斜面に広がっている。この丘陵はかなり広く、それを囲む様に字が広がっている。
沖縄戦当時の宇栄田集落の地図 (豊見城村史から、上が南で他の地図とは向きが逆になっている)
上田の文化財は豊見城市のサイトには一切紹介されていなかったので、とにかく現地を訪問することにした。自転車を公民館に停め、徒歩にて巡る。いくつかの井戸跡や拝所があった。
新井 (ミーガー)
公民館 (村屋 ムラヤー) の近くにある井戸跡。新井と呼ばれていることから見ると、比較的新しい井戸だろう。この井戸の場所は大まかなものしか出ておらず、そこに行くとその付近に井戸跡が三つもあった。このうちの一つが新井 (ミーガー) なのだろう。(別途、村民の方に確認してみよう。後日確認すると写真の一番下がミーガーだった。)
仲原井 (ナカバルガー)
新井 (ミーガー) の近くにある井戸で、かつては水場も整備されていた様に思えた。(後日、昭和20年の集落の地図にはこの井戸の前は池であった。この井戸が集落住民の主要な水場だったと思う。
拝所 (名は不明)
井戸の近くにポツンと小屋がある。そばに小さな祠が立っている。拝所に違いない。小屋の中には香炉 (ウコール) が置かれているが、少し荒れている様だ。表にある祠に祀っている神様の名が「屋敷に居座の神々」として列記されていた。
古島井 (フルジマガー)
現在の集落の西の端の方にある井戸のはずだが、見つからない。この井戸があるはずの保育園の人に聞いたが知らないという。もう一度周りを探して見た。見つかった。保育園の裏の公園の端っこにあった。若い人に聞いてもなかなかこの様なマイナーな文化財のことは知らないのだろう。想像するに上田に住んでいる人のほとんどは戦後、転入してきた人だろうから、それも仕方がない。聞くなら「おばあ」か「おじい」だ。この井戸は古島井と呼ばれているので、上田集落は元々この付近から始まったのではないかと思う。古島は稲嶺とも呼ばれていた、(古島は大体のケース、その地域の発祥の地を指している。) 昭和20年の地図を見るとこの近辺には民家はすでに無くなっていた。(現在は住宅街になっている)実はこの古島は二代目のフルジマで、以前に住んでいた初代古島がある。それは赤御墓 (アカウハカ) があるユダマグスクと呼ばれた墓群地区付近にあったそうだ。
湊井 (ンナトゥガー)
当初ここは渡嘉敷集落の井戸と思っていた。現在の行政区分の地図からそう思ったのだが、微妙に渡嘉敷と上田の境界線にあった。渡嘉敷集落からはかなり離れている印象を持ったのだが、上田集落からも少し離れている。どの様な使われ方をしたのだろうか?
根屋 (ニーヤ)
古島井から公民館に戻る道に広場があった。(後日分かったのだが、この広場がウフモーだった) 広場になっているところは、かつて何かがあったことが多いので、注意深く見る様にしている。小屋がある。横に拝所がある。なんだろうと思い行ってみる。根屋 (ニーヤ) だった。根屋 (ニーヤ) は集落の指導者が祭事を行う場所だ。この広場はかつては遊び庭 (アシビナー) だったかもしれない。琉球の言葉でアシビー (遊び) は日本本土と少し意味が違い、「歌、三線、踊りなどを楽しむ事」を表しており、アシビナー (遊び庭) は村の行事などで村芝居や祭りなどをする場所のことで村人にとっては神聖な場所。なので多くの場合、拝所がある。広場の向こうに広がった集落とその後方に丘陵が見える。
今日はとにかく暑く、ショートパンツまで汗でビシ濡れになっている。何度もめまいに襲われ、時々日陰を探し座って休む。今日は休み休みの訪問となった。公民館に戻り、休みながら、体調次第でこの後の予定を立てるのだが、渡嘉敷集落まで巡るのは無理だろう。体力と時間に問題がありそうだ。がする。熱中症は避けたい。公民館でしばらく休み。上田集落の残った文化財を見たら今日はおしまいとすることにした。(後で、体調が戻ってきて、渡嘉敷グスクだけはみることにした)
残っている文化財は渡嘉敷グスクにある。公民館のすぐ裏の丘陵だ。公民館の前の道を丘陵に向かって登る。道は丘陵の中の獣道につながっている。道があっているのを願って進む。
中之殿 (ナカヌトゥン)
道を登っていく。道は草が刈られているので、使われている証拠。道は合っているだろうと思っている矢先に、拝所に出会す。中之殿 (ナカヌトゥン) と書かれている。この道を上り切ると渡嘉敷御嶽 (金満御嶽 カニマンウタキ) があるのだ。金満御嶽は上田集落と渡嘉敷集落の共通の御嶽だ。この道がその御嶽への道なのだ。昔は御嶽はノロ以外入ることができない神聖な場所であったので、村民はその立ち入り禁止の神聖な地域の外に「殿 (トゥン)」を設けて、そこで御願 (ウガン) を行なったという。ここは上田集落の部落の人たちの拝所だった。霊石 (ビジュル) と香炉 (ウコール) が大きなガジュマルの木の根元におかれ、その前はちょっとした広場になっている。
上之井 (イーヌカー)
中之殿 (ナカヌトゥン) のすぐ上に上之井 (イーヌカー) がある。上田集落から中之殿 (ナカヌトゥン) までは距離はそれほどではないが、急な坂だ。御願 (ウガン) に来た人たちはこの井戸で、身をきよめ、そして喉を潤したのだろう。この丘陵は開発されておらず、おそらく昔のままだろう。聖域であったので残っているのだ。上田集落を取り上げているサイトにはこの上之井 (イーヌカー) はどこにも出てこない。
ここから先は行政区では字渡嘉敷となる。渡嘉敷グスクにこの上田集落を起こした人物の墓があるという。字渡嘉敷だが、上田集落所縁のところなので行って見たい。せっかくここまできたのと、体調も元に戻ってきている様なので、渡嘉敷グスクを散策する事にした。
赤御墓 (アカウハカ)
渡嘉敷グスクがある丘陵はユダマグスクと呼ばれる墓群にもなっており、多くの崖葬墓がある。あるものは朽ち果てているが、まだお参りに来ている様な墓もある。その中に上田集落を作った人物の墓とされる赤御墓 (アカウハカ) と呼ばれている古墓もある。なぜ「赤」と呼ばれているのだろう? 上田集落の国元 (クニムトゥウ) の墓にしては、墓らしい感じではない。子孫は絶えてしまっているのだろうか? 豊見城村史によれば、戦前まで赤嶺筑登之墓と記された香炉があったといわれている。その墓の右にその妻、そのまた右に子孫達の墓がある。となっているが、それらしきものは見当たらない。
上門門中先祖の墓
赤御墓 (アカウハカ) の手前にかなり立派な亀甲墓があった。上門門中の墓と書かれている。上田集落か渡嘉敷集落の有力門中の墓だろう? (上田集落に上門の民家はあった)赤御墓 (アカウハカ) と何か関係があるのだろうか? 豊見城村史に解説があった。渡嘉敷の大屋が兄で上田は弟で大里大城の子孫だそうだ。そして上田の大屋の分家が上門、大城、新屋敷で、このユダマグスク内にはこれらの門中の墓がある。上門門中はそのうちの一つ。
赤御墓 (アカウハカ) の岩の隙間から裏に行く道があるので、入ってみると道らしきものがある。岩場で所々浅い洞窟になっている。沖縄戦当時の避難場所になっていたのだろうか?
今日は、これ以外にも渡嘉敷グスクを散策したのだが、その訪問記は、今日行けなかった渡嘉敷集落を訪れた際のレポートに含める事にする。
自転車を停めている公民館に戻るが、やはり少しめまいがするので、少し休んだ後、ゆっくりとアパートに帰る。
質問事項
- ミージョー毛はどこにある? [解決]
- ウフモーはどこ? [解決] 大毛と書くのか?
- 上田が渡嘉敷に比べて、人口の増加は凄まじく、この発展した理由はなんだろう?
- 新井 (ミーガー) はどれか? [解決]
- 根屋 (ニーヤ) の広場はアシビナーか? 今でもここで行事を行なっているか? 一番盛大な祭りは何か?
- 湊井 (ンナトゥガー) は集落から少し離れているが、どの様な使われ方をしていたのか?
- 赤御墓 (アカウハカ) の赤のいわれは?この門中は?
- 上門門中は上田集落の門中か? かなり立派だが どれぐらいの地位の門中だったのか?[解決] 上田の大屋の分家にあたる。豊見城村史に詳しく書かれていた。
- 赤御墓 (アカウハカ) の裏の岩場は何に使われていたのか?
参考文献
- 豊見城村史
- 豊見城村史 第二巻 民俗編
- 豊見城村史 第六巻 戦争編
豊見城村史
第13節 字上田
位置
村の中央部に位し、北に宜保、南は森をへだてて渡嘉敷に接している。村役所は上田と宜保の境界にあり上田に属している。
古島
上田部落の古島は稲嶺と称して、今の西南方古島原にあったが、今でも古島原に一軒残っている。古島からの移動の年代は不明であるが、古えの部落としては珍しく低地にあった。それで古島より高い所にある現位置に移転したものと考えられる。しかし移転した高い所からまただんだん、現在では下の平地に道路をはさんで分家移転する傾向である。 琉球国旧記には記載されていないが、嘉慶図には稲嶺としてあり、由来記中祭祀の項にはない。しかし、由来記中 渡嘉敷の殿に「神酒三完、渡嘉敷、宇栄田弐ヵ村百姓之を供なう」とあるから、由来記のできた頃は宇栄田とも稲嶺ともよんでいたのだろう。同じく渡嘉敷の殿の供え物に、地頭の供え物、宇栄田大屋子の供え物が別々に記されているから、宇栄田大屋子の采地であったと解される。
拝所
前述したように由来記中祭祀の項には村名、御嶽、殿等も記されてないが、渡嘉敷の殿には供え物が記されていて、現在でも渡嘉敷の御嶽、殿を同じく拝んでいるのである。 古島には古島の殿があり、今でも三月水撫 (な) りの時には拝んでいるし、また渡橋名に行く道路の上に現在も使用している産井がある。 部落内公民館の側に根屋があって正月、五月、六月、七月の御神祭の際におまつりをする。根屋は戦前大屋の屋敷にあったのを戦後上記のように移転したものである。 拝所としての井泉にはクパジョーと部落内元前大屋小屋敷に一つづつある。
赤御墓
ユダマ城の下に赤御墓があり、旧十月にお祭りがあるが、その由来については不明である。この墓は岩穴を小さな石で積み重ねて造られたものであり、清明祭の時には真先に (部落民で) 拝む所である。この墓は上田、渡嘉敷を初めた人だとも言われているようで、戦前まで赤嶺筑登之墓と記された香炉があったといわれている。その墓の右にその妻、そのまた右に子孫達の墓といわれたのがある。上田、渡嘉敷には屋号赤嶺というのはないらしい。姓には屋号上原が赤城姓であるだけだか、上原と関連があるのか明らかでない。 神拝みには大里村大城、玉村玉城、系満町南山 (旧高嶺村) を拝んでいる。
世立、地組、祖先
千草之巻には上江田村「世立初、百名世主の孫西平按司在所根所」としてある。 玉城村玉城仲嘉の御サカテ表に上江田大屋が記戒されている。また祖先宝然中昔玉城按司の孫に豊見城邑上田村大屋門中が記されている。しかし右の百名世主の孫西平按司については祖先宝鑑には見えていない。ただ研究すべき ものとして左の系統図がある (察度王系統図参照)。
右上江田南掟は「豊見城上江田村に住居す」となっている。
地組始めについては干草の之巻に 上江田村「地組始、今帰仁按司の孫宜保大主在所座神」とある。祖先宝鑑には (北山系統図参照)
となっている。右の長男宜保親雲上と四男上江田村へ行ったと、どちらが前記の宜保大主であるか不明である。 上田の古老の話しによれば上田の宗家は大屋であって、渡嘉敷の大屋が兄で上田は弟であって大里大城の子孫だということである。そして上田の大屋の分家が上門、大城、新屋敷だと言うている。
右屋号大城の系図には (現在なし)、大里大城按司の子孫だというが、その後はつまびらかではないと記されていた由である。この大城はここの娘が豊見城御殿の息女の乳母となり (豊見城間切稲嶺親雲上の娘としてあった)、この息女が尚灝王の室となり、この乳母もまた共について行った。そしてその功により大城家は儀保姓をもらって士族に列せられ、系図も尚灝王よりもらったという。明治になって儀保姓に変更して書かれているが理由は不明だという。
現在大屋は宜保姓であり、上原は赤嶺姓、東江は大城姓、上門は宜保姓、 大城は宜保姓、新門、新屋敷は大城姓である。上田の墓はユダマ城の下方に集っていて、一番上は赤御墓、その近くの下に大屋墓、その下側に上原、 その下に新門 (上門、新門、新屋敷は一つ) 墓、その下方に大城塞があり、 この墓の上からの順によって大屋から分家した順になっているのではないか と或る古老は話している。
ユダマ城
上田部落の東上方にある石灰岩盤からなっていて、広さはわずかで細長い。城跡もないが城 (グスク) と俗に言っている。あるいは世立初めはこの附近に住んでいたが、水が少なく、風当りが強いので、下方古島 (前述参照) に移転して、それから現在の地点にまた移転したのではないかという古老もいる。この岩の下に古墓がある。
「グシク」は「城」ではないという説 (琉球大学教授仲松弥秀氏) があるが、この「ユダマグシク」も村落の古代祖先の墓地の名称のようである。
0コメント