Okinawa 沖縄 #2 Day 27 (29/06/20) 豊見城市 (11) Tokashiki Hamlet 渡嘉敷集落
渡嘉敷集落 (とかしき、トゥカヒチ・トゥカシチ)
- 渡嘉敷グスク (6月27日に訪問)
- [西り門家神屋 (イリジョーケカミヤ) ]
- [根屋 (ニーヤ) ]
- [御先ノロ井 (ウサチヌルガー) ]
- [金満御嶽 (カニマンウタキ) / 御嶽グサイ井]
- [地頭火の神 (ジトゥーヒヌカン)]
- [クバジョウ、慶良間 (渡嘉敷)・海神宮 (船蔵御嶽) お通し、御通し (今帰仁・御先樋川)]
- [西り門福地之碑 (イリジョーフクジ)]
- [赤御墓 (アカウハカ) (6月27日訪問記に記載)]
- [後ヌ井 越地井 (クイヂカー)]
- [中之殿 (ナカヌトゥン) (6月27日訪問記に記載)]
- [上之井 (イーヌカー) (6月27日訪問記に記載)]
- 渡嘉敷集落センター (公民館 村屋 ムラヤー) / 馬場 (ウマイー) 跡
- 渡嘉敷 シーサー
- 石ガーラ
- シラミガー
- 産井 (ウブガー、スムヌカー)
- 三日月井 (ミーガー、クチナガー)
- 赤嶺御墓
- ミートグサイ井 (ニーガー)
- ミートグサイ井 (ミユゥガー)
- ントーモー
- 湊井 (ンナトゥガー)
- 拝所
- 井戸跡 (四つ)
渡橋名集落 (とはしな、トーシナ)
訪問記は別途 Okinawa 沖縄 #2 Day 27 (29/06/20) 豊見城市 (12) Tohashina Hamlet 渡橋名集落
渡嘉敷集落に来るのは今日で3回目だ。昨年10月5日、そして一昨日の6月27日にも来たのだが、暑さでめまいが何度か起こったので、全ては見ず、今日 (6月29日) もう一度来る事にした。
国場川から饒波川に沿って渡嘉敷集落を目指す。饒波川の向こうに見える右側の丘陵に渡嘉敷集落があり、そこを目指す。
渡嘉敷集落 (とかしき、トゥカヒチ・トゥカシチ)
2019年末の人口738人、世帯数は354世帯で、豊見城市では3番目に小さな字。渡嘉敷は300年以上も前から存在する集落で、標高92mの渡嘉敷グスクの丘陵地から南下方に広がり、古来の集落の形態であった。 この集落の始まりははっきりとはしていないのだが、集落の人たちは南山国につながる玉城村玉城と大里村大城を祖先としているそうだ。
渡嘉敷グスク跡
琉球国由来記には“渡嘉敷の嶽”という御嶽が載っている。ここは拝所としてのグスクで按司の住居や軍事拠点では無かったそうだ。慶良間諸島の中に渡嘉敷島という所があるのだが、その島にこの豊見城の渡嘉敷からノロが派遣されていた。渡嘉敷島の人々にとって豊見城の渡嘉敷集落はそのルーツであり、遠い故郷と位置付けられているようだ。人的交流もあったようで、渡嘉敷島から出て来た人が故郷に想いを馳せ、遥拝所として拝みの対象とした聖域。この場所は集落の北の丘陵地にある。
グスク跡は比較的綺麗に整備されている。お詣りに来る人が多いのだろう。
このグスク跡は渡嘉敷村が始まった所で、多くの拝所がある。渡嘉敷集落からグスクに向かう道筋に民家があるある。ここが古島 (フルジマ) として集落の始まりの場所なのだろう。
西り門家神屋 (イリジョーケカミヤ)
参道入口付近に神屋があった。「西り門家 御先祖」と書かれている。渡嘉敷集落はこの地から始まったと言われ、その時代の国元 (クニムトゥ) を祀っている。
根屋 (ニーヤ)
渡嘉敷集落が始まった時代の創始者である有力門中 (根人 ニーチュ) がここで祭事を行なっていた。根屋 (ニーヤ) の入り口に「神酒石 (ジンスイシ)」なるものがある。初めて見る石だ。この石の上に御神酒を備えていたのか、注いでいたのか? 沖縄戦当時はここにも日本軍が村屋と共に分宿していた。
御先ノロ井 (ウサチヌルガー)
根屋の右奥に御先ノロ井 (ウサチヌルガー) がある。本土では御先 (おさき、ウサチ) とは先導、神の使いの意味だが、沖縄では、これが実際に何を意味しているのかはよく分からない。ただ、何か神に関わるものであることは確かであろう。催事にあたってノロ がここで身を清めたところだろう。ここで神事を行なっていたノロは座安ノロであったそうだ。伝承では、もともとこの地にいたノロ が座安集落に嫁ぎ座安ノロとなり、それ以降もこの地の神事を執り行ったという。多分このノロも根人 (ニーチュ) であった 西り門家 (イリジョーケ) の出であろう。
クバジョウ
道を上に進むと道が三つに分かれている。そこに表示版があった。クバジョウ入口と書かれている。クバジョウがどの様な意味か漢字でどう書くのか等は分からなかったのだが、グスクがある丘陵一帯のことをクバジョウと呼んでいるそうだ。このクバジョウと呼ばれる丘陵が渡嘉敷グスクということなのだが、このグスクは按司の居城ではなく、聖地としてのグスク。正しく言うならば、渡嘉敷グスクと言うよりはクバジョウ聖地の方だろう。 道を右に行けばすぐに金満御嶽 (カニマンウタキ) と遥拝所、左に行くと地頭火の神 (ジトゥーヒヌカン) がある。そして真ん中は後ヌ井 越地井 (クイヂカー)、中之殿、上之井で上田集落に通じる道で、ここに2回目 (2020年6月27日) に訪れた際はこの道で上田集落から登ってきた。
金満御嶽 (カニマンウタキ) / 御嶽グサイ井
琉球国由来記 (1713年) に記されている渡嘉敷御嶽がこの金満御嶽のことだそうだ。拝殿の中央には神名 (真白具威部 [マシラゴノゴイベ])・イビ加那志、その右側に朝拝 (渡嘉敷)、左側に夕拝 (上田) と刻まれた拝殿がある。上田集落の御嶽を探したが見当たらず、上之井が渡嘉敷グスクの上田方面にあった。大体のケース、集落から聖域に近い方を上と表現しているので、多分上田集落もこの渡嘉敷グスクを共通の御嶽としていたと想像していたが、やはりそうであった。後で調べて分かったのだが、この渡嘉敷集落の国元の西り門家の祖先は上田集落の国元と兄弟であったと伝わっている。これでスッキリした。 祠の横には御嶽グサイ井とある。井戸跡が形式保存されており、香炉 (ウコール) がある。グサイとは琉球の言葉で一体とか一対という意味だそうで、ここにある御嶽と一体の井戸という意味で名付けられているのだろうか?
慶良間 (渡嘉敷)・海神宮 (船蔵御嶽) お通し、御通し (今帰仁・御先樋川)
クバジョウに踏み入れるとすぐに拝所群に出会す。ちょうど506号線の道路のトンネルの上にあたる。 慶良間 (渡嘉敷)・海神宮 (船蔵御嶽) へのお通し (ウトゥウシ) がある。慶良間 (けらま、キラマ) 諸島の一番大きな島が渡嘉敷島で、そこにある御嶽への遥拝所だ。先にも書いたが、渡嘉敷島では御嶽を祀る式次第に詳しい人がおらず、どの様な経緯でかは分からないが、この渡嘉敷から座安に嫁いだ座安ノロの何代か後に、二人のノロ を派遣し、渡嘉敷島ではその子孫が代々ノロを行なっていたと伝わっている。ここに書かれている船蔵御嶽も渡嘉敷島にあり、派遣されたノロが亡くなった際に船蔵御嶽に葬られたと云われている。 このお通し (ウトゥウシ) の奥にもう一つお通しがある。御通し (今帰仁・御先樋川) と書かれている。北山・今帰仁城への遥拝所だ。何故、今帰仁城の遥拝所があるのかは調べられなかったが、この沖縄南部には多くの今帰仁城への遥拝所が見受けられる。北山王になった羽地按司 (怕尼芝 ハニジ) が今帰仁城の領主であった一族の今帰仁仲宗根若按司を討ち、今帰仁仲宗根若按司の縁者などは南部に逃げてきている。その人達が故郷の今帰仁城に向けてお通しをしていたのだ。二つのお通しはそれぞれがその御嶽の方向に向いている。
この二つのお通しの近くにも拝所があったが、その詳細は不明。
地頭火の神 (ジトゥーヒヌカン)
金満御嶽の向かいに西への道があり、その突き当たりに地頭火の神 (ジトゥーヒヌカン) がある。沖縄では火の神 (ヒヌカン) はどこにでもある神だが、ここは渡嘉敷集落を治めていた地頭の火の神だ。地頭の就任や退任のときや、旅に出るときに旅の安全、帰ってきてからは無事のお礼を祈願していた。 沖縄戦当時はここで出征の壮行が行われ、武運長久が祈願されたそうだ。
ここまでが渡嘉敷グスクの主要な拝所なのだが、遥拝所からはさらに奥に道が続いている。
崖葬墓を幾つかあった。かなり古いものの様に思えるが、墓の周りは草もかられているので、今でも手入れはされている様だ。
この森で初めて見るイモリを見つけた。水溜りで泳いでいた。写真を撮ろうとすると底に潜ってしまい撮れなかった。その後、森の中を散策していると、同じ種類のイモリが地面を歩いていた。今度こそ写真がとれた。家に帰って調べると、シリケンイモリという種類。奄美諸島や沖縄諸島に生息しているらしい。幾つかバリエーションがあるらしく、人気があるらしい。インターネットで、種類によって2千円から5千円でペットとして売られていた。乱獲で生息数は減少しているそうだ。
西り門福地之碑 (イリジョーフクジ)
さらに奥に行くと、西り門福地之碑があった。西り門 (イリジョー) は渡嘉敷集落の国元で、ここに祖先の墓か、祖先の拝所でもがあったのだろうか?
先に通った崖葬墓があった道の先をさらに進むと、標高約100mの丘陵の頂上に抜けた。そこに公園の様な遊歩道があった。薬草園と表示されていた。ここは丘陵の頂上にある病院のリハビリ用の公園だそうだ。そこそこの広さもあり、所々に休憩所もあり、リハビリには気持ちが良さそうなところだ。
ここから見える風景。
渡嘉敷集落には昨年10月5日に来て少しは見たのだが、今日 (2020年6月29日) は残りの文化財をめぐる。
豊見城村史に昭和20年当時の集落の地図がある。集落内の道路などはほとんど変わっていない。
渡嘉敷集落センター (公民館 村屋 ムラヤー) / 馬場 (ウマイー) 跡
公民館の場所には馬場 (ウマイー) があった。現在は渡嘉敷地区農村公園となっている。
渡嘉敷 シーサー
公民館に石獅子がある。石獅子は集落の南側の保栄茂 (ビン) グスクに向けて立てられた。保栄茂グスク付近にある大岩が、大きく口を開けて「渡嘉敷クワークワー (渡嘉敷集落を食おう)」としているように見えるのでその火返しの魔除けとして建てられたという伝承が残っている。現在、石獅子があるところはウマイー (馬場) があった場所に移設されている。もともとあった場所は渡嘉敷集落の創設期 (古島) の村の端にあたると考えられる。時代とともに集落が拡大し、石獅子が村の中心に位置する様になってしまい住宅地の確保から移設された。
この他に、集落内に幾つか井戸跡や拝所などの文化財が残っている。
石ガーラ
シラミガー
渡嘉敷集落センター (公民館 村屋 ムラヤー) の前の広場 (駐車場か?) すぐにある。 水場になっていた様な感じだ。後日調べると、この広場は池だった。やはり水場になっていたのだ。ここに村の女達が集まり、井戸端会議をしていたのだろう。
産井 (ウブガー、スムヌカー)
渡嘉敷グスクのすぐ南で、渡嘉敷集落の北の端にあたる場所にある。産井 (ウブガー) となっているので、集落に住民の家庭で大事な祭事にはここに御願 (ウガン) をし、水を家に持ち帰ったのだ。
三日月井 (ミーガー、クチナガー)
赤嶺御墓
三日月井の前の道路の反対側に細い道が森の中に伸びている。何かあるのだろうと思い進んでいくと墓があった。赤嶺御墓 (御拝陵墓 グヘイロー) とあり横には渡嘉敷祖先墓の石碑もある。御拝陵墓 (グヘイロー) とは琉球国王から何らかの褒美として拝領した墓を言うので、なんらかの功績があったのだろう。渡嘉敷集落祖先とも書かれていたが、渡嘉敷グスクにある西り門家神屋 (イリジョーケカミヤ) の西り門家と関係があるのだろうか? (集落の地図には赤嶺という家は見当たらなかった)
ミートグサイ井
メントーモー
集落の上の方の東側にメントーモーと書かれた文化財の案内柱が立っている。どこを調べてもこのメントーモーは出ておらず、ここが集落にとってどの様なところだったのかはわからなかった。モーは毛と書き、沖縄では野原や広場を意味している。ここは見晴らしの良い場所になっている。沖縄では毛遊び (モーアシビ) と言って、親公認の若い男女の交際の機会の集会を行う習慣があった。ここでも毛遊び (モーアシビ) が行われていたのだろう。
美女留神が祀られた拝所
メントーモーの端に拝所がある。美女留神が祀られた拝所と、多分、火の神を祀った拝所がある。美女留神が誰なのかが気になったのだが調べてもわからなかった。
湊井 (ンナトゥガー)
拝所
何も書かれていないので、何を祀っているのかは不明。この集落に有力門中の神屋なのだろうか?
この渡嘉敷集落は多くの文化財が残っており、きれいに整備されている。集落の人たちの過去の遺産に対しての愛着を感じる。見応えのある集落だった。
質問事項
- この集落はあまり人口が増えていない。その原因はどこにあるのだろう。
- 古島 (フルジマ) は西り門家神屋 (イリジョーケカミヤ) への道のところに広がっているところか?
- 神酒石 (ジンスイシ) はどの様な使われ方をしていたのか?
- 御嶽グサイ井の役割は?
- 慶良間諸島の渡嘉敷島と集落の名前が同じだが、ノロを派遣する前から関係があって同じ名前なのか?
- 御通し (今帰仁・御先樋川) の北山・今帰仁城と集落の関係は?
- 西り門福地之碑 (イリジョーフクジ) の隣にある墓はこの人関係ある人か?
- 赤嶺御墓に埋葬されている人は西り門家と関係があるのだろうか?
- ミートグサイ井はなぜ二つ?ニーガー とかミユゥガーと書かれているものもあったが
- メントーモーは毛遊びの場所?
- 女留神が誰なのか
- ンナトゥガーは集落からかなり離れているがこれも渡嘉敷集落の井戸だったのか?
- 村の西にある拝所はの集落に有力門中の拝所なのだろうか?
- 古い民家は何に使われているのか?
今日は体調が良いので、もう一つ集落を訪れる事にした。隣の集落の渡橋名集落だ。訪問記は別途。Okinawa 沖縄 #2 Day 27 (29/06/20) 豊見城市 (12) Tohashina Hamlet 渡橋名集落
参考文献
- 豊見城村史
- 豊見城村史 第二巻 民俗編
- 豊見城村史 第六巻 戦争編
豊見城村史
第14節 字渡嘉敷
位置
北は森をへだてて上田があり、深底原と平良城をこえると東に平良高嶺があり、南に保栄茂川を越して保栄茂があ り、西には橋名がある。
この部落は古えより移動しない部落であって部落の後森の頂上に御獄がある。御獄は渡嘉敷の獄といって上田、渡嘉 敷の崇信する所であり、座安祝女が祭祝を行なうのである。祝女は昔は渡嘉敷にいたが、座安に祝女が嫁入りして、 そのまま座安祝女になったという伝説がある。
渡嘉敷の殿が由来記にあるが、御嶽の近くにあり、現在も上田、渡嘉敷両部落で拝むのである。
井泉には由来記にある越地川 (井戸) があり、産井であって御獄の近く (今の後の井) にあり、稲二祭の際、または村 (字) 拝みの時おがむのである。 他に拝所としての井泉が新井 (東原)、テル井 (東原) がある。五月、六月十五日稲二祭に拝む。
渡嘉敷の世立初めについては干草之巻によれば 「南山大里按司の弟西平大屋子在所座神」とあり、また同書に地組始「北山より来る、上江田大主在所」としてある。
部落としては玉城村玉城と大里村大城を祖先として崇拝していて、玉城村仲嘉の御サカテ表にも渡嘉敷西城が記されているし、また祖先宝鑑中、昔玉城按司の裔孫の所に豊見城邑渡嘉敷大屋門中、西リ門腹も子孫だったとしてある。そして前記西平大屋子と上江田大主については不明である。 部落として西リ門が嶽元、大屋が国元だといい、部落の最も古い家とされている。大屋は現在廃家で、部落の一番上、御嶽の近い方にあり、神根屋がある。西り門・大屋は上田、渡橋名、座安、名嘉地との祖先のつながりがあるといわれている。西り門も部落の上にあり大屋の近くにある。翁長の西リ門・高嶺の南徳門はその分家であり、大屋の分家に川端がある。
三階小 (サンケー小)
上田、渡嘉敷、渡橋名の三ヵ字境界にあり、現在三叉路になっている。古くは二つの道が二段になって走っていた が、そこに新道が横切って通ったので三段になり、三階小というようになったとのことである。昔から宵闇迫る頃ともなれば夕涼みの男女が集る所であったらしい。
獅子像
部落内西リ波平屋敷の角に南向きに石の獅子像が置かれている。これは保栄茂の西側の森 (西リ御獄の附近) に対しての除け (ケーシ) であるという。 なおこの部落の屋敷の角に多くの石敢当が見られるのはおもしろいことである。
保楽茂への旧道
豊見城の番所から保栄茂への旧道は上田の縦道を通りクバジョーの下を抜け、渡嘉敷の西側を経て、石ガーラー (保栄茂川の川床に石をはめて道とした所) を横切り、保栄茂 の北西の道を通って、保栄茂部落の西側寄りに通じていた。
クバジョー
上田と渡嘉敷との境にあって
渡嘉敷境界に属している高い森の上の平らな所で、たくさんの拝所があり、稲二祭のとき、清明祭のとき上田、渡嘉敷で拝む。昔は夕涼みのときよく人が集
った所で、よい遊び庭であっ
た。
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