Okinawa 沖縄の旅 Day 65 (5/10/19) 豊見城市 (6) Yone Hamlet 与根集落
Yone Hamlet 与根集落 (よね、ユニ)
- 予根公民館
- 根屋 (ニーヤ)
- 与根塩田跡
- 土帝君 (トゥーティークー)
- 井戸跡
- 珠数森 (ジジムイ)
- 龍宮神
- 保栄茂墓 (ビンバカ)
- 与根拝所
- 珠数川 (ジジガー)
- 海軍与根 (糸満) 秘密飛行場跡
Onaga Hamlet 翁長集落 (おなが、ウナガ)
2020年7月19日に再訪、訪問記は「Okinawa 沖縄 #2 Day 33 (19/07/20) 豊見城市 (18) Onaga Hamlet 翁長集落」に集約
Tokashiki Hamlet 渡嘉敷集落 (とかしき、トゥカヒチ・トゥカシチ)
2020年6月27/29日に再訪、訪問記は「Okinawa 沖縄 #2 Day 27 (29/06/20) 豊見城市 (11) Tokashiki Hamlet 渡嘉敷集落」に集約
Tohashina Hamlet 渡橋名集落 (とはしな、トーシナ)
2020年6月29日に再訪、訪問記は「Okinawa 沖縄 #2 Day 27 (29/06/20) 豊見城市 (12) Tohashina Hamlet 渡橋名集落」に集約
Iraha Hamlet 伊良波集落
2020年7月28日に再訪、訪問記は「Okinawa 沖縄 #2 Day 35 (28/07/20) 豊見城市 (21) Iraha Hamlet 伊良波集落」に集約
今日 (2019年10月5日) は豊見城市最後の散策。
2019年10月5日にここを訪問し、本土に戻り、東海道、紀伊半島を巡った後、(2020年3月に再び沖縄に戻って来て、沖縄に住み始めた。その後、8月1日に再度この集落を訪れ、見落としていた文化財を巡った。
Yone Hamlet 与根集落 (よね、ユニ マキョ)
予根集落は屋取 (ヤードイ) 集落。明治12年の廃藩置県で、日本本土と同じく士族はその職がなくなり、ここに移り住んで屋取 (ヤードイ) 集落を作ったと言われる。集落は比較的新しい村で、当初は田頭村 (志茂田村) の一部であった。昭和26年 (1951年) に田頭村から分離して豊見城村の独立した字となった。ここの地名は現地の言葉では「ユニ」という。これは「寄り集まる」という意味の「ユイ」から来ている。各字からここに移り住んできたところという事で、寄り部落 (ユイブラク)、寄り国 (ユイグニ) と呼ばれ、それが予根 (ユニ) となったと言われている。
ここには豊見城市では唯一の漁港である与根漁港がある。ということは、豊見城市全体としては糸満市と比べるとあまり漁業は盛んで無いのだろう。2019年末の人口1,845人、世帯数は795世帯。「豊見城村史だより」には1998年現在で75%の住民が漁業・養殖業従事者となっていた (当時の人口1535、世帯数440) 戦前は五番目に人口の多い字だった。屋取 (ヤードイ) 集落としては、人口がかなり多いような気がする。しかし、2019年には13番目にまで後退している。隣の戦後に始まった新しい街の豊崎が人口六千人になっているのに、何故と思う。同じような面積で立地条件にもかかわらず、これほど発展が異なるのは興味深い。ここを訪れた際には、海岸側は空き地が目立っていた。
ここ10年は人口はほとんど変わっていないが、世帯数は22%も増えている。核家族化が進んでいる。
沖縄戦当時の集落の地図と現状は大きく変わっている。戦後すぐに集落のほとんどの道路や建物は米軍に破壊されて最造築されている。海岸線の集落が少し雰囲気が残っているぐらいだった。
予根公民館
ここがかつて何だったのかはわからない。塩田跡がここにあるので、マースヤー (塩田小屋) ではなかっただろうか?
根屋 (ニーヤ)
公民館の駐車場にコンクリートの拝所の小屋がある。神根屋 (カミニーヤ) と呼ばれている。予根は新しく始まった屋取 (ヤードイ) 集落なので他の集落のように国元 (クニムトゥ)や嶽元 (タキムトゥ) を担う旧家門中がない。それで、集落の住民は村屋 (ムラヤー) に神屋を建てたそうだ。
海岸線に沿って低い塀がある。防波堤のように見える。ここが以前の海岸線ではなかっただろうか? 集落は小さく平坦な場所にある。
与根塩田跡
公民館のある場所は塩田跡と紹介されている。与根の塩田は、干潟を利用した入浜式塩田で、かつては泊潟原 (那覇市)、泡瀬 (沖縄市) などと並ぶ県内でも主要な製塩地で、そこで生産される塩は与根マースの名で知られた。(自然塩をマースと呼ぶ) 明治30年代中ごろ、那覇・泊からの移住者により始められた。 当時の塩づくりは、塩田に砂をまき、これに海水を散布して天日に干し、砂に塩分を付着させ、この砂を集めてクミと呼ばれるろ過槽に入れ、さらに海水をかけてろ過すると、砂に付着した塩分が溶け出し濃縮された塩水を煮詰めて塩にした。 終戦までに約3万8千坪の塩田が開発されている。 沖縄戦により、使用不能となった箇所もあったが、被害の少なかった一部の塩田が再開され、戦後しばらくまで昔ながらの塩づくりが行われた。海岸沿いの集落に立ち並ぶマースヤーの煙突から塩焚きの煙がたなびく光景は与根の風物詩であった。しかし、昭和30年前後から、外国産の原料塩を海水に溶かし焚き直してつくられる「再製塩」が出回ったため、従来の塩づくりは次第に行われなくなり、それに伴い塩田も姿を消していった。現在でも、再製塩による製塩業が特別の許可を得て続けられ、地元の特産品となっている。
土帝君 (トゥーティークー)
公民館から珠数森 (ジジムイ) に向かって走ると集落内にいくつかの拝所に出会した。土帝君 (トゥーティークー、トンティンクー) がここにあった。三つ目の土帝君。中国の土地公 (とちこう) 信仰が沖縄に伝わった。元々は村を守る神として祀られていたが、沖縄では豊穣・豊作の神として形を変えている。祠の中には石のみ安置されていて土地公の人形は無かった。豊見城市においては与根、我那覇、平良の3か所にあるそうだ。予根集落の神事には海産物や農作物などを供えて祈願する。
土帝君 (トゥーティークー) の隣には神屋がある。
井戸跡
屋号 「徳勢理前」に井戸跡がある。この近くに井戸跡があると地図には載っていたので探したのだが見つからない。近くのおじいに聞くとここまで連れてきてくれた。このような井戸跡を想像していなかったので、ここを通ったときには気がつかなかった。道路上にあるので、埋められてしまったのだろう。側には確かに香炉がある。このような場所でもやはり拝所は残したいという住民の気持ちでこうなったのだろう。
珠数森 (ジジムイ)
集落の南東に珠数森 (ジジムイ)と呼ばれる丘があり、この森の中に幾つかの拝所がある。沖縄戦後、ここは米軍車両の置き場に使われ、丘は元は一つの丘であったものが西と東に分断されてしまった。写真左下が西側で、写真右下が東側。
米軍が終戦後の1945/08/18に撮影した空中写真があった。既にこの時期には米軍による造成がかなり進んでおり、珠数森 (ジジムイ) は東西に分断されている。
龍宮神
珠数森 (ジジムイ) の西ノ森の方に龍宮神がある。ここにも浦島伝説があるのだろうか? 沖縄にはこの龍宮神が多くあり、そこに浦島太郎伝説が伝わる。ここはリュウグチング、地頭火之神、ウフチャーメーと呼ばれ、雨乞いを行なった場所という伝承がある。琉球国由来記では、珠数大アスメ (ジジウフアスメ) で雨乞いを行なったとあり、この「ウフアスメ」が「ウフチャーメー」に転訛したと考えられている。
昨年撮った写真の方がスッキリと写っていたので、載せておく。
保栄茂墓 (ビンバカ)
龍宮神から奥に進むと、祠がある。保栄茂集落の根人 (ニーチェ) の墓と伝わっている。この付近は保栄茂集落の根人 (ニーチェ) の役地で戦前までは保栄茂集落の根人 (ニーチェ) の保有地であった。門中が絶えた後は保栄茂集落の土地となっていた。
与根拝所
この与根地区の聖域であった標高37mの小山の珠数森 (ジジムイ) の西ノ森に拝所があった。珠数森 (ジジムイ) は琉球国由来にも現れており、雨乞いの神事を行っていたとなっている。地元では、按司墓 (アジシー)と呼ばれている。与根按司 (?) を祀っているのだろうか。ただこの予根は屋取 (ヤードゥイ) 集落なので按司が存在しているはずはないのだが.... 多分、屋取 (ヤードゥイ) 集落以前の時代の有力者の墓であったのではないだろうか。
予根拝所の隣にもう一つアジシー (按司墓) がある。ここの集落の住民に拝まれているそうだ。
珠数川 (ジジガー)
珠数森 (ジジムイ) の東の森北側に井戸跡があり、珠数川 (ジジガー) と呼ばれている。予根集落には7つ井戸があったと言われている。
この裏に数珠森 (ジジムイ) への登り口があるので、登って見た。急な坂道でロープをつたって登る。
拝所が3つ見つかった。何を祀っているのか、墓なのかは情報がなくわからない。
東の森にはノロ墓があると書かれていた。豊見城村史では写真が載っていたが、その場所については情報がない。森の中にあることを期待していたのだが、写真のような祠は見当たらなかった。
海軍与根 (糸満) 秘密飛行場跡
沖縄戦に関わる史跡として、海軍与根 (糸満) 秘密飛行場がこの地 (現在の行政割では座安にあたるのだが) に建設されていた。1945年 (昭20) 8月 に米軍が撮影した写真がある。四角で囲った中の右に斜めに南北に伸びる白く写っているところが建設途中で放棄された与那飛行場。
当然の事なのだが、現在はその面影は全くない。ただこの地域はだだっ広い空間が多くあるように感じる。海岸線に近いので、起伏がなく飛行場には最適だったのだろう。
質問事項
- 現在の公民館は以前は何であったのか?
- 数珠森はもともと西の森と東の森に分かれていたのか (解決: 米軍に分断された)
- 与根拝所にある按司墓 : 与根は屋取 (ヤードゥイ) 集落なので按司が存在しているはずはないのだが.... (按司墓とは書かれているが、アジシーとは按司だけの墓ではなく、集落の有力者の墓もアジシーと呼ばれる。)屋取 (ヤードゥイ) 集落の前の人物の墓か?
- ノロ墓はどこにあるか?
- 東の森の中にある拝所は。墓なのか、拝所なのか?
参考文献
- 豊見城村史
- 豊見城村史 第二巻 民俗編
- 豊見城村史 第六巻 戦争編
第9節 字与根
位置
与根は本村西部にある海岸に沿った点在した部落であり、最も新しい部落である。西北部海中には瀬長島があり、北部は田頭、東部は伊良波、座安、東南部は翁長に接していて本村で一番広い志茂田平野に位置している。現在では村で一番人口、戸数の多い部落である。
村造りについて
与根は我那覇や伊良波その他の部落からの寄り合人であって、最初我那覇の人が与根の海に出て漁をしていたが、与根と我那覇間の往復に時間がかかるので、仮小屋を浜近くに立てて、寝泊りしたのが村造りの始めだという。これは今から百年前頃で、まだ新しいことである。それで部落の守護神たる御獄もないのである。
ガタウイ (潟生い)
与根は海岸部落であり、昔から風水(潮)害の多い所であった。それで海岸に護岸を土で盛り、そこにアダン、ユーナホーギ等を植えて暴風、防潮林としていた。その護岸を修理する時は間切内各部落から労力を供出し、ガタウイと称して共同作業によって護岸造りをしたとのことである。この時に各部落の若者は競争して仕事をしたといわれている。
飛行場
与根は瀬長と共に那覇飛行場 (元は小禄飛行場と称した)が完成しない前は飛行場として使用されていた。与根、瀬長間の海は遠浅で潟原を有するから代用されていたのである。大正十年飛行機二機が瀬長の浜で飛行訓練をして一般に観覧させた。昭和四年にも陸軍の立川飛行隊所属の飛行機の訓練があり、一般に観覧させた。その後も昭和八年宮森嬢による民間パラシュート降下を行った。 注大正十年四月十三日太刀洗航空隊瀬長島において飛行演習実施した。 珠数森部落の東南に珠数森がある。古来より雨乞いの際の最終の拝所であり、祠(ほこら)があったといわれている。またここには按司世墓があり、井泉が (ジュズガー、井戸二つ) あり、今でも用水に使用している。
按司世墓 は名嘉地部落との関連があるようだが詳しくは不明である。珠数森は元翁長部落の境界だったとのことである。また保栄茂基という所があるが、その由来は不明である。 (各所祭祀御獄の項参照のこと)
珠数渴原
珠数森の海は珠数潟原(浦)といわれ、昔の遊園地であったという。(第十章第一節名所旧蹟参照)
土帝君 (トーテークン)
珠数森の道路から行った海岸近くの安谷屋小屋敷内に土帝君という所があるが、毎年三月四日に祭祀がとり行われている。これはまた土地君とも書き、福徳の神といわれ、中国の道教の教えにそって伝ったものだが、産業発展の神として信じられている。この御祭りは農作物の農穣を祈願すると共に甘諸大主 (いもうふすー)の野国総官に対する御恩返しの祭典でもある。当日はイモ餅、農作物の初穂、豆の鞘つきと鳥、卵、カニ、イビ等も供えた。このように古くから行なわれ多くの部落にもあったようである。保栄茂も後まで残っていたらしい。旧小録村大嶺や旧真和志村国場にもあるとのことである。
拜所井泉
南井徳セリの前の側
上原
中井 平良屋小 特産物 保栄茂より珠数森を望む 西シ井
与根には塩田があり、また沖積土からなっていて、平担な所で水田は多いがみんな天水田であるのと潮が飛来するので米作には適当でない。それで潮水にも強い七島藺の植付が盛んであった。戦前は歯草栽培によって収益をあげていたが現在は少なくなっている。
翁長集落 (おなが、ウナガ)
2020年7月19日に再訪、訪問記は「Okinawa 沖縄 #2 Day 33 (19/07/20) 豊見城市 (18) Onaga Hamlet 翁長集落」に集約
渡嘉敷集落 (とかしき、トゥカヒチ・トゥカシチ)
2020年6月27/29日に再訪、訪問記は「Okinawa 沖縄 #2 Day 27 (29/06/20) 豊見城市 (11) Tokashiki Hamlet 渡嘉敷集落」に集約
渡橋名集落 (とはしな、トーシナ)
2020年6月29日に再訪、訪問記は「Okinawa 沖縄 #2 Day 27 (29/06/20) 豊見城市 (12) Tohashina Hamlet 渡橋名集落」に集約
伊良波集落 (いらは、イラファ)
2020年7月28日に再訪、訪問記は「Okinawa 沖縄 #2 Day 35 (28/07/20) 豊見城市 (21) Iraha Hamlet 伊良波集落」に集約
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