Okinawa 沖縄 #2 Day 33 (19/07/20) 豊見城市 (18) Onaga Hamlet 翁長集落
翁長集落 (おなが、ウナガ)
- 翁長公民館
- 親川 (エーガー、産井 ウブガー)
- 地頭火之神 (ジトゥヒヌカン)
- 西平之殿 (ニシンダトゥン)
- 玉城への遥拝所
- 大御嶽 (ウフタキ)
- クチャガー
- アカギヤマヌカー
- 高安井 (タケーシガー)
- 西御嶽 (イリウタキ 保栄茂グスク内)
- 高安家の神、高安家の仏壇
- 前之井 (メーヌカー)
- 前之殿 (メーヌトゥン)
- カーシムガー
- 石原グスク
- 新井 (ミーガー)
- 名前不明の井戸
- 西之新井 (イリヌミーガー)
- ターガー
- マージガー
- ウンジャガー
- ジョン万次郎記念碑
- 馬場 (ウマイー)
- 翁長の石獅子 (シーサー)
- 大家 (ウフヤー)
この翁長集落には昨年10月5日に訪れ、石原グスク中心に見学をしたのだが、この日は与根、翁長、渡嘉敷、渡橋名、伊良波と5つの集落を巡ったので、翁長に使った時間が限られていた。今回 (2020年7月19日) は去年見ていなかった他の文化財のじっくりと見ることにした。
翁長集落 (おなが、ウナガ)
2019年末の人口2,753人、世帯数は1107世帯。
かつては豊見城村でも人口が二番目に多い字であったが、現在は24の字の中で真ん中ぐらいになってしまっている。
この地区は人気があるのか、ここ10年はコンスタントに人口が増えている。しかし、昔は豊見城村では有数の字であったことから見ると、当時の活気は失われているのかもしれない。
翁長の十五夜豊年祭
豊見城市の発行している「まだま第1号」に、翁長集落の十五夜行事で巡る拝所の地図が載っていた。沖縄では十五夜は旧暦の8月15日に行われている大切な行事で、地域によっては「月まつり」や「月ウガミ (月拝み)」、「ジューグヤガミ」と呼ばれている。この日に大綱引きや組踊りを催すところもある。琉球王朝時代の十五夜は、豊作祈願が主目的で、その際には小豆餅 (フチャギ) など麦や豆、米などの収穫物を供える。小豆餅 (フチャギ) は餅が月を表し、小豆は星で子供を表しており、子孫繁栄も祈願しているそうだ。本土の十五夜の月見とは随分違う。
翁長公民館 [地図の番号 1]
ここは村屋 (ムラヤー) があった場所ではなく、馬場跡だった場所。そこに公民館が建っている。十五夜の行事ではここから拝所巡りが始まる。今年は10月1日だ。この日のもう一度来てみたい。今日は日曜日。地元の人だろう、多くの年配者が集まっている。公民館の前の馬場跡がでゲートボール大会が行われる様だ。話をしているのを聞いても全くわからない。シマクトゥバ (村言葉) で話しているのだろう。若者はほとんどシマクトゥバ (村言葉) は話せなくなっているのだが、まだ年配者は話せる様だ。
親川 (エーガー、産井 ウブガー) [2]
次の拝所へは、石原グスクの方に向かう。拝所は親川 (エーガー) という井戸、で翁長集落の産井 (ウブガー) であった。正月の若水を取る集落では重要な井戸だ。今ではこの若水迎えの習慣は絶えてしまっているようだ。昔は若水迎えだけで無く、ミジナリー (水撫で) と呼ばれ、イリガサー (麻疹) やミジガサー (水疱瘡) の快癒を願い、ここの水を使用したそうだ。
大家 (ウフヤー) [3]
地頭火之神 (ジトゥヒヌカン) [4]
西平之殿 (ニシンダトゥン) [5]
玉城への遥拝所 [6]
大御嶽 (ウフタキ) [7]
琉球国由来記にある西平殿では無いかとの説もある。西平之殿のすぐ北にある。他の説では、斎場御嶽、久高島、瀬長島への遥拝所 (ウトゥーシ) とも言われている。
クチャガー [8]
アカギヤマヌカー [9]
高安井 (タケーシガー) [10]
西御嶽 (イリウタキ 保栄茂グスク内) [11]
高安家の神 [12]、高安家の仏壇 [13]
前之井 (メーヌカー) [14]
前之殿 (メーヌトゥン) [15]
琉球国由来記には翁長には西平之殿 (ニシンダトゥン)、潮間の殿、玉城の殿、宮里の殿の4つの拝所が記載されているが、潮間の殿、玉城の殿、宮里の殿は現在は残っていない。この3つの殿はこの前之殿 (メーヌトゥン) に合祀されていると考えられているが、それを裏付け物はないそうだ。島尻大里 (南山) や知念・玉城 (現南城市) への遥拝所 (ウトゥーシ) だったとも言われる。馬場跡 (ウマィー) の側東にあり、ここから広い馬場跡 (ウマィー) が見える。
カーシムガー [16]
石原グスク
城跡らしきものは何もなく、先に紹介した大嶽、大屋、西平之殿、地頭火之神など多くの拝所がグスク内に散らばっている。「ぐすく 沖縄本島及び周辺離島1」にもグスク期に属するものは一切発見されておらず、近世の陶磁器のみが発見されていると書いていた。ここがグスク跡とされた理由については何も記載がなかっが、おそらく、城塞というよりは聖域としてのグスクであろう。グスク内の拝所の多くが十五夜の行事で巡る拝所になっている。
この石原グスクの近くには多くの神屋が一か所に集中していた。昔からこの場所にあったのか移設されたのかはわからない。ただこれらの神屋の門中の中では既に絶えてしまったものもあるのだが、この翁長集落の別の門中によって管理されているそうだ。沖縄の祖先を大切にしていることがよく現れている。
集落の中心部近くにも幾つかの神屋がある。
次に、井戸跡を見てみよう。以下の井戸については、それを説明したものは見つからなかった。
新井 (ミーガー)
名前不明の井戸
西之新井 (イリヌミーガー)
ターガー
集落から北西に下る道路沿いにあった。井戸にはパイプが通っている。今でも農業用水として使われている様だ。井戸の前には平御香 (ヒラウコウ) を置く台があった。この井戸も拝まれているのだろう。
マージガー
ターガーの近く、道路の反対側にマージガーがあるはず。ガードレールの切れ目がある。そこが降り口だろうと見当をつけたのだが、草で覆われている。今日は何度か草むらに入り、足が草で擦れてヒリヒリしている。足を滑らして転け、膝は擦り傷も作った。ここを入ると崖を降ることになりそうだ。暑さで体力も消耗しているので、ここは無茶を断念。(年なのか、いや体調が良ければきっと入って行ったのだろう....)
ウンジャガー
更に道を下り畑の中にウンジャガーがあるのだが、これも見当たらない。この辺りはサーターヤーがあった所だ。今日は見つからなかった井戸が4つもあった。いつもなら、だいたい見つけて、自己満足で得意になっていたのだが.... 残念
もう一度、公民館の場所に戻る。
ジョン万次郎記念碑
公民館の入り口にジョン万次郎記念碑があった。翁長がジョン万次郎の所縁の地である事は知らなかった。幕末期に、土佐出身の中浜万次郎 (23才)、伝蔵 (48才)、五右衛門 (25才) が米国から帰国した際、まずは小さなボートで琉球の大度浜海岸で今はジョン万ビーチと呼ばれている地に着き、摩文仁で薩摩藩の取り調べの後、首里王府 (当時は琉球王朝最後の王の尚泰 [1843-1901] が8才の時) の命により、薩摩に護送されるまで、ここで約半年、監視付きではあるが、比較的自由な軟禁生活を送った。この記念碑のある公民館の裏手にある翁長高安家で万次郎が暮らしたそうだ。1841年14才で炊事係として漁船に乗り込み遭難、その後、遭難した5名はアメリカの捕鯨船ジョン・ハラウンド号に助けられ米国生活で教育を受け、1851年にここに上陸帰国を果たした。約10年の年月が過ぎ、万次郎が23才の時であった。(五人の内、1人はハワイで死亡、1人は米国に残留) この万次郎が暮らした翁長と土佐清水は、この縁で姉妹都市となっている。
解説板にはこの翁長集落の人たちとの交流の様子が書かれている。ジョン万次郎の人柄がよく分かる。「社交性に富み好奇心旺盛な万次郎は、高安家から度々外出しては集落の人々と交流し、六月ウマチーには、ンマイー(馬場)で綱引きにも参加している。また、言語能力に長けた万次郎は、地元の人々とのこうした交流を通じ半年間の滞在で沖縄方言も理解したという。薩摩に送られるため琉球を離れるとき、世話になった高安家の娘らに万次郎は方言で別れを告げたというエピソードも残されている。」
馬場 (ウマイー)
公民館の前には距離の長い広場がある。案内板にあった馬場 (ウマイー) だ。万次郎はここで、村の綱引き行事に参加していたのだ。写真左は去年10月にここにきたときに撮った写真、秋口だったのか今日撮った右の写真と馬場の芝生の色が違う。
万次郎音頭だそうだ。これは随分と日本的だが、どんな音楽なのか聞いてみたい。日本では、XX 音頭なるものは大体同じような盆踊り用の曲だが、沖縄の音頭とはどんなものなのか興味がある。
尚家文書の中にジョン万次郎が沖縄に滞在した期間を書き留めた行政記録である「土佐人漂流日記」が公開されていた。全文とその現代語訳が「豊見城村史だより」に掲載されており、目を通してみた。幕末の役所の連絡の書簡を集めたものなので、原文はほとんどが漢字の候文になっている。琉球王朝の公用文字は平仮名と思っていたので、この時期には薩摩の影響がかなり強いことを表している。内容はほとんどが事務連絡ではあるが、ジョン万次郎たちが役人にどう扱われたかが垣間見れる。規定通りに適切な扱いをされており、ジョン万次郎たちと役人たちとの連絡も淡々と行われている。琉球の役人たちが薩摩から派遣された役人にかなり気を遣っていることも伺える。この書簡にはジョン万次郎たちは外出は制限され、逗留した家は柵で囲まれていた様だし、地元住民たちにもジョン万次郎たちとの交流は制限する様に通達がある。村の案内や、ジョン万次郎の子孫が書き起こした伝記では翁長村との緊密な交流が表されているが、この「土佐人漂流日記」は事務連絡なので、その様な様子は一切書かれてはいない。ただ、薩摩役人から琉球役人にジョン万次郎たちを丁重に扱うことが、琉球のためになる様なアドバイスがある。それがら察すると、現地での琉球役人はかなり寛大な扱いをしていたとも思われる。書簡の中で少し疑問に思ったのが、この翁長に留め置いたのは、那覇久米村の護国寺に滞在していた英国人宣教師のベッテルハイム (下の写真) と「会うことがあれば差しさわりがある」と記されていることだ。漂流民は通常那覇の久米村に移される習慣になっていた。大度浜海岸に上陸した翌日にはこの久米村に向かい護送されたのだが、小禄村まで来た時に、摩文仁に戻る様に指示が出た。そこで、翁長村に留め置き、結果的にこの地に逗留することになった。なぜこの宣教師と会うことを恐れ避けたのだろう?(護国寺にはベツテルハイム博士居住之趾がある)ベッテルハイムは8年も琉球に滞在し、聖書の琉球語への翻訳や医療活動などで貢献したが、薩摩の意向で遠ざけられていたと伝わっている。禁教となっていたキリスト教の宣教師であったことも理由の一つだろう。それと、ベッテルハイムの評判もその一つかもしれない。変人として知られていたそうだ。彼の情熱からではあるのだが、強引な布教活動や、高圧的な性格や奇行で、ジョン万次郎が上陸したことで、ベッテルハイムが新たな論議の火種になることを恐れたのかもしれない。ベッテルハイムには退去命令を出したが、8年もの長期間の居座り続け、琉球王朝としては持て余していたのだろう。
もう一つ、この書簡にはNHKのドラマのテンペストの主人公の孫寧温 (そん ねいおん 真鶴) のモデルとなった牧志朝忠 (写真右端) が登場している。ジョン万次郎は日本語を忘れていたので、英語に堪能な牧志朝忠が派遣され取り調べを担当したそうだ。ジョン万次郎が日本語を忘れていたとは思えないが、土佐出身であったことから、薩摩言葉で日本語を学んだ琉球人には土佐弁は難解であったのかもしれない。
翁長の石獅子 (シーサー)
質問事項
- 見つからなかった井戸跡の場所 - ミーガー、マージガー、アカギヤマヌカー、ウンジャガー
- 隣の保栄茂集落との関係
- 琉球王朝・薩摩藩がジョン万次郎とベッテルハイムが顔を合わすことを恐れたのなぜか?
参考文献
- 豊見城村史
- 豊見城村史 第二巻 民俗編
- 豊見城村史 第六巻 戦争編
- ぐすく 沖縄本島及び周辺離島1
豊見城村史
第15節 字翁長
位置
字翁長は本村南部に位し、東は保栄茂、西は東支那海に面し、南は糸満町字阿波根 (旧兼城村) に接し、北には座安、渡橋名がある。部落は小高い高原地にあって、耕地への便は南西部を除いてはあまりよくない。由来記中豊見城間切各処祭祀の中には翁長に御獄の名はないが、年中祭祀中には西平殿というのがある。ここは西平御嶽とも呼ばれていて部落の東北方、保栄茂より翁長に通ずる通路より北に入った所にある。この小路は南北に通っていて、所請西平ジョーがここである。
西平御獄の前方には旧西平の屋敷跡がある。西平屋敷の西方少し離れた所に大屋 (昔潮平)、与座、新垣、赤嶺の屋敷が順に西に並んでいて、与座、新垣の前方に高安の屋敷があり、高安屋敷と道路をはさんで徳与座がある。上記のように翁長の古い宗家 (むーとやー) は御嶽の前西の方に集っているのである。大屋の前には小さな遊び庭がある。翁長の分家者はだんだん西南方に広がって行き、現在では交通と耕地の便をみて那覇糸満を結ぶ三号線道路附近に分家しつつある。
拝所
由来記中には前記の西平成、潮間の殿、玉城の殿、宮里の殿があるが、西平殿以外は不明である。翁長馬場の東に前ン殿というのがあるが、前記四殿の中西平殿以外の三つの殿は、この前ン殿に合祀されたものではなかろうかと思われる。 拝所としての井泉に前井 (めーがー) がある。これは産井であって赤嶺の西、門新垣との間にあり、またユビ井があるがこれは部落の東後方ユビ原にある。 翁長には祝女はいない。保栄茂祝女が祭祀を行っている。 保栄茂の西御嶽の香炉の向って右側は翁長の拝所となっているが、これは保栄茂城ができて保栄茂、翁長で保栄茂城の城内の御嶽を拝するようになってからの御嶽だと考えられる。(第一章第二節城内の御獄参照)
世立ち、地組、祖先
千之巻に次のように記されている。
翁長村、世立初「百名世主の御子西平按司在所西平と云う」としてある。これを祖先宝鑑によってみると (知念玉城天採子系統図)
右百名世主「在所は玉城仲村渠ミントン、御子は十二名あり」となっているが、子については、次に書かれている豊見城大君以外翁長関係は記されていない。
現在西平は家屋 (神屋) は残っているが、人はいない。仲本が西平の獄を管理している。
地組始めについては千草之巻に翁長村、地組始「東大里より来る弁茂武里主在所は仲本という」とある。これは祖先宝鑑にはない。仲本については左のように書いてある。
右の豊見城大君「翁長村に生す。在所は仲本と云う家なり」とある。また同書に
とある。玉城村玉城仲嘉の御サカテ表には翁長大屋、与座、高安が記録されている。祖先宝鑑の昔玉城按司の裔孫に豊見城邑翁長村大屋門中がある。
右高安と仲本は同一門中だと言われているから、長男高安親雲上は屋号高安の祖先で二男が仲本の養子に入ったと考えられ、仲本は現在の公民館の前方にある。古老の言によれば右に記された大屋は先は潮平といったとのことである。大屋は現在家はあるが廃家になっていて人はいない。潮平については祖先宝鑑に左の如く書かれている。(中城按司系統図参照)
兼元大主については「母は南山大里村山川留 (ヌル) 也。在所は豊見城翁長村潮平と云う家なり、子五名あり」としてある。また別に次のようなことが記されている。(察度王系統図参照)。
右の四男仲地親雲上については「此の人は同翁長村潮平という家にあり」となっていて関連がある。兼城按司の二男については「豊見城翁長村に住す」とあるが、何れの家か不明である。屋号与座とは別に徳与座門中があるが、姓は大城姓である。この門中は豊見城部落の東利門中と同一腹で南山の子孫と言われている。
潮越坂 (スーグエービラ)
翁長には、耕地に通うための近道として、幹線道路の他に、いくつものけわしい坂道があるが、その一つに潮越坂がある。潮越坂はサバロク原のトーフー小 (森の俗称) と、ナンヅ川原、木山原に横たわる鞍先森との境をきりとって作られた急坂であるが、その名称の起源は、海から潮水を汲んで来た翁長の乙女たちが、この坂道をやっとの思いで登り、頂上に辿り着いてひと休みし、今先行ったばかりの海を眺めながら涼をいれ、フウッと息をついたことから、潮越坂という風雅な名がつけられたのであろう。
御殿坂 (ウドンビラ)
御殿坂は、翁長と阿波根の境界線に位し、俗に言う赤畠から浜原方面への難所で、長田農道 (阿波根浜原、甘桃原を通る翁長の主要道路) に並行して、ナンヅ川原寄りにある。
御殿坂という名称からして、この付近に御殿があったのか、或いは畑番所があったかと考えられるが、古老に聞いても知らないという。
ナンヅ川
琉球国旧記には、村内四つの川が記録されているが、この川は記されていないから旧記が書かれた頃はたんなる溝であったのがその後、風雨のために浸蝕されて大きくなり、現在のような川になったのであろう。
ナンヅ川は、その源は保栄茂小堀 (池) に発し、南北二つの支流からなり、ナンヅ川原の上方、俗称花の小堀の下水溝の所で一つとなり、ナンゾ川原を縦断する急流で、大雨時の怒濤逆巻く激流のさまは、まさに壮観である、ために年々歳々その様相を変じている。
下流は糸満町阿波根浜原との境界線となって、東支那海にそそぎ、その吐き出す泥水が沈澱して、近海は年々遠浅になり、又その泥水は珊瑚礁の成長を促進せしめる役目をも果して、干拓地として最適地である。将来、数珠潟原から兼城川尻までの、この遠浅地帯を干拓したら、素晴らしい国土造成ができると思う。 この干拓最適地は、余りにも拡大な面積なので、これは単なる一町村の事業ではなく、政府事業でこれを推進し、耕地の少ない住民に配分したら如何なものだろうか。またこの干拓事業のためにも、翁長の下から潮平の下までかけての海中にあった伊保の砂島が、心なき砂採取のため、すっかり姿を消してしまったことは、かえす返すも遺憾の極みである。
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