Okinawa 沖縄 #2 Day 24 (19/6/20) 豊見城市 (8) Noha Hamlet 饒波集落
Noha Hamlet 饒波集落 (のは、ヌーファ)
- 饒波公民館 (製糖所跡 サータヤー)
- 拝所饒波龕屋跡 (ヌーファガンゴー)
- 饒波の石獅子・中森殿 (ナカムイトゥン)
- 野原殿 (ヌバルトゥン)
- カンザシチ井 (ガー)
- 野原井 (ヌルバルガー)
- レンコン井 (ガー)
- 中之井 (ナカヌカー)
- サク井 (サクガー)
- 火松
- 饒波御嶽 (ヌーファウタキ)
- 御嶽井 (ウタキガー)
- 饒波の霊石 (ビジュン)
- 金満御嶽 (カニマンウタキ)、金満井 (カニマンガー)
- マージ井 (ガー)
- ウマ小ヌチミー
- イサーラ井 (ガー)
- 製糖工場建設記念碑 (2019年10月1日に訪問)
Taira Hamlet 平良集落 (たいら、テーラ) [訪問記は別途]
- 未生の縁上演記念碑
Takayasu Hamlet 高安集落 (たかやす、タケーシ) [Okinawa 沖縄 #2 Day 25 (21/06/20) 豊見城市 (9) Takayasu Hamlet 高安集落 (再訪) に含む]
- 高安公民館 (村屋 ムラヤー)
- 崎山之殿/タングチ跡 (サチヤマヌトゥン)
この豊見城市の饒波集落には昨年の10月1日に訪問したのだが、その時は、豊見城市の文化財案内に掲載されている史跡だけを巡った。それ以降に、色々と饒波について調べていくと、これ以外にも集落が大切にしている拝所などが載っている。そこで、もう一度、この集落を訪れることにした。10月1日に訪問した文化財ももう一度巡ってみた。
Noha Hamlet 饒波集落 (のは、ヌーファ)
2019年末の人口は1,284、世帯数は504世帯。人口についてはここ10年間で7%増加にとどまっている。もともとの人口はそれほどではなかったので、増加した人数は80人だが、世帯数については25%も増加し、約100世帯の増加となっている。多分、饒波以外からの移動してきた人たちであろう。その結果、世帯中の家族数は、10年前の3人から2.5人まで減っている。この集落の始まりについては数多くの説がある、他の集落の始まりと同じく、説の多くは天帝子、天孫子、舜天、英祖に繋がっている。
戦前はこの饒波集落は比較的人口が多い字であったのだが、戦後の人口の増加率が他の字に比べて非常に低く、現在では豊見城市の中でも人口の少ない字となってしまっている。
集落が見えてきた。他の地域と同様に集落は丘陵の斜面に広がっている。前方に見える丘陵の上に公民館がある。(写真左) 写真右は集落の南に流れる饒波川から撮ったものだ。
集落はこの丘陵の斜面に築かれており、かなり急な坂道だ。
集落内には伝統的な沖縄の平屋建ての家がまだ数多く残っている。
饒波公民館 (製糖所跡 サータヤー)
まずは饒波公民館に向い、そこに自転車を停めて、徒歩にて集落を巡る。公民館は集落の東の端にある。公民館には平日なのだが誰もいない。公民館の前は広場になっており、どうも集落の住民のゲートボール場になっている様だ。ここには製糖場 (サーターヤー) があった。昭和10年以降はハツドーキヤー (発動機屋) と呼ばれる動力製糖場になっていた。集落の地図を見ると。饒波集落には多くの製糖所があり、その中に二つもが動力製糖場となっていた。当時は豊見城村内で製糖産業の盛んな地区で潤っていたんことが分かる。その理由で人口も多かったのだろう。今はその面影は残ってはいないのだが...
拝所
公民館の前の道路を渡ったところに拝所があった。インターネットでの情報では龕屋があるとなっていたが、龕屋は別の場所にあり、集落で二つも龕屋があることはないだろうから、その情報は間違っていると思う。窓からカーテン越しに中を覗いてみても、やはり龕は無く、香炉が置かれていた。拝所か、どこかの門中の神屋だと思う。
饒波龕屋跡 (ヌーファガンゴー)
集落の南の端の饒波川に近いところに、かつての龕屋があった。ここに保管されていた龕 (ガン) は沖縄戦で焼失したが、その後、1952年に再建された。龕を保有していない平良、高嶺、金良など周辺集落にも貸し出されていた。しかし、その後は火葬の普及により、1967年ごろを最後に使われなくなった。その後も、旧暦8月9日には龕屋を開け、チラガー (豚の顔皮)、チム (豚の肝臓)、饅頭、酒、重箱を供え、卯年にはガンゴー祭 (コーヌユーエー) を盛大に行っている。この祭りには2ヶ月前から、奉納する棒術の練習が始まり、1ヶ月前にはアシビー (遊び) の準備が始めるそうだ。残念なことに、2014年には、この龕屋も解体され、高安集落の様には、再建しておらず、跡地のみで、拝所になっている。龕 (ガン) は豊見城市教育委員会に寄贈されている。伊良波の豊見城歴史民俗資料展示室で龕 (ガン) が展示されている。
かつての龕屋 (豊見城市の案内から)
饒波の石獅子・中森殿 (ナカムイトゥン)
ここは中森殿 (ナカムイトゥン) で、そこに石獅子と陶器製のシーサーの二世代が立っていた。元々、二体の石獅子があったそうだが、一体は沖縄戦で破壊されて、現在の陶器製に造り替えられたそうだ。同じところに石獅子が2体もあるのを見たのはここが初めてだ。何故、2体の石獅子を造ったのだろうか? やはりこの石獅子も豊見城グスク方面を向いている。
集落にある拝所を巡ってみる。
野原殿 (ヌバルトゥン)
詳細については情報が見当たらない。
カンザシチ井 (ガー)
野原殿 (ヌバルトゥン) への道の途中の井戸跡
野原井 (ヌルバルガー)
野原殿 (ヌバルトゥン) を少し下ったところに井戸跡が拝所とともにあった。
レンコン井 (ガー)
集落の東の端に、別の井戸跡があった。井戸から芋の葉っぱが生えている。
中之井 (ナカヌカー)
石獅子のある中森殿 (ナカムイトゥン) から少し西に行った所に中之井 (ナカヌカー) の跡がある。中というからには、上之井 (ウィーヌカー) や 下之井 (シムヌカー) もあるかと思い探したが見つからなかった。
サク井 (サクガー)
中之井 (ナカヌカー) をさらに西に行ったところにも井戸跡がある。
集落のある丘陵の頂上に向かい、激坂を登る。(自転車では絶対無理な程の坂)
火松
坂道の途中に拝所がある。ここが何なのかは調べても不明。読み方もわからない。拝所があり、その横に松の木が生えている。松に何か関係があるのだろうか?
饒波御嶽 (ヌーファウタキ)
丘陵の頂上近くにこの集落の聖地の御嶽がある。祠が作られており、そこのは多くの香炉が並んでいた。ここが儀間の殿なのだろうか?
拝所 (名は不明)
こちらが儀間の殿なのだろうか?
御嶽井 (ウタキガー)
饒波の霊石 (ビジュン)
ビジュンとは霊石のことで、ビジュルとも呼ばれている。見城市には高安、宜保、饒波の3か所がある。これを拝めば女の子が美しく育つという言い伝えがある。旧暦の9月には集落の人たちによる「ビジュンムヌメー」(ビジュル参り)があり、「子育て祈願」がおこなわれる。ここには馬場 (ウマィー) があり、ビジュンはその端に位置していた。
ここから360度、見通せる。
マージ井 (ガー)
住宅の横の細い路地の先にある。
ウマ小 (グヮー) ヌチミー
拝所の様だが、これが何を意味するのか全くわからなかった。
イサーラ井 (ガー)
拝所の向きには風水などで、意味があるのだろうが、正面は林の方で、とても入れる様な状態ではない。井戸跡の横にある拝所の林側には香炉が置かれていた。
製糖工場建設記念碑 (2019年10月1日に訪問)
この記念碑は1937 (昭和12) 年に建立された。この場所には、動力製糖場があった場所で、地域では「ハツドーキヤー (発動機屋)」と呼ばれていた。砂糖は江戸時代からこの当時まで沖縄の主力産業だった。戦前期には小規模の製糖工場は沖縄全土で4000もあったが、大正末期から大規模な動力を使った製糖工場が建設された。当時はサトウキビから搾り取った糖液をそのまま煮詰めた含蜜糖の黒砂糖であったが、世界的な需要はグラニュー糖などの様に糖液から不純物を取り除いた上澄み液を遠心分離機にかけて結晶と糖蜜に分け、結晶だけをとりだして作った分蜜糖に移っていった。この分蜜糖には機械が必要で、戦前には7つの大規模な製糖工場が造られた。ここにあったのが、その一つで、豊見城村内にも、これ以降、幾つかの工場が造られた。
饒波集落の後、平良集落と高安集落にあるまだ訪問していなかった文化財にいく。訪問記は別途。
- 未生の縁上演記念碑
Takayasu Hamlet 高安集落 (たかやす、タケーシ)
- 高安公民館 (村屋 ムラヤー)
- 崎山之殿/タングチ跡 (サチヤマヌトゥン)
梅雨も終わり、本格的に夏に突入している。とにかく暑く、3時間も外にいると汗でびっしょりになってしまう。今日はこれぐらいにして帰宅することにする。
今日の夕食はチャーハンと小松菜とエリンギのオイスターソース炒めと同じ具材でのお浸し。冷蔵庫がなく、夏も暑くなってきているので、食材が日持ちしない。買った当日に消費する様にしている。出来は上々で、美味にできた。
質問事項
- 饒波の石獅子・中森殿 (ナカムイトゥン): 何故、2体の石獅子を造ったのだろうか?
- 火松: ここが何? 読み方は?
- 饒波御嶽 (ヌーファウタキ): 数多くの香炉は一つ一つが何かの神なのか? 村にあった拝所を合祀しているのか?
- ウマ小ヌチミーとは?
- 数多くの拝所についての情報
参考文献
- 豊見城村史
- 豊見城村史 第二巻 民俗編
- 豊見城村史 第六巻 戦争編
豊見城村史
第20節 字饒波
位置
饒波に西に高安、東に金良、長堂、南に平良、高嶺、北に嘉数、根差部と接し、国場川の支流饒波川に沿っている部落である。奥に入った所にあるので都市への交通は甚だ不便である。
部落の形態
この部落も古えの形態をそなえた部落であって、部落の後方東西に走った丘の上に御嶽がある。由来記にある饒波の嶽である。御嶽の境内前方に拝殿がある。ここを儀間の殿とも言う。この殿の西側に屋号翁長があるので、御嶽の神名は「翁長森マシラゴの御イベ」と称するのである。殿の東、道路をへだてて一段下った所に屋号朝儀がある。朝儀の東上に屋号金城があり、金城の斜上に上金城がある。御獄の上東に長嶺古屋敷がある。外に下ン門、大殿内、上里川上 (ガラハジョー) 等は饒波の旧家であるが、上里、川上は廃家になっている。
饒波は移転しない部落であるため、上村渠 (ういーんだかり) は丘の南斜面にあって交通の不便な処であり、水も少ない。南向きで後に丘があるため北風は当らないが、南風が真向いに当るため、台風の当りは非常に強い。分家者はだんだん下の方に移り住んで、現在では耕地に便利なところに屋敷をかまえるようになった。
世立ち、地組、祖先
饒波の世立初めは千草の巻によれば 饒波村世立初の「孫太子孫饒波大神在所根所金城という」
地組始「饒波親方在所根神の大殿内」「布里按司此人は饒波村、高安村屋敷囲初められる方也」「長嶺按司の二男嘉数大主の三男饒波大主在所は座安後は長嶺」としてある。
まず根所金城については祖先宝鑑に (天孫子系統図参照)
とある。
右の豊見城按司については「この人は豊見城同村根所大屋にあり、長男豊見城里主、二男同嘉数村大殿内へ行く、三男同饒波村根所に行き、四男は小禄安次嶺に行く。余は詳らかならず」とある。
なおまた同書に (中城按司系統図参照)
右、豊見城按司について「在所は豊見城同村の根所なり、その長男豊見城若按司、二男饒波大神同饒波村の根所の養子に入る。金城という家なり」としてある。
布里按司については祖先宝鑑に(為朝公系統図参照)
右、布里按司は「此の人は豊見城饒波村高安村屋敷組囲められて同饒波村に住せらる、下田という家なり。後に至りては大屋という。其の後五代目は世子なく困って同村の根所金城の祖先饒波親方の二男養子に取る」とある。しかし下田は印刷ちがいで下ン門であろう。大屋は下ン門の分家者であるが、大屋と屋号をつけたといわれている。
玉城村玉城仲嘉の御酒手表に饒波の大城とあるが、前記大屋は大城姓であって大屋のことであると言われている。
しかし後では大里村大城部落を拝むようになったと言う。現在大屋は廃家になっている。
大殿内につては祖先宝鑑に (北山系統図参照)
とあるが、右の野波親方については
「此の人は豊見城饒波座安と云う家なり。今の大殿内なり。其の後来九代目は宜野湾真志喜村金満按司の六男野波親方が入り来りて相続す」とある。野波親方については祖先宝鑑に次のようにある。(察度王系統図参照)
右、五男我那覇親方については「此の親方は豊見城名嘉地村、座安村屋敷囲仕立て置かれて後高安村、嘉数村、真玉橋村屋敷囲仕立置かれで後同饒波村に住み死去せらる。在所は大殿内なり」とある。
現在の大殿内は元屋号西リ我那覇 (今一つ口我那覇という家があった由) から大正四年に変更したものであると言われているから、右の我那覇親方、野波親方兄弟が野波大主の裔孫をついだものと考えられる。
長嶺については祖先宝鑑に (北山系統図参照)
千草之巻に記されているのは右三男饒波大主が長嶺の祖先であるが、また同祖先宝鑑に (南山王系統図参照)
右、六男長嶺按司「子は四男三女あり、二男は野波村の長嶺、三男は豊見城村の新地という家なり」とある。右、長嶺按司の二男が野波の長嶺になっているので、前記二者の関連にいては不明だが、長嶺按司の系統であることには間違いない。
儀間について
饒波の嶽の拝殿を儀間の殿というが、祖先宝鑑につぎのようなのがある。(百名天孫子系統図参照)
右の垣花按司については「在所は玉城和名村、垣花村を建て、後生地なる仲村渠ミントンと云う家に帰宅せらる。長男当間大主、二男儀間大主此の人は豊見城高安村嘉数村を建て、後同饒波村に住す。在所は儀間と云う (現在の御獄の内儀間の殿)。其の後は北山王子の御子饒波大主が入り来りて相続す」とある。しかし現在の屋号儀間は昭和の初頃に屋号下神谷から変更したものであるという。この後間も現在廃家である。
右の北山王子の御子饒波大主については祖先宝鑑に (北山系統図参照)
右の野波大王については「十一男野波大主は豊見城饒波村儀間という家に宿す。長男野波里主は野波村の上金城と言う家に住す」とある。さきに出た屋号上金城の祖先である。
翁長について
饒波の御獄は神名「翁長森マシラゴの御イベ」というと由来記にあるが、この嶽は屋号翁長の屋敷に接しているので神名も翁長森を入れてある。翁長については祖先宝鑑の中の瀬長城立初之事の条に 「豊見城巴德波神元、翁長としてあり、「大里邑南風原津波古西原ヌル殿内」と共に瀬長城立初と関連があるようだが、委細は不明である。翁長は金城と共に豊見城城跡の東側按司墓 (俗に七門墓、または板門墓) に祖先は祀られていたし豊見城城を尊崇していたのから見て、豊見城按司の子孫である。
朝儀について
屋号朝儀は前述したように御球の東下にあって、古い時代の家だと思われるが、詳しくは不明である。ただ翁長、儀間、朝儀は兄弟だということも言われていたそうだがその資料は得られない。朝儀は当主から五代前、金良の名加一門から養子に入って来たので、現在では金良名加の子孫といっているのである。
川上門中
祖先宝鑑の昔玉城按司之裔孫の項に「豊見城邑饒波川之上 (ガラハジョウ) 一門中」と記してある。これからみてカラハ上は玉城按司の裔孫であることが知られるが、現在ガラハ上は廃家になっている。なおその一門についても不明である。ガラハ上は屋号翁長を拝んでいたということである。
諸拜所
御嶽についてはすでに述べたから殿について記します。
中森の殿 由来記中年中祭祀の項饒波村の中森の殿は、現在の大殿内の東にあり、今は森小と称していて、獅子像が二基置かれている。この像は平良のアチャーのアンガマに対する魔除けとして置かれているのである。ここで昔から旧六月一日、十二月一日 (六月一日には豚を、十二月一日には牛を屠って祭りがある) の御願の時にはこの境内の広場で煮炊した。この広場は昔は子供の遊び場となっていた。 この中森の殿の東下に西り我那棚の屋敷はあったといわれているからここの神アシャゲ (殿) であっただろうと考えられる。
金城の殿 由来記にもあるが、これは現在の金城の神アシャゲ (殿) のことである。御獄と中森、金城の殿の祭りは稲二祭 (ウマチー) と旧六月一日、旧十二月一日である。
野原の殿は野原井 (スバルガー) の上に、神座敷 (カンザシチー) という所があるが、ここのことであって戦前は立派な林であった。現在でも二祭のとき崇んでいる。野原の殿は元、上里という家が守護していたと言われているから上里家の殿であったと解されるが、上里は廃家となり、屋号仲宜保がその霊位をお持ちしている。
上里については祖先宝鑑に(天孫子系統図参照)
右宜野湾按司の三男は「豊見城饒波村上里という家なり」としてある。
また同書に (為朝公系統図参照)
右饒波親雲上は「母は満名屋の女子なり、豊見城饒波の上里という家なり」としてある。
また同書に (中城按司系統図参照)
右、平良大屋子については「母は豊見城饒波村奴留なり、在所は同村上里と云う家なり。子は七名あり」となっている。
また同書に (北山系統図参照)
右野波親雲上については「野波村根神上里と云う家なり」としてある。
また同書に (英祖王系統図参照)
右、饒波捉親雲上については「此の人は豊見城王子の御奉公をして豊見城饒波村掟役となって其の村に住す。在所は上里と云う家なり」としてあって、按司の代官として派遣されていたと考えられる。
饒波ビジュン
部落の後、丘の上にビジュンという拝所がある。旧九月十三日に祭りがあるが、現在は簡素化され戦前のように大ではない。(ビジュンについては高安部落のを参照のこと)
金満御嶽について
饒波の嶽の上後方に金満御嶽がある。その由来については伝説口碑もないが、祖先宝鑑によると
右、金満按司については「在所は宜野湾真志喜村の奥間と云う家なり。此の按司は唐大和往復せられ、金銀多く求めて国頭奥間村に治金術を伝えられたる始めなり。以下略」とある。またその五男我那覇親方、六男野波親方が饒波の大殿内 (現在の名) を相続したことは前述の通りである。
金満按司は察度王の弟で、中国や大和にも往復し、また牧港附近に根拠をおいて日本商船と交易をして、資産をなすと共に、その郷党の間にも信望を博したと言われている所からして、我が豊見城間切の名嘉地、座安、高安、嘉数、真玉橋、饒波の農民に農具を提供して信望を得て、その子が饒波に養子に入ったのである。それで金満御嶽を設けて尊崇されるようになっただろうと考えられる。金満御城は壁は石造りで屋根は瓦葺の小さな家である。その前は少し広場になっている。
平和の塔
長嶺小学校の東方森の中に慰霊塔が建っている。饒波の山野から収骨した無名戦死者の墓である。祭りは五月三十日に行なわれる。
井泉 (拜所)
- レンコン井 西下宜保の下
- 野原井 元神谷屋敷の上
- サク井 徳翁長前の側
- 中ノ井 西下門の下角
- 上金城井 上金城屋敷の後方
- ウタキ井 御嶽の境内東側
- マージ井 マージの後
- イサーラ井 翁長の西、金城の元基近く
- 苗代井 上ン宜保の後
ヤフス岩
饒波から高安に通ずる村道の下にヤフスという岩があるが、この岩下の穴には数多くの遺骨があった。ここの由来についてはなんら伝えもないが、豊見城城主で後で南山王になった汪応祖は俗にヤフスと言われている。この汪応祖がその兄の達勃期 (タブチ) との同族争いの時の戦死者の遺骨を集めたものと考えられる。このヤフスの岩の西には、昔の中山から南山に至る国道があるし、この道は石火矢橋を越えると豊見城城に至る道であるからこの道の附近で戦ったものと思われる。 このヤフスは近年まで部落でも崇めていた。
祝女
饒波には現在ノ口はいなくて高安祝女が祭祀を行なっていて高安祝女のノ口地は饒波の東原にあった。 大昔は饒波にもノロがいたというがはっきりしたことは不明である。
溝原
饒波の東南にある原名で、ここは東風平村、糸満町旧兼城村、豊見城村の境になっているが、十余戸のハルヤーがあり、村境界外にも多くの屋取が点在している。本村境界の屋取は、ここへの移住は一応他部落に明治年間に移住して来た人が再移住したのが多いのである。 琉球政庁時代都市の人口増加に伴ない、役職につけない失業の士 (さむらい) ができて、その生活擁護のため田舎に下って農民となることを許された。彼等を居住人 (ちゅじゅうにん) とよび、耕地を中心に農民部落から離れた所に屋取 (ヤードイ) という小部落をつくった。 沖縄で屋取の発達について伊波普猷氏はその著「琉球古今記 (大正十五年発刊)」において「これらのヤドリに遺っている口碑を調べて見ると、第一次は二百年前に、第二次は百年前にできたことが知られるが、第三次が今から四十年前 (大正十五年より前) すなわち廃藩置県の大変動の後にできたことは、今なお人の記億に新たなるところである」と言っておられる。屋取人は耕地に近くて、ひたむきに農耕に打込める有利な点があってか、経済的に急速に伸びていると言われています。
饒波川
琉球国旧記にも豊見城村の川四つが記されているが、その一つに饒波川がある。これは長江と記されていて、大里に発して、饒波、高安邑 (むら) を環り、覇江に出て大海に注ぐ、と書かれている。沖縄でも一、二を争う長い川であるため長江とつけたと思われる。この川は高安の西谷口 の所から川幅が広くなり昔から舟による運送が盛んであったことは高安の谷口の所で述べたところである。
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