Okinawa 沖縄 #2 Day 23 (12/6/20) 豊見城市 (7) Kanera Hamlet 金良
Nagado Hamlet 長堂集落 (ながどう、ナガドー) (2020年7月3日に記載)
- 長堂公民館 (村屋 ムラヤー) / 根屋 (ニーヤ)
- 志屋嶺之殿 (サンミヌトゥン)
Kanera Hamlet 金良集落 (かねら、カララ・カニラ)
- 金良公民館 (製糖所跡 サーターヤー)
- 東御嶽 (アガリウタキ) [7月3日に訪問]
- 金良共同拝所
- 西之御嶽 (イリヌウタキ 又は西平御嶽 ニシンダウタキ) [7月3日に訪問]
- 根御嶽 (ネウタキ) [7月3日に訪問]
- 前之井 (メーヌカー) [7月3日に訪問]
- 大井 (ウフガー) / ニキザ井 (ニキザカー) [7月3日に訪問]
- 黄金森 (クガネムイ) [7月3日に訪問]
- ミーガー [7月3日に訪問]
- ニキザ井 (ニキザカー、リキザガー) [7月3日に訪問]
- 神谷の殿、大前の殿、内原の殿 (7月3日に訪問)
- 西平井、大井、前之井、リキザ井[移設] (7月3日に訪問)
- 神谷の殿、大前の殿、内原の殿 [7月3日に訪問]
- 馬場跡 (ウマィー) [7月3日に訪問]
- 沖縄戦弾痕の残る石垣
- アカングワウクイモー 日本軍重砲陣地 [7月3日に訪問]
- 金魂の塔があった場所 [7月3日に訪問]
Madanbashi Hamlet 真玉橋集落 (まだんばし、マダンバシ) (2019年9月30日に記載)
- 重修真玉橋碑 (じゅうしゅうまだんばしひ)
- 龍宮神 (リュウグヌカン)・火之神 (ヒヌカン)
- 仲間世 (ナカマユー)
- 仲間井 (ナカマユーガー) 址
- 真玉橋古島井 (フルジマガー)
- 真玉橋拝所 (マダンバシウガンジュ)
- [大井 (ウフガー)]
- [大井之御獄 (ウフガーヌウタキ]
- [骨神 (フニシン)]
- [神庭之殿 (カミナーヌトゥン)]
- [骨神 (フニシン)]
- [臼井 (ウーシガー)、今帰仁井 (ナチジンガー)、遊庭井 (アシビナーガー)]
- [地頭火の神]
- 真玉橋大屋 (ウフヤー) と新屋 (ニイヤ)
- ヒララス御嶽
Tomigusuku Hamlet 字豊見城 (とみぐすく、ティミグスク) (2019年9月29日に記載)
- 津屋 (Chiiya)
6月2日に西原町訪問を終えてから、連日雨が続いた。2日間は一日中大雨、その他の日も、降ったり止んだりで、不安定な天気だった。やっと梅雨も終盤で、今日から一週間は晴れ予報。久々に、史跡、文化財巡りに戻る。
昨年の夏に続いて、豊見城市で回りきれなかった文化財を巡ることにする。まずは、アパートの近いところから訪問する。長堂集落で長嶺グスクがある。グスクのある丘陵の上の方は昨年訪問したので、今日は集落がある丘陵の裾野を探索。公開されたガイドブックには何も見つからなかったのだが、行けば何かが見つかるはず。長堂公民館 (村屋 ムラヤー) に行き、そこに根屋 (ニーヤ)があった。裏の中には井戸跡、丘陵の上部には、志屋嶺之殿 (サンミヌトゥン) が見つかった。更に、7月3日にもここを訪れ、6月2日の訪問記も含めて2020年7月3日に記載している。[Okinawa 沖縄 #2 Day 28 (03/07/20) 豊見城市 (13) Nagado Hamlet 長堂集落]
6月2日も7月3日も、長堂公民館に自転車を停めて、徒歩にて、隣村の金良集落に向かう。
Kanera Hamlet 金良集落 (かねら、カララ・カニラ)
長堂と金良の村の境目などはわからないほど、民家が続いている。長堂から歩いても数分の距離にある。この金良集落は長堂と起源を同じにして、長嶺グスクの西側斜面にあった長嶺村 (現在は存在しない) から、この地に移動してきたといわれている。いつの頃かは不明なのだが、長堂と同じ系譜であったと考えられている。北山大按司の子の長堂の仲村渠 (ナカンダカリ) である豊見城按司の二男の西平按司が国元 (クニムトゥウ) とされ、西平按司は金良赤嶺後下田と在所が記されている。金良集落には確かに下田 (スムダ) という家がある。ちょうど三山時代の頃の事だろう。
北山系からの流れという系譜がある。
南山系のものもある。系譜は後世に作られているので、信憑性はかなり低いのだろうが、この西平按司が下田 (スンダ) と呼ばれた屋号の場所にいたのだろう。
沖縄戦当時の事だが、この集落からは本土への児童疎開が一人もいなかった。山原疎開も1世帯のみだった。どうも、この集落は疎開には積極的ではなかったようだ。隣の長堂が非常に積極的であった事を考えると何故と思う。これには色々な原因が言われている。疎開には金がかかると思い、長堂程豊かで無い金良には疎開は難しいと思い込んでいた事。同じ世帯で集落内の家畜や農地に面倒見る居残り組と疎開組に別れるのに消極的だったという家族の気持ちもあった。
2019年末の時点での人口は1,137人、世帯数は510と豊見城市では4番目に小さな字だ。沖縄戦当時の人口は200人程度で世帯数は40戸程で、戦後人口は5倍、世帯数は13倍になっている。隣の長堂に比べて、絶対数は小さいながらも、大きな増加率になっている。
金良集落も丘陵の斜面から裾野に広がっている。
沖縄戦当時の集落の地図が豊見城村史に掲載されている。地図に色付けをしてみた。黄色は陣地、壕など、日本軍が軍事目的に使用していた場所、オレンジが日本兵が滞在していた民家。これを見ると集落のかなりの部分が日本軍に使用されていたことがわかる。この地図には井戸跡や拝所なども記載されているのだが、6月2日に訪れた際には、合祀所以外は見つからなかった。この金良集落では文化財をあまり大切にしていないのかと、かなり失望した。1ヶ月後の7月3日に隣の長堂を再訪した際に、見落としたものがあるかも知れないと思い、もう一度この金良にも来てみた。そこで、その理由がわかった。それは後述。
金良公民館 (製糖所跡 サーターヤー)
公民館の裏には大きな広場がある。ここがアシビナーにあたり、集落の行事が行われていたのだろうかと思った。豊見城市の案内書ではこの集落は紹介されていなかった。村を巡ってみたのだが、それらしき文化財は見つからなかった。後日、調べると、現在の公民館があるところは、元々、村屋があった場所ではなく、製糖所 (サーターヤー) があり、ここは日本軍に使われていた。現在の広場には東門御嶽 (アガリジョーウタキ) があったそうだが、今はその名残は無くなっている。合祀されているのだろう。沖縄戦当時は軍の物資集積所として使われていた。元の村屋は現在の公民館の斜向かいにあったと分かった。
公民館の北側はかつてはサトウキビ畑で、現在でも農地が広がっている。公民館の前の道路はかつてはサトウキビを搬出する為にトロッコの線路が津嘉山まで通っていた。
東御嶽 (アガリウタキ) [7月3日に訪問]
7月3日に訪れた際に、集落を散策している時に、たまたま話をした人に、(沖縄なまりでよく聞き取れなかったのだが、) 公民館の広場にに拝所があると言っている様だ。前回来た時にはなかったのだがと思ったのだが、その場所に来てみた。この人に会わなければ、ここには戻ってこなかったのだが。この広場の隅に、拝所が造られていた。1ヶ月前には見当たらなかったものだ。まだ工事中なのだが.... 先ほどあった人が工事の最後の仕上げをしているのだった。
右には東御嶽按子 (アガリウタキアジシ)、左には東御嶽御井 ( アガリウタキウフカー) があり真ん中には石碑があった。按子が何を意味しているのかは調べたが不明。この後、同じ様な形をした拝所を見るのだが、その全てに按子 (アジシ) と書かれているので、拝所とか祠の意味ではないかと思う。アジシーといえば、他の地域では按司墓と書かれている。このは按司墓の事かもしれない。石碑は何が書かれているのかは読めないのだが、奉年とか十七とかが見えるので、この御嶽が作られた謂れなどが書かれているのではないだろうか? 琉球由来記には金良集落には御嶽が記載されておらず、住民は長嶺城御嶽がメインの拝所となっていたので、この東御嶽 (アガリウタキ) は後世にできた御嶽 (正確に言えば「殿」と思うが...) と考えられているが、詳細は不明。地図では東門御嶽 (アガリジョーウタキ) と書かれている。
金良共同拝所
豊見城村史によると、近世では集落の主要な御嶽が3つ紹介されていた。上で紹介した東門御嶽 (アガリジョーウタキ)、西之御嶽 (又は西平御嶽 イリヌウタキ) と大川御嶽
西之御嶽 (イリヌウタキ 又は西平御嶽 ニシンダウタキ) [7月3日に訪問]
長嶺之御嶽 (ナガミネヌウタキ) に次いで、現在でも拝まれているのがこの西之御嶽 (イリヌウタキ) で現在は合祀されているが、昭和20年の地図にはは集落西の小高いところにあった。現在はその場所には御嶽はなく、荷物置き場となっており、かつての面影はない。
御嶽はこの公民館の近くの金良共同拝所に移設されているのだろう。6月2日に来たときは、共同拝所を窓越しに見ただけだったのだが、、7月3日に再訪した際に、金良共同拝所の隣に、拝所と井戸の拝所が形式復元されていた。
西平御嶽按子 (ニシンダウタキアジシ) と西平御嶽御井 (ニシンダウタキウフカー)
根御嶽 (ネウタキ) [7月3日に訪問]
この共同拝所の別の側にも拝所が復元されていた。根御嶽按子 (ネウタキアジシ) と根御嶽御井 (ネウタキウフガー) と4つの香炉 (ウコール)。それと石碑なのだろうか、石が大事そうに設置されていた。 昭和20年の集落地図にはこの根御嶽 (ネウタキ) (または新垣御嶽 アラガキウタキ) については出ていなかったが、この近くにあったことは確かな様だ。根というところから見ると、この金良集落の国元 (クニムトゥウ、集落を始めた人) を祀っているのだろうか?
前之井 (メーヌカー) [7月3日に訪問]
集落をまわると必ず拝所が併設された井戸跡があるのだが、この金良集落を6月に訪れた際は一つも見つからなかった。豊見城村史では主要な四つの井戸である西平井 (ニシンダガー)、大井 (ウフガー)、前之井 (メーヌカー) 、リキザ井が記されていた。7月3日に再度挑戦した。西平井 (ニシンダガー) は先ほど見た西平御嶽御井 (ニシンダウタキウフガー) のこと。まずは前之井 (メーヌカー) を探したのだが、見つけた。おじさんが手入れをしている。少し話をした。おじさんはこの集落の井戸跡や配所をコンクリートで整備しているのだそうだ。やっと終わりに近づき今日は最後に綺麗にしているそうだ。整備のために、公民館近くの共同拝所に一度保管して、その間にそれぞれの場所に復元しているのだ。だから1ヶ月前に来た時にはほとんど見つからなかったのだ。おじさんから、復元した井戸跡や拝所の場所を教えてもらった。前述の復元された井戸跡や拝所は、おじさんに教えられて、この後に行ったもの。この井戸跡には前之御嶽御井 (メーヌウタキウフガー) と書かれている。 この集落では井戸にあった拝所は全て御嶽と呼んでいる。御嶽は本来はノロしか立ち入ることができず、集落内にあることはなかった。時代とともにこの御嶽の意味合いが変化していっているのだろう。沖縄の人でも、今では御嶽 (ウタキ) や殿 (トゥン)、御願所 (ウガンジュ) の違いが曖昧になっている。
大井 (ウフガー) / ニキザ井 (ニキザカー) [7月3日に訪問]
おじさんに教えられた大井 (ウフガー) に行く。ここもコンクリートで新しく井戸跡と拝所が整備されていた。祠が一つと井戸跡が二つ形式復元されていた。大井戸御嶽按子 (ウフカーウタキアジシ)、大井戸 (ウンブガー)、ニキザ御井 (ニキザウフカー) と書かれている。ニキザ御井 (ニキザウフカー) は、もともとはここではなく別の場所にあった井戸。
黄金森 (クガネムイ) [7月3日に訪問]
ここが拝所であったことは昭和20年当時の集落の地図からわかるのだが、それ以上の情報は得られなかった。今でも森のままになっているところを見ると、拝所であり続けているのではないかとも思う。ただ、森の中への道がなさそうだ。草が生い茂っていて、入るのをためらった。拝所があれば、御願の時期には草刈りをやっているのだろうが、今はその時期ではないのかも知れない。
ミーガー [7月3日に訪問]
集落内の交差点のど真ん中に井戸がある。時々、この様に交差点の中に井戸跡を見ることがある。昔は今とは違い、道は自動車の通行のためではなく、人が歩くものだった。せいぜい馬車が通るぐらいだ。この様に道路が交差するところは人の行き来があり、井戸があることは便利であった。ここが村の住民や旅人の社交場にもなっていた。現在では井戸はコンクリートで覆われ、給水パイプが出ている。今でも使っているのだろう。
ニキザ井 (ニキザカー、リキザガー) [7月3日に訪問]
もう一つ井戸跡を見つけた。名前はわからなかった。後で調べると、ここがニキザ井で先ほど訪れた大井 (ウフガー) 御嶽の場所に形式保存で移設されていた井戸があった場所。
神谷の殿、大前の殿、内原の殿 [7月3日に訪問]
御嶽以外にも殿 (トゥン) と呼ばれる拝所があり、主要な殿に神谷の殿や大前の殿、内原の殿があったとされている。神谷、大前、内原は全てそこに住まいを構えていた門中の屋号だ。戦前の集落の地図から、その住居があった場所は特定できたので訪れてみたが、大前の殿についてはそれらしきものがあったが、残りの二つは、新しい民家が建っており、もうその面影は失われている。
神谷の殿 (左) と内原の殿 (右) があったとされていたところ
馬場跡 (ウマィー) [7月3日に訪問]
集落の外れの西の丘陵 (アカングワウクイモー) の上に馬場があったそうだ。今は住宅街になってその面影はない。この丘陵の斜面には五つもの日本軍の壕が造られていた。
沖縄戦弾痕の残る石垣
かつて、沖縄のほとんどの集落には、この様な戦争遺跡があったが、今ではほとんど残っていない。案内書に紹介されているので行ってみると、既に撤去されたりしていることがある。年月を経るに従い、保存が難しく、危険性も増し、修復にもコストがかさむので、仕方ないのかもしれない。その意味で、ここは貴重な戦争遺跡と思う。これもいつかは撤去されてしまうのだろう。遺跡は弾痕跡と言われなければ分からないのだが、ここにその様な遺跡がある事で、沖縄戦の悲惨さを知るきっかけになるだろう。
沖縄戦では、この金良集落のほとんどの家屋が焼失し、辛うじて焼け残ったのは40戸あった民家の内、六戸だけだったそうで、戦後、住民がシマへの帰還が許された際は、この6つの民家に分かれて住み、米軍の廃材やテント、山から木や茅を運び、集落住民が共同で住居を建て生活を整えていった。
この金良と隣の長堂には多くの日本軍が駐留していた。金良集落の東にある東原と呼ばれている所にに重砲陣地が置かれて、更に兵站の拠点にもなっていた。軍事的に重要な施設という事で、住民に対しても、軍の監視は厳しかったという。 住民の中にはスパイ嫌疑をかけられることもあったという。もう東原という地名は地図上にはないので大体の位置しかわからないが。この辺りに設置されていたと思われる。かなり金良集落に近い。
日本軍重砲陣地 [7月3日に訪問]
東原に設置された重砲は那覇港方面を砲撃していたので、米軍からはすぐに砲撃目標となって、砲撃した以上の砲撃を受けたそうだ。沖にいる米軍艦隊からは艦砲射撃がこの砲台陣地に向けて、なされていた。当然のごとく、集落内にもその艦砲射撃が届いていた。村には大きな砲弾が落ち、大きな窪み跡が残り、戦後帰村した後、子供がその砲弾跡の水溜りで溺死する痛ましい事件もあった。
米軍が5月27日に国場、津嘉山に侵攻して来て、村民達は危ないと感じ、6月初め頃から南部への避難を始めた。この時に集落の老人8人を村の避難壕に集め、そこに残して出立した。結局、残された老人は全て亡くなってしまった。去っていく家族も残された老人もどうなるかは予測していただろう。その中でそうせざるを得なかった時の双方の気持ちを推し量ると胸が痛む。 南部への避難は、村単位の行動ではなく、個々の家族がその判断で行い、それぞれが様々なルートを選んだ。ルートにより途中で撃たれた人、自決に追い込まれた人、捕虜になった人とそれぞれの運命が異なっていた。
金魂の塔があった場所 [7月3日に訪問]
この後 (6月12日)、高嶺グスクのある丘陵まで上り、それから丘陵を降って真玉橋集落に向かう。真玉橋には前回、見落としていた文化財が多く残っている。訪問記は「Okinawa 沖縄の旅 Day 60 (30/09/19) 豊見城市 (2) Madanbashi Hamlet 真玉橋」
真玉橋の後、国場川沿いを走り、津屋 (Chiiya) のあるマングローブを訪れて、今日は終了。
今晩の夕食は、以前、家で出ていたおかずを見様見真似で作ってみた。豚肉とあさりの味噌炒め。本当はこれにじゃがいもも入れていたのだが、生憎、じゃがいもは買っていなかったので、代わりに玉ねぎで作ってみた。思っていた以上に出来がよく、美味であった。気をつけているのは生野菜を多く取ること。沖縄の農協では野菜は安く手に入るので、今晩も大盛りサラダ。野菜ならなんでも入れるのだ。玉ねぎ、ピーマン、トマト、レタス、きゅうり、大根にフレンチドレッシングで充実メニュ。
参考文献
[豊見城村史 1964年(昭和39)発刊・1993年(平成4年)復刻]
第9章 部落 第21節 字金良
位置
金良は北は長堂、西は饒波、東は南風原村、南東は東風平村に接している本村最東端の部落である。南風原村とは国場川の支流が境界になっている。
由来記中には金良村 (字) には御獄は記されていない。長嶺の嶽を拝んでいたのである。長嶺の嶽は長嶺城跡にあり、元長嶺村 (むら) の御嶽であると共に長嶺の城内の御獄であった。昔から現在に至るまで、長嶺の御獄は稲二祭のとき金良、長堂、嘉数、真玉橋、根差部で拝んでいるのである。
現在拝んでいる御嶽に次のようなのがある。
西平御嶽部落の西北にあり、やや高い所になっていて、その下に内原の旧屋敷がある。その東附近には大徳森、徳元、下田等がある。
この御城は南山王の七男西平按司の故実のある所で、祖先宝鑑に (北山系統図参照)
右、二男西平按司「在所は同柄良村の根神赤嶺と云う。後代は下田と云う家なり、其後八代目は汪応祖が四男豊見城按司を相続す。其後孫は武寧王の孫国頭按司を相続す。在所は長堂村の又吉という家なり」としてある。
祖先宝鑑に (南山王系統図参照)
右七男西平按司については「此の人は豊見城柄良村保栄茂按司 (並茂武按司の誤り) を相続す。住所は同村の下田という家なり。玉骨は同村の西平御嶽の内に隠れ玉う」となっている。
右四男豊見城按司については「此の人は豊見城翁長村に住み、後同柄良村西平按司を相続す。在所は根屋赤嶺と云う家、後下田に改む」とある。現在下田、内原は同一門中であると言われ、今は下田、内原の霊位は内原前に御持している。
なお金良の部落初りは千草之巻によれば柄良村世立初長浜按司の二男並茂武按司在所根神赤嶺今は下田と云う」としてあり地組始については「今帰仁按司の孫柄良大主在所座神」となっている。右について祖先宝鑑には
(在所東大里西原奴留殿内)
祖先宝鑑に
「豊見城邑金良神元先根新垣、当相神元神谷、先居神元大前、当居神元内原 (嘉慶十三年五月旧記にあり)。新垣、神谷、大前、嘉数、仲門、内原締六ヵ所外に嘉美田、安波門、金城、川之畑、仲間 (内間?)」とある。
右記の先根新垣については現在村元と言われていて公民館の敷地が新垣だったようだが以前に廃家になっていたのである。その側の御嶽が根御嶽または新垣御嶽といい、部落から尊崇されている。
他に大川御嶽 (部落内城間の後方) と東リ門の御嶽 (新垣御嶽の東方遊び庭になっている) があるが由来は不明である。大川御獄には大井がある。上記二獄は部落発祥の御でなく後世できた御嶽で別の意味の拝所だと考えられる。
殿について
由来記の中に神谷の殿が記録されている。これは根御嶽の近くに屋号神谷があり、前記してある当相神元神谷の神屋のことである。現在でも尊崇されている。
その他に前記してある先居神元の大前の殿がある。部落のやや中央の後にある大前屋敷にある。現在部落で崇めている。また前記当居神元内原の殿がある。現在では内原は男子がいなくて内原の前に殿が設けられている。
井泉
拝所としての井泉は左のとおりである。
- 西平井戸 (西平御嶽内)
- 大井 (大川御嶽内)
- リキザ井 東原
- 前ノ井 部落の後仲加の上
祖先
新垣の祖先については察度王の子孫といわれているが詳細は不明である。下田・内原については前述してある。神谷については (屋号新地含む) 新垣の分家であって、宜野湾村謝名を拝む。
大前については旧真和志国場村の大前より養子に入ったこともあり、そこの系統であると言われている。
川畑と金城は同一門中で祖先宝鑑によって系統図を示せば、次の通りであり、西原間切 (村) 幸地を拝んでいる。
三男「金良大主については「豊見城柄良村川畑という家にあり、後代は東風平友寄村より入り来って相続す」とある。
現在嘉美田、安波門はない。嘉数と記されているのは仲加のことであろう。仲加については玉城村玉城仲嘉のウサカテ表によれば、金良の仲加が記録されているが、玉城仲嘉は恩の方 (女系?) であって、真玉橋の仲間世が男系といわれている。
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