Okinawa 沖縄の旅 Day 46 (16/09/19) Nanzan Gusuku Castle Ruins 南山城

Nanzan Gusuku Castle Ruins 南山城跡 (島尻大里城 しましいおおざとじょう)
Yaese Gusuku Castle Ruins 八重瀬城跡 (9/17 に記述)
Gushichan Gusuku Castle Ruins 具志頭城跡
Peace Memorial Park 平和祈念公園 (別途 記述予定)
Himeyuri Tower ひめゆりの塔 (別途 記述予定)
今日は土肥さんがレンタカーで借りている事務所に行くという。沖縄ではレンタカーは比較やすく半日借りる事になった。事務所での用はすぐにすむので、残りの時間を使って行きたい所に連れて行ってくれる。お言葉に甘えて、城巡りをする。

Nanzan Gusuku Castle Ruins 南山城

南山城は14世紀に山南王 承察度 (しょうさっと、うふさっと) により築かれた城。別名 島尻大里城 / 高嶺城。他魯毎王 (たるみい) の時代1429年に中山王の尚巴志によって滅ぼされるまで、南山王国の中心地であった。城跡は高嶺小学校と南山神社になっており、城壁が残されている。
南山の東方に「カデシガー」、北方には源為朝と王の妹との逢引場所だと伝わる「和解森(わだきなー)」がある。 
立派な城壁が残っているのだが、こんなに背の低い城壁だったのだろうか? これでは城の防御が出来ないと思う。いつか機会があれば、聞いてみたい。この糸満市はやはり南山の街なのだろう、国指定文化財への働きかけをしている。城の跡地に高嶺小学校が立っているが、生徒が城跡を綺麗にしてくれている。歴史的にも、遺構も国指定文化財の価値は十分あると思う。頑張って働きかけを続けて欲しい。
城跡には立派なガジュマルの木が茂っている。有名らしい。
城内には多くの拝所がある。どの時代のものかは分からないが、按司の一族には必ず女神官のノロ (ヌル) を娘と妹や姉のように一族から選んでいた。このノロは一族を守るために神との橋渡し役になっていた。琉球の歴史でこのノロは非常に重要な役割をしていた。第二尚氏王統の尚真王により、ノロの組織が国単位で整備されて、明治12年の琉球王朝滅亡まで続く。
ここで南山王国の事に触れておこう。
  • 初代 承察度 (しょうさっと、うふさっと 不詳〜1398 在位 1337-1396 60年間 居城 島添大里城)  南山王国は14世紀初め頃に前述の大里按司であった承察度により建国されている。承察度が初代南山王となる。1380年に中山王の察度の勧めで、初めて明へ進貢を行い。それ以降、22回進貢を行った記録がある。承察度は伯父の汪英紫 (承察度の母親の兄) によって王号を奪われ、汪英紫が第2代南山王に即位した。この承察度が王位を奪われた経緯についても、諸説ある。(この後、訪問した八重瀬城が汪英紫の居城。レポートは9/17に含めている。八重瀬城は今は”やえせ”と読むが、元々の琉球では“えーじ”と読んでいた。汪英紫はこの八重瀬の当て字と推測される。) 敗れた承察度は息子と共に朝鮮に亡命したと言われている。李氏朝鮮の記録によれば、1394年に中山王察度が承察度 (承察度の息子か?) の送還を要求したとある。温沙道という名前が文献に見られ、これは承察度の当て字と考えられている。
  • 第2代 汪英紫 (おうえいじ  ? - 1402 在位 1388-1402 15年間 居城 島尻大里城)   与座 (ゆざ) 按司から八重瀬按司となり、八重瀬城を拠点として南山の東部に勢力を持っていた。島添大里城を攻略し、島添大里按司となり、南山王の承察度と南山を分けていた。南山はこの承察度と汪英紫の2ヶ国体制であったと考えられている。
  • 第3代 汪応祖 (おうおうそ  ? - 1413 在位 1402-1413 12年間 居城 島尻大里城)  汪英紫の次男。父の汪英紫が島添大里城を攻め落とし、ここに入城、島添大里按司になった時に、汪応祖は大城に入り大城按司となる。14世紀末から15世紀初めの間に、豊見城 (とみぐすく) を築き、大城から豊見城に移り、豊見城按司となった。(大城には汪英紫の三男の具志頭按司の屋富祖 [やふす] が入り、大城按司となる) 明の南京に留学中に見た龍舟を帰国後、城下の江で競渡をしたのが爬竜 (ハーリー) の始まりという説がある。1413年に実兄の達勃期によって殺された。
  • 第4代 達勃期 (たふち ?〜1414  在位 1413-1414 1年間 居城 島尻大里城)  弟の汪応祖が自身を差し置いて山南王に即位したことを妬み、1413年に反乱を起こして汪応祖を殺し、王を称した。しかし、反達勃期の各地の按司たちによって攻め滅ぼされ、汪応祖の長男であった他魯毎が按司たちによって山南王に擁立された。
  • 第5代 他魯毎 (たるみい ? - 1429 在位 1415-1429 15年間 居城 島尻大里城)  他魯毎は、琉球名の太郎思い (たるもい) の当て字。父の汪応祖が実兄の達勃期に殺害されたため、諸按司と協力してこれを滅ぼし、1415年に明の冊封を受け山南王に即位。歴史文献では他魯毎は民衆や按司たちに対し酷薄な横暴な王で毎日政治を省みず酒色に耽ったという。ただ、これは他魯毎を滅ぼした側の琉球王朝による歴史書なので鵜呑みにはできないだろう。1429年、尚巴志に滅ぼされ、山南王国は滅亡。尚巴志に南山の貴重な水源であった嘉手志川 (カデシガー) と金の屏風との交換を浅慮で了承し屏風と引き換え、人々の信望を失ったというエピソードがある。この嘉手志川は南山城のすぐ側にあり、いくら浅慮とはいえ、これはあり得ないと思った。歴史上、他魯毎は横暴で馬鹿な人物と描かれている。
インターネットのブログで沖縄に関して非常に面白いものがある。「ガジュマルの樹の下で」というサイトで、頻繁に見ている。良く考えて書かれていて面白い。こんな風に書ければと羨ましいしだい。この南山王の関係について、そこからわかりやすい物を拝借した。これは一つの説で、色々な資料やブログなどを見た後、これとは違うような気がする。個人的に思う説は後述。
以上が南山王国について一般的な歴史の解説なのだが、南山王国は不明な事が多く、これから色々な諸説が出てくる。
  • まずは承察度の在位期間が60年と長い事、第2代が承察度の母親の兄 (伯父) の汪英紫で在位15年。これで見ると両者の年齢に不自然さがある。そこで承察度は一人ではなく複数 (2-3人) に継承されたのではないかとの説。承察度は大里 (うふさと) 按司の当て字と思われる。承察度の発音も「しょうさっと」、「うふさっと」の二つある。後者はまさに大里按司を表している。(中山王の察度 (さっと) も安里 (あさとう) 按司の当て字だったので、この名前は変だなと思っていた事はスッキリした。) 承察度の名前は明があて字を用いたものであるから、朝貢を開始してからと考えるのが妥当と思う。朝貢を始めたのが1380年と記録に残っている。それまでは大里按司 (うふさっと) として南山王であった訳だ。琉球史の研究で難しいのは、役職名で記録が残っているので、同じ名前が時代をまたいで出てくる事だ。この承察度のケースも同じと思う。
  • 明への朝貢が承察度と汪英紫が同時期に行なっている。このことより、南山国は二つに分かれていたのではないかという説がある。汪英紫の勢力は強く中山王の察度とも関係があった。このような図式だろうと前述のブログでは図式化してあった。これには同意。島尻大里城 (南山城) と島添大里城が其々の国の中心であったのではというもの。
現在、尚巴志について勉強中なので、彼を取り巻く三山時代を年表にしてみた。尚巴志は琉球の戦国時代の真っ只中に活躍した事が分かる。南山王は「ガジュマルの樹の下で」とは異なる説をとった。

Gushichan Gusuku Castle Ruins 具志頭城跡

具志頭城は、十四世紀の中期頃に英祖王統第二代大成王の第三子具志頭按司が築城したものと伝えられ、以来、代々の具志頭按司の居城であった。この城は具志頭按司に婿入した汪英紫の三男の屋富祖 (やふす) が若按司をしていた頃は南山に属していたが、ある時期に、南山に離反したため、屋古 (屋姑) 大主を総大将とする南山の軍勢に攻められ、具志頭軍も抗戦するも、圧倒的な兵力差があり落城。具志頭按司の息子達は、母方の実家の玉城/糸数の内間大主を頼って落ち延び、落城から十数年後の1429年に尚巴志の南山攻略の際、具志頭按司の息子三人も中山軍に加わり参戦した伝わっている。(何故、南山王を裏切ったのかが気になっている。娘婿の屋富祖は軽薄で多くの妾を抱えていたと言われているので、屋富祖と具志頭按司との確執があったのかもしれないし、屋富祖の将来に見切りをつけたのかもしれない。それと母方の実家の玉城/糸数とあるが、母方の実家の玉城/糸数は反南山王であった事で、玉城/糸数からの誘いがあったのかもしれない。) 南山滅亡後、尚巴志の三男が具志頭グスクに赴き、具志頭王子となる。1440年、北山監守だった尚忠が中山王に即位すると、具志頭王子が後継の北山監守として今帰仁に移り、王子の長男が具志頭王子跡を継いだ。1469年、第一尚氏が滅亡後は、新たな城主は置かれず、廃城になった。沖縄戦時の激戦地で、慰霊碑などが建立され、現在は城跡公園となっている。城の地下には、日本軍が陣地を構えた暗御門 (くらしんうじょう)と呼ばれる自然の洞穴 (150m) がある。そこには尚巴志の三男、具志頭王子の墓が今でも残っているそうだ。
城跡は藪の中に入れば、石垣などがあり、遺構かのしれないのだが、余りにも藪が深く、ハブの危険があるので、立ち入りは断念した。城跡にはこの拝所と沖縄戦の慰霊碑があった。
城内之御嶽 - 本丸跡にある拝所でアカズ森ノ御イベという神を祀っている。具志頭城の守護神だそうだ。
戦没者の慰霊碑である土佐の塔、甲斐の塔、慰霊顕彰碑、忠魂碑、魄粋之塔がある。なぜか、ここは高知県の所有地と書かれていた。土佐だから高知なのはわかるが、なぜ高知県がここを買ったのだろうか?
城は海岸線の高台にありここから見る太平洋の海岸線は素晴らしい。
特にこの景色が気に入っている。
レポートが南山王国について色々と調べ時間がかかり、なおかつ長くなったので、沖縄戦に関わる平和祈念公園とひめゆりの塔については別途、作成することにした。


0コメント

  • 1000 / 1000