Okinawa 沖縄の旅 Day 47 (17/09/19) Sashiki Gusuku Castle Ruins 佐敷城跡 - 尚巴志の少年時代所縁の地
Former Haebaru Railway Station 南風原駅跡
Usuku Ga Public Well 御宿井
Stone Lion 大見武の石獅子
Stone Lion 新島区の石獅子
Achiriyunushi 阿知利世主
Itarashiki Stone Lion 板良敷の石獅子
Uchibarushi Baka (Gravestone) 宇地原子墓
Kumukujii 久茂久岩
Naka no Utaki 中の御嶽
Agari no Ryugu 東の龍宮
Batin Doumai Port 馬天泊
Baten Utaki 場天御嶽 / 佐銘川御殿跡
Nuru Duenchi ヌル殿内
Nagushiku Duen 宮城殿
Tuteikun Place of Worship 新里の土帝君
Sashiki Ogoku Stone Pavement 佐敷小谷石畳道
Public Wells 上の井、中の井、下茂の井
Tankari タカンリ
Kanjashichi Place of Worship 神座敷
Chura Stone 美ら石
Sashiki Nuru Dunchi 佐敷ヌル殿内
Sashiki nu Dunchi 佐敷ノ口殿内
Sashiki Gusuku Castle Ruins 佐敷城
Former Narshiro Ufuya Residence 苗代大屋の屋敷跡
Fucha Stone フッチャー石
Yaese Gusuku Castle Ruins 八重瀬グスク跡 (9/16 訪問)
8月14日尚巴志の故郷の佐敷を目指したのだが、その手前の与那原町で時間切れとなり、佐敷まで来れなかったので、今日もう一度挑戦する。この間と同様の道程で、まずは南風原町、与那原町、そして佐敷のある南城市に入る。南風原町、与那原町で見落とした所や新しく見つけた所があるので佐敷への途中で寄ってみる。
Former Haebaru Railway Station 南風原駅跡
この場所に鉄道の駅があったのだが、そのような名残は残っていないが、川にかかっている橋は「けいびんばし」と名が付いていた。これが唯一の名残か.....
Usuku Ga Public Well 御宿井
南風原町から与那原町に入る。この井戸にも羽衣伝説が伝わっていると書いている。宜野湾市の森川公園を訪れた時に察度王の母親の羽衣伝説があった。羽衣伝説は作り話なので、複数あるのが当然だが、いったいいくつあるのだろう。沖縄の羽衣伝説は天人女房伝説の部類に入り、天女が下界で結婚して子供をもうける話が主流。日本各地にある羽衣伝説にもストーリーが地域によって少しだけ変わっているのは面白い。
与那原にも古くから残っている石獅子がある。沖縄本島南部に多いらしい。9月14日にここに来たときには1基見つけた。全部で7基残っているらしいが、今日は3基見かけた。大見武の石獅子、新島区の石獅子、そして板良敷の石獅子。邪気払いの為の獅子だが、どれも愛嬌がある。主たる目的は火返し (けーし) で多くは、火山として恐れられていた東風平にある八重瀬岳に向いていた。
9月14日に与那原の網武士の綱曳きについて触れた際に、5つの拝所が関わっていると書いたが、その一つを見落としていた。その阿知利世主 (あちりゆぬし) を訪れた。この史跡については9月14日のレポートに含めている。
Uchibarushi Baka (Gravestone) 宇地原子墓
宇地原子 (うちばるしー) は板良敷の近くにある大里 (うふざと) グスクの大里按司に仕えた武将で敵を一人で千人倒した話や、雨乞森 (あまごいむい) 山から大岩を投げ飛ばした逸話がある人物で、地元では人気がある。
Kumukujii 久茂久岩
約300年前の第二尚氏王統時代、琉球と中国の貿易に従事する中国の貿易船が嵐で遭難し沈没。大里間切 (おおざとまぎり) に住んでいた稲福 (いなふく) という人物が当添の人々と共に当添小堀に流れ着いた38人の犠牲者の遺体を収容し、この久茂久の岩に手厚く葬った。その後、海神の竜宮の神も祀り、海の安全や豊漁を祈願する場所となった。久茂久岩の上の小さな広場には、三つの拝所が残っている。左端の拝所には漂着した人数分の小石が38個納められている。右端の拝所の中には三つの小さな壷が置かれ、当添には壷の中の水がたくさん入っていたらその年は豊作で、水が少なかったら干魃の昔話があるそうだ。
Naka no Utaki 中の御嶽
久高島への遥拝所。手前の祠が「火之神」、奥の祠が「中の御嶽」
ここから南城市佐敷に入る。やっと尚巴志の故郷に入った。
Agari no Ryugu 東の龍宮
佐敷字新開の第二新開橋のたもとに東の龍宮と呼ばれる拝所がある。下の写真の川の奥には西の龍宮がある。ここにも浦島伝説がある。ここから数キロ南風原の与那覇にも浦島伝説があった。この地域にはまだまだ浦島伝説があるのだろうか? 多分あるのだろう。橋にはシーサーなのか動物が欄干にいる。大体の場合ではシーサー (獅子) なのだが、これはどう見ても虎に見える。縞模様があるので虎だろう。虎のシーサは初めて見た。
浦添では察度王統の初代王の察度の所縁の地を訪ねた。次は尚巴志の地を訪ねたくなり、ここ佐敷に来た。尚巴志の故郷は那覇から10kmほどで太平洋側の海岸にある。
尚巴志の少年時代所縁の地
佐敷には当時 (日本では足利時代が始まった頃) 、二つの港があり、ここも貿易で栄えていた。一つは馬天泊 (ばてぃんどぅまい) という港だ。今でも同じ名前で港がある。ここには日本からの多くのヤマトゥ船 (ぶに) が寄港していた。もう一つは与那原泊 (ゆなばるどぅまい) であった。この二つの港に立ち寄ってみた。隣同志の港。与那原泊は文字通り与那原町にあり、馬天泊は佐敷にある。今では与那原泊の方が開けており、工場も海岸沿いにある。馬天泊は漁業中心の港の様に思えた。港の近くは荒れていて、古い団地があり、周辺にはナンバープレートが外された壊れた自動車が何台も放置されていた。後で聞いた所では、この地区は貧困層が多く住んでいるらしい。
Yunabaru Doumai Port 与那原泊
Batin Doumai Port 馬天泊
尚巴志の父親はその時の役職で鮫川 (さみがー) 大主、苗代大親 (なえしろうふやー) や佐敷按司と呼ばれた。後に中山となる思紹で童名 (わらびなー) をサグルー (佐五郎) という、母親は美里之子 (んざとぅぬしぃ) の娘と言われている。母親の父は大 (うふ) グスクの按司に仕える武将で、中部の美里 (んざとぅ 現在の沖縄市美里) からやって来たので美里之子と呼ばれた。尚巴志の父の思紹は伊是名島 (いぢぃなじま) からやって来て、馬天浜 (ばてぃんはま) で日本刀の柄の鮫皮作りを始め、鮫川 (さみがー) 大主と呼ばれていた。佐敷の馬天泊に近い山の中腹に屋敷を構えていたと言われている。他の説は思紹の父親は鮫川 (さみがー) 大主、母は大城按司の娘で、もともと南山国の佐敷按司だったとしている。このあたりの出生の記録は曖昧でどれが本当かはわからない。
佐敷は前が海、後ろは山に囲まれている。尚巴志の父親が住んでいた苗代大屋の屋敷や佐敷城はこの山の中腹にある。仕えていた大城、島添大里城はこの山の向こう側にある。
Baten Utaki 場天御嶽 / 佐銘川御殿跡
鮫川大主の時に住んでいた場所。跡地は場天御嶽 (ばてんうたき) となっており数基の拝所や井戸跡が残っている。ここからは馬天泊や佐敷の村が一望出来る。
Former Narshiro Ufuya Residence 苗代大屋の屋敷跡
尚巴志の父親の鮫川大主は後に、苗代大親 (なえしろうふやー)、佐敷按司となった人物と言われている。佐敷に思紹の屋敷であった苗代大屋の屋敷跡がある。
ここに石畳跡が残っている。
小説では尚巴志が子供の頃は思紹は苗代大親として大 (うふ) グスクの按司に仕えていたとされていた。大 (うふ) グスクは当時、八重瀬按司 (えーじあじ) と敵対関係にあり、それに備えていた。
尚巴志は1372年に、この佐敷で生まれる。丁度、察度が明国皇帝から中山王に冊封された時代だ。当時は三山時代で、今帰仁の北山、浦添の中山、そして2つに分かれていた南山のそれぞれの国が勢力を持っていた。佐敷は南山東部の玉グスクの勢力下で、西部の島尻大里 (しまじりうふざとぅ) と対立していた。
島尻大里按司は中部の浦添按司と同盟関係にあった。島尻大里按司 (初代 南山王 承察度の事であろう) の叔父、八重瀬按司 (えーじあじ 後の第2代南山王の汪英紫の事だろう) は八重瀬と糸数の中程に新 (あら) グスクを築いて隙を窺っている。
玉グスク按司は島添大里按司 (しましいうふざとぅあじ)、大 (うふ) グスク按司、糸数按司 (いちかじあじ)、垣花按司 (かきぬはなあじ)、知念按司 (ちにんあじ) と手を結んで対抗していた。
小説では尚巴志の童名(わらびなー)をサハチルー (佐八郎) としている。琉球放送が放映したテレビドラマではサハチ)となっていた。どうも当時の琉球の人は名前にはあまりこだわりが無かった様にも思える。中国名、日本名、琉球名、役職名とあり、役職名で呼ばれることが一般的だったようだ。
ドラマの映像や組踊の衣装などを見ると、鎧兜は日本の物を使用していた事が分かる。日本からの主要な輸入品は刀と甲冑でもあった。政治の場での官服は明の形式に近い。一つの文化に染まってしまわないのが琉球流。
まだこの時代は、この様に、各地にいた按司が緩い同盟関係を結んでいた。察度の父の思紹 苗代大親 (なえしろうふやー) が仕えていた大グスク按司の同盟関係にあった島添大里按司の後継者争いで、同盟関係が崩れる事態が起きる。島添大里按司 (しましいうふざとぅあじ) で側室の長男と正室の次男の後継ぎ争いで家臣は分かれ、内紛に発展。この時の島添大里按司は玉グスク按司の弟が家督を継ぎ、事実上、玉グスク按司の傘下となっていた。元からいた家臣は玉グスクからの影響に不満を持っており、いつか玉グスクの連中の排除しようと画策をしていた。その時にこの家督争いが起こった。同盟していた諸按司は正妻派、側室派、中立派と別れ、元からいた家臣団はそれとは別の後継者を目論んでいた。ここにつけ込んだのが、この同盟関係と敵対していた八重瀬按司 (えーじあじ 汪英紫) だった。八重瀬按司は正妻派を支援、裏では元家臣団とも誼を通じていた。正妻派の手引きで八重瀬按司軍団は島添大里城に入り側室派を殺し、ついで、正妻派も殺し、そして元家臣団も殺して、完全に島添大里按司を滅ぼしてしまった。この後、八重瀬按司 (汪英紫) は島添大里城に入り、八重瀬城には嫡男の達勃 (後に 第4代南山王) が入り、八重瀬按司となる。
Yaese Gusuku Castle Ruins 八重瀬グスク跡 (富盛城 ともいグスク)
この城には昨日土肥さんの運転で自動車で訪問した。
八重瀬城は、承察度王の叔父の汪英紫 (おうえいじ) が1400年頃に築城したと考えられている。1394年頃にクーデターを起こして、甥の承察度王を島添大里城から追放。その後、南山王叔として南山の実権を握る。汪英紫が、島添大里城の城主となってからは、嫡男の達勃が八重瀬按司を世襲して、八重瀬城の城主となる。1414年に、クーデターを起こして、弟である豊見城城の南山王、汪応祖を殺害。しかし、汪応祖の長男の他魯毎の逆襲にあい、久米島に逃亡し、真達勃按司と名乗り 、久米島具志川城を築城。この時期は尚巴志親子が佐敷にいた時期にあたる。城域は2つの郭と一段高い物見で構成されている。八重瀬城は信仰の地・八重瀬嶽の中腹にあり、城跡から八重瀬岳がさらに上にそびえている。八重瀬岳は昔は火の山と呼ばれた火山で周辺の村からは恐れられてていた。各村には邪気払いの石獅子がこの八重瀬岳に向けて置かれていた。
本殿跡には“ナカジク火の神の拝所”や“城火の神の拝所”、”グシク井泉”がある。現在は八重瀬公園となっている。
八重瀬城から見た景色。サトウキビ畑 (写真下) が広がっている。
すぐ下には八重瀬城の支城の勢理グスクが見える。
この事態で、大グスク按司にも危機感をが高まり、八重瀬按司への警戒を強める。大グスク按司の命により、思紹は佐敷に佐敷城を築き佐敷按司となった。
ここには沖縄戦での白梅学徒隊が配属されていた陸軍病院壕跡が残っている。それに関しては、1ヶ月も後になるのだが、10/16のレポートに含めている。
Sashiki Gusuku Castle Ruins 佐敷城跡
城跡には神社が建っており、佐敷世之主を祀っている。尚思紹と後に佐敷按司になった尚巴志を祀っているのだろう。
その他にも拝所がある。内原の殿 (うちばるぬとぅん 右中)、佐敷ヌル殿内 (右下)、佐敷之口殿内 (左上)、上グスク之嶽 (左中)、竃跡 (左下)
ここから見える馬天泊と佐敷の街
尚巴志の話は今日はここまでにして、14才以降の話は次に所縁の地を訪れた時に続けることにする。
今日訪れた所がまだまだあるので、紹介をしておく。
Nuru Duenchi ヌル殿内
Nagushiku Duen 宮城殿
Tuteikun Place of Worship 新里の土帝君
Ogoku 小谷集落
佐敷の場天御嶽/佐銘川御殿跡からこの小谷の集落まで石畳がある。山の中腹をアップダウンが多い道で繋がっている。石畳は全てではなく小谷集落と佐銘川御殿跡に一部現存しているだけになってしまっている。多分、尚巴志の時代にも道が繋がっていたのだろう。
赤の印がこの小谷集落。なぜこんなところに村ができたのだろう。
Sashiki Ogoku Stone Pavement 佐敷小谷石畳道
小さな集落なのだが、至近距離に井戸が3つもあった。上の井、中の井、下茂の井。
Kanjashichi Place of Worship 神座敷 - この集落の中心の拝所。
Chura Stone 美ら石 - 石畳の坂道の途中に休憩場として使ったのだろう。かなり急なので今も残っている。これをぐるっと迂回する自動車道路ができており。今はそちらで移動しているのだが、昔はこの石畳が村への道だった。
Tankari タカンリ ー ここから、佐敷町内、馬天泊が一望できる。
Fucha Stone フッチャー石
佐敷手登根 (てどこん) のサトウキビ畑の中に変わった形の高さ190cm幅30-40cmの石がある。14世紀に尚巴志の弟の手登根大比屋 (てぃでぃくんうふひゃ) が中国のから持ち帰ったものと伝えられている。更に飛躍したものは、手登根大比屋が手登根集落後方にある丘陵から投げて、現在の位置に突き立ったという言い伝え。船着場で船をつなぎとめるのに使われた石であるとの説もあるそうだが、そのためにわざわざ中国から持ってくるだろうか? 一番そうかなと思う説は、船の安定を保つ為に石材を船に積載するそうで、どこかの石をそれに使って、この地でこのような伝説になったのではないか。
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