Okinawa 沖縄 #2 Day 101 (30/04/21) 旧玉城村 (1) Funakoshi & Aichi Hamlets 船越/愛地集落

旧玉城村 船越集落 (ふなこし、フナクシ)

  • 船越公民館
  • 村火の神 (ヒヌカン)
  • 玉那覇 (タンナー) 神屋
  • 穂取田毛 (ミフーダモー) の拝所
  • ムチマン井泉 (ガ-)
  • イジンヌカー
  • 小嶽 (クータキ)
  • 相図井泉 (ソージガ-)
  • 川増 (カーマシ) の神屋
  • 名称不明の拝所 (ジョーヌカー?)
  • 名称不明の拝所 (内間之殿 ?) 
  • 給水タンク跡
  • 平良井泉 (テーラガ-) [未訪問]
  • 上門 (イェージョー) 屋敷跡
  • 中地井泉 (ナカチガ-)
  • ワンヌカー [未訪問]
  • 東井泉 (アガリガ-)
  • 船越大川 (フナクシウッカー)
  • 御願山 (ウガンヤマ) 御嶽 (大嶽)
  • ウガンジャマー
  • 上門 (イェージョー) 門中神屋
  • 古寺 (フルディラ、フデララノ嶽)
  • 山川之殿 (ヤマガーヌトゥン)
  • 殿鎖り井泉 (トゥングサイガ-)
  • 神のハタの嶽御イべ
  • 富名腰里主所火神 [未訪問]
  • クボーの御嶽 (コバウノ嶽御イベ)
  • 幸地山御嶽 (中森御嶽) [未訪問]
  • 中の殿 (ナカヌトゥン)
  • ヌル井泉 [未訪問]
  • 上の井泉 (ヰーヌカー)
  • 川増 (カーマシ) 門中の元墓
  • 上門 (イージョー) 門中女神の墓
  • ノロ殿内 (ドゥンチ)
  • 富名腰巫火神 (フナクシヌルヒヌカン)
  • 富才 (フセ―) 神屋
  • ナンジャー井泉
  • 池当井泉 (イージント-ガ-)
  • 上間之殿 (イーマヌトゥン)
  • 立ちロ世鎖りの火の神 (タチグチユグサイヌヒヌカン)
  • 船越グスク
  • 城火の神 (グスクヒヌカン)、城嶽之御イべ

旧玉城村 愛地集落 (あいち、エーチ)

  • 愛地農村センター (公民館、村屋) 
  • 部落拝所
  • 愛地農村公園 (サーターヤー?) 
  • 村井泉 (ムラガー)
  • 産井泉 (ウブガー)
  • タマタ井泉
  • 名称不明の井戸跡


今日から旧玉城村の集落巡りが始まる。旧玉城村には18の集落があるので、これから2か月間で巡ることになるだろう。まずは、一番近くなる船越集落とそこから分離した愛地集落を訪ねる。



旧玉城村 船越集落 (ふなこし、フナクシ)

船越集落は13世紀初頭には糸数部落の北西方にあって、13世紀半ば、糸数按司長男が現在の船越に移住し、船越按司となった。(別の説では玉城王の三男が船越按司としている。) その後、各地より人々が移住し船越村が形成された。その後、島津藩士川崎氏が琉球入りし、船越部落の娘と結ばれ、子孫繁昌したのが川崎姓を名乗っている子孫だそうだ。薩摩藩が沖縄を統治するようになってから、舟越 (もともとは船越ではなく舟越と書かれていた) は富名腰と名を変えさせられている。これは沖縄全土で地名や苗字を薩摩は二文字、琉球は三文字、奄美は一文字で書き改め、琉球人を区別するための薩摩藩の政策だった。(例えば前田は真栄田に改称させられている) 明治維新後、廃藩置県により首里方面より旧士族の移住者が、富名腰に屋取 (ヤードイ) 集落を造り、大部落となった。大正9年 (1920年)、その屋取 (ヤードイ) 集落の中でも、愛地を富名腰二区として分離させ、富名腰は富名腰一区となり、第ニ次大戦終戦まで続いた。


沖縄戦終結後、昭和20年 (1945年) に、百名、仲村渠、知念村、志喜屋、山里あたりから富名腰に国頭方面の捕虜収容所からの帰還者の仮小屋建築が行われていた。同年末には船越区が設立され、何千人という帰還者の一時収容を受入れた。この年に210年間、富名腰と書かされていた集落名が元の船越にやっと戻れたという事だ。(舟よりは船の方が大きく将来性があると考え、舟ではなく船を使い船越としたそうだ) 昭和21年 (1946年) 初め頃には大里、東風平、佐敵等の帰還者を受け入れたため、一時は八千余人に達した。船越の元々の人口は700-800人なのでその10倍の人が一時期住んでいたことになる。ぞの後、各村、各都落への移動が許可されたので、次第に減少し、船越の元々の人口に戻った。下のグラフでは船越の人口は明治時代から1980年までは700人から800人でそれほど人口の変動がないように見えるのだが、明治時代の数字には愛地集落が含まれており、愛地集落を含んだ旧船越村はそれなりに人口はこの期間も増えていたと思われる。ただ1945年に愛地が独立行政地区になってからは1980年頃までは人口の伸びはない。1961年からの船越の人口データが見つかった。(右のグラフ) それによると、沖縄が1976年に本土に復帰した後、1980年代から急激に人口増加が起こっている。明治時代でも人口は2番目に多かったのだが、現在では旧玉城村の中では最も人口の多い字になっている。もともと船越であった愛地はそれに次いで人口が多く、旧船越村は断トツで人口が集中している地区。

下のグラフは先に訪れた旧大里村の集落との人口比較だが、大里村の稲嶺集落を除けばそれほどの違いは見受けられない。旧玉城集落の中では北に位置する集落の方が人口は大い傾向にある。那覇への交通の利便性が影響しているのだろうか?

民家の分布の変遷をみても、集落が拡大していることがよくわかる。

玉城村史 通史に記載された拝所 (太字は訪問した拝所)

  • 御嶽: 中森嶽 (神名: 国之根御イベ)、コバウノ嶽御イベ (クボーの御嶽)、友利門之嶽御イベ (所在不明)、神ノハタノ嶽御イベ大嶽之御イベ (御願山)小嶽之御イベフデララノ嶽御イベ (古寺)
  • 殿: 内間之殿、山川之殿、與那原之殿 (所在不明)、上間之殿、奥間之殿 (所在不明)、富名腰巫火神、富名腰里主所火神
  • 七井泉: 中地井泉 (ナカチガ-)船越大川 (フナクシウッカー)殿鎖り井泉 (トゥングサイガ-)ナンジャー井泉、ヌル井泉、上の井泉 (ヰーヌカー)、平良井泉 (テーラガ-)


船越集落で行われている年中祭祀は下記の通りで、集落としては2つの祭祀になっている。ミーメー綱引きは住民全体が参加する祭りの性格が強く、もう一つの村拝みは住民全員が参加するんではなく村の代表が多くの拝所を何日かで御願することになっている。昔は他の集落同様に毎月のように祭祀があったのだが、思い切ってこの二つに絞ったのは英断だろう。当時は多くの反対もあったと思う。昔からの御願はそれぞれ個別に行われているのだろう。祭祀が少ないのは他の地域から移住しやすい要素になっていると思われる。


まずは船越集落の公民館まで行き、自転車を停め、徒歩にて現在の集落内にある文化財を巡る。公民館の前にガイドマップが置かれていた。手持ちの資料にはない文化財もこのガイドマップには紹介されている。南城市は文化財の保護には他の行政機関に比べてよくやっているように思える。


船越集落訪問ログ


船越公民館

1983年に元の村屋があった公民館から、この場所に新しい公民館を建てた。現在の公民館の玄関わきには、よくある力石 (差石) が数個置かれていた。玄関前のベンチの屋根は何をデザインしたのかちょっと変わっている。公民館の前は広い広場でアシビナーになっており、綱引きはここで行われている。もともとのアシビナーは公民館の裏の村火の神 (ヒヌカン) 辺りだったそうだ。公民館の前の道 (多分、メーミチ 前道) を越えたところにも二つ広場があった。ここがかつての村の住民が集まり行事を行った場所だろう。


村火の神 (ヒヌカン)

船越公民館の裏手には村の火ヌ神がある。火ヌ神は、もとはウテーパンタ後方にあった村屋跡近くにあったが、現公民館後方の一角に移設されている。祠内には、火之神と刻まれた石碑と香炉が安置されている。船越集落では、昔からの祭祀は村としては続けておらず、6月25日前後のミーメー綱引と、戦後の混乱の時期が落ちついた1950年代後半にはじまった10月のムラ拝みの2回のみが村落祭紀が行われている。船越集落を含む玉城や南一帯は沖縄戦の激戦地となった。終戦直後には知念村と玉城村の一部が帰還住民の一時収容地区となり、他地域出身者も多く移り住んでいたが、次第に各地に帰村許可が出て、元の村落に戻っていった。村落祭紀が綱引きを村拝みだけだと、他の地域からの人たちにとっては、住みやすい所かもしれない。他の集落では毎月のように村祭紀が行われ、それは村の文化の継承ではあるのだが、昔からの門中住民と他の地域から移ってきた住民との溝にもなっている。人口が増えて多いのもそれが一要素かmしれない。


玉那覇 (タンナー) 神屋

公民館から少し北に行くと、玉那覇 (タンナー) 門中の神屋がある。この地域は奥間ク゚ダ (クダはマキョと同じく集落の意味) ト呼ばれていた。たまたま、ここのおじいが出て来たので声をかけると、いろいろと玉那覇 (タンナー) 門中の話をしてくれた。玉那覇 (タンナー) 門中は船越按司の三男腹の未裔で300年程続いている玉那覇 (タンナー) 門中の元屋 (ムートゥヤ―) で嶽根神を出す嶽元 (タキムトゥ) という。。船越集落の村立ての三元 (ミムトゥ) の一つ。三元 (ミムトゥ) とは国元 (クニムトゥ) の川増、祝女元 (ヌルムトゥ) の富才、嶽元 (タキムトゥ) の玉那覇だ。もともとは船越グスクがあった場所に住んでいたが、侍をやめたときに下の集落に移ってきたそうだ。神屋は決して立派ではないが、中まで入れてくれて見せてくれた。


穂取田毛 (ミフーダモー) の拝所

玉那覇 (タンナー) 神屋 の北西すぐの場所の畑地の中に穂取田毛 (ミフーダモー) の拝所がある。かつてはこの辺りはフートゥンジャ―モーと呼ばれ、水田だった場所で、ここは特別な稲を育てていた御穂田 (ミフーダ) または穂取田 (フートゥイダー) ともいわれる神田があった。穂取田 (ミフーダ) は御嶽や殿など拝所にそなえる稲で神酒もここの稲を使っていた。これは本土の神社でも同じ神田があったのと同じだ。ここはかつての集落の西の端で、ムラ四鎮 (ユチン) の酉の位 (西) の神が祀られているという。妖怪日 (ヨーカビ) の晩、妖経の動き回る物音を聞くことができたので、チチグスク (聞き城の意か) ともいわれた。沖縄では稲作農業には適していない石灰岩のマージ土壌はが多いのだが、この船越地区は肥沃で水持ちの良い弱アルカリ性のジャガール土壌でかつては水稲作が盛んだった。現在では稲作は行われていないが、野菜農業は盛んだ。

この船越集落の畑では他の集落の畑とは少し異なった作物を育てているのが目に付いた。それはサボテンとドラセナ。ドラセナは沖縄では観葉植物として栽培しているんだが、サボテンは何のために育てているのかは分からなかった。欧米ではサボテンの実はフルーツとして食べられているが、そのためなのだろうか? 後で知ったのだが、集落内にある船越大川 (ウッカー) の近くにサボテン園があり、若い観光客が珍しいと言って写真を撮りに来るそうだ。観光目的で栽培しているのではないそうだが、サボテンは手間暇がかからないので、そのままにしていたところ話題になったのかもしれない。


ムチマン井泉 (ガ-)

先ほどの玉那覇 (タンナー) 神屋から少し東に行くと集落の西側に広がる西村渠中央部にムチマン井泉 (ガ-) の拝所がある。かつて井泉があった場所の近くの民家のブロック塀の隙間に形式保存された井戸跡で、知らなければ見落としてしまうだろう。集落の七井泉に次く古い井泉といわれている。


イジンヌカー

ムチマン井泉 (ガ-) のすぐ近くにもう一つ井戸跡がある。「南城市の御嶽」には掲載されておらず、詳しいことは書かれていないが、別の資料に名前が載っていた。かつては生活用水として使われていた。現在は農業用水として使われている。


小嶽 (クータキ)

集落の北の端に当たる場所にある大岩の上に御嶽がある。琉球国由来記の小嶽之御イべに相当する御嶽と考えられている。御願小御嶽 (ウグヮングヮーウタキ) とも呼ばれている。 ムラ四鎮 (ユチン) の子の方位 (北の方位) の神が祀られ、北に向かって参拝するように設置されている。小嶽之御イべは富名腰ノ口により司祭されていた。


相図井泉 (ソージガ-)

小嶽 (クータキ) の北側は一面畑が」広がっており、その畑の中に相図井泉 (ソージガ-) がある。小嶽ヌ鎖り井泉 (クータキヌグサイガ-) とも呼ばれているので、先ほど訪れた小嶽 (クータキ) と一体の拝所なのだろう。グサイと呼ばれる拝所はよく見るのだが、「鎖り (グサイ)」と書くとは知らなかった。鎖でセットとなっているという意味なのだろう。


川増 (カーマシ) の神屋

公民館に戻り今度は南側の文化財を巡る。公民館から南に1ブロック行くと、川増 (カーマシ) 門中の神屋がある。川増 (カーマシ) は、3つの国元 (クニムトゥ) の一つで、船越集落の根屋 (ニーヤ) という。神屋には、多くの香炉が置かれている祭壇がある。向かって右側は7つの香炉が祀られている神御棚 (カミウタナ) と称する祭壇で、左側には位牌ー基と香炉三つが安置されている按司仏壇がある。祭壇左側の床面には火ヌ神の香炉が祀られている。屋号 川増 (カーマシ) も、船越按司の子孫であると云われており、船越集落の国元 (クニムトゥ) で、国根神 (クニニーガン) を出していた。ミーメー綱引ではこの川増 (カーマシ) の神屋が最初に拝まれ、重要な拝所として位置付けられている。かつて船越二区であった隣接の愛地集落の祭祀においても部落の拝所から川増の神屋への遙拝が行われている。


名称不明の拝所 (ジョーヌカー?)

公民館と川増 (カーマシ) の神屋との間に岩場がありその上に拝所があった。資料では出ていないが、村の中心部にこのような岩場が残っているのは、重要な拝所なのだろう。「玉城村船越誌」には村火の神 (ヒヌカン) と川増 (カーマシ) の間にジョーヌカー (門之井泉?) と呼ばれる拝所があるとなっていた。場所はちょうどこの辺りなので、この拝所がジョーヌカーなのだろうか?

公民館近くにも立派な石垣の民家がある。


名称不明の拝所 (内間之殿 ?)

立派な石垣の塀に沿って進むと、もう一つ拝所がある。アパートの敷地の一画に祠が置かれている。もともとこの敷地にあった民家にあった拝所を残しているのだろう。ちょうどこの辺りに内間之殿があったと船越誌には書かれていたので、これがそうだろうか? 内間之殿はかつてこの付近にあった内間クダ (マキョ) の小規模血縁集落の祭場だった。


給水タンク跡

公民館の近くにコンクリート製の建造物が半壊して残っている。その裏は拝所になっていた。近所の女性に声をかけこの拝所について聞いてみると、給水タンクの跡だそうだ。船越集落に簡易水道が引かれたのは終戦の翌年の昭和21年と他の集落に比べて早い時期だ。糸数樋川を水源として古島の富才 (フーセ) 屋敷近くに給水タンクを設置し、集落内に蛇口を設置していたが、給水パイプが細くあまり水の出は良くなかったそうだ。そこで昭和31年に集落の随所にも給水タンクを設置しそこに蛇口を取り付けていた。住民はこの新しい給水タンクに水を汲みに来ていた。ここで残っているタンクはその時代のものだろう。それ以降、昭和42年には各家庭に水道管が敷設され、水くみの必要が無くなった。この給水タンクを今でも残しているのは、当時の苦しいながらも少しずつ復興が進んでいった記憶を残す意味合いもあるのだろう。


平良井泉 (テーラガ-) [未訪問]

現在の集落の北側に七井泉の1つの平良井泉 (テーラガ-) があると書かれていたので、探すも結局見つからなかった。この辺りにあるように思えるのだが....


上門 (イェージョー) 屋敷跡

川増 (カーマシ) の神屋の南にかなり立派な高い石垣の塀で囲まれた屋敷跡がある。ここは上門 (イェージョー) 屋敷跡で、船越部落の娘と結ばれた島津藩士川崎利兵衛を始祖としている。その子孫 (戦前は糸数姓、戦後、川崎姓に戻している) は沖縄で現在約120所帯、500人以上も居るという。川崎利兵衛はもと泉州堺の人で、茶器を求めて長崎から鹿児島を経て琉球に渡り、琉球王府に仕えた。尚寧王の時代1598年に、糸数地頭職に任じられて糸数親雲上宗延を名乗る。その後も那覇士族最高の御物城 (オモノグスク) 職 (当時那覇港にあった交易で王国に持ち込まれる貨物を貯蔵した場所) に就任したが、薩摩方より咎めを受けた三司官の身代わりとなって久米島に流される。このあと薩摩藩主島津家久の恩教により戻り、尚質王の時代1675年に73歳で生涯を終えた。上門の初代は宗延の三男宗益の孫で、富名腰に居住し、船越最大の門中として栄えている。上門の初代がこの富名腰に住み始めたことの伝承が残っている。「川増の主人が馬の鞍に芋をのせて那覇の市場に向う道なで、利発な男の子を見付け、養子にしようと母親を説得し、家に連れ帰って育てたのが、のちに独立して家を興した。この子供が川崎利兵衛の血を引く上門の初代当主となった。」そしてその何代目かが財産を築いて、「富名腰上門」、「富名腰イエーキー」と呼ばれるようになり、また奉公人階級として本家、分家に多くの地頭代を出し、島尻有数の仕明地持ちの大地主となった。この屋敷を囲む石垣は多くの石工と人夫を動員し一年以上かけ造られたと伝わっている。西側と後方には石畳道が残っている。さすが大地主の屋敷跡だ。


中地井泉 (ナカチガ-)

上門 (イェージョー) 屋敷跡の裏手の道沿いに中地井泉 (ナカチガ-) がある。七井泉の一つで、陸竜宮 (アギリリュウグウ) の神の鎖り井泉 (グサイガ-) とも呼ばれている。この井泉後方約100mに琉球国由来記の内間之殿 (ウチマヌトゥン) があったといわれている。内間之殿 (ウチマヌトゥン) では、富名腰ノロにより「稲二祭」が司祭された。内間之殿 (ウチマヌトゥン) は資料では場所や説明、写真などは載っていないのだが、場所は先ほど通ったアパートの側にある祠付近に当たる。ひょっとしてそれが内間之殿 (ウチマヌトゥン) なのだろうか?


ワンヌカー (未訪問)

上門 (イェージョー) 屋敷跡のとなりにはワンヌカーがあるのだが、「南城市の御嶽」では紹介されておらず、見落としてしまった。かつては飲料水や産井 (ウブガー) として使われていた。



東井泉 (アガリガ-)

中地井泉 (ナカチガ-)とワンヌカーから船越大川 (フナクシウッカー) への道の途中に井泉跡があった。「南城市の御嶽」では紹介されていないのだが、後で「王城村グスクとカー (湧水・泉)」に東井泉 (アガリガ-)」として載っていた。この井泉もかつては飲料水や産井 (ウブガー) として使われていた。


船越大川 (フナクシウッカー)

集落の南端部には船越大川 (フナクシウッカー) がある。この集落では一番大きな井戸で、観光客が訪れる場所。この井泉は七井泉の1つで、200~ 300年前に造られたという。この船越大川 (フナクシウッカー) の前に広がっている畑一帯は、かつて、広大な水田地帯である船越田袋 (ターブックヮ) で、その水源地となっていた。この井泉はどんな大干ばつでも涸れなかったので、別称、恩井泉 (ウンガ-)、ヰチ井泉とも呼ばれている。現在も湧水量は豊富だ。水場は上下二つに分かれており、上は「上大川 (イーウッカー)」で女性用の水浴び場に、下の池の部分は「下大川 (シチャウッカー)」で男性や子供の水浴び場や牛馬の浴びせ場などとして利用されていた。上大川 (イーウッカー) には二つの樋が設けられており、向かって右側の丸みのある出水口の樋が男樋、左側の四角い方が女樋という。船越大川の上には祠が建っている。更に奥へ歩くと、石獅子があるそうだが、見落としてしまった。

案内板にあったイラストの拡大版があった。当時はこんな感じだったのだ。


御願山 (ウガンヤマ) 御嶽 (大嶽)

船越大川 (フナクシウッカー) の前に広がる畑の中に御嶽跡がある。御願山 (ウガンヤマ) 御嶽で、 琉球国由来記の大嶽之御イべに相当すると考えられているので、大嶽 (ウフタキ) とも呼ばれている。祠が背中あって二つある。奥の祠が大嶽 (ウフタキ) で、手間の祠は御名付け所 (ウナチチドゥクル) で神人 (カミンチュ、神役) の任命式が行われていた。かつてはウマチー前の三日崇べが行われていた。大嶽之御イべは富名腰ノロにより司祭された。


ウガンジャマー

御願山 (ウガンヤマ) 後方の畑の中に拝所がある。ウガンジャマーと呼ばれる拝所で、元は上川田原の水田の中央の小さな丘にあった。ウガンジャマーはウガンガマが転訛したものという。雨乞いの御願を行った拝所だそうだ。


上門 (イェージョー) 門中神屋

ウガンジャマーの前の道を南西方面に進むと、畑の中に少し大きめの祠がある。上門 (イェージョー) 門中と書かれている。先ほど訪れた立派な屋敷跡があった上門 (イェージョー) 門中の神屋だろう。この辺りは一面畑が広がっている。戦後、8000人もの帰村待機者の一時収容所となり、この畑の中にも簡易の小屋が立ち並んでいたそうだ。


古寺 (フルディラ、フデララノ嶽)

更に道を進むと、山にぶつかる。あの山の中に御嶽があると書かれていた。山の中に入る道らしきものがあったが、草が伸び放題で腰のあたりまで生えている。草をかき分けて中に入ると岸壁の前が広場になっており、そこに拝所があった。もともとは集落東部にある竹山と呼ばれる山の中腹にあったそうだ。琉球国由来記のフデララノ嶽御イべに相当すると考えられている。船越集落の神人によると、この拝所は「男神」で、ここより約50m上にある「女神」である穴と一対になっているという。集落の午方 (南方) の神だそうだ。富名腰ノロにより司祭された。


これで現在の船越集落内の文化財を巡り終え、自転車を停めている公民館まで戻ってきた。次は、集落の背後にある丘陵中腹より上にある拝所を巡る。現在の場所に集落が移ってくる前に住んでいた場所に当たる。元集落からそこへの道は数本あるがいずれもかなりの急坂で、自転車は降りて押し歩きでないと登れない、自動車でも少し勇気がいりそうな程の急な坂だ。集落の外郭をぐるっと回る道があり、その道はそれほど急ではないので、そちらから自転車で向かう。



山川之殿 (ヤマガーヌトゥン)

集落から船越グスクに向かう道の途中、東方の山の中腹に幾つかの拝所が集中している場所がある。道からボンド―形式の祠が見える。山川之殿 (ヤマガーヌトゥン) で屋嘉部 (ヤカブ) 門中と関わりがあるという。琉球国由来記の山川之殿に相当する。山川之殿では、富名腰ノ口により「稲二祭」が司祭されていた。ここ場所付近から船越グスク付近までがかつての古島で、今いる道が古島の前道にあたる。古島での生活はグスク時代から琉球王朝末期まで続い、1800年代初めの頃に農耕器具の発達で、耕作に適していた現在の集落の地に下ってきたといわれている。


殿鎖り井泉 (トゥングサイガ-)

拝所群への入り口に、殿鎖り井泉 (トゥングサイガ-) がある。鎖り井泉 (グサイガ-) で山川之殿 (ヤマガーヌトゥン) と対になっている井泉だろう。根井泉とも呼ばれ、七井泉の1つ。


神のハタの嶽御イべ

山川之殿 (ヤマガーヌトゥン) から山の中に入る道がある。そこを進むとすぐの所に神のハタの嶽御イべという御嶽がある。首里城への遙拝所といわれ、園比屋武御嶽 (スミフヤンウタキ) や金満御嶽 (カナファンウタキ) とも呼ばれている。琉球国由来記の神ノハタノ嶽御イべに相当すると考えられており、富名腰ノロにより司祭された。


富名腰里主所火神 [未訪問]

神のハタの嶽御イべから、更に道を登っていくと、富名腰里主所火神があると入り口にあった案内板に書かれていたが、資料では写真も載っておらず、どのような拝所なのかがわからない。現在、村落祭紀の対象になっていないので、整備などはされていないのだろう。火の神 (ヒヌカン) なので、自然石を積んだようなものだろうと、それらしきものを探す。琉球国由来記の富名腰里主所火神に相当するとみられ、富名腰殿内ともよばれている。かつては富名ノロにより稲二祭が司祭されていた。


クボーの御嶽 (コバウノ嶽御イベ)

山道を登り切った所に、クボーの御嶽がある。神が依りつくクバの木が生い茂る神域という意味の御嶽だ。かつて、この一帯にはクパが繁茂し、「三日月」「太陽」を彫った素焼きの祠が残っていたが台風で破損したため、2003年に新しい祠が造られたという。このクボーの御嶽から、船越グスク方面へ細い山道があった。この道を進むとやはり船越グスクに出た。船越グスクについては後述する。


幸地山御嶽 (中森御嶽) [未訪問]

山川之殿 (ヤマガーヌトゥン) まで戻り、もと来た道から船越グスクと反対方向、丘陵の上に行く道がある。この道を進むと別の拝所が幾つかあるそうだ。この道は大城集落に通じる道で、この道の途中に幸地山御嶽があるはずなのだが、それらしきものは道沿いには見当たらない。思い切って幸地山の中に強引に入り探すがやはり見つからない。この幸地山御嶽は、琉球国由来記の中森御嶽 (神名: 国之根イベ) に相当すると考えられている。


中の殿 (ナカヌトゥン)

幸地山御嶽を幸地山の中を探し回っていると、山道に出た。山道があるということは、その先に何かがあるはずだ。とにかく進んでいくと、祠が見えてきた。拝所への山道だった。中の殿 (ナカヌトゥン) で、元々はここから西にあるウテーバンタと呼ばれる場所にあったのを移設している。この場所は旧集落の村屋 (ムラヤー) があった場所だそうだ。船越グスクに船越按司がいた時代はこの辺りが古島だったのだ。この場所の東側にはゴルフ場があり、通常はそちらのほうからこの拝所に来ると書かれているのだが、その道は雑草は胸まで生い茂り、今は使われていないようだ。中の殿 (ナカヌトゥン) はムラ四鎮 (東西南北の神) の中軸となっているという。11月4日の村拝みで御願されている。



ヌル井泉 [未訪問]

幸地山御嶽探しはあきらめて、もとの道に戻り、道を登る。この道の西の斜面にノロが禊をした井泉というヌル井泉があるというのだが、そこに行くような道の入り口は見当たらない。斜面の下からも道を探したが見つからなった。この井泉も七井泉の一つだそうで、ウサチヌル井泉、涙井泉 (ナダガー) とも呼ばれている。糸数グスクの戦いで根人が戦死した際に、妹のノロが悲しんで泣いた場所と伝わっている。


上の井泉 (ヰーヌカー)

大城集落に通じる道を更に登ると上の井泉 (ヰーヌカー) があった。七井泉のーつで、かつては13-15歳の男子を対象として、現在の成人式に相当する片頭結い (カタカシラユイ、琉球国時代の男性の髪型) という儀礼があった。片頭結いにはこの上ヌ井泉で神を洗ってから臨んだそうだ。この場所も古島の一部だったのだろう。


川増 (カーマシ) 門中の元墓

上の井泉 (ヰーヌカー) の脇から、ヤマノ奥への山道があったので、中に入っていった。山道は幾つかの分岐点があり、それぞれが、古墓に通じていた。その一つの奥にはウムリ墓と呼ばれる川増 (カーマシ) 門中の元墓があった。元墓と書かれているので、現在使っている当世墓 (トゥーシーバカ) がどこかにあるのだろう。


上門 (イージョー) 門中女神の墓

上門門中の墓もあった。

そのほかにもいくつもの古墓があった。その一部は下の写真。山道はゴルフ場に通じているようだが、雑木が生い茂っているので、更に進むことは断念し、上の井泉 (ヰーヌカー) まで戻り、道を下り、山川之殿 (ヤマガーヌトゥン) に戻る。


ノロ殿内 (ドゥンチ)

山川之殿 (ヤマガーヌトゥン) から、船越グスクへの道を進むと、ノロ殿内 (ドゥンチ) がある。ここには、代々ノロを出していた屋号 富才 (フセー) の屋敷があった場所だ。屋敷跡には豚便所 (ウヮーフール) 跡が残っている。後に、ノロはヌンドウンチ門中から出るようになったのだが、現在、ノロは不在。

屋敷跡には神屋が建てられていた。神屋内には多くの古い香炉が集められていた。


富名腰巫火神 (フナクシヌルヒヌカン)

ノロ殿内敷地内、神屋の奥に拝所がある。富名腰巫火神 (フナクシヌルヒヌカン) ある火ヌ神。石積みの祠が2つあるが、後方が火ヌ神といわれる。琉球国由来記の富名腰巫火神に相当するとみられ、富名腰ノロにより三・八月、四度御物参、稲二祭三日崇が司祭されていた。右側の祠は、先ヌ世への遙拝所といわれる。


富才 (フセ―) 神屋

ノロ殿内屋敷跡の隣にある神屋があるが、これは、船越按司の二男腹の末裔といわれる屋号 富才 (フセ―) の神屋。


ナンジャー井泉

道を進むと、船越グスクの入り口付近の急傾料の坂道沿いにナンジャー井泉があり、別称、城鎖り井泉 (グスクグサイガ-)、祝女鎖り井泉 (ノログサイガ-)。ここも七井泉の一つ。


池当井泉 (イージント-ガ-)

船越グスクの東側はゴルフ場になっており、その敷地内には拝所があると書かれていた。グーグル地図を見るとまさにコース内にある。まずはゴルフ場の事務所に行って許可を取らねば、中に入れないだろう。最悪は見ることができないとも思っていたが、事務所が見当たらない。船越グスクの奥に道があるので、行ってみる。道の途中に、池当井泉 (イージント-ガ-) があった。世立て井泉 (ユーダティガー) とも呼ばれ、古島時代には生活水として使用された。


上間之殿 (イーマヌトゥン)

更に道を進むと、上間之殿 (イーマヌトゥン) があった。村四鎖の兎 (東) の方位の神という。 琉球国由来記の上間之殿に相当し、上間之殿では富名腰ノロにより、稲二祭が司祭されていた。


立ちロ世鎖りの火の神 (タチグチユグサイヌヒヌカン)

ゴルフ場のコースにあると書かれていた立ちロ世鎖りの火の神 (タチグチユグサイヌヒヌカン) を探すと、簡単に見つかった。昔ヌ火ヌ神 (ンカンヌヒヌカン)、御先ヌ火ヌ神 (ウサチヌヒヌカン) とも呼ばれ、船越ムラを世立てした先祖の火ヌ神といわれている。この付近に、船越の最初の集落 (古島) があったと言われている。

結局、ゴルフ場などはなかった。どうも閉鎖されてしまったようだ。コースのど真ん中にあった立ちロ世鎖りの火の神から見たゴルフ場は草が生え放題で、ここがゴルフ場であったとは想像つかない。照明塔が幾つか残っているだけだった。



船越グスク

船越グスクは三山時代にこの地を治めていた船越按司の居城とされている。船越按司については詳しいことはわかってないのだが、伝承は幾つかある。資料からは3つの説があった。

  1. 天孫氏系の百名大主の六男がこの地に来て船越按司となった。
  2. 英祖王統四代玉城王の四男 (三男説もある) が富名越に居住して船越按司となった。
  3. 糸数按司の長男が富名越に居住して船越按司となった。

とある。

上の1は2と3よりすこし時代がさかのぼる。この3つとも可能性があるかもしれない。この地方は頻繁に按司が入れ替わっているので、三山時代以前に百名大主の六男がこの地に来て治めていたが、後に玉城王が勢力拡大の為に強制的に自分の四男を船越按司とした可能性は高い。先に訪れた大城グスクも、同時期に前大城按司 (東大城按司) を西大城按司に国替えをして自分の長男 (次男説もある) を大城按司としたとある。更に三男を糸数按司にしている。当時この地で最も勢力を持っていたのが玉城王であるのでこれはかなり可能性が高い。3の糸数按司の長男とは玉城王三男の糸数按司の長男の事ではないかとも考えられ、何らかの形で玉城王四男の船越按司に後継ぎがなく兄の糸数按司の長男を後継ぎにしたとも考えられる。旧大里村西原集落の訪問レポートで汪英紫が島添大里グスクを落とした戦いの相関図に上の2と3の説の船越按司を追加するとこうなる。


船越 (富名腰) グスクは船越集落の背後の標高約100mの石灰石小丘段に立地する。グスクのすぐ東は谷間になっており、その谷間の東を上って行くと糸数集落に至り、更に東の崖を登ると船越グスクより規模が大きい糸数グスクとなる。この糸数グスクの近辺には船越グスク以外にも上間 (ウィーマ) グスクとチンシグスクがある。糸数グスクを本城とし東方同盟勢力圏の西の守りの要で、雄樋川を境として西は南山勢力圏に面していた。この雄樋川の西にある南山の新グスク、南の具志頭グスクへの防御としての船越グスク、北の防御として上間グスクとチンシグスクを配置しているように思える。


グスクは、石灰岩地形を巧みに利用して築かれている。石灰岩丘葮先端部の頂部を均して主郭を置き、その西と南には石積を巡らせて域壁としている。北側と東には、石灰岩の割れ目を掘り切として、二つの腰郭が配置され、主郭の防御を強化している。三山時代、船越グスク周辺にには船越の旧集落が広がっていたといわれ、古い屋敵跡や井戸などが残っている。

船越按司は糸数グスクが首里真和志の上間按司 (船越グスク近くにある上間グスクとは別もの)  に攻められた際に、糸数按司の救援の為、糸数浄に向かう途中、上間按司軍との戦いとなり上間の殿付近で戦死したとされている。この戦いの原因や時期については諸説ある。小説尚巴志伝では1403年とし、他の資料では尚巴志が中山王武寧を倒し首里城に移った1406年以降、別の資料では1429年としている。以前は南山国 汪英紫への対抗で同盟していた東方同盟軍は、佐敷按司の尚巴志の台頭で、不協和音が起こり分裂、尚巴志との戦いとなった。これについては糸数グスクを訪問した際に記載することにする。

船越集落から坂道を登り、船越グスクの入り口に到着。

案内板が立つ入り口を入ると、グスクの丘の周りに古墓がいくつもあった。

城への上り階段は曲がりくねっている。登ったもんがあった場所はかなり狭くなっている。これも防衛の為だろう。階段を上り門を入ると、主郭だった広場に出る。主郭はそれほど広くなく、この場所に多くの兵士を置くことは不可能だ。


城火の神 (グスクヒヌカン)、城嶽之御イべ

主郭があった広場には、城火の神 (グスクヒヌカン 写真左下) と城嶽之御イべ (写真右下) の香炉が置かれている。

主郭は岩の深い亀裂で囲まれており、解説ではこの亀裂が堀切の役割をしていたと書かれていたが、それほど幅は広くなく、飛び越せるぐらいなので、実践があったとしたら本当に防御の役割を果たしたとは思えない。この亀裂の外側を腰郭としているが、主郭の周りを囲んでいるだけなので、腰郭というよりは防御の兵士を八擦る場所と考えたほうが良い。ただ、城の規模は小さいので、この船越グスクは按司と重臣が会議をする本陣の様な場所で、兵士は船越グスクの北側にあった旧集落 (古島) にいたと思われる。 

腰郭は二つあり、北側にももう一つある。岩場の亀裂には石橋 (写真上) がかけられている。数か所に石垣が見られた。この腰郭からは先程訪れた拝所群への山道が通じている。




旧玉城村 愛地集落 (あいち、エーチ)

愛地集落は、1775年 (安永4年) に新垣家が首里より移住してきた時から始まる。1871年 (明治4年) の廃置県後、更に多くの士族が首里あたりから移って来て屋取 (ヤードイ) 集落が拡大した。この集落は隣の玉城間切の富名腰村に属し、富名腰屋取と呼ばれていた。明治36年に間切が廃止されたときに、富名腰村が字富名腰になった。大正9年 (1920年) に、農耕の便を考え、散在している関係で、行政上分離の必要を感じ、 愛地は字富名腰より富名腰ニ区として分離し、一つの行政部落となった。昭和20年 (1945年) 、沖縄戦ではこの集落住民の241名が犠牲になっている。当時の愛地の人口がどれほどだったかは見つからないのだが500-600人ぐらいではなかったかと思うので、かなり高い比率での犠牲者だっただろう。戦後、部落民は各所に避難し、終戦とともに各収容所に収容され、同年十月、先遣として船越区ができ、愛地区民はその一部となり、まだ、元の愛地には戻れずにはいたが、避難民や家族の受け入れに従事した。その翌年昭和21年 (1946年) 八月にようやく、元の宅地に戻ることができ、富名腰ニ区を愛地と改称して、行政区として再開した。屋取集落の特徴がのこっており、民家は畑の中に散らばっている。

屋取集落のポジティブな特徴があらわれている。現在の人口は旧玉城村では、隣の村の船越に次いで多い地区となっている。屋取集落は比較的平地に造られて、農地がほとんどを占めていた。古琉球から続く集落とは異なり先祖から受け継いだ土地という概念は薄く、土地改良や、住宅地建設には土地買収も比較的スムーズにいく。隣の船越の発展と共にこの愛地も住宅地として拡大していったものと思われる。他の集落の例では旧東風平村の屋取集落であった屋宣原集落 (やぎばる) が同じような道をたどっている。

民家の分布がわかる地図でも愛地、船越の住宅地の拡大が見て取れる。


愛地集落で行われている年中祭祀は下記のように、一回のみとなっている。これは集落としての結びつきがそれほど強くない屋取集落の特徴だ。


愛地集落訪問ログ


愛地農村センター (公民館、村屋)

寅野原に愛地構造改善センター (公民館) がある。昭和28年に当時の字事務所をコンクリートに改築し、昭和32年に公民館となった。


部落拝所

愛地構造改善センター (公民館) の敷地内にある拝所で、隣の船越集落にある川増の神屋への遙拝所。字愛地は、屋取集落でかつては船越二区と呼ばれていたが、1920年に字船越から分離した。愛地構造改善センター (公民館) 建築の時 (1989年着工) に出てきた石が、御神体として祠の中に安置されている。


愛地農村公園 (サーターヤー?) 

愛地構造改善センター (公民館) の近く、畑の中に農村公園がある。多分、かつての製糖場 (サーターヤー) 跡と思う。公園の向こう側には糸数グスクのある丘陵が臨める。


村井泉 (ムラガー)

公民館の北側にある県道48号線沿いに村井泉 (ムラガー) がある。 1月1日(新)元旦の日に拝まれる。飲み水等の生活用水として使用されていた。現在はこの橋にある修理工場が使用しているそうだ。昭和51年に現在の形に改修された。


産井泉 (ウブガー)

村井泉 (ムラガー) のすぐ北に産井泉 (ウブガー) があり、飲み水等の生活用水として使用されていた。この井戸は1770年頃に、この集落の代表的な帰農士族であった内間家 (大城) が大里問切目取真村より相地原へ移住してきた際に掘った井戸だそうだ。初ウビー、初御願等の拝所となっている。昭和51年に現在の形に改修され、現在は農業用水として使用されている。


タマタ井泉

集落西部に若久原にはタマタ井泉がある。一月1日(新)元旦の日に拝まれる。かつては、飲み水等の生活用水として使用されていたが、現在は農業用水として使用され、初ウビー、初御願等の拝所となっている。昭和51年に現在の形に改修された。


名称不明の井戸跡

タマタ井泉と公民館の中間ぐらいの場所に別の井戸があった。資料には出ていないのだが、井戸の側には石が置かれて拝所となっているように思われる。


今日集落を巡っている時に、色々な種類の蝶が飛んでいた。これだけでなくもっと多くの種類の蝶を見かけたが、蝶の写真を撮るのは難しく、近づいて取れたのはこの三種。

船越集落の文化財は斜面のきつい丘陵地にあるので、ほとんどの文化財は徒歩にて回った。そのため、かなりの時間がかかり、見終わったのは夕方6時を過ぎていた。ここから自宅までは自転車で1時間ほどだが、7時過ぎまでは明るくなってきているので、日没までには帰宅できそうだ。


参考文献

  • 南城市史 総合版 (通史) (2010 南城市教育委員会)
  • 南城市の御嶽 (2018 南城市教育委員会)
  • 南城市のグスク (2017 南城市教育委員会)
  • 大里村史通史編・資料編 (1982 大里村役場)
  • 南城市の沖縄戦 資料編 (2020 南城市教育委員会)
  • ぐすく沖縄本島及び周辺離島 グスク分布調査報告 (1983 沖縄県立埋蔵文化財センター)
  • 尚巴志伝 (酔雲)
  • 琉球王国の真実 : 琉球三山戦国時代の謎を解く (2016 伊敷賢)
  • 王城村グスクとカー (湧水・泉)  (1997 玉城村投場企画財政室)
  • 愛地区の歴史
  • 玉城村船越誌

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