Okinawa 沖縄 #2 Day 70 (16/01/21) 旧高嶺村 (3) Oozato Hamlet 大里集落
旧高嶺村 大里集落 (おおざと、ウフザトゥ)
- 南山城跡
- [南山神社]
- [山川方按司御墓/西銘方按司御墓]
- [ミティンジク、御名付川 (ウナチキガ-)、ウナザラヌ御川 (ウカー)]
- [南山クバ王御岳、御名付川 (ウナチキガ-)]
- [仁天屋しろの大神]
- ビルン (ウミチムン)
- 仲間屋敷跡、仲間ガ-
- ウフクニ主ヌ御川
- トンドン御川
- 越来龕 (ウィークガン)
- 和解森 (ワタキナー)
- 西銘御川 (ニシミウカー)
- 北和解森 (ニシワタキナー)
- ティランボージ
- 大里古島
- 山川野呂殿内屋敷跡
- 和魂之塔
- ウィージョーガングヮー
- ティラドゥン
- 上ン門屋敷跡のウナザラヌ御川
- 古島ヌ御川
- ビジュンガー
- 大城森グスク (ウフグスクムイ、ニ又グスク タマターグスク)
- オカー山 (母山)
- [ソオジ拝所御川]
- [カラハフノ御川 (ウカー)]
- [御先南山ヌ御嶽]
- オトー山 (父山)
- [クバオー御川]
- [神元御川]
- [按司御墓]
- [山川御持 (ヤマガーウムチ)・神元御持 (カミムトゥウムチ)・ソオジ御持 (ウムチ)]
- [ミサマイリク (写真上)、ソオジ御持 (ウムチ 写真下)]
- [寛寿郎の墓 (ソオジ御墓)]
- 不抜の塔
- 大里集落
- 旧村屋跡、中道 (ナカミチ)
- 高嶺間切番所跡 (2月7日 訪問)
- 上ン門神屋、神道
- 公民館、拝所
- 前道 (メーミチ)
- 越来神屋
- 神元神屋
- 西銘ヌル神屋
- ソウジ (栄徳) 神屋
- 山川野呂殿内の神屋
- 元山城腹の神屋
- 嘉手志川 (カデシガ-)、神ガー
- ユビガ-
- うびー川
- 龕屋
- 石獅子
- 武順 (ブズン) 御嶽
- トーンメーの御墓
- 沖縄兵站慰霊の塔
- アクガー
旧高嶺村 大里集落 (おおざと、ウフザトゥ)
大里は与座岳から連なる石灰岩丘の内の麓に広がる字で、北は字座波に、東は字与座に接し、南は字新垣から字国吉にかけて、西は字照屋に接している。琉球王朝時代にはここには島尻大里間切の番所が置かれており、この間切の中心であった。後に島尻大里間切は高嶺間切と改名している。主な産業は農業で基幹作物はサトウキビだったが、本土復帰後はキュウリ、トマト、インゲン、オクラ等の本土出荷用の野菜も多く生産されていた。近年では電照技術を利用した菊の栽培も盛んになり、現在は花卉の出荷額がサトウキビを上回っている。
人口は2000年までは順調に増えていた。字内に桃原ニュータウン、大里市営住宅、県営高嶺団地が造られ、他地域からの転入があったことによる。しかし、その後は少しづつ人口は減少し、その傾向は今でも続いている。
琉球王朝時代は高嶺間切の中心地ではあったが人口はそれほど多くはなかった。現在では真栄里に次いで二番目に人口が多い。
糸満市史 資料編13 村落資料 旧高嶺村編に記載されている文化財 かなりの数の文化財がある。一日で廻れるだろうか.... (何とか廻りきれた)
大里集落文化財訪問ログ
南山城跡
南山城は12世紀ごろに築かれ、14世紀から15世紀にかけの琉球三山時代に島尻一帯に勢力を広げていた南山王の居城で、山南王であった承察度、汪応祖、他魯毎などがここから指揮を執っていた。糸満の港から、明に使節を派遣して朝貢交易を行い栄えていた。島尻大里城、高嶺城、高嶺大里城とも呼ばれている。1429年に尚巴志により攻められ、落城し、南山国は滅亡し、琉球が統一され、第一尚氏王朝が始まった。
もう少し詳しい系図を見ると、この大里は舜天王統系と英祖王統系で派遣争いがあったように思える。歴史では英祖王統系が勝利し、後の南山国王を輩出することになる。
戦後、城跡は糸満市立高嶺小学校の敷地となり、按司の墓(城跡西北隅)、石積みの一部、古い香炉が残るのみで、当時の遺構は消滅してしまった。
[南山神社]
城跡には1915年 (大正4年) に城跡内に散在していた御嶽、墓所を東側に一角に集めて納骨堂と鳥居が造られ、昭和2年に南山神社を創建している。合祀される前の拝所の配置図が残っているが、それによれば、33基の墓があり、そのうちの23基が山川ヌル方、10基が西銘ヌル方の墓となっている。
南山神社は沖縄戦で焼失後、1955年 (昭和30年) に再建された南山神社には、南山火ヌ神、山川御持火ヌ神、神元御持火ヌ神が祀られている。本殿内の鏡も二つあり、右が山川方、左が西銘方になっている。この南山神社がある場所が正殿があったと推定されている。
[山川方按司御墓/西銘方按司御墓]
城跡にはいくつもの拝所がある。資料で名前がわかるものは、南山神社後方には横長の拝所がある。これは1915年 (大正4年) この城跡に小学校を立てる際に、城内に埋められていた遺骨を集めたもので、向かって左には西銘 (ニシミ) 方按司御墓と右には山川 (ヤマガ-) 方按司御墓となっている。大里村は屋古 (ヤコ) 村と大村渠 (ウフンダカリ) 村が統合されてできた集落で、この屋古 (ヤコ) 村系が山川 (ヤマガ-) 方で、大村渠 (ウフンダカリ) 系統が西銘 (ニシミ) 方で、現在もその習慣が続いている。
[ミティンジク、御名付川 (ウナチキガ-)、ウナザラヌ御川 (ウカー)]
西銘方按司御墓/山川方按司御墓の東側高台に拝所がある。ミティンジクと呼ばれ、琉球国由来記の大嶽御嶽と考えられている。
ミティンジクへ登る階段の右手には山川ヌル方の御名付川と王妃を意味するウナザラヌ御川が並んでいる。南山城跡の旧図面には上ン門の「コープー川」と「山川ノロ殿内ノノロ御川」となっており、これが名を変えて残っていると思われる。二つ合わせて夫婦御川 (ミートゥウカー) とも呼ばれている。御名付川 (ウナチキガ-) は神人 (カミンチュ) が生まれた時に名前を付ける場所とされている。ウマチー等の儀式でミティンジクを拝むときには、まずこの御川を拝む習慣が残っている。
[南山クバ王御岳、御名付川 (ウナチキガ-)]
南山クバ王御岳の高台への階段の右側には西銘ヌル方の御名付川 (ウナチキガ-) がある。山川方の御名付川と同様に、新たに生まれた神人 (カミンチュ) に名前を付ける場所で、南山城跡の旧図面で「クルマ川」とされているところが、この場所と考えられている。
南山城址の碑が建っている高台の奥に南山クバ王御岳がある。香炉が二つ置かれている。一つは元々この城跡にあった御嶽の香炉で「南山御王岳」と書かれ、もう一つは「クバ王ウタキ」と刻まれており、これはタマターグスクの麓にあった遙拝所の香炉を移設したもので西銘ヌル方が拝んでいる。
[仁天屋しろの大神]
城跡内に別の御嶽がある。昔からあったのか、近年に造られたのか分からないが、龍神を祀った御嶽だ。沖縄には人類創世物語が2つあり、ひとつはアマミキヨ・シルミキヨから始まるよく知られた伝説、もうひとつが天龍大御神と天久臣乙女王の龍神から始まる龍神伝説。集落巡りをしていると時々この龍神拝所に出くわすのだが、どれも整った拝所になっている。少し怪しげな新興宗教のような雰囲気があり、ずうと気になっていた。ここにあるのは干支の12龍神の一つの未 (ひつじ) の龍神である神世三代の仁天屋しろの大神 (天火龍大御神の長男) を祀っている。
これで南山城県が右派終了。今度は南山城の周囲に残る文化財を巡る。この付近には大里集落の始まりであった古島があった場所だ。
ビルン (ウミチムン)
南山城から少し南西に行った畑の一画にビルンという拝所がある。ウミチムンとも呼ばれ、元々、屋号 四男玉江の畑にあったものを土地改良のために高嶺中学校の正門南側の畑の一角に移された。一説には龍宮神が祀られているといわれており、山川ヌル方がウマチーで南山城跡に拝みに行く前に、ここを拝んでいる。
仲間屋敷跡、仲間ガ-
南山城跡から南に道路を渡ったところにある糸満市立学校給食センターの南側一帯には、かって中間村という名の集落があったといわれ、17世紀後半に、屋古村の一部になったとされている。給食センターの駐車場の向こうに見えるのが南山城。
この場所に近年まで仲間屋敷跡と仲間ガーか残っていたそうだが、今は給食センターの駐車場の入り口に形式保存されてはいるのだが、香炉もない。ここで働いている人に聞いたのだがもう一つの井戸の拝所のウフクニ主ヌ御川以外は知らないと言っていた。資料に写真が載っていたのでそれを手掛かりに探し見つけたしだいだ。
ウフクニ主ヌ御川
仲間屋敷跡にはもう一つ井戸があった。ウフクニ主ヌ御川と呼ばれている。現在は給食センター裏手の駐車場敵地内に移されている。山川ヌル方と下茂 (スム) 腹が、正月やウマチーで拝んでいる。
トンドン御川
元々高嶺中学校の体育館の所にあった拝所だが、現在は北に移設されて、高嶺小学校の運動場と高嶺中学校の間の小道沿いにある。
かっては南山の進貢船に乗る者が、こで航海の安全、航海中の健康を祈願したといわれている。山川ヌル方、西銘ヌル方ともウマチー等で拝んでいる。
越来龕 (ウィークガン)
高嶺中学校体育館の西側には越来ガンという文化財がある。ここは龕を作った人の屋敷跡だといわれており、そこには拝所、ガン(龕)・獅子加那志などを作った人を祀る墓がある。その墓の前方には、カーがある。元々は越来腹が拝んでいたが、後に西銘ヌル方の門中も一緒に拝むようになった。墓には沖繩戦の弾痕が残っている。墓の前の拝所は戦後に造られたもの。
和解森 (ワタキナー)
大里原の西端付近の嘉手志川下流に和解森 (ワタキナー) と呼ばれる場所がある。発掘調査で中国産陶磁器や鍛冶で排出される鉄鐸が見つかっている。地元ではここをカニマン御嶽とも呼ばれていることから、南山時代に鉄の農具や武器を作る施設があったのではないかと推測されている。ここにも為朝伝説があり、琉球に流れ着いた為朝と下茂腹の娘で大里按司の妹との逢瀬の場所だったとも伝わっており、2人の間に生まれた子が、後に中山王になった舜天だといわれている。ここには拝所が建てられ、下茂腹門中によってワタキナーでの祭祀を続けられており、ウマチーのときは最初にこの和解森 (ワタキナー) を拝んでから、カーや拝所を回り、午後の南山城跡での儀式を済ませた後、またワタキナーを拝んで帰る。ワタキナーでの祭祀は、現在でも西銘が主導している。
西銘御川 (ニシミウカー)
和解森 (ワタキナー) 近くに西銘御川 (ニシミウカー) があり、西銘ヌルの神ガーであったといわれている。ニシミガーとも呼ばれ、以前は70mほど南にあったが、県道7号線拡張工事の際に現在の場所に移され形式保存されている。
北和解森 (ニシワタキナー)
和解森 (ワタキナー) の北にあり、中道 (ナカミチ、大里駐在所前の道) に面している拝所を北和解森 (ニシワタキナー) という。ウマチーでは西銘スル方の門中が拝む最後の拝所。ウィショーバン (御衣袋バン) とも呼ばれているが、これはカミンチュ達がウマチーで一連の儀式を終えて、衣裟を替える場所という意味だといわれている。
ティランボージ
和解森 (ワタキナー) の西にあるティランボージと呼ばれる拝所で小高い丘の洞穴の中にあったものをの土地売却を機に現在の場所に移設している。山川ヌル方の一部の門中が9月9日に、特に子どもの健康を願って拝んでいる。
大里古島
南山城跡西側緩料面には大里の古島だったと推測されている。上地改良が行われたために遺構などは消滅し、現在は高嶺小学校西側の門中墓周辺に面影が残るのみとなっている。
仲間腹門中墓がある。仲間腹のトーシー (当世) は古島原にある亀甲墓でトーシー (当世) に向かって右側にヒジャイユー (左世) と呼ばれる箱形の墓がある。
一面サトウキビ畑で民家などはほとんどない。ここは屋古 (ヤコ) と言われた部落で、大村渠 (ウフンダカリ) と合併して大里村になった。この二つの村は合併以降もその名残を残し、それぞれの村を代表したヌルが二人いた。屋古を代表していた山川 (ヤマガ-) ヌルと大村渠の西銘 (ニシミ) ヌルで、山川には6門中、西銘には8門中で構成されていた。それらの門中のなかには、ムラの祭祀で重要な役割を担当するのがウィーデースと呼ばれる家で、山川野呂殿内 (ヤマガ-ヌンドゥンチ)、上ン門 (ウィンジョー)、西銘 (ニシミ)、ソウジ (栄徳 イートゥク)、神元 (カミムトゥ)、越来 (ウィーク) の6家がそれにあたる。ウィーデースからはノロ、二ーチュ (根人)、二ーガン (根神)、イガン (居神) 等のカミンチュ (神役) を輩出している。
山川野呂殿内屋敷跡
大里古島があった場所にかつて屋古村があった時代の山川野呂殿内の敷跡だといわれている場所がある。一帯で土地改良が行われたときに拝所として手を付けなかったので、周囲は畑でここだけ木が生い茂っている。建物等の遺構は残っていないが、大きなウスク (アコウ) の木の根元に香炉が置かれている。この説明に従って、その場所辺りを何度も探してみるのだが、まず畑の中にポツンとある木の生い茂っているところを探す。ただ説明にあった香炉は見当たらない。今日の文化財巡りでここだけが見つからなかった。
和魂之塔
山川野呂殿内屋敷跡の近くに戦没者慰霊のため、1954年 (昭和29年)、集落の人達によって和魂之塔が建立された。1969年 (昭和44年) に那覇市の識名園の戦没者中央納骨所に転骨され、更に、1979年 (昭和54年) に摩文仁の国立沖繩戦没者墓苑に納骨合祀された。
ウィージョーガングヮー
山川野呂殿内屋敷跡の北側すぐ近くに拝所がある。ウィージョーガングヮーと呼ばれ、8月10日の今帰仁のウマチーに合わせて上地腹門中が拝んでいる。拝所には石で組んだ小さな祠に印部石 (シルビイシ) が置かれている。
ティラドゥン
高嶺小学校体育館の北西に山川ヌル方の拝所であったティラドゥンがある。六月ウマチーで西銘ヌル方と照屋の新屋復、一官腹、宇腹がワタキナーに行く前に拝んでいる。
上ン門屋敷跡のウナザラヌ御川
山川野呂殿内屋敷跡のすぐ近くに上ン門屋敷跡があり、その屋敷内にウナザラヌ御川がある。上ン門の神ガ-でビジュンガ-と対 (クサイ) になっていると考えられている。ビジュンガ-が按司ガ- (男性) でウナザラヌ御川は女性のカーだ。ウナザラとは妃を意味している。
古島ヌ御川
古島の上ン門敷跡の近くにある山川ヌルの神ガーで、ウマチーのとき等に山川方が拝んでいる。ほかの神ガーに比べると深みがあり、その形状が丸いことから、上ン門の玉鏡 (タマカガン) とも呼ばれている。
ビジュンガー
高嶺小学校の西側の畑の中にあり、按司ガーとも呼ばれる。元々は現在の大里集落に移る以前の屋古集落の内部、もしくは近くにあったといわれている。上ン門屋跡のウナザラヌ師川と男女一対になる神ガーだと考えられており、こちらは按可ガーということで、対のうち男性のカーだとされている。
次に大里集落の北側にあった南山城の出城的性格を持った大城森グスクを訪問する。
大城森グスク (ウフグスクムイ、ニ又グスク タマターグスク)
大城森 (ウフグスクムイ) にもグスク跡がある。遠くから見た姿は2つの小山が並列した形となっていることからニ又グス (タマターグスク) とも呼ばれている。西側 (写真の右側) をオカー山 (母山)、東側 (写真の左側) をオトー山 (父山) と呼んでいる。オトー山には古墓が多く存在し、オカー山ではグスクの石積みが部分的に残存している。
琉球の国土創世神とされるアマミキヨの子孫が、初代島尻世主大里按司になったという伝説があり、このグスクを居城としていたと伝わる。この子孫の門中が大里に住んでおり、先南山と呼ばれ、大里で最も古い系統と言われている。中南山は、先南山の後に大里を治めた大里按司の系統といわれている。この按司も最初はこの大城グスクを居城としていたが、後に南山城に移ったという。その後にこの一帯を治めることになったのが、浦添中山の英祖王の五男の大里王子だという説があり、この系統を後南山と呼ばれている。承察度王から汪応祖王、そして最後の南山王である他魯毎王へとつながっていった。
この城には後に八重瀬グスクに移る汪英紫が城主としていたとされており、汪英紫が南山グスクを居城としていた南山王承察度の叔父であったことから、ウンチウ (方言で叔父の事) グスクとも呼ばれた。
南山城の出城のひとつと考えられている。ここには、戦時中、日本軍の陣地壕があった為、砲撃を受けを受け、グスクは破壊され、遺構も消滅してしまった。
オカー山 (母山)
まずはオカー山 (母山) から訪れる。
[ソオジ拝所御川]
西側丘陵 (オカー山) への登り口のところにソウジ門中の神ガーのソオジ拝所御川がある。
[カラハフノ御川 (ウカー)]
石畳の階段を登った所、頂上近くにある先南山ヌ御の手前左側にカラハフノ御川 (ウカー) があり、この井戸もソウジ門中の神ガーとされている。
[御先南山ヌ御嶽]
西側丘陵 (オカー山) の頂上手前には御先南山ヌ御嶽がある。大きな岩の一部がフィンチャーバカ (掘り込み墓) になっている。現在は先南山の直系の子孫だといわれている西銘方の栄徳 (ソウジ) 門中が墓として拝んでいる。
オトー山 (父山)
隣のオトー山 (父山) が見える。オカー山 (母山) から降りて次はこのオトー山 (父山) に向かう。
[クバオー御川]
東側丘陵 (オトー山) への道の途中にウィーデースの家筋であるソウジ門中がウマチーに拝んでいるクバオー御川が形式保存されている。戦後の一時期までにはこのクバオー御川の東隣にはクバ王御嶽があったが、現在は南山城跡の移設されている。
[神元御川]
[按司御墓]
標高65mの東側丘陵 (オトー山) の頂上付近の岩山の周りにはソオジ御墓 (寛寿郎の墓)、ミサマイリク、山川御持 (ヤマガーウムチ)・神元御持 (カミムトゥウムチ)・ソオジ御持 (ウムチ)、 ソオジ御持 (ウムチ)、大城ムチウリとも呼ばれている神元御持・神元ヌウフアジシーの五つの按司墓がある。
[山川御持 (ヤマガーウムチ)・神元御持 (カミムトゥウムチ)・ソオジ御持 (ウムチ)]
[ミサマイリク (写真上)、ソオジ御持 (ウムチ 写真下)]
[寛寿郎の墓 (ソオジ御墓)]
もう一つ按司墓がある。中山王の武寧の嫡男の寛寿郎 (完寧) の墓と書かれている。武寧は察度王統最後の王で尚巴志により滅ぼされた。中山と南山は姻戚関係だったので、尚巴志に滅ぼされたときに寛寿郎 (完寧) がこの地に南山王を頼って逃げてきたのだろう。
岩山の頂上まで目指し崖をよじ登るが、もう少しのところで断念。ほぼ直角の岸壁になり、危険だ。
この他にも岩山之周りにはいくつもの古墓が残っている。この中に神元御持・神元ヌウフアジシー (多分、写真上中) もあるのだろう。
不抜の塔
1944年 (昭和19年) に大城森には第24師団歩兵第32連隊の本部が設置され、人口の壕が掘られていた。大城森の地中には東西を貫く一本の壕と、それと交差する形で南北に平行に数本の壕が存在していた。壕入り口は殆ど埋没している。首里の司令部壕が占領されてからは、大城森の壕には、負傷兵が多数収容され、字与座女子青年団員らが看護の手伝い、死体運びなどで動員された。第32連隊が大城森の壕を撤退する時には、数多くの患者が毒殺や銃殺などによ って処置されている。戦後、1966年 (昭和41年) には、戦没した将兵を慰霊するために西側丘 (オカー山) の南面に、不抜の塔が建立されている。
大里集落
いよいよ、大里集落内にある文化財巡りに入る。以前この大里に来た際には南山城と嘉手志川 (カデシガ-) の二つだけしか見ず、集落内には入らなかった。今回はじっくりと回る。航空写真に位置関係を造ってみると、大里集落は南山城の城下町のような位置関係にある。周りには南山城の出城的役割を果たしていた大城森グスク、上座/佐久間グスク、与座グスクで守られ、与座岳など丘陵で囲まれている。北側には報得川で守られている。南山国の首都であった様子がうかがえる。汪応祖が兄の八重瀬グスクの達勃期に殺害された後、汪応祖の家臣の多くは達勃期側にはつかず、汪応祖の嫡男の他魯毎を盟主として戦った。その時に達勃期は他魯毎のいる南山城 (島尻大里城) を包囲したが、挟み撃ちにして破ったといわれている。この地形を見ると納得できる。
旧村屋跡、中道 (ナカミチ)
この公園がある場所が以前の村屋 (ムラヤー) があった場所で、この前が集落の目抜き通りだった中道 (ナカミチ) が走っている。中道は神道 (カミミチ) でもあり、東へは集落の有力門中の神屋が集まっている場所に伸びており、西側へはかつての馬場 (ウマィー) 南山城、古島に続いていた。
高嶺間切番所跡 (2月7日 訪問)
中道沿いに高嶺間切番所跡公園があった。琉球王朝時代にはここには島尻大里間切の番所が置かれており、この間切の中心であった。後に島尻大里間切は高嶺間切と改名され、現在は公園になっている。
上ン門神屋、神道
旧村屋跡のすぐ西にある屋号 上ン門は中南山から続いているといわれる家筋で、上ン門神屋には根神 (ニーガン) を祀る香炉のほか、5つの炉があるが、どの香炉が誰を祀っているのかは不明。南山城には上ン門の祖先を祀る多数の拝所があり、それに対応するものと考えられている。ここを通っている道は中道であり、重要な拝所を巡る道の神道でもあった。
公民館、拝所
1971年 (昭和46年)、村屋が手狭になり、高等弁務官資金等の交付を受けて、旧製糖場跡広場に新公民館を建築し、集落の行政機関をここに移した。字大里の祭祀として年に3回行われるミジナリーウグワン (水撫で御願) のとき、公民館の一角にある拝所から、大里に所縁のある複数のカーを遥拝する。拝む対象のカーはアガリガー (東リ川、南城市玉城字志堅原の仁川等)、ヘーンカー (南ン川、旧三和村のエーシマシ等)、ガジガー (八重瀬町字高良の我謝川)、ナハガー (那覇川、覇市山下町の落平ガーなど)で、戦前と戦後の2回、それらのカーを巡拝し集めた水を嘉手志川に注いだという。以後はカーを実際に巡拝することはせす、嘉手志川の水を汲んで拝んでいる。公民館の前の広場の一画に小さな祠の拝所があった。
前道 (メーミチ)
公民館の前の道は前道 (メーミチ) で集落では中道に次いで重要な通り。
越来神屋
越来神屋にはビズルと呼ばれる黒掲色をした板状の鉱石の霊石が祀られている。これはで、戦地に赴く者が祈願したら、石が濡れたという言い伝えが残っている。ビズルの前にはミフダと呼ばれる香炉があり、かっては綱引きの日に拝まれていた。また、葬式のときにニンプチャー (念仏者) が打った鉦もビズルの隣に置かれている。以前は、シチグワチ (盆) のウークイの日に祖先のを送るとき、この鉦を鳴らしてムラ中に知らせた。このほかヒヌカンと8つの香炉がある。越来腹は南山王汪応祖の子孫といわれ、西銘ヌル方のムラムトゥ(村元)で、神役を出す家筋。
神元神屋
屋号 神元の神屋にはトーンメーの根神ウミナイ、トーンメーの根神ウミキー、ヌルクサイ、タマターグスクのカミングヮの香炉と、トーンメーのクディングヮ、タマターグスクへのウトゥーシ、大里村の大城のムチウリ (神元のウフアジシー)、ブズンへのウトウーシ、南山へのウトゥーシの計9個の香炉がある。このほか、南山王が使っていたと伝わる古い太刀箱が残っているそうだ。神元腹の祖先は、中山英祖王の五男島尻世主大里按司だと伝わり、承察度、汪応祖、他魯毎等の位牌が戦前まで神屋に祀られ、後南山の系統だという。
西銘ヌル神屋
屋号 西銘の神屋には、南山と天孫子の二つの火の神 (ヒヌカン) のほか、神子、ヌル、ヌルうみきいを祀った3つの香炉と、ブズンの按司御墓、タマターグスクの按司御墓、今南山、ウフンダカリ大君への遥拝を行う4つの香炉がある。この神屋は多くの神屋が現在はコンクリートの造りになっている中、昔ながらの沖縄伝統家屋が残されている。屋根瓦などは新しくはなているが、できるだけ昔からの形を保っている。
ソウジ (栄徳) 神屋
ソウジ (栄徳) 神屋の神棚最上位には、いがん神花、いがんチャチ神の香炉がある。いがんはソウジの親を意味しているという。また、神代按司代御元祖として、御先玉城世、玉城世、玉城世子孫栄盛世、御先南山世、南山世の5つの香炉がある。ソウジと呼ばれている栄徳腹は先南山の時代から続く、大里集落の中で最も古い家で、大里の元 (ムトゥ) だ。神屋は民家の敷地内に建てられているので、立ち入るのは遠慮し、外から写真を撮った。
山川野呂殿内の神屋
大里集落の東の端に山川野呂殿内の神屋があり、ヒヌカン (火の神) の他、玉城ムチウリ・ウンナグヮンス、与座の山川とのくさい (先南山ウトゥーシ)・クチャドーヌ按司、中南山ウトゥーシ、イリクの4つのウコール (香炉) がある。
元山城腹の神屋
集落内を隅から隅まで回ると、神屋の数が他の集落に比べて非常に多いことに気が付く。山川方の6門中と西銘方の8門中がありそこから分かれた腹が非常に多く、屋号は120以上になる。門中でまとめて神屋を造っているものもあり、腹単位での神屋もある。その中で立派な神屋があった。山城門中の神屋。山城腹は神元腹からの分かれで、門中の元祖は、南山王の子孫の山城親雲上の子孫であるといわれている。山城親雲上には2人の息子がおり、長男の山城親雲上は分家して屋号を山城とし、次男が元山城親雲上と称して父の後を継いだ。以後、山城は次男系が本家を相続している。この神屋はこの次男からの元山城の子孫だ。
嘉手志川 (カデシガ-)、神ガー
琉球国由来記にも記述がある嘉手志川は、大里ではウフガーと呼ばれ、ンブガー (産井泉) として大切にされている。豊富な水量を誇り、古くから周辺地域に豊かな恵みをもたらしてきた。嘉手志川 (カデシガ-) がある場所にはカーンキーグワァという場所でガジュマルン大木があり、拝所もあった。
湧きロの南隣に拝所があり、そこを神ガーと呼んで、ウマチー等ではこちらを拝む。現在も正月には水を汲んで健康祈願のミジナリーをするほか、多くの行事で感謝の念を表して拝む。また普段でも拝む人が多く、他地城からも相当数の字大里の門中や南山にゆかりがある人々が訪れる。
大里集落では生活用水として、この嘉手志川 (カデシガ-)、ユビガ-、アクガ-の三つの井戸が使われ、各家庭は毎日井戸から水を汲んで運んでいた。幾つかの屋敷にはチンガ- (掘り抜き井戸) があったが、洗濯は共同井戸で行っていた。これは1962年 (昭和37年) に高等弁務官資金でこの嘉手志川 (カデシガ-) を水源とした簡易水道が設置されるまで続いていた。
この嘉手志川には伝説が残っている。1713年に完成した首里王府の地誌の琉球国由来記に屋古村に関する記述があり、それによると、その昔、日照り続きにも関わらす、山中から水に濡れて出てくる犬がおり、それを不思議に思った人が後をつけたところ、水のある所を見つけ、カデシ!、カデシ!と喜んだという。(カデシは沖縄の方言でめでたいの意味) 以来、人々がその水を使うようになった。この逸話は沖縄各地にある。
もう一つの伝説は島尻大里按司の他魯毎が、この嘉手志川 (カデシガ-) を佐敷の小按司の尚巴志の持つ金屏觝と交換したため、この嘉手志川の水を使うことを禁じられた大里の百姓達が尚巴志の側に付いてた。このことが原因で南山が亡したともいわれている。このことからこの川を敵泉 (ティチガ-) とも呼んでいたそうだ。この交換交渉を行ったのが、先日訪れた与座の与座大主といわれ、国吉大屋久の反対を押し切ったともいわれている。嘉手志川は南山城之すぐ前にあり、集落内にあるので、尚巴志と交換するようなことはあり得ないのだが、中山と南山との戦いの終盤には、南山国の重臣が尚巴志側に寝返るケースが多くなっていた。他魯毎の王としての評判が決して良くはなく、家臣の間でも反目があり、離反するものがあったことを表しているのではないだろうか。
ユビガ-
嘉手志川の北東にユビガ-がある。山川ヌル方が正月やウマチーのときに拝むほか、綱引きの御願等でも拝むことがある。ユビには底なし田、深田という意味で、かつてはその一帯が泥の田であった。
うびー川
嘉手志川から南の南山城へ所に別の井戸跡がある。うびー川と言われている。岩の間から澄んだ水が滝れ出ている小さな泉で、どんな早魃でも涸れることがなかったそうだ。地元では古くから湧き口から水が流れ落ちる音から付けられたチョンチョンガーと呼ばれているが、1963年 (昭和38年) にうびー泉という名称を付け、石碑を建てた。うびー川は神ガーとして、大里のカーの中でも最も神聖なカーとされていて、ウマチー等の儀式ではこちらを先に拝んでから嘉手志川を拝んでいた。水場の真ん中には洗濯机が今でも残ている。今ではもう使われていないのだろうが、主婦にとっては、ここが社交の場でもあったのだ。
龕屋
大里集落の北側には龕屋がある。沖縄に火葬が普及する1950年代から60年代ごろまでは亡くなったその日に葬儀を行うのが等通で、遺体はクワンチェーバク (棺箱) に納めてから、龕に乗せて門中墓まで運び、そのままの中に葬った。
石獅子
龕屋の脇には、ヒーザン (火の山) として恐れられている八重瀬岳から降りかかる火の災害を防くために作られた石造りのヒーゲーシ (火返し) の石獅子 (シーシ) が八重岳に向けて設置されている。八重岳はここからは直接は見えないのだが、その途中にある与座岳の自衛隊のレーダーが見えている。
武順 (ブズン) 御嶽
集落の西のはずれにある大里原の東は当畑慶原地区になっており、与座岳の麓でかつてユナーラと呼ばれていた場所でかつては武順 (ブズン) 村があったといわれている。この場所にに、ブズン御嶽、ブズン川、ブズンの按司御墓が隣り合って並んでいる。それらを総称してブズンと呼んでいる。
ブズン御嶽は、大きな岩の下に石の香炉が置かれている。すぐ隣には入口が3つもある大きなガマ (洞穴) があり、沖繩戦では避難場所として使われていた。御嶽のすぐ近くには按司が2基並んでおり、向かって右が西銘御持 (ニシミウムチ)、左が神元御持 (カミムトゥウムチ) となっており、西銘ヌル方の門中が拝んでいる。(御持とは、担当あるいは持ち分) ウマチー等のとき、西銘ヌル方門中のウガミマーイ (拝み回り) は、屋号 西銘の母屋と神屋を拝んだ後に、ブズンを拝む。山川ヌル方はブズン御川のみを拝んでいる。
トーンメーの御墓
大里集落のある大里原の南の名利川原 (なりかわばる、ナリカーバル) にあるトーンメーと呼ばれる丘にトーンメーの墓や、越来腹や下茂腹等のムトゥトーシー (元当世) と呼ばれる古墓がある。戦時中に壕として使うため日本軍に徴用されたときに遺骨が移動され、戦後になって戻そうとしたものの、どこに入っていたものか判別できす、現在のに一緒に納められることになった。現在も山川ヌル方、西銘ヌル方が行事のときに拝んでいる。
沖縄兵站慰霊の塔
この丘の上には沖縄兵站慰霊の塔が1971年 (昭和46年) に建立された。第49兵站区隊本部、陸上勤務72中隊、同83中隊、特設水上勤務第103中隊、同第104中隊、独立自動車第215中隊、同第259中隊、球1616自動車中隊、同航空兵站中隊、沖縄防衛中隊、沖縄出身従軍軍属、那覇停車場司令部などの兵隊により、兵器・弾薬・装備・食料の調達や、兵員の輸送業務や陣地構築等後方支援の任務に当たるために編成された特設第1旅団がの戦没者が合祀されている。現地召集された沖縄県人の防衛隊の構成比も高く、訓練もされずに配属されていた。後方部隊として見下され、武器の支給もない状況で、犠牲者だけが増えて行ったという。碑の後方には当時使われていたガマが残っていた。その横に割れてしまっているのだが、初代の銘板が残されている。現在のものは作り直されて掲示されている。
アクガー
大里集落中心地の北東、伊田慶名原にあるアクガーは水量豊富なカーで、簡易水道ができるまでは生活用水としても使われていたが、現在では農業用水としてのみ利用されている。主に山川ヌル方とソウジが、正月とウマチーのときに拝んでいる。今でも水量が豊富で済み切っている。どこから来たのだろうか、何匹もの魚が泳いでいた。メダカぐらいのものから、かなり大きな魚もいる。
ここで5時之タイムリミットが近くなっている。今日は夕方から雨予報。その予報通り雨が降り始めた。ここからは自宅までは一時間程かかるので、急いで出発しかえることにする。その後、雨は強くなり夜中まで降り続けた。12月、1月はかなり不安定な天気が続いている。
参考文献
- 糸満市史 資料編13 村落資料 旧高嶺村編 (2013)
- 古代琉球王朝の発祥地 : ふるさと与座村の歴史散歩 (2000)
- 沖縄戦国時代の謎―南山中山北山久米島宮古八重山 (2006)
- ぐすく沖縄本島及び周辺離島 グスク分布調査報告 (1983 沖縄県立埋蔵文化財センター)
- 嘉手志川と金屏風 琉球戦国ラジオドラマ (2013)
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