Okinawa 沖縄 #2 Day 97 (15/04/21) 旧大里村 (11) Majikina Hamlet 真境名集落

旧大里村 真境名集落 (まじきな、マザキナ)

  • 真境名公民館 (村屋)
  • 前の御嶽 (メーヌウタキ)、井泉跡 (名称不明 2)
  • 新井泉 (ミ-ガ-)
  • マカー王
  • 上の井泉 (イーヌカー)
  • 泉ロ (イジュングチ)
  • 川の前小 (カーヌメーグヮ) の拝所
  • 与那堂井泉 (ユンドーガ-)
  • 真境名樋川 (マジキナヒージャ)
  • 雨乞いの御嶽 (アマグィーヌウタキ)
  • 大瀬森 (ウフシ―ムイ)
  • クニ火の神
  • 玉城 (タマグスク) 門中神屋
  • 神森 (カンナムイ)
  • 真境名之殿 (マジキナヌトゥヌ)
  • 志利 (シリ―) 後方の拝所
  • 志利 (シリ―) 後方の井泉
  • 井泉跡 (名称不明 1)
  • 真境名子 (マジキナシ―) の墓 (一番墓)
  • ボントゥー墓 (二番墓)
  • 六番墓
  • 七番墓
  • 五番墓
  • 十一番墓
  • 十二番墓
  • 十三番墓
  • 十四番墓
  • 三番墓、八番墓、九番墓、十番墓 [未訪問]
  • 平川子 (ヒラカワシ―) の墓 (四番墓) [未訪問]
  • 産井泉 (ンブガ―)
  • 謝名子 (ジャナシー) の墓、当間主 (トーマシー) の墓、真壁主 (マカビシー) の墓、城間 (グシクマ) 門中の古墓、大城 (ウフグシク)・与那嶺 (ヨナンミ) 門中共同墓、田本 (タムトゥ) 門中の墓 [未訪問]
  • 西の津嘉山 (イリヌチカザン) の墓
  • 東の津嘉山 (アガリヌチカザン) の墓
  • 長堂馬場跡 [4月20日 訪問]

旧大里村 真境名集落 (まじきな、マザキナ)

琉球村々立始古人伝記によれば世立初めは、大里より来る真境名大主で在所は神屋。地祖始は、古北川の御子で在所は根神屋。古くはマザキナと書かれた文書が残っている。島添大里グスクや玉城グスクなどある丘陵地の中腹標高100mの場所に集落がある。

真境名の人口は旧大里村の中ではそれほど多いグループではなかったが、沖縄戦後一時的に増加はしていたが、沖縄本土復帰も人口増加のきっかけにはならず微減していた近年は微増に転じてはいるが、旧大里村の中では四番目に人口の少ない地区となっている。

民家の分布を見ると、真境名集落の外側で民家が増えている。グラフには繁栄はしていないのだが、集落から離れた西側に大里第二団地が建てられそこには200人程が入居している。

大里村史 通史に記載された拝所 (太字は訪問した拝所)

  • 御嶽: 真境名之御嶽 (神名: テルカカミノ御イベ、所在地不明)、大瀬森 (神名: コバダイノ御イベ)
  • 殿: 真境名之殿


真境名集落で行われている年中祭祀は下記の通り。稲のウマチーとアミシヌ御願がメインの様だ。集落の祭祀の中心は真境名の殿でほとんどの祭祀行事で拝まれている。もう一つ重要な祭祀は清明祭 (シーミ―) で集落の14ある墓と西原、南風原、仲程にある拝所を巡っている。 


真境名集落訪問ログ


真境名公民館

まずは公民館に行き、屋根のひさしの下に自転車を停める。今日の午後は雨予報なので、ここであれば雨が降っても大丈夫だ。公民館はかつての村屋だったのだろう。村屋跡でよく見かける酸素ボンベと差石 (力石) が置かれている。公民館の前の広場の隅にコンクリート製の何かの土台だったような物がある。表面に造られた年が刻まれているが、判読不能だ。戦時中の国旗掲揚台かも知れない。

前の御嶽 (メーヌウタキ) / 井泉跡 (名称不明 2)

公民館の前の通り少し西側にある民家の門小 (ジョーグヮ―) 敷地内に拝所と井泉跡があるのだが、民家で人も住んでいるので、拝所と井泉跡は見れなかった。現在は集落の祭祀ではやはりそこの住民に気を使い民家前の道から遙拝しているそうだ。

新井泉 (ミ-ガ-)

公民館から前の御嶽を通り北に進むと新井泉 (ミ-ガ-) がある。この井泉は沖縄戦後に造られた。

マカー王

新井泉 (ミ-ガ-) のすぐ側にマカー王という拝所がある。拝所は民家の敷地内にあり、見ることは出来ない。案内書にも写真はなく、どのような祠なのかは分からない。祭神は西ヌ綱ヌ御神 (イリヌチナヌウカミ) というそうなので古くからある拝所だろう。

上の井泉 (イーヌカー)

公民館に戻り今度は反対側の東南方向にある上の井泉 (イーヌカー) に向かう。集落上方に位置することからこの名がついたそうで、若水や飲料水として利用されていた。

泉ロ (イジュングチ)

上の井泉 (イーヌカー) から来た道を戻ると、公民館の東側に泉ロ (イジュングチ) という井泉跡がある。かつては高宮城ノロや神人が髪や服を洗うのに利用していたので、ヌル井泉 (ガ-) とも言うと案内書では書かれていたが、この集落を管轄していた高宮城ノロが、高宮城からわざわざここまで髪や服を洗う為に来たとは思えない。この泉ロ (イジュングチ) の近くには真境名之殿はじめ多くの拝所が集まっているので、高宮城ノロがこの集落に祭祀に来た時に身を清めた井泉ではないかと思う。井泉の前には石柱があり、幾つかの集落にあるノロが身を清める井戸の脇でよく見かける。ノロが乗って来た馬を繋いだとか、この石の周りを廻る儀式を行なっていたとか伝わっていたのを思い出した。ここの石柱はどうなのだろう?


川の前小 (カーヌメーグヮ) の拝所

泉ロ (イジュングチ) から更に西に進むと屋号 川の前小 (カーヌメーグヮ) の敷地跡があり、敷地内にかみやがある。祭神は東ヌ綱ヌ御神 (アガリヌチナヌウカミ) といわれる。民家はなく屋敷跡にはまだその痕跡が残っている。豚フール跡 (写真右中)、井戸跡 (左下)、 井戸の釣瓶跡 (右下) が はっきりとわかる。


与那堂井泉 (ユンドーガ-)

更に西の進み集落の端から少し出た畑のそばに井泉がある。稲嶺に住んでいた与那堂門中の一門が移住してきた時に造ったそうで、与那堂井泉 (ユンドーガ-) とよばれている。


真境名樋川 (マジキナヒージャ)

泉ロ (イジュングチ) まで戻り、その井泉傍に集落東端の森への道がある。古くからある道なのだろう、細く石垣で囲まれた石畳の道だ。由来記にある真境名之殿に、稲二祭の際にこの真境名樋川に焼酎八合を供えたとある。ウマチーの際に真境名樋川で儀式があったことがわかる。平川集落や門中等も拝みに来ている。ここでふとなぜ平川集落から来ているのかと疑問が出た。それはこの後、合点がいくことになる。

雨乞いの御嶽 (アマグィーヌウタキ)

真境名樋川 (マジキナヒージャ) から真境名之殿への途中に雨乞いの御嶽 (アマグィーヌウタキ) がある。雨乞いのために拝まれていた。

大瀬森 (ウフシ―ムイ)

雨乞いの御嶽 (アマグィーヌウタキ) のすぐ近くの屋号 川端の家屋後方には大瀬森 (ウフシ―ムイ) と呼ばれる拝所がある。元は近くの大岩の下にあったが、地滑りが起き、現在の場所に移された。由来記の大瀬森 (神名: コバダイノ御イベ) に相当するとみられる。大瀬森 (ウフシ―ムイ) は高宮城ノロによって司祭された。

クニ火の神

真境名殿への入り口に火の神の拝所がある。クニ火の神と呼ばれている。また、真境名の火ヌ神とも言う。


玉城 (タマグスク) 門中神屋

クニ火の神から真境名殿に行く前に、入り口前にある集玉城 (タマグスク) 門中神屋を見る。玉城グスクが落城した時に落ち延びてきた城主の次男と西原から移住してきた夫婦の娘が結ばれ、彼らの子孫が玉城門中となったと伝えられる。


神森 (カンナムイ)

玉城 (タマグスク) 門中神屋の集落側に神森 (カンナムイ) という拝所がある。香炉等は置かれていないが拝所だそうだ。綱引きと関係のある拝所と資料にはあった。どのような関係かは書かれていない。この神森 (カンナムイ) は旧暦6月25日のカシチーと6月26日のアミシの御願で拝まれている。沖縄南部ではこのカシチーの跡綱引きを行う習慣があった。カシチーは元々は稲の収穫に感謝を表す祭祀だが、綱引きも行われるので、綱引きに参加する人たちがここを拝んでいるのではないだろうか?またここで嵳石 (力石) を持ち上げた所だそうだ。公民館にあった差石がそれなのだろうか?


真境名之殿 (マジキナヌトゥヌ)

クニ火の神の奥、集落東端の山麓に真境名之殿 (マジキナヌトゥヌ) があり、地元では殿 (トゥヌ) とか根屋 (ニーヤ) と呼ばれている。真境名集落の村立てを行った真境名子 (マジキナシ―) の屋敷跡といわれ、真境名の始祖が、真境名之殿と真境名子の墓で祀られているとも伝わる。琉球由来記の真境名之殿に相当するとみられる。真境名之殿では稲二祭 (ウマチー) が行われていた。真境名之御嶽は所在地が不明だそうだ。殿がちょうど山の麓で集落の端にあるので、御嶽は殿の背面にある山の森の中にあったのだろう。この山が集落の聖地になったいたのだ。集落には御嶽と殿が必ずあるのだが、その違いについてはいまだによく理解できていない。以前は御嶽は神様が下りてくる場所でそこには威部 (イベ) で呼ばれる霊石があり名が付いている。御嶽は神聖な場所でノリなど神人しか立ち入りは許されなかった。大体のケース集落の置くん森の中にある。一般の人たちは御嶽へは行けないので御嶽の下側に殿 (トゥン) を設けてそこから拝んでいたと本には書かれていた。殿には威部はない。ただ、集落を巡るとどうも沖縄の人でも御嶽と殿の違いがはっきりとしていない。普通の拝所を御嶽と呼んでいたり、殿が御嶽のように神聖な場所でノロしか入れないのもあった。この集落では御嶽は二つあったようだ。一つは所在不明となっている真境名之御嶽、もう一つは大瀬森 (ウフシ―ムイ) で先ほど訪れた御嶽だ。集落では大瀬森より真境名之殿が祭祀の中心になっている。この現象は幾つかの集落で見かけた。立ち入りができない御嶽は時代と共に遠くなり、頻繁に御願をしていた殿が集落住民の信仰の中心になったと思う。

志利 (シリ―) 後方の拝所

真境名之殿 (マジキナヌトゥヌ) の西隣に屋号 志利の屋敷跡があり、その敷地内に拝所がある。志利家は真境名子の次男と伝わる。長男腹は前家、三男腹は川端家という。御神体は、当拝所後方の山の上方にあるという。他の多くの集落でも同じだが、村立てに係わった有力門中は集落の中でも傾斜地では上部で御嶽や殿の近くに屋敷を置いていた。

志利 (シリ―) 後方の井泉

志利 (シリ―) の拝所の隣には井泉跡があり、5月15日の五月ウマチー等で拝まれている。井泉は屋敷の裏手にあるが、そこから屋敷の横から前の道にかけて水場がもうけられている。この屋敷の人たちだけのものなのか、村の人たちも使用していたのか?個人の屋敷の井泉としては少し大がかりなものになっている。

井泉跡 (名称不明 1)

真境名之殿 (マジキナヌトゥヌ) から森への道がある。古墓群に通じている。その道の入り口に井泉跡があった。水は枯れており、香炉が置かれている。

ここからいよいよ森の中に入り、14の墓を巡る。


一番墓: 真境名子 (マジキナシ―) の墓

殿から古墓への道は三本に分かれている。その一つを進むと古墓があった。この三本の道が真境名集落の古墓群に通じている。集落では古墓に清明祭 (シーミー) の御願の順番で番号がふられており、一番墓 ~ 十四番墓まである。(番号黄色が訪問できた墓跡)

まずは一番墓で真境名の村立てを行った真境名子 (マジキナシ―) の墓と伝わる。晴明祭 (シーミー) は旧暦三月上旬-中旬に行われて、新暦では4月初めにあたる。もうこの集落では晴明祭 (シーミー) は済んだのだろう、墓の前には御願に来た人が供えた平御香 (ヒラウコー) が残っている。


二番墓: ボントゥー墓

道の入り口まで戻り二本目の道を登る。そこにも古墓があった。二番墓で、アンジャーシーメーの墓と呼ばれ、昔のノロの墓といわれている。このノロは真境名子と関係があると伝わっているので、真境名子の妻か側室だったのではなかろうか? 資料にはボントゥー墓と記載されている。ボントゥー墓とは墓の形式で、先月に訪れた南風原集落や西原集落で見られる独特の形式で、墓の頂部が半円球の形で頂部には宝珠が置かれているのが特徴だ。

六番墓

もう一度、道の入り口に戻り三本目の道に入る。墓は御願の順番になっているのと晴明祭が行われた直後なので道の草も刈られて残りの墓も見つけやすいと思っていたが、期待通りには行かなかった。資料では「山中にある」とのみで、資料の地図では大体の場所にマークがつけられて、墓同士の位置関係はわかるのだが、GPSで位置関係を頼りに探そうとしたが、森の中は木々が深く、木が空を覆ってトンネル内と同じように、空が見えず、GPSが届かず途切れて殆ど役に立たない。迷いながら探しているうちに古墓が目に入った。六番の札が架かっている。番号表示が有れば何とか見つけられそうだ。六番墓はノロ墓と呼ばれているそうだ。二番墓 (ボントゥー墓) もノロ墓だった。祭祀は高宮城ノロがこの集落を担当していたので、真境名集落にはノロがいなかったのだが、そのような制度になったのは第二尚氏琉球王朝時代の三代尚円王以降のことで、それ以前は各集落で独自のノロが存在していた。そうすると、ここにあるノロ墓は、のろの制度ができる以前の第一尚氏時代、三山時代以前のノロの墓ではないだろうか? 墓の造りも、岩の洞窟を利用し、入り口を小石で塞ぐ古い形式の墓だ。

七番墓

六番墓から少し行ったところに岩に7番の札がかかっているのを見つけた。三番墓及び七番墓から十四番墓は、沖縄戦で亡くなった身元不明の人々の遺骨が集められ、無縁仏の墓がつくられたそうだ。資料ではここまでしか書かれていない。一番から十四番まで全ての墓は清明祭 (シーミ―) の際に、真境名之殿を御願した後、番号順に拝まれている。沖縄戦での身元不明者の墓を清明祭で集落として拝んでいるのを見たのは初めてだ。今まで訪問した集落でも、沖縄戦で散乱していた遺骨を集め脳事同を建て葬り、そして慰霊碑を建てているところは多かったが、この集落の墓は少し異なる。一つの集合墓ではなく、沖縄戦での身元不明者の墓が9つもあり、それが深い森の中に散らばっている。洞穴の奥に骨壷が見え、従来の方法で何体の遺体ごとに葬っているのではないだろうか?清明祭は祖先の墓を拝む裳なのだが、祖先ではない人を身元不明者をこれほど手厚く葬り、祀っている。集落住民のやさしさを感じる。

五番墓

今度は五番の杭がたっている墓跡を見つけた。この墓も入口が壊れてしまったのか、奥に骨壷がみえている。フトゥキヌヤーの墓と呼ばれている。詳細は書かれていなかった。村に関係のある人物の墓だろうか?

十一番墓

五番墓、六番墓、七番墓を見つけて以降、森の中を歩き回り墓跡を探すが、なかなか見つからない。道らしきものを探すもそれらしものもない。ようやく一つ墓を見つけた。十一番とある。どうやら八番から十番は通り過ぎてしまったようだ。

十二番墓

十一番墓の近くに十二番があった。

十三番墓

少し進むと十三番墓跡がある。

十四番墓

立て続けに十四番も見つけた。


三番墓、八番墓、九番墓、十番墓 (未訪問)

三番墓、八番墓、九番墓、十番墓は森の中を木々をかき分けて探したが結局見つからなかった。墓らしいものや壺などが置かれたものはあるのだが番号札や杭はなく、墓なのかは分からない。この山は標高160m以上あるようだ。集落が大体標高100mの地点で、山の中150mぐらいまでの間を、上り下りして探した。一時間以上森の中を探し、何度も足を取られ転倒、森を出たときには手足にかなりの擦り傷ができていた。


平川子 (ヒラカワシ―) の墓 (未訪問)

四番墓は平川子 (ヒラカワシ―) の墓。平川集落の人たちが先ほど訪れた真境名樋川 (マジキナヒージャ) に御願に来ているとあった。この平川子 (ヒラカワシ―) が関係している。平川子 (ヒラカワシ―) は真境名集落の北にある大里西原村の出身で、平川集落の地に行き平川集落の村立てをした人で、真境名集落と平川集落が清明祭で拝んでいる。このh化の写真が資料に出ていた。古い墓なので見たかったので、幾度も探したが見つからなかった。



墓探しはこれぐらいにして、残りの集落の文化財の訪問に移る。文化財と言っても残りもほとんどは古墓で、先ほど探した一番墓から十四墓があった丘陵の更に北側にある。森の中からはそこには行けず、一度森から集落まで降りて自転車で丘陵の北側を目指す。


産井泉 (ンブガ―)

丘陵の北側の墓群に行く道の途中に、産井泉 (ンブガ―) がある。集落の北の端から出た所にあるので、後ヌ井泉 (クシヌカー) とも呼ばれている。綺麗に石垣で囲まれた井戸の形が今でも残っている。水汲みや死水汲みの井泉として利用された。当間集落もこの井泉で祭祀を行っている。


墓群は丘陵の中腹から頂上まで広がっている。自転車で丘陵中腹まで登り、墓地の入り口に停め、徒歩にて巡る。ここには古墓も多くあり、その隣に当世墓も造られているものもある。新しい墓は本土の墓地と同じように集合墓地で区画割がされている。昔に比べて墓の敷地も狭く墓自体も簡素なものになっている。(とはいっても、本土の墓よりは豪華なのだが...) 

墓群にあった古墓の一部。この丘陵は集落の上にあり拝所や墓などの神聖な地域だった。昔は自由に墓を丘陵地のどこかに造ることができたのだが、戦後は勝手には墓を造ることはできず、市が共同墓地を管理している。この墓地群の中には当間集落の村立てに関わった当間主 (トーマシー) の墓と真壁主 (マカビシー) の墓、当間集落の城間 (グシクマ) 門中の古墓、大城 (ウフグシク) と与那嶺 (ヨナンミ) 門中の共同墓、田本 (タムトゥ) 門中の墓があると資料には書かれていた。すべて当間集落の門中の墓。当間集落は、ここの真境名集落から平良集落仲程集落を越えたところにある。もともとは真境名や西原に住んでいた人々が当間に移り住んでいったのだろう。住む場所は変えても、元当世墓はもとの場所に維持して、現在でも当間集落の清明祭ではこの地に墓参りに来ている。気を付けながら頂上まで墓群の中を歩き回り、これらの墓も探すが、とにかく墓の数が多く見当たらなかった。


西の津嘉山 (イリヌチカザン) の墓

この墓群には当間集落だけでなく、隣の仲程集落関連の古墓もある。真境名集落から丘陵を登る中腹に仲程集落の綱引きの由来に出てくる兄弟の一人の西の津嘉山 (イリヌチカザン) が葬られている。仲程集落によって清明祭の際に拝まれている。

丘陵の頂上に上る途中の道から、真境名集落方面が一望できる場所があった。


東の津嘉山 (アガリヌチカザン) の墓

丘陵の頂上の尾根沿いにも多くの墓が造られている。その一角に先に見た西の津嘉山 (イリヌチカザン) 兄弟のもう一人の東の津嘉山 (アガリヌチカザン) が葬られている墓があった。ここも仲程集落によって清明祭の際に拝まれている。


謝名子 (ジャナシー) の墓

集落からみて北東にある拝所。謝名 (ジャナ) 腹門中 (島袋区在住) の墓。島袋集落によって拝まれている。

頂上からは西原集落にあるギリムイグスク島添大里グスクがある丘陵が見渡せる。

更に佐敷、そして向こうには知念半島まで見渡せる。


長堂馬場跡 (4月20日 訪問)

登ってきた丘陵の東側斜面を下った所に次回訪問を予定している稲福集落への道があり、そこにはかつて長堂馬場があった。長さ327m、幅23mで沖縄本島南部最大の規模だったそうだ。以前この道は通ったことがあったが、馬場跡とは知らなかった。今日はほとんど山登りでのコースでかなり脚に負担があるようで少し足がつり気味だ。次回の稲福集落訪問の時にこの道を通るので、見学はその機会にすることにした。この馬場では大里、佐敷、知念、玉城の四間切による対抗競馬がおこなわれていたそうだ。馬勝負の際には高宮城ノロによって祭祀があったというので、琉球王朝時代から行われていたことがわかる。かつての長堂馬場跡の南の端は現在は養鶏場となっており、かつては馬の運動場や水飲み場があった場所。

この馬場跡へは4月20日に稲福集落へ向かう途中で訪れた。訪問レポートは4月20日 [Okinawa 沖縄 #2 Day 98 (20/04/21) 旧大里村 (12) Inafuku Hamlet 稲福集落] に含めている。


この長堂原は三山時代に島添大里按司の汪英紫と大城按司真武との戦いがあった場所といわれている。戦いの詳細についてはこの後訪れる稲福集落のレポートに記載している。


今日散策中に目に留まった花と蝶。

真境名集落訪問は丘陵頂上で終了。墓地入り口まで降り、帰路に着く。帰路はほとんどが下り坂で疲れた脚にも負担は少ないだろう。


参考文献

  • 南城市史 総合版 (通史) (2010 南城市教育委員会)
  • 南城市の御嶽 (2018 南城市教育委員会)
  • 大里村史通史編・資料編 (1982 大里村役場)

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