Okinawa 沖縄 #2 Day 90 (08/03/21) 旧大里村 (4) Toma & Nakahodo Hamlets 当間/仲程集落

字仲間 (なかま)

当間集落 (とうま、トウマ)

  • 当間古島
  • 古島井泉 (フルジマガー)
  • ナンジィ鉱山大里R-1号井
  • 上 (ウィー) のクムイ
  • 前比嘉小井泉 (メーフィージャグヮーガ-)
  • 当間公民館
  • 龕屋跡
  • 佐久川原 (サクガーバル) の井泉
  • 与那嶺 (ユナンミ) の神屋
  • 真壁門井泉 (マカンジョーガ-)
  • 川端井泉 (カーバタガ-)
  • 城間 (グスクマ) の神屋
  • シーサー毛 (モー)
  • 夫婦井泉 (ミートゥガ-)
  • 西仲門井泉 (イリナカジョーガ-)
  • 根屋 (ニーヤ―)
  • 名称不明の井戸跡
  • 大城 (ウーグシク) の神屋
  • 当間農村公園
  • 御嶽之大井泉 (ウタキヌウフガ-)
  • 当間之御嶽 (トーマヌウタキ)
  • ウガンの上 (ウィー)

仲程集落 (なかほど、ナカフドゥ)

  • 殿 (トゥン)
  • 殿之井泉 (トゥンヌカ-)
  • 県営団地3号揀南側広場名称不明の井泉 (3月13日 訪問)
  • カジマサ
  • アジトウントウン
  • 仲程の北の石獅子 (C)
  • 下之井泉 (シチャンガ-)
  • インの井泉 (カー)
  • 西大前 (イリウフメー)
  • 西之津嘉山之井泉 (イリヌチカザンヌカー)
  • 仲程農村公園
  • クガニシー
  • ナカヌミーヤーの井泉 (カー)
  • インタナ内の拝所
  • インタナ井泉 (カー)
  • アサトの殿 (伝)
  • ウユー
  • 仲程公民館
  • 仲程の南の石獅子 (A)
  • ウンナン井泉 (カー)
  • 東之津嘉山 (アガリヌチカザン) の敷地跡
  • ミー井泉 (カー)
  • 仲程の東の石獅子 (B)
  • 名称不明の井泉


字仲間 (なかま)

当間集落と仲程集落は1908年 (明治41年) の沖縄県及島嶼町村制の際に統合されて、字仲間となった。仲程の「仲」と当間の「間」で字仲間と称されている。旧大里村は他の村も統合されて新しい字が造られてはいるが100年以上もたっても、かつての村が独自の村屋を維持、現在でも公民館が各村に残っており、それぞれが独自に運営を行っている。沖縄の村は御嶽や殿を中心に門中で構成されており、生活習慣もこの伝統を中心に営まれている。これが行政区としては統合したが、運用は以前のままで続いている。おそらく南城市もこれは認識しているだろうが、特に元に戻すとか、統合を強める事などは考えていないようだ。

統合された字としての仲間の人口は増えてはいる。特に仲程集落の拡大がその主要な要因となっている。仲程には大里小学校、大里中学校、大里村役場があった。沖縄本土復帰後、旧大里村では各地で集合住宅の建設が行われ、この字仲間には県営大里団地が建てられている。この大里団地は独立した行政区とされてはいるが、旧当間村か旧仲程村のどちらに建設されたのかは分からなかった。地元の人に聞いても分からなかった。仲程集落に隣接している事や、団地内に仲程集落が拝む拝所があるので、仲程集落の方に含めてグラフを作成した。大里団地が建設されて2005年頃までは、仲程と大里団地はほぼ同じぐらいの人口だった。その後、大里団地の人口は減少に向かうが、仲程の人口は区内に更に集合団地が集落の東と南に造られたことにより、現在は倍増となっている。

大里団地は山を切り崩して造成された団地。1989年に建てられたので、古く四階建てでエレベータはないので、近年は入居者が減少し、全盛期の半分ぐらいまで減少。


一方、当間は人口の増加率は限定されている。1960年からは35%増加している。公共機関や商業施設などが、当間集落のすぐ南の丘陵の上の仲程に集中したため、生活環境の良い仲程のほうが人気が高いことがあるだろう。

年別の民家の分布がわかる地図を見ても、仲程の住宅地域の広がりが一目瞭然だ。


大里村史 通史に記載された拝所 (太字は訪問した拝所)

当間集落

  • 御嶽: 当間之嶽

仲程集落

  • 御嶽: 黄金森
  • 殿: アサト之殿


当間、仲程集落で行われている年中祭祀は下記の通り。


当間集落 (とうま、トウマ)

まずは字仲間の北側にある当間地区から訪れる。当間は南の隣村の仲程のある丘陵の下に位置し、北側は福原、西は銭又、東は平良と古堅に接している。この4つの集落と接しているところ一帯は畑になっている。


当間集落訪問ログ


当間古島

当間の北は農地で民家はほとんどない。この辺りは当間集落が現在の場所に移動してくる前に集落があった古島にあたる。いつの頃、この古島に移り、そして現在の地に移ったのかは書かれてはいない。琉球村々立始古人伝記によれば、世立始は中城安谷屋よりの当間大主で在所は根所、地組始は大里よりの稲福子で在所は新里と伝わっている。この地には幾つかの井戸があり拝所となっている。資料に従って探す。


古島井泉 (フルジマガー)

かつての古島の畑地には古島井泉 (フルジマガー) があったそうだ。地図に示された場所には金網で囲まれた井戸があった。これが古島この辺りは古島井泉 (フルジマガー) と思うが、確かではない。香炉は見当たらなかった。

これ以外にも二つ井戸跡があったとされている。地図の場所付近を探したが、写真では香炉も置かれていたのだが、香炉も見つからなかった。

  • 内古島井泉 (ウチフルジマガ-)  : 当間区の祭祀資料では、「光則樽上門の畑の側」にあるとなっている。古島井泉より集落に近いところにあるため、内古島井泉 (ウチフルジマガ-) とも呼ばれる。元々はクムイ (池) であったが、土地改良整備事業の際、移設された。(写真中)
  • 正式な名称は不明の井戸 : 当間区では「善永さんの畑の角の井泉」と呼ばれていたそうだ。(写真右)
  • 古島井泉 (フルジマガー) : (写真左)


ナンジィ鉱山大里R-1号井

文化財ではないのだが、この古島の畑の中に、ナンジィ鉱山大里R-1号井というものがある。(ナンジィは南城市のゆるキャラのこと。) これは日本政府の琉球政府に対する技術経済支援計画の一環として1960年 (昭和35年) の1次調査から1969年 (昭和44年) の第6次調査まで、地質調査所 (通産省 工業技術院地質調査所) が調査・研究で宮古、那覇奥武山、大里で3本の試掘を行い、その結果、水溶性天然ガス鉱床として報告された。その試掘の1本がこの場所。

南城市は市の将来を目指したまちづくり「GAN JYU CITY 構想」の中で水溶性天然ガスを活用した取組みを検討している。水溶性天然ガスを利用したコージェネレーションシステムの導入の順次拡大や、水溶性天然ガスのゼロエミッション利用による『スマートアグリ』創出事業において、水溶性天然ガスコージェネによる電気・排熱を植物工場や台風対応型ハウスのエネ ルギー源として利用する等、南城市独自の取組みを打出していた。現在どこまですすんでいるのかは調べ切れなかったが、昨今は脱Co2が叫ばれる中、天然ガスではCo2は20%ぐらいしか削減できない。どうなっていくのだろう。


上 (ウィー) のクムイ

集落内の北の端に拝所がある。丘の上にある。丘の先端に拝所があり、ここは、かつて馬や牛等に水浴びをさせた場所だそうで、綱で馬や牛を石につなぐために、この石の穴 (写真右下) が使われていた。自然石が並んだ場所には、加工された古いコンクリート物がある。何なのかは書かれていないが、井戸の釣瓶だろうか? この拝所の前には南北にのびた細長い広場があり、ここで村の行事の綱引が行われている。かつては馬場だったようにも思える。


前比嘉小井泉 (メーフィージャグヮーガ-)

上 (ウィー) のクムイのすぐ近くの民家の前比嘉小 (メーフィージャグヮー) の敷地内に井戸が形式保存されている。現在湧水はない。


当間公民館

前比嘉小井泉 (メーフィージャグヮーガ-) から少し南に移動すると、当間公民館がある。ここは集落のほぼ西の端にあたる。集落は南西方北東に長細く伸びている。公民館の前には恒例になっている酸素ボンベの鐘が吊り下げられている。


龕屋跡

当間公民館から県道86号線を渡ったところに駐車場があり、その片隅に拝所がある。かつては、この辺りは前ヌ森と呼ばれており、龕屋があった。1960年以降、葬制が風葬から火葬と変わっていった中、龕は焼かれ、龕屋も取り壊された。現在はコンクリートの祠がおかれている。


佐久川原 (サクガーバル) の井泉

龕屋跡がかつての集落の西の端だが、そこから西は一面畑が広がっている。この辺りは佐久川原 (サクガーバル) と呼ばれ、その畑の中に井泉跡があるとなっていたのだが、写真の場所に行くと祠や香炉はなくなっていた。どうしたのだろう?


与那嶺 (ユナンミ) の神屋

もう一度集落に戻り、公民館の南すぐの所に与那嶺 (ユナンミ) の神屋がある。与那嶺門中の元屋 (ムートゥ―ヤー) で、当間集落ではウマチー等に拝んでいる。この家の人が声をかけてくれて、神屋の中を見せてくれた。神屋の中には多くの香炉が置かれ、端には火の神がまつられている。香炉の一つ一つが、与那嶺門中の祖先の誰であるかは不明と言っていた。両親は既に他界してしまい、今では知るすべはないと言っていた。神屋によっては誰を祀っているのかを書いているところもあるが、多くは親から伝えられないままになり不明になっている。


真壁門井泉 (マカンジョーガ-)

集落の南の端に真壁門井泉 (マカンジョーガ-) と呼ばれる井泉がある。この井泉は19世紀中頃に隣村の仲程と協力して整備し、飲料水や産水 (ンブミジ)、若水 (ワカミジ)、死水 (シニミジ) で使用していた。


川端井泉 (カーバタガ-)

真壁門井泉 (マカンジョーガ-) の近く、北東に川端井泉 (カーバタガ-) がある。以前は生活用水で使われていたが、現在は農業用水で使われている。


城間 (グスクマ) の神屋

川端井泉 (カーバタガ-) のすぐ側には集落の有力門中の城間 (グスクマ) の民家があり、敷地内には神屋がある。城間門中の元屋 (ムートゥ―ヤー) という。区では、ウマチー等に拝む。


シーサー毛 (モー)

城間 (グスクマ) の神屋から少し北に、シーサー毛 (モー) と呼ばれている拝所が民家の敷地内にある。シーサー毛と呼ばれているので、石獅子があるのかと期待していたが、石獅子ではなく拝所だけだった。民家の前は空き地になっており、この拝所への扉が設けられている。毛 (モー) と呼ばれているので、野原か林だったのだろう。名前の由来については書かれていない。


夫婦井泉 (ミートゥガ-)

集落の東端、大里住宅がある高台の斜面に夫婦井泉 (ミートゥガ-)と呼ばれる井泉があった。二つあるので夫婦井泉 (ミートゥガ-) と呼ばれているのだろう。一つは階段を上り、更に上の木の根元に拝所が置かれている。水はなく自然石が置かれ、その前に香炉が置かれている。

もう一つは、階段を上ったところにあり、コンクリート製の井戸の脇に拝所が置かれており、給水パイプもあるので、水はまだあるのだろう。


西仲門井泉 (イリナカジョーガ-)

夫婦井泉 (ミートゥガ-) から、集落内に入ったところに屋号 西仲門 (イリナカジョー) の屋敷そばにある井泉があり、形式保存されている。西仲門井泉 (イリナカジョーガ-) と呼ばれている。


根屋 (ニーヤ―)

集落の北東部分には拝所が固まっている。その一つに根屋がある。当間集落で管理されている。神屋のなかには火の神と5つの香炉が祀られているが、その内の一個の香炉は位牌とセットになっている。位牌の文字は判読できない状悪であるが、根屋の祭神は集落の始祖で守り神である「当間子」のものという伝承がある。現在、1月3日 (新歴) の初ウビー、5月15日の五月ウマチー、8月10日のカシチー等で集落による拝みが行われている。


名称不明の井戸跡

根屋 (ニーヤ―) の裏に拝所がある。この拝所が何を祀っているのかは確定できていないのだが、根屋に祀られている当間子の墓だとか、井泉の拝所だとかの言い伝えがある。


大城 (ウーグシク) の神屋

根屋 (ニーヤ―) の前は、集落も有力門中であった大城 (ウーグシク) 門中の元屋 (ムートゥ―ヤー) の屋敷跡で、空き地になっているが、神屋が置かれている。集落で、ウマチー等に拝まれている。


当間農村公園

集落の北東之端、丘陵の下は集落の農村公園になっている。広い広場で、半分は老人用のゲートボール場、残り半分は子供たちのためにサーッカーゴールが置かれている。昔は何だったのだろう。大体のケースではサーターヤーが農村公園になっているので、ここもサーターやだったのかもしれない。ここは集落の北東のはしてこれより北西は畑が広がりその多くはサトウキビ畑だ。


御嶽之大井泉 (ウタキヌウフガ-)

当間農村公圏の広場下にある直径約4mの井泉がある。この井戸が何に使われていたのかは書かれていないのだが、農村広場がサーターヤーだったとすると、農業用水であったのだろう。今での給水パイプが通っているので農業用に使われているようだ。ここまで幾つか井戸を見たがこの集落ではすべてコンクリートで覆われている。集落によっては金網で囲ったり、そのままだったりと、それぞれでの保存方法は様々だ。


当間之御嶽 (トーマヌウタキ)

2000年に当間農村公園が整備された際に、当時、集落にあった4つの拝所を合祀する形で現在のセメント造りの神屋が建てられた。神屋の中には4つの石の香炉があり、神屋の正面奥の壁には、「当間之御嶽 (神名: 姑巴之御威部)」と記されている。琉球国由来記の「当真之嶽 (神名: コバヅカサノ御イベ)」とある「当間之嶽」にあたる。(姑巴は植物のコバ  (クバ) の当字) 実クバ森の御嶽とも呼ばれている。4つの香炉の内、右端の香炉は村の守り神 (コバツカサノ御イベ)、中の2つは村立てにかかわった「当間子」と「真壁子」という始祖神、左端の香炉は戸籍に関係するものだという。「稲穂祭三日崇」の時には、この集落を管轄していた高宮城ノロによる祭祀が行われていた。(高宮城ノロの管轄地は多く、高宮城、平川、古堅、当真、中程、真境名、平良の7集落)  現在、五月ウマチー、六月ウマチー、アミシ等の際に、当間区が区の行事として拝んでいる。アミシの際は、綱引の前に御嶽が拝まれるが、その時区長は左側の戸籍に関係する香炉に対して区の人口を報告する習わしだという。

祠の向かって左側に4つの井泉への遙拝所が形式保存の形で置かれている。よく見ると、古島井泉、内古島井泉、佐久之井泉、伊野堂井泉とある。はじめの3つは集落巡りのはじめに探したが、見つからなかったり、香炉が撤去されていたものだ。2018年発刊の「南城市の御嶽」では香炉もある写真が掲載されていたので、それ以降に元々あった場所からここに移設さていたわけだ。これで見つからなかったことに合点がいった。沖縄では、このように、元あった場所から移し、遙拝所にするケースは多くなっている。拝所自体はそこに神が常にいるわけではなく、神が下りてくる目印といった感覚で特に場所については神経質にはなっていない。御願する場所が変わっただけで、それ以外は何も変わらないといった考えだ。今まで多くの拝所を見てきたが、一番多くあるのが、井戸の拝所、次に多いのが火の神。集落住民の生活の密着した神だ。特に井戸は住民にとっては最も重要で、60年前に水道が敷設される前までは井戸が唯一の水源だった。今でも60歳以上の人たちは、当時の水くみを懐かしく語る。それほどまでに住民には重要な自然神なのだ。火の神についても同じで、集落のすべての過程には台所に火の神が祀られている。集落にあるのは村の火の神や門中の火の神で、村全体、門中全体の火に係わる安全やありがたさを祈願するといった形だ。それ以外の拝所は門中の祖先や村の始祖を祀っていることが多い。沖縄の根強い祖先崇拝のあらわれだ。本土のように、八百万といった石や木や動物を祀っているケースはそれほど多くはない。日本本土と沖縄の宗教観の歴史上発展の違いが興味深い。


ウガンの上 (ウィー)

当間之御嶽 (トーマヌウタキ) の背後の丘陵にはウガン (御願?) の上 (ウィー) と呼ばれる拝所がある。テーラウガン (照屋御願?) ともいわれている。3か所に拝む場所を表す石が置かれている。祭神は戦前の先祖 (左)、先ヌ世 (サチヌユー 中央)、中ヌ世 (ナカヌユー 右) といわれている。この拝所の祭神は当間之御嶽に移されたと語る人もいる。また、子どもが生まれた時にこの拝所で報告の拝みをしていたともいわれる。



仲程集落 (なかほど、ナカフドゥ)

当間集落の文化財巡りを終えたが、まだ時間はあるので、南の丘陵の上に広がる仲程集落の文化財も巡ることにした。この集落の位置や人口については前述したとおりだが、この集落の村立てについては、琉球村々世立始古人伝記によれば、世立初は南山より来た仲程大主で在所は根屋大城、地組始は大里大城より来た稲福子で在所は大屋と伝わっている。集落では8つの門中があり、その一つが仲程門中で当世墓もこの地にあるというので、この仲程門中が国元の仲程大主の子孫にあたるのだろう。



仲程集落訪問ログ


殿 (トゥン)

当間集落から丘陵に上ると県営大里団地がある。どのような団地なのかと、中を歩くと団地の中に拝所があった。3号棟の西側に殿 (トゥン) がある。1989年にこのにあった山が削られ開発され、同団地が建てられた。山の森にあったいくつかの拝所が合紀され殿賀この殿 (トゥン) となった。仲程区、当間区、門中等により拝まれているという所から見ると、このかつての森の拝所は当間集落の聖域でもあったのだ。祠の中には三つの自然石の拝所があるが、それぞれが何を祀っているのかは書かれていない。


殿之井泉 (トゥンヌカ-)

殿 (トゥン) の近く裏手には殿之井泉 (トゥンヌカ-)の井泉跡がある。


県営団地3号揀南側広場名称不明の井泉 (3月13日 訪問)

県営団地3号揀南側広場の隅 (東側) に井泉跡があるそうだが、見落としてしまった。元あった場所から5m程北に移されたという。湧水はない。後日、もう一度訪れて見つけた。


カジマサ

県営大里団地3号棟の西側にはカジマサと呼ばれる神屋がある。綱引の時に「東」の組が拝んでいる。どこの門中の神屋か、何を祀っているのかなど詳細については書かれておらず残念。


アジトウントウン

カジマサから県営大里団地の囲んでいる道を北側に進むと2号棟の西の民家の裏手にアジトウントウンと呼ばれる拝所があり、コンクリート製の祠が置かれている。詳細については書かれておらず。

アジトウントウンの隣に神屋がある。神屋の側には石の祠がある。詳細は不明。


仲程の北の石獅子 (C)

アジトウントウンから道を進み丘陵の端に石獅子がある。下の崖に落ちていたのをここに重機で引き上げて置いたそうだ。西原町の運玉森を向いている。ここが集落の北の端だったのだろう。石獅子は前足の方しかないのだが、元々この形だったのか、後ろ足の部分は破損されているのか?


ここまでは仲程集落の北にあった森の聖域の拝所で、次は仲程集落の中にある文化財を巡る。集落は県道85号線 南風原知念線の西と東にある。かつてはもっと細い道だったのだろう。道路の西側から始める。



下之井泉 (シチャンガ-)

県営大里団地から、県道85号線 南風原知念線を渡ったところに下之井泉 (シチャンガ-) がある。この広場の半分程の大きさのクムイ (池) があったが、1975年頃にコンクリートで覆われた。正月の祭祀では、明け方に祠のそばにある井泉の取水蓋を開けて若水を汲だそうで、戦前までは洗濯等にも使用されていた。


インの井泉 (カー)

下之井泉 (シチャンガ-) の南西端、インタナの麓の民家のそばにインの井泉 (カー) という井泉跡がある。1964年に仲程で水道が設置されるまでは、この井泉の水は飲用水としても使用されていた。仲程と当間之漁集落で拝まれている。


西大前 (イリウフメー)

下之井泉 (シチャンガ-) から少し北側にいったところに屋号 西大前があり、そこには村で御願されているの仏壇がある。


西之津嘉山之井泉 (イリヌチカザンヌカー)

集落の北の端に井戸跡があり、西之津嘉山之井泉 (イリヌチカザンヌカー) と呼ばれている。


仲程農村公園

来た道を戻り、下之井泉 (シチャンガ-) を過ぎたところに仲程農村公園がある。この場所が何に使われていたのかは書かれていないが、長く伸びた広場から推察するに馬場跡と思われる。公園の端には酸素ボンベの鐘が吊るされている。


クガニシー

農村公園の西側は黄金森 (クガニムイ) という山になっており、頂上に上る急階段がある。頂上は広場になっており、そこにクガニシーと呼ばれる拝所がある。現在の場所は、農村公園の隣にある大里庁舎 (現在は改善センター) 建設の際に削られて平坦にされ、以前は現在よりも高い位置に拝所はあったとされているが、それから推測するに黄金森 (クガニムイ) は大里庁舎まであったのだろう。セメント造りの祠のなかには、2つの拝所があり、右側は直方体状をした本体部分に石造の屋根を載せた蔵骨器とおぼしきもので、左側は丸みのある石塊がある。琉球由来記に記載ある「コガネ森 (神名 コガネシオプルクウノ御イペ)」に該当すると考えられている。由来記の「コガネ森」の項に「高宮城 中程弐箇村」という記述があり、この拝所は仲程村だけではなく高宮城村でも村として拝む対象になっている。2つの拝所の内、右は仲程区、左は高宮城区が拝むものだとする説や、首里から移ってきたクガニシーという人物とその妻が祀られるという説もある。高宮城で訪れた「高宮城之殿」はクガニシーを祀っており、そこからここに勧請されたとも伝わっている。真境名集落では清明 (シーミ―) の時にこのクガニシーを拝んでいる。これはこの拝所が葬所であるという認識があることが窺われる。仲程では、五月ウマチーと六月ウマチー、綱引が行なわれる6月26日のアミシヌ御願の際に区の行事としてクガニシーを拝んでいる。


ナカヌミーヤーの井泉 (カー)

クガニシーからはもう一本北側に降りる道があり、そこを下った所に屋号 ナカヌミーヤーの屋敷跡があり、その敷地内に井泉跡がある。ナカヌミーヤーの井泉と呼ばれている。


インタナ内の拝所

ナカヌミーヤーの屋敷跡から西側も丘陵が南北に伸びている。そこはインタナと呼ばれ、幾つかの拝所がある。集落の西の端にあたり、そこから森の中への道がある。



インタナ井泉 (カー)

森の中への道を進み傾斜面中腹にはインタナ井泉 (カー) と呼ばれる井泉がある。金網で囲まれ、今でも水が蓄えられている。


アサトの殿 (伝)

インタナ井泉 (カー) から更に森の中に上る道がある。登っていくと祠が見えてきた。琉球国由来記にある「アサト之殿」ではないかと考えられているがはっきりとはしない。県営大里団地が建てられる前の森に所在した3つの拝所を、団地建設に際して、コンクリート製の社を設けて合祀したものともあるが、それぞれが何を祀っているかについては不明。琉球国由来記には、この拝所には「稲二祭」(五月ウマチーと六月ウマチー) の時に、仲程村ではなく当間村の百姓がアサト之殿に神酒を供えていたとあり、仲程村の百姓は高宮城村にある「高宮城之殿」に供えていた。これがこの拝所が仲程集落の殿であるべきのアサトの殿と確定できない理由だ。

アサトの殿 (伝) から更に上に上ると別の拝所がある。仲程にはじめに住んだ人の墓という。 1970年代まで、神人が祭祀を行っていた。


ウユー

更に上に上るとウユーと呼ばれる拝所がある。死者が、あの世の戸籍に入ることができるように願い、拝むという。

インタナの中には名不詳の井泉跡があり土管が置かれていた。


仲程公民館

集落の東の端に仲程公民館があり、その中には祭壇が置かれ、東津嘉山、西津嘉山、黄金氏などの祭神が祀られ、住民に拝まれている。


仲程の南の石獅子 (A)

公民館の入り口のところにも集落内にある三体の石獅子のうちの一体がある。南側を守る石獅子で、元は改善センター (旧 大里庁舎) がある丘陵にあったが、庁舎建設時にこの場所に移設されている。八重瀬岳に向けて火返しの為に置かれていた。


ウンナン井泉 (カー)

仲程公民館から県道85号線 南風原知念線を渡って集落北側に移動。県道沿いにウンナン井泉 (カー) があり、ウガン井泉とも呼ばれている。


東之津嘉山 (アガリヌチカザン) の敷地跡

集落の東側、県営大里団地の南には東津嘉山 (アガリチカザン) という人物の屋敵跡と伝わる場所がある。東嘉山と西津嘉山 (イリチカザン) は兄第で、共に南風原町の津嘉山から来たという。兄弟は仕事や遊びが同じくらい上手だったが、農作業等で競ったものの、勝負がつかず、綱引で勝負することにした。これが仲程の綱引の由来という。この敷地跡は駐車場に変わってしまったが、拝所にもなっている。


ミー井泉 (カー)

集落の東の端にミー井泉 (カー) がある。大正時代に造られ、井泉は石積みで囲われていた。


仲程の東の石獅子 (B)

県営大里団地から、大里中学校の裏手の道を進むと階段二なる、その階段の傍にある民家の庭の中に三体目の石獅子があった。火山だった高嶺森を向いているそうだ。


名称不明の井泉

大里中学校のグラウンド東側の道向かいに井泉跡がある。元は大里中学校のグラウンド内にあった。グラウンド整備のため、現在の場所に移された。仲程区、当間区等により拝まれている。一見、ゴミ収集場にも見えるのが、家庭ごみが置かれていた。


これで今日は、終了。二つの集落を巡った為、既に6時近くなってしまった。


参考文献

  • 南城市史 総合版 (通史) (2010 南城市教育委員会)
  • 南城市の御嶽 (2018 南城市教育委員会)
  • 大里村史通史編・資料編 (1982 大里村役場)

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