Okinawa 沖縄 #2 Day 91 (11/03/21) 旧大里村 (5) Inamine Hamlet 稲嶺集落

旧大里村 稲嶺集落 (いなみね、イナンミ)

[2021年7月12日 再訪 目取真の井泉]

  • 稲嶺古島
  • 軽便鉄道稲嶺駅
  • ツーラグワの井泉
  • トウンジカンジャの井泉
  • 西之井泉 (イリンガー)
  • 中之井泉 (ナカンカ―)
  • 東之井泉 (アガリンカー)
  • 目取真の井泉 [7月12日 訪問]
  • 我謝殿 (ガージャヌトゥン) [未訪問]
  • 殿之毛 (トゥンナーモー)
  • 稲嶺農村公園
  • 火之神 (ヒヌカン)
  • アンガーヤマ前にある拝所
  • 根屋 (ニーヤ)
  • 沖縄戦慰霊碑
  • 嶺井前之井泉 (ミニメーヌカー)、 嶺井前 (ミニメー) と前盛 (メームイ) の間の拝所
  • 獅子毛 (シーサーモー)
  • 製糖場 (サーターヤー) の井泉 (カー)
  • 稲嶺之殿 (ンナンミヌトゥン)
  • 大稲嶺 (ウフンナンミ) の神屋
  • 大稲嶺 (ウフンナンミ) の井泉 (カー)
  • 稲嶺公民館
  • 獅子加那志 (シーシガナシ―)
  • カミジリ井泉 (カー)
  • 酸素ボンベの鐘
  • 上新垣 (イーアラカチ) の神屋
  • 上新垣 (イーアラカチ) の風水 (フンシ)、上新垣 (イーアラカチ) の井泉
  • 大前 (ウフメー) の神屋
  • 大前 (ウフメー) の井泉 (カー)
  • 平良新垣小の拝所 [未訪問]


旧大里村 稲嶺集落 (いなみね、イナンミ)

稲嶺集落は三方を丘陵に囲まれた村。旧大里村では最もにぎやかな集落で近くには、軽便鉄道稲嶺駅があった。琉球村々世立始古人伝記によれば、世立初めは、佐敷新里村よりの稲福大神で在所大里、地組始は、具志頭新域よりの真境名子で在所は座神とある。

稲嶺集落は旧大里村では中心的な立場で人口も多く、明治時代から戦前にかけては大城集落に次いで2番目に大きな集落だった。沖縄戦で人口は減り、戦後、人口の伸びは他の集落に比べ低く、沖縄本土復帰直後は、明治時代の人口レベルには戻っていなかった。その後、稲嶺の北側に大里グリーンタウンが建設され、次いで第二大里グリーンタウンも建設され人口は飛躍的に伸び、現在では稲嶺とグリーンタウンを合計すると旧大里村では断トツで人口が一番多い地区になっている。

現在大里グリーンタウンは住所は稲嶺なのだが、行政法は独立した地区と扱われている。大里グリーンタウンなど独立行政地区を除くと、稲嶺集落は以前として人口の最も多い地区となっている。大里グリーンタウンの建設でその周辺も生活環境が著しく向上したことにより稲嶺集落も拡張していったのだろう。

民家の分布がわかる地図でも、大里グリーンタウンが建設され拡張されていったのがよくわかる。


大里村史 通史に記載された拝所 (太字は訪問した拝所)

  • 御嶽: 地頭所火神
  • 殿: 根所火神稲嶺之殿、我謝殿


稲嶺集落で行われている年中祭祀は下記の通り。過去に行われていた祭祀はかなり減って、絞り込まれている感がある。初起しと6月ウマチーが中心のようだが、かなりの数の拝所を巡っている。これは一日仕事だろう。


稲嶺集落訪問ログ


今日は南城市旧大里村井あった稲嶺集落を訪れる。まずは南風原町の神里集落に向かう。稲嶺集落は神里集落の南東にあるので、神里からもうすぐだ。神里集落と稲嶺集落の間には畑が広がり、その向こうには丘が横たわっている。あの丘を越えたところが稲嶺集落だ。


稲嶺古島

丘の下には饒波川が流れている。この饒波川の付近に稲嶺古島があったそうだ。稲嶺集落が丘を越えたところに移る前はこの辺りで生活をしていた。いつ頃この古島に住みついたのか、いつ頃現在の地に移住したのかは書かれていない。この後訪れる現在の集落の区画は比較的不規則なので、琉球王朝が強制的に区画整理された地域に移住させた時代より前ではないかと思える。劉協王朝の前半以前に移住が行われたのだろう。


軽便鉄道稲嶺駅

稲嶺古島の畑の中に大正12年に開通した沖縄県営鉄道糸満線の駅の一つ、稲嶺駅が存在した。県民の通学やサトウキビの輸送などに活用されていた。稲嶺駅からはバスも各地に出ており交通の便も良く、人々が集まるところだった。いつも思うのだが、戦後、軽便鉄道を再建しなった事はその後の沖縄の発展に影響を与えていると思う。経済活動や生活が那覇に集中依存し、那覇やその周りの地区とそれ以外の地区で格差がどんどんと広がっている。この稲嶺もそうだ。鉄道が走っておれば、発展の進み方は変わっただろう。昭和50年頃までは饒波川にあった橋台は河川改修により撤去、畠の中の軌道跡や稲嶺駅の施設跡、トンネルの痕跡も農地改良によって全て失われた。駅があった近くに「軽便駅 かりゆし市」と云う、地産農産物の直売店がかろうじて、軽便鉄道があった事を伝えている。

沖縄戦の前の1944年 (昭和19年) には、軽便鉄道は主に軍部の輸送手段として使用されていた。この稲嶺駅の近く神里で武器弾薬輸送にあたった8両編成の軽便鉄道で大事故が起こり、乗客の軍人210人、女学生8人、県鉄職員3人)が犠牲になった。最後方の一両は連結点から外れ、火が着いたまま津嘉山駅まで押し流されたという。軍は原因調査を行うが、不明のまま東風平国民学校で秘かに合同葬儀を行い処理された。本当に原因がわからなかったのかは不明だが、多くの事実は軍部によって秘匿にされたと推測される。

旧稲嶺駅からは古島の畑を突っ切り、饒波川を渡り、湧稲国に向かっていた。かつての線路は現在の県道77号線 (糸満与那原線) になっている。 


ツーラグワの井泉

かつての集落があった古島を流れる饒波川沿いにツーラグワと呼ばれる地域がある。ここにツーラグワの井泉がある。この付近にかつての集落があった。


トウンジカンジャの井泉

ツーラグワの井泉から饒波川沿いに南に少し進むと、トウンジカンジャという地域になる。ここにはトウンジカンジャの井泉と呼ばれる井戸跡はあり、古島井泉 (フルジマガー) とも呼ばれている。この一帯は隣村の湧稲国 (わきいなぐに) か目取真 (めとりま) のフルジマ (古島) といわれる。フルジマの頃、この井泉が使われていたという。湧稲国か目取真の古島は先ほどの稲嶺古島と隣接している。二つの古島を隔てるものもないので、この二つの古島は一つの集落で会ったようにも思える。移住の際にそれぞれのグループ (稲嶺、湧稲国、目取真) が別の地を選んだ可能性もある。

この辺りが古島だった場所。今はほとんどが畑になっている。


西之井泉 (イリンガー)

古島から丘に登ると丘の向こうは盆地になっている。稲嶺集落は三方を山と丘に囲まれた窪地に広がっている。丘から降りたところが集落の西の端にあたる。ここに井戸があり、西之井泉 (イリンガー) とかウンンジャ井泉 (ガ-) と呼ばれている、直径5m程の円形の堀井戸だそうだが、現在はコンクリート製の電柱28本で覆われているので、その形は判らなくなっている。かつては飲用や洗濯用等で利用されていたそうだ。井戸の前には水場が設けられている。現在は農業用水として利用されている。


中之井泉 (ナカンカ―)

集落の南東は丘陵があり、集落の南東の道を進むと公園がありその脇に井戸がある。中之井泉 (ナカンカ―, 別称 産井泉 ウブガー) と呼ばれている。堀井戸で、若水 (ワカミジ) ゃ、産水 (ウブミジ)、死水 (シニミジ) 等に利用されていた。戦後も洗濯等で利用されたが、現在では、農業用水として使用されている。


東之井泉 (アガリンカー)

更に道を進み、集落の東の端まで来た。急慮への坂道の途中に東之井泉 (アガリンカー) があり、円形の堀井戸。飲料水等に使用されていた。この井戸は1934年に、この集落に住んでいた医師の指導で保健衛生と事故防止を目的として、現在のコンクリート製の家型の建物で覆われた。井戸の近くにはこの井戸の拝所と思われる香炉が置かれている。


目取真の井泉 (7月12日に訪問)

東之井泉 (アガリンカー) から丘陵部に上ったところには目取真に向かう県道48号線が走っている。この県道48号線沿いに目取真の井泉があると紹介されており、その場所に行ったのだが、見当たらなかった。インターネットでこの井戸を見つけた人の写真があったので、それを借用した (写真右) 井戸の名前が隣の村の名になっていることには何かいわれがあると思うのだが、それは書かれていなかった。古島が稲嶺、湧稲国、目取真の三つの集落共通であったようなので、この三つの集落はお互いに何らかの関係があったと思われる。湧稲国ノロが湧稲国と稲嶺を管轄していたことからも、特に湧稲国と稲嶺は深い関係があったのではないだろうか?

7月12日に旧玉城村中山集落に向かう途中にここを通った。草が少し刈り込まれているのを見て、ひょっとして前回見つからなかった井戸跡の御願之為に刈り込んだのではないかと思い、再度探すと、井戸跡らしきものが見つかった。多分これだろう。


我謝殿 (ガージャヌトゥン) [未訪問]

県道48号線沿いを目取真集落方面に進むとガージャヤマと呼ばれる丘の中腹にガージャヌ殿 (別称 ペントーカミードウクマ) があると資料にはあるのだが、丘への登り口が見つからない、地図に記載されたところには謝花組という建設会社の本社ビルがあった。多分、このビルの裏手の林の中にあるのだろうが、立ち入ることはためらわれ断念。このガージャヌ殿とは稲嶺の村立てを行った人物の住居があった場所という。由来記の「我瀬殿」に相当するとみられる。昔、サムレーが月見をしながら、弁当を食べた場所だという伝承がある。現在でも五月ウマチーの祈願終了後にここで弁当を食べるそうだ。この場所の近くには井戸跡もある。2016年に謝花組本社ビル建設時に移設されたそうだ。


殿之毛 (トゥンナーモー)

ガージャヌ殿から更に県道48号線を進み、丘陵から稲嶺集落を見下ろすところに殿之毛 (トゥンナーモー) があり、殿 (トゥン、トゥヌ) とも呼ばれている。集落からみて南方の丘の上にある殿。1930年代後半までは、上新垣腹、大前腹、大稲嶺腹の神人をはじめ、各々の門中の人々も参加して5月・6月のウマチーを行った。琉球由来記の我瀬殿に相当するとみられる。


稲嶺農村公園

県道48号線を東之井泉 (アガリンカー) まで戻る。東之井泉の道を挟んだところはアンガーヤマという山になっており、その中腹に稲嶺農村公園がある。この公園は2006年に造られたのだが、以前は何であったのかは書かれてはいない。多くの場合サーターヤー跡が農村公園になっているのだが、ここもそうなのだろうか? 公園内にはゲートボール場と野外ステージがある。このステージで十五夜祭で獅子舞が披露されている。

農村公園のステージの前の観覧スタンドの前には井泉跡がある。名は不詳とのことだが、湧稲国ノロが階段上にある根屋で祈願をした後に手足を洗ったといわれている。


火之神 (ヒヌカン)

根屋への階段を上り、観覧スタンド上方に火之神 (ヒヌカン) の祠がある。国火ヌ神とも呼ばれている。根屋を拝んだ後に拝むことになっている。


アンガーヤマ前にある拝所

火之神 (ヒヌカン) のすぐ近くに、もう一つ拝所がある。名は不詳だが、霊威高い場所とされ、ここでは植物は採ってはいけないとされていた。戦前は雨乞いの祈願 (ムジュクイヌウガン) の際にも拝まれていたという。


根屋 (ニーヤ)

階段を上った頂上には、大殿 (ウフトゥン) とかお宮と呼ばれている根屋 (ニーヤ) がある。もともとは下のステージの近くにあったのだが、1935年頃に現在地に移された。沖縄戦で一部損壊し、コンクリート製に造りかえられ、さらに赤瓦付きのコンクリート製に建てかえられた。内部の祭壇には「玉城世」「南山世」「大里世」の香炉が安置され祀られている。左の床部には火ヌ神がある。この根屋は、琉球由来記の根所火神に相当し、湧稲国ノロが司祭した。

根屋の東側には玉城世、南山世、大里世、今帰仁世、カマンタ腹、大見謝腹、上門腹、高良腹、池之端腹の9基の香炉が置かれて祀られている。カマンタ腹、大見謝腹、上門腹、高良腹、池之端腹は稲嶺集落の門中リストには無いのだが、ここで祀られているということは、稲嶺と深い関係があるのだろう。

根屋の西側に遙拝所 (ウトゥーシ、タンカーベーシ) がある。何を遙拝しているのかは定かではないが、今婦仁を拝んでいるという言い伝えもある。この遙拝所は根屋を拝む前に拝まれている。


沖縄戦慰霊碑

根屋に上る階段の脇に慰霊碑が建っている。1954年 (昭和29年) に第二次世界大戦、沖縄戦で犠牲となった稲嶺集落住民の霊を慰めるために造られ、平成7年に現在の慰霊碑に改修された。221柱が祀られ、慰霊碑の全面には犠牲者の名が刻まれている。


嶺井前之井泉 (ミニメーヌカー)、 嶺井前 (ミニメー) と前盛 (メームイ) の間の拝所

次は集落の北側の拝所を巡る。農村公園から西側に降りて集落の中に入ったところに屋号 嶺井前と屋号 前盛の間が御願所になっている。入ったところに香炉が二つ置かれた祠がある。戦前からあり、祭神や由来等の詳細という。この拝所の奥には石の小さな祠が二つある。右側の祠はフニシンという。戦後、前新垣小のガジュマルの木の下に石が安置され、根神、居神により拝まれた拝所を、その後、東仲元の畑地に移され祠が設けられ、そして2012年頃、現在地に移設された。左側の祠の祭神や由来等については不明だそうだ。

ここにはかつて井戸があり、嶺井前之井泉 (ミニメーヌカー) と呼ばれていた。拝所の奥に形式保存された井戸の拝所がある。


獅子毛 (シーサーモー)

集落の北側の道を西に進むと公園がある。かつてはここには製糖所 (サーターヤー) があった。8月の十五夜の際に、獅子舞の奉納舞踏が行われていた。それで、この場所は獅子毛 (シーサーモー) と呼ばれ、公園内にブロックを置いた拝所がある。


製糖場 (サーターヤー) の井泉 (カー)

獅子毛 (シーサーモー) のすぐ西側にある井泉跡がある。 製糖場 (サーターヤー) の井泉 (カー) と呼ばれている。この井戸は、元々は拝所にはなっていなかったのだが、2005年頃から拝まれるようになったという。どのような経緯で60年以上も経った頃から拝まれるようになったのかが興味ある。


稲嶺之殿 (ンナンミヌトゥン)

製糖場 (サーターヤー) の井泉 (カー) から集落に入ったところに、稲嶺之殿 (ンナンミヌトゥン) があり、大稲嶺之殿 (ウフンナンミヌトゥン) とも呼ばれている。向かって左側の祠には「地頭火神」が祀られ、その横に5つの香炉が置かれた遙拝所になっている。大里、玉城、南山などの名が見える。戦前は石積みの拝所だったのだが、1995年頃に、現在のコンクリート製の祠に改修された。琉球由来記の稲嶺之殿と考えられている。稲大祭の際、湧稲国ノロにより司祭されていた。

稲嶺之殿 (ンナンミヌトゥン) から上に道が通じており、奥にも拝所が見える。この拝所に関しては、情報は見つからなかった。


大稲嶺 (ウフンナンミ) の神屋

稲嶺之殿 (ンナンミヌトゥン) の隣が元屋 (ムートゥヤ―) の屋号 大稲嶺 (ウフンナンミ) の敷地で、敷地内に神屋がある。稲嶺之殿 (ンナンミヌトゥン) の管理をしていたが、大稲嶺の嫡流は戦前にハワイに移住し、今は分家が稲嶺之殿を管理している。


大稲嶺 (ウフンナンミ) の井泉 (カー)

大稲嶺 (ウフンナンミ) の西側にあった井泉が形式保存され香炉が置かれている。大稲嶺 (ウフンナンミ) の井泉 (カー) と呼ばれている。戦前には既に水は枯渇していたそうだ。


稲嶺公民館

沖縄戦の後、昭和24年に公民館が建てられた。集落の中心のある公民館で正式には稲嶺構造改善センター。現在の建物が建て替えられている。公民館には火の見櫓なのか塔がありそこに「稲」と書かれている。大広間ではデイケアの集会がおこなわれており、おばあたちが歌を歌っていた。公民館の台所には祀火ヌ神が祀られている。公民館が建てかえられる前、公民館がムラャーと呼ばれていた時からあったという。初起し等、区のほとんどの祭祀において最初に拝まれている。

公民館敷地内の奥には拝所があった。戦前からあるそうだが、祭神は不明。


獅子加那志 (シーシガナシ―)

公民館の祭壇には獅子頭が安置されている。かつて目取真区のものだったが、稲嶺区の龕と交換されたという。この獅子は、初起しから御願解きまで、様々な祭祀で拝まれる。八月十五夜の祭りで獅子舞が奉納され、その時にで使用されている。八月十五夜では、農村公園の舞台、獅子毛、公民館でこの獅子を使った奉納舞踊が行われてる。公民館の建物の隣に倉庫がある。祭で使われる道具などが保管されているようだ。

農村公園で行われた十五夜祭での獅子舞の様子。


カミジリ井泉 (カー)

公民館前の広場の隅にカミジリ井泉 (カー) がある。村井泉 (ムラガー) とモ呼ばれている。かつてはこの広場は池 (クムイ) で、そこでは熱さまし薬とされた鯉が飼われていた。また、馬の水浴びやイモ洗い等も行われていたが、1930年代に埋められたそうだ。


酸素ボンベの鐘

公民館には酸素ボンベが見当たらなかったので、どうしたのかと思っていたが、集落内を走っていると、道の電信柱にその酸素ボンベが吊されていた。ここは集落の中心部から少し南に行ったところだが、以前はここに村の何かがあったのだろうか?


上新垣 (イーアラカチ) の神屋

公民館からの北のブロックは村立てに関わったとされる屋号上新垣 (イーアラカチ) の敷地だった場所で、今は空き地になっている。そこに上新垣腹門中の神屋が建っている。屋号上新垣は、新垣の旧家で、上新垣腹門中の宗家で、大里平良区から来たので、平良新垣 (テーラアラカチ) 、国番 (クニバン)、大元 (ウフムトゥ) とも呼ばれている。神屋内の祭壇には向かって右から、村神ヌ華、イ神、根神、玉城世、南山世、大里世、中山世、北山世、上新垣門中の香炉が、床部には火ヌ神が祀られている。

同じ敷地内にもう一つ神屋がある。この神屋の情報は無かったのだが、上新垣腹門中に係わるものだろう。


上新垣 (イーアラカチ) の風水 (フンシ)、上新垣 (イーアラカチ) の井泉

上新垣敷地内にある拝所で風水 (フンシ 写真左上) だそうだ。戦前からあったという。初起し、六月ウマチーといった村落祭祀で拝まれている。敷地跡には二つ井泉があり、奥の井戸 (写真右上) は形式保存され、井泉神 (力ーシン) とも呼ばれている。


大前 (ウフメー) の神屋

公民館の西隣には、カマンタ腹門中の宗家である屋号 大前 (ウフメー) の屋敷跡で、ここも空き地になっており、神屋が建っている。農村公園の上にある根屋に村立てに関わったとされるカマンタ腹の遙拝の香炉があったのを思い出した。資料にはこの稲嶺集落の門中リストがあるのたが、このカマンタ腹の名ではなく、出ておらず大前 (ウフメー) 腹があらわれている。神屋の祭壇には神ウコール、稲嶺シーシーウコール、北山世、中山世、南山世、火ヌ神が祀られているそうだ。屋号大前の一家は戦前にブラジルへ移民したそうだ。

沖縄では多くの家族が海外に移住している。現在は海外に約42万人程いるといわれている。当時は沖縄での生活が苦しく、意を決して海外に新天地を求めたのだ。移住後も門中の繋がりは強く、賓案に里帰りをする門中もあり、また5年に1度、10月30日を「世界のウチナーンチュの日」として、移民が沖縄に集まり世界ウチナンチュー大会が行われている。昨年が7回目の年だったのだが、新型コロナの影響で今年に延期されたのだが、今年は開催されるのだろうか?


大前 (ウフメー) の井泉 (カー)

カマンタ腹門中神屋 大前の敷地内の奥にある井泉跡。


平良新垣小の拝所 [未訪問]

公民館の東側ブロックには屋号 平良新垣小 (テーラアラカチグワァ  別称:クニシー) に拝所があるのだが、敷地内なので塀越しに中を除き探したが見当たらなかった。わざわざ声をかけて中を覗かしてもらうのもためらわれ断念。 この平良新垣小は、先ほどの平良新垣 (上新垣) 家の次男だそうだ。沖縄集落では戦後しばらくまでは、住所表示は屋号で行われていた。今は住所番号が振られているのだが、かつては郵便はこの屋号で届いたそうで、今でも集落住民の間ではこの屋号の方がしっくりとするそうだ。例えば大前門中であれば、宗家は屋号 大前で子供たちが分家になっていくときに、大前小、西リ大前、前大前、二男大前、新大前などを付け新しい腹を名乗る。集落を巡る際にこの屋号地図があると、どの門中が多いのかがわかる。ただ表札にはこの屋号ではなく、戸籍上の姓がでている。ちなみにこの集落の大前腹の姓は新垣で、ちょっと複雑だ。そのほかに、それぞれの腹が現在使っている門中墓 (当世墓) がどこにあるのかも調べる。そのことによってどこから移ってきたのか、腹同志の関係がわかることもある。今まで巡った旧大里村の集落には門中墓が見当たらない。それは他の地域から、または旧大里村の他の集落から移住してきたのがほとんどだったことによる。この稲嶺集落の10ある門中の半分 (新垣門中も含め) は旧大里村玉城の前川にあるので、そこからの移住と考えられる。


参考文献

  • 南城市史 総合版 (通史) (2010 南城市教育委員会)
  • 南城市の御嶽 (2018 南城市教育委員会)
  • 大里村史通史編・資料編 (1982 大里村役場)

0コメント

  • 1000 / 1000