Okinawa 沖縄 #2 Day 89 (06/03/21) 旧大里村 (3) Furugen Hamlet 古堅集落
旧大里村 古堅集落 (ふるげん、フルギン)
- 古堅の石獅子
- 馬場跡 (ウマィー)
- アシビー (遊び庭) 毛 (農村公園)
- アシビモー (遊び庭) の拝所
- 蓮小堀 (リングムイ)
- アシビ毛のミルク神
- お宮
- アマガシの御神
- 地頭火ヌ神
- ミルク神の拝所
- 威部之御嶽 (イビノウタキ)
- 村屋 (古堅公民館)、祭壇、台所の火の神
- 慰霊碑
- 照屋 (ティーラ) 、大照屋 (ウフティーラ) 、真栄城 (メーグシク) 、新屋之後ろ之井泉 (ミーヤヌクシロヌカー)
- 西門之側之井泉 (イリジョーヌスバヌカー)
- 上之井泉 (イーヌカー)
- 上之井泉之上 (イーヌカーヌイー)
- 黄金森御嶽 (クガニムイウタキ)
- 按司井泉 (アジガ―)
- 按司墓 (アジバカ)
- 引毛 (ユミヒチャーモー) の上方にある井泉跡 [未訪問]
- 威部之井泉 (イビヌカー)
- 前之井泉 (メーヌカー)
- 前上門之井泉 (メーイージョーヌカー)
- 後門之井泉 (クシジョーヌカー、ワクガ-)
- 大城井泉 (ウフグシクガ-)
- 真栄城 (メーグシク) の墓
- ビジュルの御嶽 [未訪問]
- ミントゥンカー
- 遊び場 (アシビナー)
- ポンプ井泉 (ガ-)
- 仲門之井泉 (ナカジョーヌカー)
- 新島井泉 (ミージマガ-)
今日は夕方から雨の予報。沖縄の天気は変わりやすく。午後には雨が降りそうなので、今日はいつもより早く集発。雨が降る前に終わらせるため、今日は古堅集落一つだけの訪問にする。
旧大里村 古堅集落 (ふるげん、フルギン)
古堅集落の村立ちに係わっていると考えられるのは照屋 (ティーラ) 門中、与那嶺 (ユナンミ) 門中、知念 (チニン) 門中の3門中といわれている。照屋 (ティーラ) 門中の始祖 (タチクチ) の當山司の次男の照屋氏 (ティーラシー) が掛保久 (西原町) から古堅に住みついたという。長男は真境名に移動した。照屋氏 (ティーラシー) は読谷村古堅からにこの地に移って既に住んでいた真栄城 (メーグシク) の娘婿となり、真栄城の集落創設の後を継ぐことになった。この集落の名は真栄城の故郷の古堅から付けたと考えられている。照屋氏は大里按司に仕え、その後、琉球王朝にも仕えたたとされているので、この地に移ってきたのは三山時代と推測される。 このように、照屋氏と真栄城が古堅集落の創設者 (クニデ―) というのが知られているが、これ以前にもこの集落はあったのではないかと考えられている。ハダカユーと呼ばれた人物が、高嶺森付近に住んでいた考えられ、按司加那志 (アジガナシ―、意味は按司様) とも呼ばれている。照屋氏 (ティーラシー) の長女が知念門中の始祖 (タチクチ) の妻となり、二女が与那嶺門中の始祖 (タチクチ) の妻となった。
古堅の人口は1880年 (明治13年) に比べ20%減少、1960年 (昭和35年) に比べ35%減少となっており、旧大里村の中で明治13年に比較して人口が減少している地区は3つあり、その一つとなっている。若者が村を出ていく現象が止まらず、世帯数が増えてはいるが、流出人口が多く、世帯当たりのに人数も大里村平均の2.6人を下回り、2.4人となっている。明治時代から昭和の半ばまでは、旧大里村の中で人口は多いグループだったのが、現在は下から3番目までに落ち込んでいる。人口については最も悩んでいる地域だ。
民家の分布の編成を見ても、元々の集落が少し拡大したぐらいで、集落内の民家自体が空き地や空き家が多くなっている。この地期の過疎化が進んでいることがよくわかる。
現地を訪問して分かったのは、この古堅集落は周りが山に囲まれて、集落が拡大する余地がほとんどないということだ。それと公民館で出会った男性の話では、若者が村を出ていくケースが多いという。その理由は、本人が出るケース以外に家族が息子や娘が村の外での活動することを希望しているという。村に残っている習慣が負担になっていることも原因だそうだ。外から見ると、集落の文化や風習の維持の維持は大切だと簡単に言うのだが、村に住んでいる若者にとってはそれは重荷になっている。これは沖縄だけでなく、日本全土の田舎で同じ問題がある。これは難しい問題だ。過去の文化遺産として歴史として残すか、受け継いできた文化風習を維持継続して残すのか、その線引きは難しい。芸術や工芸は形として残すことは、目に見えるので行政の協力も得られる可能性はあるが、信仰や生活習慣に係わる文化はどのようにするのかは現在はその村の住民次第となっている。信仰や風習は時代と共に変わっていくことは常の事であり、消えていくものもある。それは仕方がないことだが、それを歴史として書き留めて、その時代の人々を理解することは大切だと思う。これはムラ之住民に任せるのではなく、行政が文化の一部として未来の子供たちに歴史として伝えるべきではないかと思う。行政により、対応は随分と異なっている。
大里村史 通史に記載された拝所 (太字は訪問した拝所)
- 御嶽: 古堅之嶽 (所在地不明)
- 殿: 古堅之殿
嶺井集落で行われている年中祭祀は下記の通り。10月以降には祭祀が行われていないよう二書かれていたが、そうなのかと少し疑問。それぞれの祭祀で巡る拝所の数がかなり多い。昔は毎月複数の祭祀る祭祀があったことを考えると、随分、楽にはなったのだろう。
古堅集落訪問ログ
3月3日に訪問した島袋の隣村なので、まずは島袋に向かった。島袋集落も丘陵に囲まれていたが、この古堅は島袋古島の南の丘を越えたところにあった。まずは島袋古島との村境から古堅集落を巡ることにする。
古堅の石獅子
島袋古島の南の丘の上に石獅子が残っている。民家のすぐそばにある。2017年に撮られた写真では民家はなかったのだが、今は窓のすぐ前に石獅子がある。昔、古堅集落は火事から集落を守る為に北向けにシーサーを設置したそうだ。上与那原、運玉森、方面に向いている。上与那原では、古堅のシーサーに跳ね返された厄が上与那原で火事を起こしているとし、古堅のシーサーに向けてシーサーを設置した。この石獅子などは風水に従って設置されているようで、村の東西南北に村に守るため石獅子などを億週間があり、この石獅子はニーヌファ (子ヌ方、北向き) のフーシ (風水) と考えられている。この地は石獅子があるので獅子毛 (シーサーモー) と呼ばれている。これは一つの説で、別の言い伝えでは石獅子の北側にある墓からウチャタイヤグラ―ウーシナとかティンゲーマジム、ウフザトゥウフナーと呼ばれた妖怪が出るので、ここに厄除けとして設置したともある。
馬場跡 (ウマィー)
石獅子がある獅子毛 (シーサーモー) から長い遊歩道が伸びている。ここはかつての馬場 (ウマィー) で馬競争が行われていた場所。
アシビー (遊び庭) 毛 (農村公園)
馬場跡の端は農村公園になっている。昔はアシビー毛と呼ばれた場所だった。写真に写っている丘がアシビー毛で古堅集落の北に位置している。
公園内には遊戯具などがあるが今日は土曜日で学校は休みだが誰もいない。
アシビモー (遊び庭) の拝所
農村公園の中に拝所があるが、名は不詳。農村公園ができきた際に、元々は公園山の麓にあった拝所を、現在の場所に移設している。
蓮小堀 (リングムイ)
遊び庭 (農村公園) 北側の小山の中への道がある。そこを登ったところに拝所がある。 ここには、かつて、お坊さんが住んでいて、そこには池 (小堀 = グムイ) があり、蓮 (リン) が生えていた。これが名称の由来となっているそうだ。ここは、村の風水 (フーシ―) のトゥイヌファ (酉之方、西の方角) ではないかと考えられている。現在は、湧水はなく、石で囲って香炉が置かれている。9月のシマクサラサー (厄払い) で拝まれる。
アシビ毛のミルク神
農村公園の北の丘へ登る道がもう一つある。そこも拝所に通じていて、ミルク神 (弥勒) が祀られている。
お宮
農村公園のあるアシビモーから南側に見える高嶺山 (タカンミムイ) と呼ばれている丘陵の中腹にあるお宮が見えている。集落は古の二つの丘陵の間にある。このお宮に向かう。
お宮は、上の写真の右に見える公民館の側の階段を上った所にある。石造りの祠で、お宮の中には、大小16個の石 (多くは立方体の切石) が安置されている。1943年に、建立されたお宮では、高嶺山にあったいくつかの拝所の神が合祀されたと言われ、お宮の中の石はそれぞれの拝所にあったものを移してきたものだそうだ。現在ある16個という石の数が、合祀される前の拝所の数に談当するかどうかは不明。合祀した際の経緯は不明だが、建立された1943年 (昭和18年) は戦争が近づいてきていた時期で、国粋主義の時代。沖縄に国家神道を押し付けていた時代でもある。お宮と呼ばれているのもその表れではないだろうか? 他の幾つかの集落にもお宮と呼ばれる拝所があった。そのお宮も集落にあった拝所を合祀しており、この合祀は日本政府からの指導 (半強制ではあったが) だったという。戦後になってから、一部の石は元あった場所に戻したが、場所が特定できずに戻せないものがあるという。現在のお宮は1998年に改修されたもの。
アマガシの御神
お宮に上る段の手前は小さな広場になっている。殿 (トゥン) も呼ばれている。高宮城ノロによって可祭され稲二祭 (ウマチー) の時に神役がお宮の方に向いて座り、ウンサク (御神酒、口噛み酒の事で昔は女性が生米を噛んでつくっていた。現在はウンサクは売られているのだが、若い人は好んでは飲まないそうだ。これは糸満で会った大城さんから聞いた話) をいただく場所であったとされている。この広場は「琉球国由来記」に見える「古堅之殿 (神名: オシアゲ森之イベ)」である可能性が高いという。昔は香炉が置かれていたというが、焼失しているが、この場所をアマガシの御神と呼んで、ウマチー以外にも、神清明、ミーミンメー、シマクサラサー等の時に区の行事としてで御願されている。
地頭火ヌ神
お宮へ上がる階段の右側にある火ヌ神。戦前からある拝所だが、今はコンクリートで整備されている。
ミルク神の拝所
地頭火ヌ神の奥にある拝所が二つある。ここもミルク神 (弥勒) を祀る拝所だそうだが、両方とも香炉が高嶺山 (タカンミムイ) に向いているので、高嶺山にある拝所への遙拝所だとか、ムラの火ヌ神だとか、ムラのフンシ等所説あるらしい。
琉球文化圏では、弥鞠信仰が土着のニライ・カナイ信仰と結びつき、「ミルク」 と呼ばれ、年に一度、東方の海上から五穀の種を積みミルク世をのせた神船に乗ってやってきて豊穣をもたらすという信仰が成立した。五穀豊穣や村民の幸せ・村落の繁栄を運んでくる神として信仰されている。沖縄の65の地域で確認され、現在もミルク信仰が続いているのは49の地域で、沖縄南部では [那覇市] 首里赤田・辻、[八重瀬町] 東風平・破名城・ 志多伯、[与那原町] 与那原、[南城市] 外聞・津波古・古堅・垣花・糸数・安座真、[豊見城市] 保栄茂、[糸満市] 真栄里・糸洲で信仰されている。沖縄の弥勒信仰は中国のものとは少し異なり、中国南部の弥勒の化身とされる布袋の仮面と共にベトナムから八重島に伝わったとされている。それが与那国経由で沖縄本島に伝播したと考えられている。日本本土でも本州大平洋岸にミロク信仰は点在しており、八重山から黒潮の流れにのって伝わったのではと考えられている。
この古堅では旧暦4月1日に行われる豊年祭「ミーミンメー」で、子孫繁栄と豊作を祈る。子供達が「ミーミンメー」を踊りながらムラの拝所やアシビナー (遊び庭) などを練り歩き、ミルク (弥勒) の福を授かるとされている。昔、ミーミンメーは元々はアラバタアラシー(荒畑競争)、スディチラアラシー(芭蕉布織り競争)と呼ばれ畑を耕す競争や、主婦が夫のためにつくったバサージン(芭蕉衣)の出来具合を競った行事だったのだが、戦後まもなくの頃ミルク(弥勒)を登場させ、踊りを中心に棒術も取り入れて演じられるようになったのが、現在のミーミンメーとされている。
威部之御嶽 (イビノウタキ)
お宮への階段を上がり、お宮の手前右側にイビの御嶽がある。イビガナシー (祭神) への遙拝 (お通し ウトウーシ) 用の香炉が1つある。かっては、ノロが祭祀に関する話し合いをした場所だそうだ。かつてはもう一つ霊石がありそれは龍宮の神への遙拝所 (お通し ウトウーシ) だったが、今はその霊石はなくなってしまった。
村屋 (古堅公民館)、祭壇、台所の火の神
お宮の下には古堅公民館が建っている。この公民館の中には珍しく祭壇があるのだが、それは見れなかったので、資料から写真 (左下) を借用した。祭壇には7個の香炉が安置され、左側から順に、①アジガナシー (村の始祖といわれており、この香炉は戦後追加された)、②火ヌ神、③お産の神、④水の神、⑤久高への遙拝、⑥玉域のミントゥンへの遙拝、⑦玉城天孫氏への遙拝のための香炉だとされる。村の行事ではここが最初と最後に拝まれている。更に台所には火ヌ神が紀られている。区のほとんどの年中行事において、台所の火ヌ神とともに拝みの対象になっている。殿 (トゥン) と呼ばれている広場には酸素ボンベの鐘が吊るされている。
慰霊碑
公民館からお宮に上る階段の途中に慰霊碑がある。県が発行している慰霊碑リストには昭和24年に建立された以外、何柱なのかなどの情報は無かった。この慰霊碑はもともとはこの古堅集落の東にあった大里村の役場が、昭和24年に与那原町が大里村から分立し、役場を隣の仲間に移転した際に、古堅集落の住民が放置されていたものをこの場所に立て直したもの。慰霊碑の両側に置かれている砲弾は沖縄戦を忘れないために設置したのだと、ここで話した男性が言っていた。
照屋 (ティーラ) 、大照屋 (ウフティーラ) 、真栄城 (メーグシク) 、新屋之後ろ之井泉 (ミーヤヌクシロヌカー)
公民館の前の道路を挟んだところにこの古堅集落の始祖と考えられている照屋 (ティーラ) 門中の屋敷があった場所。現在でも照屋の敷地には大きな家が建っている。ミーミンメーはこの敷地内で行われている。この屋敷内には照屋の本家の大照屋 (ウフティーラ) もあり、祭壇がある。 西原村掛久保の當山子の次男が古堅に来て、真栄城 (メーグシク) に可愛がられ、一人の娘がいたので婿養子となり、ムラの創設となったといわれる。それからは当山子 (トーヤマシー) と言はず照屋子 (ティーラシー) と呼ばれた。大照屋の敷地内には、真栄城 (メーグシク) と呼ばれる祠 (写真下中) があり、真栄城の祖先を祀っている。(写真右下) 大照屋 (ウフティーラ) の隣には新屋がありの奥には井戸跡が残っている。(写真右上)
次は高嶺山 (タカンミネムイ) にある拝所に向かう。
西門之側之井泉 (イリジョーヌスバヌカー)
公民館から高嶺山 (タカンミネムイ) への登り口に向かう登坂の途中に、西門之側之井泉 (イリジョーヌスバヌカー) ト呼ばれている井戸跡がある。傾斜面に広がる西門 (イリジョー) の畑のそばにある。土砂崩れで埋もれたため、現在湧水はない。
上之井泉 (イーヌカー)
更に坂道を登ると、もう一つ井泉跡がある。上之井泉 (イーヌカー) と呼ばれ、かつては飲料として利用されていた。
上之井泉之上 (イーヌカーヌイー)
上之井泉 (イーヌカー) から斜面を登ったところが村の風水 (フシン) のウーヌファ― (卯之方、東の方角) と考えられている上之井泉之上 (イーヌカーヌイー) と呼ばれる場所があるそうだが、探すも拝所らしきものは見当たらなかった。
黄金森御嶽 (クガニムイウタキ)
登坂から農道が山の上の方に分岐していた。多分この道が登り口なのだろうと、進むと山の林に入っていく道があった。公民館で話した男性によると、この道は年に一回ウマチーの前に草刈りを行うと言っていたので、ウマチーにはまだ三か月弱あるので、草は伸び放題かと思っていたが、綺麗になっていた。村の誰かが時々手入れをしているのだろう。この高嶺山 (タカンミムイ) は古堅集落にとっての聖域で、この場所一帯はユミヒチャモー (弓引毛) と呼ばれており、古墓や井戸や拝所が集中している。 かなり急な坂となった道を登りきると、広場が現れ、そこに黄金森御嶽 (クガニムイウタキ) があった。戦前には高嶺山の頂部に、黄金松と呼ばれる末の大木が2本並んで立っていたという。遠くから見た際に松の根元が光って見えたという。村では根元に黄金が埋まっているとか、9月9日に黄金の花が咲くとか、年十二は誰かが埋められており燐が光っているのだとかのうわさがあったそうだ。
按司井泉 (アジガ―)
黄金森御嶽 (クガニムイウタキ) の側に立っている木の根元に井戸跡があり、香炉が置かれて拝所となっている。今では湧水はない。この井戸が按司井泉 (アジガ―) ではないかと考えられている。
按司墓 (アジバカ)
黄金森御嶽 (クガニムイウタキ) への手前で道の東にはあり、底を進むと古墓がある。古堅集落の始祖と伝わる按司加那志 (アジガナシ―) の墓と考えられている。按司世 (アジシー) 祭祀の時は、公民館の祭壇から遥拝されている。元は現在の場所よりさらに上の方にあったが、地崩れ後に移動したそうだ。
引毛 (ユミヒチャーモー) の上方にある井泉跡 [未訪問]
ユミヒチャー毛の上方、黄金森御嶽 (クガニムイウタキ) の西にある井泉跡があるそうだが、ここは見落とし、後日再度来たのだが、地図にある場所に行ってみたが、井戸跡は見つけられなかった。この場所は武人が弓の練習をしながら、外部から侵入者が来ないか見張った場所といわれている。(公民館で会った人は泥棒が入らないかを監視していた見張り台があったと言っていた) この拝所からは、たしかに、南風原、那覇方面がよく見える。祭祀の時、傾斜面下方の道から遙拝されている。
井戸跡の写真は資料から拝借した。
威部之井泉 (イビヌカー)
黄金森御嶽から道を戻り、林を出たところには威部之井泉 (イビヌカー) があると「古堅地区集落地域整備事業 記念誌」の地図に出ていた。説明や写真はなく。この場所がそうなのかは地震はないのだが、地図上ではこの辺りで、ブロックが置かれている。お宮に合祀された拝所を戻すときに、ブロックを置いて香炉替わりにしていると書かれていた。このブロックはこの一つだけなので、おそらくここがそうだろう。
山を降りて集落に戻り、集落内の拝所を巡る。
前之井泉 (メーヌカー)
公民館の南の広場に井戸が金網で囲まれている。前之井泉 (メーヌカー) で産井泉 (ウブガー) とも呼ばれている。 若水等にも使用されたという。
前上門之井泉 (メーイージョーヌカー)
集落東部の空き地に前上門之井泉 (メーイージョーヌカー) があり、コンクリートの蓋で覆われ、横には井戸の形を模したものと香炉が置かれている。
後門之井泉 (クシジョーヌカー、ワクガ-)
集落東部、前上門之井泉 (メーイージョーヌカー) の近くに後門之井泉 (クシジョーヌカー) があり、別称ワク井泉 (ガ-) ともいう。石積みの井泉で現在も使用されている。
井戸の前にはクシジョークムイという池があり、蓮 (リン) がきれいに咲いていた。農村公園のあるアシビモーには蓮小堀 (リングムイ) の拝所跡があったのを思い出す。今はなくなっているがかつての池にももっと多くの蓮の花が咲き誇っていたのだろう。
大城井泉 (ウフグシクガ-)
次は集落の西側の拝所を巡るが、東側に比べて西側の方が多くの拝所がある。多分、西側の方が早くに村ができたのだろう。村の区画を見ても、西の方は不規則な区画で東側はその後に広がった碁盤目状になっている。ここには屋号 大域の屋敷があったので大城井泉 (ウフグシクガ-) と呼ばれている。
真栄城 (メーグシク) の墓
大城井泉 (ウフグシクガ-) から集落を囲っている丘陵に上がる道がありその途中に、村立てを行ったと伝わる真栄城 (メーグシク) の墓がある。ここは集落の風水 (フーシ) の四つ目のウマファ (午之方、南の方角) の神が祭神ともいわれている。
ビジュルの御嶽 [未訪問]
真栄城 (メーグシク) の墓の北の空き地の後方にはビジュルの御嶽がある。空き地内に井戸跡があったが、御嶽らしきものは見つからなかった。どうも奥の林の中にありそうだ。
ミントゥンカー
道端にミントゥンカーという井泉跡がある。湧水はなく形式保存されている。かつては死水 (シニミジ) を汲んだ井泉といわれている。
遊び場 (アシビナー)
ビジュルの御嶽とミントゥンカーの間にはかつて遊び場 (アシビナー) があった。
ポンプ井泉 (ガ-)
集落西部の農村公園の南には、戦前、農村公園の西側に製糖工場があり、そこへこの井泉から水を送るためにポンプが取り付けられた。そのため、ポンプ井泉と呼ばれるようになったという。井泉には「共榮泉 昭和十三年二月廿二日竣工」と刻まれている.
仲門之井泉 (ナカジョーヌカー)
集落西の端も民家の敷地内に形式保存された井泉の拝所がある。元あった井泉は埋められ現在は湧水はない。
新島井泉 (ミージマガ-)
集落の南西の端に新島井泉 (ミージマガ-) があり、下門小の井泉ともよばれた。干ばつの時でも涸れなかったという。現在も農業用水として使用されている。
今日は、やはり、集落を巡っている途中に雨が降り出し、公民館で雨宿りをした。小降りになり再開したが、いつ本降りになるかもわからないので、集落訪問終了後すぐに帰途に着いた。明日から数日は雨らしい。
参考文献
- 南城市史 総合版 (通史) (2010 南城市教育委員会)
- 南城市の御嶽 (2018 南城市教育委員会)
- 大里村史通史編・資料編 (1982 大里村役場)
- 古堅地区集落地域整備事業 記念誌
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