Okinawa 沖縄 #2 Day 44 (13/10/20) 旧東風平 (7) Shitahaku Hamlets 志多伯集落

志多伯集落 (したはく)

赤石の杜

  • 国元之按司墓 (クニムトゥヌアジシ)
  • 高岩 (タカシー) / 当銘蔵グスク按司の娘の墓
  • 神座之嶽 (カミジャナウタキ、神茶名嶽)
  • 地頭之殿 (ジトウヌトゥン、外間之殿 [ホカマヌトゥン]) / 地頭之殿井 (ヂトウトンガー) 
  • クニンダ世、神グサイ井戸、国元の井
  • 御穂田 (ミフーダ)・金満御嶽 (カニマンウタキ)

志多伯集落内の文化財

  • 仲間の殿 (ナカマヌトゥン、波平之殿 [ハンジャトゥン])
  • 根屋 (ニーヤ、仲地之殿 [ナカチヌトゥン])
  • 御願小之お岳/ミルク川神
  • 長嶺野呂殿内 (ナガミネノンドゥンチ)
  • 墓群
  • 中道 (ナカミチ)
  • 北山中山御通し
  • 大井 (ウフカー)
  • 下之井 (シムヌカー)
  • 神谷家門構え
  • チーアジ御墓
  • 波平之殿
  • 東リ之殿
  • 仲之殿/中之井
  • 志多伯公民館
  • 南の石獅子 (午ヌ端の石獅子)
  • 東の石獅子 (卯ヌ端の夫婦 [ミートゥ] 獅子)
  • 西之端 (イリヌハシ) の石獅子 / 馬場跡
  • 北之端 (ニシヌハシ) の石獅子

今日は当銘倉城 (テミグラグスク) の三番目の地域の赤石の杜とその丘陵の麓に広がる志多伯集落を巡る。


志多伯集落 (したはく)

東風平村史にはこの集落の成り立ちには触れていないのだが、この集落は当銘倉城 (テミグラグスク) 按司の支配下であったとすると、小城、当銘と近い関係であったと推測できる。今でもこの三つの集落はウマチーでは共通の拝所を巡っている。1903年 (明治36年) の土地整理で大字制が導入された際に、志多伯は大字として字の小城と当銘を合併し、三つの部落の中心的存在だった。この行政体制が1947年まで続き、この年に従来の6字 (大字) 制から12字になる。 

この集落は沖縄の本土復帰時の人口から現在まで10%しか伸びていない。沖縄の他の自治体と比較して、かなり低い数字だ。しかも近年は毎年、人口が微減している。公民館で話しをした新垣さんは、集落の人たちは人口が他の字と比較して伸びていない事には特に気にしていない。シンプルにここには集合住宅が建たなかったからと言っている。ただ人口が千人をきってしまっている事は気にしており、千人に復帰する事には関心があると言う。

沖縄戦の後1948年時点では東風平村の中で比較的人口が多い字であったが、現在は少ないグループになってしまっている。隣の字東風平は順調に人口は伸びているのだが、この志多伯はその時流には乗れていない。

東風平村史に掲載されている志多伯の拝所

  • 御嶽: 神茶名嶽 (カミジャナノタキ)
  • 殿: 外間之殿 (ホカマヌトゥン)、地頭之殿波平之殿 (ナミヒラヌトゥン、ハンジャヌトゥン)、仲間之殿、中地之殿 (ナカチヌトゥン、大殿 [ウフドン])根屋
  • 泉井: 産井 (ウブガー)、西門井 (イリジョーガー)、中之井 (ナカヌカー)、ンスガー、ヂトウトンガー、キガンノガー


赤石の杜

小城、当銘と志多伯の三つの集落に広がっていた当銘蔵グスクの赤石の杜から見てみよう。この地は前回 10月10日に当銘集落を訪問した際に一部見学している。

小城から伸びるウマチーロードを東に進むと赤石の森に通じる。


国元之按司墓 (クニムトゥヌアジシ)

森の中に入り少し進むと、大きなガジュマルがあり、その根本に拝所がある。国元之按司墓 (クニムトゥヌアジシ) とある。国元の墓と解釈できるが、この国元が誰にあたるのだろう。東風平村史ではここが当銘蔵グスク按司墓としている。当銘蔵グスク按司墓は当銘と小城には無かったので、ここで言う国元は当銘蔵グスク按司のことであろう。


高岩 (タカシー) / 当銘蔵グスク按司の娘の墓

国元之按司墓 (クニムトゥヌアジシ) の近くには別の墓がある。当銘蔵グスク按司の娘の墓と言われている。当銘蔵グスク按司墓の側に葬られたのだ。

ここにも国元之按司墓 (クニムトゥヌアジシ) に付随したものがある。一つは高御墓、もう一つは金クンンウ御墓と読める。遥拝所と書かれているが、どこに向かっての遥拝所なのかが書かれていない。そこが本当は知りたい重要なところだ。


神座之嶽 (カミジャナウタキ、神茶名嶽)

志多伯集落に向かって杜を降り始めたところに森の中への側道がある。草がちゃんと刈られている、この様な道は拝所への道のはず。この道を進むと、やはり広場が出てきた。志多伯集落にとって一番大切な御嶽の神座之嶽だ。神茶名嶽とも書かれる。この場所に神々が集まると伝えられている聖域。ここでは嵩陀加威部 (タキタカオノイベ) が祀られている。


地頭之殿 (ジトウヌトゥン、外間之殿 [ホカマヌトゥン]) / 地頭之殿井 (ヂトウトンガー)

赤石の杜の出口付近に拝所の地頭之殿 (ジトウヌトゥン) がある。解説には当銘の地頭が住居を構えていた場所となっている。地頭職とあるので、第二尚氏琉球王朝時代のことだろう。当時は小城、志多伯も当銘の地頭の管轄であった。井戸跡の様なものもある (写真左下) おそらくこれが地頭之殿井 (ヂトウトンガー) だろう。東風平村史では外間之殿がもともと呼ばれていた名で、地頭之殿 (ジトウヌトゥン) は現在の呼称と書かれていた。


クニンダ世、神グサイ井戸、国元の井

赤石の杜の北側にはクニンダ世と書かれた拝所がある。クニンダは「久米村」の事を表しているのだろうが? そうであれば、この地域に久米村出身の華僑が住んでいたのかも知れない。久米村の人は優秀な職能集団で、各地でその際を発揮していた。ここでもそうであったのか? 世とは墓の事を示していると思われる。小城の御嶽には多くの「世」があった。この「世」が墓の意味で使われている理由が気になる。何か深い意味がある様な気がする。
墓の脇には二つの井戸跡がある。神グサイ井戸と国元の井。グサイと呼ばれているので神グサイ井戸はクニンダ世と一体のもので、この墓を御詣りに際に身を清めた井戸だろう。

御穂田 (ミフーダ)・金満御嶽 (カニマンウタキ)

クニンダ世から近い場所にもう一つ拝所がある。御穂田 (ミフーダ) は文字から分かる通り田の事。沖縄では井戸程多くは無いが、田も拝所として祀られている事がある。今までも数カ所の御穂田 (ミフーダ) を見かけた。元々はウマチーで御願する稲穂をこの場所で育てていた。食用の物では無く、供物としての神聖な田であった。この風習は本土でも同じよ様に、神社に供える稲穂や塩はそのためだけの田や塩田があった。同じ場所に金満御嶽がある。何故ここに金満御嶽があるのかはわからないが、沖縄では広く拝められる嶽だ。

これで赤石の杜の拝所見学は終了。次は志多伯集落内にある文化財を巡る。多くの拝所は集落のはずれの赤石の杜付近に集中している。



仲間の殿 (ナカマヌトゥン、波平之殿 [ハンジャトゥン])

神座之嶽 (カミジャナウタキ) から集落側にでると、集落にとって重要な三つの殿 (トゥン) のひとつの仲間の殿 (ナカマヌトゥン) がある。火の神を祀っている。東風平村史ではこの殿は波平之殿 (ハンジャトゥン) とも呼ばれたとあるが、別の箇所では波平之殿は別の独立した殿との記載がある。この様な異なる記述が東風平村史にはいくつか見受けられる。


根屋 (ニーヤ、仲地之殿 [ナカチヌトゥン])

根屋 (ニーヤ) と書かれた石柱が立っている。この集落のリーダーであった根人 (ニーチュ) は仲地門中であった。仲地門中が国元にあたるのだろう。そのことより、もともとはここは仲地之殿 (ナカチヌトゥン) とか大殿 (ウフドン) とも呼ばれていた。この殿も集落にとって仲間の殿と外間之殿と同じく重要な三つの殿 (トゥン) のひとつ。


御願小之お岳/ミルク川神

根屋 (ニーヤ) の前の中道 (ナカミチ) を挟んで拝所がある。ガジュマルが密集している岩の根本にある。御願小之お岳と書かれている。お岳とは御嶽の意味であろうか?この岩の裏側にはミルク川神の拝所がある。豊穣の神の弥勒 (ミルク) 神は沖縄ではポピュラーな神でよく見かけるのだが、ミルク川神は初めて聞く。弥勒 (ミルク) 神と同じだろうか? そうであれば何故「川」がついたのだろう?

ミルク川神の前の広場には神屋がありその近くには二つ拝所がある。この付近にあると出ていた井戸跡のキガンノカーと国元ノカーが之なのだろうか?


長嶺野呂殿内

ミルク川神の前の広場の隣にも神屋がある二つ建物が建っおり、長嶺野呂殿内 (ナガミネヌンドゥンチ) と表札がかかっていた。長嶺もこの集落の有力門中の一つで、ここが屋敷のあった場所。代々ノロを排出していたので、神元なのだろう。


墓群

近くの小高い丘には幾つかの立派な亀甲墓がある。志多伯集落の有力門中の一族の墓だ。

中道 (ナカミチ)

集落の主要道路はナカミチとメーミチ (前道) でここはナカミチ。集落と拝所地域を通っている。


北山中山御通し

ナカミチを降りかけたところにある御通し (ウトゥーシ) でここは北山中山への様拝所だが、何の遥拝所なのか、何故そこへの遥拝所を設けたのかはわからなかった。これはこの集落にその地から移ってきたとか、何かの事象があって設けられている場合があるので、それを知ることは集落の歴史がわかる。ということで興味が湧いてくる。実はここには説明の看板が立っているのだが、説明書が剥がれて無くなっている。元々は「かつては、三月御願に牛一頭をそのままお供えしていた。牛の血を葉につけ魔除けとして各家庭をまわったという」かなりショッキングな内容だったのだ。この集落では主要な文化遺跡には村民手作りの説明板が置かれている。板に印刷した紙を貼り付けたシンプルなものだ。行政が立派な説明碑を建てるのをあてにせず、自分たちで、出来る事をやっている。村民の文化財への想いが良く伝わってくる。今日も多くの拝所を見ているが、多くは手作りで、コンクリートの柱を建て、乾く前に釘でその井戸や御嶽、殿の名前を刻んでいる。見かけは悪いが、これには共感を感じる。祠も本土の神社や寺の様に、お金をかけて立派な物では無く、コンクリートやブロックでの手作りだ。沖縄の人にとってその場所が大切で、見かけは信仰には関係なく二の次なのだ。


大井 (ウフカー)

ナカミチを降り切ったところに大きな井戸跡がある。大きなガジュマルのしたに水場が広がっている。ここは形式保存でも無く、コンクリートで囲われているわけでも無く、昔の形が残っている。正月の若水に使われたと言うから、集落に取り大切な井戸。解説にはここから公民館まで水を引いていたと書かれている。ここは集落の北の端、公民館はかつての集落の南の端。この井戸で集落全体の水を供給していた訳だ。今でも水が溢れている。

東の御通し

大井のある場所の上にもうひとつ遥拝所がある。これは東の御通しと石柱が立っている。これもどこへの御通しなのかは不明。


下之井 (シムヌカー)

大井 (ウフカー) の前にはこの集落で最も古い井戸がある。集落で一番重要な井戸で拝所としての井戸では筆頭になる。この井戸の後に大井 (ウフカー) が造られたという事だが、わざわざ隣に新しい井戸を造ったのは、村へ水を引くために最も規模の大きなものが必要だったのだろう。

神谷家門構え

志多伯の国元であった神谷家に琉球王府の三司官の蔡温(1682-1762)が設計したと伝わる屋敷の門構えが残っている。蔡温は沖縄の人は誰でも知っている琉球王朝時代の政治家であり思想家であった。蔡温は30才の時に尚敬王が13 才で国王になって以来、尚敬王が52才で亡くなるまで、国師として琉球王朝政治の中心にあり、多くに改革を成し遂げた。沖縄では英雄の一人。蔡温と当時志多伯親雲上であった神谷家の関係は、神谷家の玉津が蔡温の妾であった事から深まったという。この集落には7つの有力門中があるが、その三つは神屋門中とその腹である。とにかく神谷姓が多い集落。
蔡温は久米村 (クチンダ) 出身。ここに来て、先程訪れた「クニンダ世、神グサイ井戸、国元の井」は蔡温に関係があるのではと思った。クニンダ世とは蔡温の墓あるいは祀ったもので、神グサイ井戸はその墓に付随するもの、そして国元とは蔡温と親交のあった神谷家のものだろう。これはあくまで個人的な推測なのだが、そうであれば蔡温に対する村人の想いの表れだろう。いずれこの村には時期を見てもう一度訪れ、村のおじいおばあに色々と聞いてみたい。
屋敷といっても、それほど広くは無い。門構えはほぼ完璧に残っている。右は米軍統治時代の琉球政府が発行していた切手で、蔡温のデザイン。

チーアジ御墓

これまた初めて聞く名称だ。チーアジとは何を表しているのだろう?


波平之殿 (ナミヒラヌトゥン)

神屋がある。東風平村史にはこの辺りに波平之殿があると地図には載っていた。先程訪れた仲間之殿は波平之殿とも呼ばれるとなっていたが、別々のものとしたらここがそうなのだろうか?


東リ之殿

ここにも遥拝所がある。ここは首里から毎年、アマミキヨが二ライカナイから渡来して住みついたと伝えられる霊地の巡礼をしていた東御廻り (アガリウマーイ) の聖地がある現在の南城市の方向に向かって拝む場所。
この南城市にも今後訪れる予定。一度は通しでこの東御廻りを走ってみたい。


仲之殿/中之井

今回初めて少し洒落た造りの井戸跡に来た。
ウマチーの豊年祭の最後に拝む拝所だ。共同作業井戸と書かれてある。井戸の前には作業用のスペースがある。ここは集落のほぼ南の端だったので、さとうきび畑で作業を終え、ここで農機具を洗って家路に着いたのだろう。
井戸の奥には仲之殿がある。


集落内にあった古民家。人が住んでいない様な家もある。


志多伯公民館

ここには二度目の訪問。公民館の前に並べられたシーサーを覚えている。ここには人が常駐している。今日会ったのは新垣さんという女性。ここに来た理由は夫婦獅子を見るにはここで鍵を借りなければならない。多分誰もいないだろうと思ったが、来てみたらいた。色々とお話しをし、お茶までご馳走になった。新垣さんは午前中はさとうきび畑で農作業、午後はここに詰めている。地元の人と話をしていると、ついつい長くなってしまう。4時までなので、これ以上話をしていると新垣さんの帰りが遅くなるので、急いで夫婦獅子を見てくると言うと、ゆっくり見て鍵はポストに入れておいてとの事。日本一周の旅の話を聞いてくれた。別れ際に名前を聞かれ、覚えておくよ〜と言ってくれた。こんな小さな事が嬉しいのが旅の良いところだ。

志多伯には元の集落の東西南北の4ヶ所に石獅子が置かれていた。集落の四隅を固めて村を守っていたのだ。

南の石獅子 (午ヌ端の石獅子)

公民館の裏にある石獅子。愛嬌のある顔つきをしている。八重瀬岳の方角に向けて設置されており、八重瀬岳の火返し (ヒケーシ) の役割。

東の石獅子 (卯ヌ端の夫婦 [ミートゥ] 獅子)

公民館で鍵を借りて、急いで向う。敷地内は綺麗に整備されている。

階段を上ると石が二つある。これが夫婦獅子だ。かなり風化が進んで顔つきなどはわからなくなっている。よく見ていると、獅子の形というよりは犬に見えてくる。二頭がお尻をくっつけてそれぞれが別の方向を見ている。だんだんと可愛く見えてくるから不思議だ。

西之端 (イリヌハシ) の石獅子 / 馬場跡

馬場跡の端っこに石獅子がある。かなり広い馬場だ。

今は馬は走らないのだが、ここで約300年の歴史がある志多伯豊年祭が行われる。この志多伯豊年祭は1年目、3年目、7年目、13年目、25年目、33年目の旧暦の8月15日と16日に行われる。これは法要周期と同じだ。(祭の様子はインターネットから拝借)
この石獅子も愛嬌がある。見る時に一番好きな角度は後ろからで、お尻が可愛いのと、けなげに村を守っている感じがするから....

北之端 (ニシヌハシ) の石獅子 

最後の石獅子は志多伯集落の北の赤石の杜の中にある。高岩 (タカシー) から 神座之嶽 (カミジャナウタキ) への道にある。ここは知らなければただの岩にしか思えない。神座之嶽 (カミジャナウタキ) に来た時は気づかなかった。新垣さんに教えてもらい再訪。ただ新垣さんによると、この杜にあったことは分かっているが、これが石獅子だったかは確証は無いそうだ。村の人は杜の中あちこち探し、これが石獅子の可能性が一番高いとしているのだろう。


志多伯集落巡りはこれで終了。情報が少ない割にはかなり多くの文化財を見つけることができた。この後は当銘と小城の見落としていた文化財をチェックしながら帰る。


参考文献 

  • 東風平村史 (1976 知念 善栄∥編 東風平村役所)


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