Okinawa 沖縄 #2 Day 45 (16/10/20) 旧東風平 (8) Kochinda Hamlet 東風平集落

東風平集落 (こちんだ)

  • 東風平之殿 (氏神、コチンダヌトゥン、ヂーンチュヌトゥン)
  • 今帰仁井 (ナキジンガー)
  • 金城之殿 (カナグシクヌトゥン、ガチジョウヌトゥン)、ガチジョーガー
  • 下フヅキ之殿 (シモフヅキヌトゥン)
  • 城 (グスク) 門中 神屋
  • 佐久真之殿 (サクマヌトゥン) 
  • ノン殿内 (ドゥンチ)
  • シジリカー [10月19日 訪問]
  • 中間之殿 (ナカマヌトゥン)
  • 神谷之御嶽、神谷之殿
  • 湧洞之嶽 (ワカドヌタキ) 
  • 後之井 (クシヌカー)
  • ソーヌカー (仲間ガ-)
  • ハラガー
  • 産井 (ウブガー)
  • 獅子森 (シシムイ、獅子 [シーシ] のお墓)
  • 伊良皆之嶽 (イラミナヌタキ)
  • 東風平公民館
  • 獅子ヒサ洗ガー
  • 銭城森 (ジングシクムイ) [10月30日 訪問]
  • 学校井 (ガッコーガー)/東風平小学校跡
  • ヒージーガー
  • 大ミショウ之殿
  • トンチガー
  • 金満御嶽 (松尾之御嶽)
  • 松尾井 (マツオガー) 
  • ガチジョウ-井 [10月30日 訪問]
  • 白金井 (シリンガー、世利井) [10月30日 訪問]
  • 比根屋門中墓 [10月30日 訪問]
  • 東風平の石獅子
  • 北の石獅子 (子ヌ方の獅子)
  • 西の石獅子 (酉ヌ方の獅子)
  • 龕屋
  • 南の石獅子 (午ヌ方の獅子)
  • 伊覇の石獅子

東風平集落 (こちんだ)

数多くの伝承がある。東風平按司、東風平大君、東風平親方で半分以上は北山系からの子孫となっている。これ以外に城門中が残していた系図では第二尚氏王からの分家の子孫とのものもあり、確かなことはわからない。


八重瀬町の中心の字だけあって、人口はコンスタントに増え続けている

八重瀬町の中でも断トツに人口が多いのがこの東風平

住宅地開発が行われた字東風平と隣接する伊覇と屋宣原の三つの字で旧東風平の53%、八重瀬町全体の38%をも占めている。

東風平村史に掲載されている東風平の拝所は、中心地であることと、集落範囲が広いことから相当数ある。(太字は訪問した文化財)

  • 御嶽: 松尾之嶽 (金満御嶽)神谷之嶽湧洞之嶽 (ワカドヌタキ)、伊良皆之嶽 (イラミナヌタキ)、安次嶺之嶽 (アシンミノヌタキ、所在地不明)、伊廬嶺之嶽 (イへルミネヌタキ、所在地不明)
  • 殿: 東風平之殿 (コチンダヌトゥン、ヂーンチュヌトゥン)大ミショウ之殿下ワヅキ之殿神谷之殿、佐久真之殿 (サクマヌトゥン)、中真之殿 (ナカマヌトゥン)、 金城之殿 (ガチジョウヌトゥン)、上地嶺之殿 (ビージーヌトゥン)、シヤマ之殿 (シヤマヌトゥン、サマヌトゥン)、比嘉之殿 (ヒガヌトゥン)、トチ之殿 (トンチヌトゥン)、組直之殿 (イシジャヌトゥン) 
  • 泉井: 世利 (シーリガー)ガチジョウガー今帰仁ガー後 (クシ) ヌカー産井 (ウブガー)、赤嶺 (アカンミネ) ガー、松尾ガービーヂーガートンチガーソーヌカー (佐久真ガー)

東風平町教育委員会編集の「殿・御嶽・井戸調査報告書」では上記の他に以下の拝所を挙げている。

  • 泉井: ハラガ-、仲間井 (ナカマガ-)、獅子ヒサ洗井
  • その他銭城森 (ジングシクムイ)ノロ殿内シーサー毛


まずは伊覇集落を訪れた際に来た丘陵を目指す。ここには伊覇の石獅子があった場所。この丘陵の上に字伊覇と字東風平の境界線が走っている。

東風平之殿 (氏神、コチンダヌトゥン、ヂーンチュヌトゥン)

ここには以前、伊覇を巡った時に来た事があった。この東風平の殿の北が伊覇でここから南が東風平になる。氏神とあるのでここが東風平集落の御嶽なのかとも思ったのだが、1713年に編纂された琉球国旧記では御嶽では無く、殿と分類されている。城 (グスク) 門中がこの殿を管理している。

今帰仁井 (ナキジンガー)

井戸跡と平べったい石がある。井戸についてだが、東風平之殿と対になった井戸があると書かれていた。ここにはこの井戸跡以外には井戸らしきものは無いので、これが今帰仁井 (ナキジンガー) だろう。写真右の石は何の為にあるのだろう? 今帰仁への想いでこの名がついているのだろうか? 北山と東風平と関係があったのだろうか? 以前、豊見城の渡嘉敷にある根屋に神酒石 (ジンスイシ) と呼ばれる石があったが、位置や形がよく似ている。八重瀬町の町報にこの石の事が載っていた。豊年祭での獅子舞はここで練習をするのだが、獅子舞の獅子はこの石に置く決まりがあり、この場所以外には置いてはいけないそうだ。練習は本物は使えずレプリカでするそうだ。本物は豊年祭本番でしか現れない。何故だろう? これも聞いてみたい。当時の獅子に対する意識がわかるかも知れない。本番ではノロ殿内から出された獅子がまず訪れるのがこの東風平の殿で、この石に獅子が置かれるわけだ。

東風平村史の地図では幾つかの殿 (トゥン) が東風平之殿の周りに集中している。調べたが、情報が無く全ては分からなかった。


金城之殿 (カナグシクヌトゥン、ガチジョウヌトゥン)、ガチジョーガー

東風平之殿の向かって左にある拝所。金城之殿 (カナグシクヌトゥン) だ。この殿は宇志久佐が司宰門中と書かれていた。香炉にその名が記されているのでここが金城之殿と分かった。この殿と対になっている井戸の拝所があると言うのだが.... ただ、東風平村史にはそのような門中は見つからない。絶家してしまったのだろうか?
上大城門中、玉城世、大城世と書かれている。東風平集落の門中の一つの上大城門中の拝所である事は分かる。多分大城門中の腹 (分家) で、大城に「上」を足した屋号にしたのだろう。ただ、東風平集落には大城という屋号は無いので、別の集落の大城門中の分家としてここに移ってきたのかも知れない。
上大城門中の拝所の隣には二つ祠がある。上大城門中の拝所とは祠の向きが逆になっている。この祠の向きには意味がある。拝む対象の方向にになっている。詳細は不明。
更にもう二つの拝所。写真写りが良いように祠を覆っている草を取り、撮影。この拝所の情報は無かった。

下フヅキ之殿 (シモフヅキヌトゥン)

東風平之殿の境内の脇に小さな入り口がある。別の拝所がありそうに思えて中に入るとすぐに拝所が見つかった。更にその下には広場があり、綺麗に草が刈られている。という事は、その場所にも拝所があるはず。
下に降りると大きなガジュマルの木がある。ここが怪しい。大きなガジュマルの木の根元には香炉が置かれているケースが多々ある。やはり、あった。比較的立派なものだ。東風平村史の地図から見ると、ここが下フヅキ之殿と思う。上大城門中が司宰門中になっている。ただ、「殿・御嶽・井戸調査報告書」にはこの拝所は出ておらず、下フヅキ之殿は神谷之殿と同じ写真が載っている。調査報告書としてはやっつけ仕事のような感じがする。

城 (グスク) 門中 神屋

佐久真之殿 (サクマヌトゥン) から別の場所へ細い通路があったので、そこを行くと大きな庭に出て、神屋があった。中を覗くと幾つもの香炉と壁には家系図が貼られていた。家系図からこの集落の成り立ちが分かるかもと思い。庭にいたおじいに中に入って写真を撮りたいと許可を求めると、快諾してくれた。このおじいに下フヅキ之殿 (シモフヅキヌトゥン) の事を聞いたところ、何か説明してくれたのだが、さっぱりわからない。老人は沖縄方言で話すので、半分でも分かれば上出来。このおじいの沖縄方言は上級クラスで全く聞き取れ無かった。聞き直すのも失礼に思い、というよりは聞き直しても同じだろうから、ありがとうとお礼を言って神屋に入る。
ぎっしりと香炉が並び、中央には関羽を祀っている。隅には火の神。これほど綺麗に手入れを怠らない神屋は少ない。庭のおじいがやっているのだろうか?
興味のある系図。これはこの門中の城 (グスク) 門中の世系図。城門中の始まりから書かれている。相当に詳しい。これによると第二尚氏四代尚清王 (しょうせいおう、1497-1555年) の六男 尚范国 東風平王子朝典の長男 仲間大屋子の二男 長田大屋子 (1573年生) が城門中の始祖となっている。この生まれ年から推測すると七代尚寧王 (1564 - 1620年) の時代にあたると思われる。集落には城門中の人は長田姓を名乗っている。ここであったおじいも長田さんだったのだろう。先程の佐久真之殿 (サクマヌトゥン) で触れた佐久真門中は16世紀初頭にこの地を賜わっているので、城門中よりも早くこの地に来ていた事になる。佐久真門中の屋敷は城門中の隣にある。
豊年祭の獅子回りでは東風平之殿の次はこの城門柱屋敷を訪れ、神屋の前で三回回るそうだが、何かの意味があるのだろう。



佐久真之殿 (サクマヌトゥン) 

この佐久真之殿 (サクマヌトゥン) の成り立ちについての情報を見つけた。毛氏座喜味親方盛守の外祖で上間村に住んでいた國吉爾也 (くによしにや) が、洪水で度々流されていた板敷橋 (いちゃじちばし) を、石の堤橋に築き直した。この功労により、尚眞王 (1465-1527、第二尚氏王統の第三代国王、尚円王の子) から、佐久真の地を賜わったそうだ。座喜味親方はここに佐久真之殿を造ったと伝わっている。ここで登場する毛氏座喜味親方盛守は護佐丸を租とする五大姓の一つの毛氏豊見城殿内 (もううじ とみぐすくどぅんち) の分家の座喜味殿内 (ざきみどぅんち) にあたる。ここにも護佐丸の子孫がいる。佐久真門中の屋敷後方に佐久真之殿があり、東風平集落の有力門中の一つだ。屋敷迄は来たのだが、殿はどうもこの家の敷地を通らないと行けないようだ。民家なので、中に入るのは諦めた。

ノン殿内 (ドゥンチ)

東風平之殿の前の民家の敷地内に神屋がある。公民館でいただいた地図ではノン殿内となっている。この家が代々、ノロ (ノン) を世襲していたのだろう。ここに獅子が保管されているようだ。旧暦8月の豊年祭の初日に行われる獅子廻り (しーしまーい) と呼ばれる道行列 (ミチズネイ) ではまずここで獅子を出してから始まる。獅子はこの時にしかお目にかかれず、それ以外は見ることもできないそうだ。それだけ東風平にとっての獅子は神聖なものだ。


シジリカー (仲間井) [10月19日 訪問]

道行列 (ミチジュネ) で公民館からノロ殿内に行く道にこの井戸の拝所があるのだが、そこに行っても見当たらない。そこは一面草が生え放題で見つけるのも大変だ。そこで草刈りをしていた男性にこの辺に井戸跡が無いか聞いたが、分からないとの答え。地図を見せるとこの辺りだが、草刈りの後にはその様なものは無いという。諦めて次の訪問先に向かう。10月19日に世名城に向かう途中にもう一度寄ってみる。草刈りが終わって、見通しが良くなっているだろう。見つかるかも知れないと思ったのだ。果たして、見つけた。まだ少し草に覆われてはいるが、拝所として形式保存されていた。
10月30日にたまたまここを通りかかった。井戸跡は綺麗にされて、その横では発掘調査が行われていた。作業員は何の調査なのかは知らないというが、まだ収穫はあまり出ていないそうだ。なんの発掘調査課気になるところだ。屋敷跡でもあったのだろうか?


中間之殿 (ナカマヌトゥン)

東風平之殿から丘陵を登ったところは現在の行政区では字伊覇になるのだが、東風平集落の拝所として中間之殿 (ナカマヌトゥン) がある。この中間之殿 (ナカマヌトゥン) は伊覇集落の拝所でもある。(伊覇集落訪問記にも紹介した) ここは行政区の境目の所で、この後にあった公民館館員さんは、このあたりは境界線が複雑と言っていた。
写真右下には祠の隣に大きな石の香炉がある。この香炉は向志禮 義村按司朝明が唐旅を記念して1827年に寄進したもの。(向は王家尚氏の分家が、尚を使わず欠画として尚の上の点を省いた向を使っている。読みは「しょう」のまま)  義村御殿 (よしむらうどぅん) は第二尚氏14代尚穆王 (在位 1752 - 1794年) の三男 尚周義村王子朝宜 (ちょうぎ) に始まり、義村按司朝明は三世にあたる。この頃の琉球は1825年に大飢饉が起こり3,358名の餓死者が出た。(当時の琉球の人口は29万人) 翌年は暴風雨で死者が2300人にも及んだ。この香炉は朝明が東風平地頭として領民の加護を祈願したものでもある。その後、朝明は首里からこの地 (集落の南の端付近にあった東風平番所の前) に6年間程住居を移し、東風平間切の復興の為、領民の指揮にあたっていた。

神谷之御嶽 (カミヤヌウタキ、カナヌウタキ) [神名: 金山威部 (カメヤマヌイベ)]、神谷之殿 (カミヤヌトゥン、カナヌトゥン)

中間之殿 (ナカマヌトゥン) の更に奥に拝所が二つある。中間之殿の後方に神谷之御嶽があるとなっていたのでガジュマルの根本にある拝所がそうだろう。「殿・御嶽・井戸調査報告書」ではこの拝所の写真を載せて、神谷之殿、佐久真之殿、下フヅキ之殿も同じとなっているが、この「殿・御嶽・井戸調査報告書」は少しあやしいところがあり、正確さには疑問がある。東風平村史の方が参考になるところもある。佐久真之殿、下フヅキ之殿は別の場所と思う。

比嘉之殿 (ヒガヌトゥン)

東風平之殿のある丘陵の北側の斜面、伊覇の石獅子を少し降った所に拝所がある。ここは字伊覇なのだが、これは所在地不明となっていた比嘉之殿 (ヒガヌトゥン) かもしれない。東風平の別の場所にあったものがここに移って来ている。東風平村史では字東風平にある殿として紹介されているが、司宰門中は比嘉門中だ。かつては比嘉と呼ばれた村があったそうだが、場所は確定されていない。推測されているのはこの比嘉村がいつの時代かに東風平に合併されたのではという。その比嘉の人が伊覇近くに移動した時にこの殿も移したのかも知れない。

湧洞之嶽 (ワカドヌタキ) [神名: 金山威部 (カメヤマヌイベ)]

丘陵の北側を降りた所に拝所がある。この御嶽については一切の情報は見つから無かった。ここは字伊覇だが、湧洞之嶽は字東風平の拝所だ。琉球王朝時代のまだ領地の境目が曖昧だった頃のものなのだろう。現在は一見、小さな公園のように見える。その中に三つ程拝所がある。ちょうど中年男性が花壇の手入れをしていたので、ここは何という拝所ですか?と尋ねるが、地元なのだが名前は知らない。昔は墓だったと聞いた事がある。と申し訳無さそうに答えた。夏場の花壇の手入れは大変だと少し世間話をする。東風平村史の地図では湧洞之嶽 (ワカドヌタキ) と思えるが、別の資料の「殿・御嶽・井戸調査報告書」では所在地不明となっており、この場所は伊覇の殿としてガ-ジャー之殿となっている。ということでこの拝所は伊覇集落の訪問記にも含めている。

丘陵の周りに幾つか拝所としての井戸がある。



後之井 (クシヌカー)

丘陵の西側を降りたところにある井戸。正月の若水はここから汲んでいる。

ソーヌカー (産井)

後之井 (クシヌカー)から10mぐらい先にもう一つ井戸がある。佐久真井 (ガー) とも呼ばれている。小さな香炉が置かれている。公民館でいただいた地図では新井 (ミーガー) となっている。東風平集落には産井が東 (アガリ) に二ヶ所、西 (イリ) 三ヶ所あり。産水を汲むときは男の子が生まれた場合は東 (アガリ) の産井から、女の子が生まれた場合は西 (イリ) の産井からと決まっていた。 

ハラガー

今度は丘陵の東側を降りた所にも井戸がある。井戸を囲っているコンクリートの上には愛嬌で作ったのかシーサーがいる。

東風平之殿のある丘陵の西にもう一つ丘陵が見える。次はこの丘陵に向かう。


産井 (ウブガー)

丘陵の東の麓にある井戸。名前からすると集落で使う正月の初水に使われていたのだろう。ここを通り過ぎる人で何人かはこの井戸を拝んでいた。公民館の地図ではここがソーヌカーとなっている。

名不詳の井戸跡 (10月24日訪問)

産井 (ウブガー) ン西側は丘陵ちになっており、上に東風平運動公園がある。その公園内に井戸跡があった。まったく情報は見つからなかった。


獅子森 (シシムイ、獅子 [シーシ] のお墓)

丘陵への登り坂の途中に墓のように丸く土を盛った拝所がある。獅子森と呼ばれているが、別名では獅子のお墓とも言う。実際には獅子の墓とは考えられ無いが、この近くに北の石獅子があり、そこからこの名がついたのだろうか? もう少し詳しく調べるとこの場所に獅子の魂が眠り、旧暦の8月に復活、再生すると伝わっている。確かに旧暦8月は十五夜祭豊年祭があり、獅子舞が披露される。東風平集落の獅子に対しての思いは他の集落に比べて格段のものがあるようだ。

伊良皆之嶽 (イラミナヌタキ) [神名: 琉斤威部 (リュウキンヌイベ)]

坂を登り伊良皆之嶽 (イラミナヌタキ) があると書かれていた森に来る。この森の周りの道路を歩き、森への入り口を探す。何ヶ所か見つけた中に入るが、いずれも途中で道は途絶え草木で覆われてそれ以上は進めなかった。この丘陵は東風平運動公園になっており、陸上競技場、野球場、体育館、テニスコートなどスポーツ施設が建っている。ある資料ではこの御嶽が東風平集落の聖域と示されていたのだが、その様な雰囲気では無さそうだ。

東風平公民館

ここから集落に戻る。東風平公民館に行き、開いていれば、情報収集がしたい。開いていた。3-4名が事務所にいる。さっそく拝所マップが無いかを聞いてみた。困った顔をしている。どうも無さそうだ。一つ簡単な地図を渡してくれた。祭りの際の道ジュネの道順を示したもので幾つかの拝所も載っている。これはこれでありがたい。集落形成が落ち着いてきた時代はここが集落の中心だった事がわかる。典型的な琉球国時代の集落の形で、東風平の殿がある丘陵に多くの拝所が集中して、丘陵の斜面から平坦の地まで集落が広がる。殿近くには初期に住み始めた有力門中の住居がある。

獅子ヒサ洗ガー

公民館のすぐ近くの道路の石垣に一つだけ窪みがある。これが井戸跡だそうだ。獅子ヒサ洗ガーと呼ばれている。

旧暦8月の豊年祭での獅子廻りの道行列 (ミチズネイ) が終わった後ここで獅子舞の足を洗うという。どのような光景かは載っていないのだが、ここも獅子にかかわる文化財だ。東風平の獅子舞は地域の守り神「神獅子」と呼ばれ、300年以上の伝統があるそうだ。獅子廻りの道行列 (ミチズネイ) は130年程前に、東風平村に天然痘が大流行しま時に、魔除けとして獅子加那志を仕立て、村人の健康と豊年を祈願して道行列をしたのがはじまりと伝えられている。


銭城森 (ジングシクムイ) [10月30日 訪問]

獅子ヒサ洗ガーの近くに小さな丘がある階段で上に登れるようになっているので拝所があると見た。ここは東風平集落の銭城門中の拝所だ。丘の上に二つ祠がある。詳細は不明。


学校井 (ガッコーガー)/東風平小学校跡

公民館からそれほど遠くないところに井戸跡がある。これは面白い名の井戸だ。公民館の地図に載っていたのだが、ガッコーガーという井戸。はじめは何を意味しているのかは分からなかったが、現場に行って判明。井戸跡のところに東風平小学校跡の石碑があった。つまりガッコーとは学校のことだった。井戸がいつからあるのかは分からないが、命名はそれほど昔ではないはずだ。志田伯には尋常ガーがあった。これは尋常小学校のところにあった井戸。小学校は尋常小学校より後なので、昭和に入ってからの命名かもしれない。


ヒージーガー

学校井 (ガッコーガー) の近くの住宅街の中にあった井戸。形式保存だが、民家の塀の中をくり抜いて保存してある。ここまでして残していることは、この井戸は昔から信仰の対象であったことを表している。


大ミショウ之殿

もう少し進むと大ミショウ之殿がある。東風平村史では畑の中にあると出ていた。東風平村史は1976に編纂されているので、1970年代ではここは畑が広がっていたのだ。現在では住宅街となっている。ここは赤嶺門中によって管理されて、赤嶺門中の殿になっている。大ミショウとは何を意味するのだろう?


トンチガー

小学校の校庭の隅にフェンスで囲まれた井戸跡の拝所がある。集落の東側にあたる。


金満御嶽 (松尾之御嶽)  神名: 与那原威部

集落からさとうきび畑が広がる南に御嶽があり、そこを目指す向こうに小山が見えてきた。そこが目的地の金満御嶽だ。
参道の登り道は草が刈られている。御嶽のある上部も半分ぐらい草が刈られているが残り半分は腰まで届くほど草が伸びている。まだ作業中なのだろう。御嶽は石垣で丸く囲まれて、まるで円墳のようだ。その上に祠が建ち、威部 (イビ) や香炉が置かれている。ここは今は金満御嶽 (カニマンウタキ) と呼ばれているが、昔は松尾之御嶽と呼ばれていた。伝承が残っている。「金持ちだった玉城祝女殿内の祝女が亡くなった時に、この山に金を置いてその上に祝女の死体を置き葬った。これ以降、この地は霊力が高いところとなり、仲間門中がこの金満御嶽を守っていた。仲間門中以外の村民がこの地の草を刈ると家畜に異変が起こったという。」まだ。今日見たところ、まだ草刈りの途中だけれど、やはり仲間門中の人がやっているのだろうか?

松尾井 (マツオガー) 

御嶽のある小山の下には松尾井 (マツオガー) が形式保存されている。

ここから見た東風平集落。集落の後ろに見えるのが、拝所がある丘陵。
南側は民家も少なく一面サトウキビ畑だ。
後日、10月30日に富盛集落からの帰りに、見つからなかった文化財を再度探してみた。


ガチジョウ-井 [10月30日 訪問]

東風平運動公園サッカー場の丘陵の斜面にある井戸。


白金井 (シリンガー、世利井) [10月30日 訪問]

字東風平の北の端にある井戸跡。民家の塀の間にあったため見落としていたようだ。この井戸は東風平、伊覇の共通の井戸だったそうだ。


比根屋門中墓 [10月30日 訪問]

白金井 (シリンガー、世利井) の後、帰り道に井戸が見えたので寄ってみると、比根屋門中の墓だった。ここは伊覇なのだが、東風平集落の門中の墓だ。


東風平の石獅子

東風平集落にある四体の石獅子は東西南北の名がつけられて、集落を囲み守っているとあるのだが、位置関係を見ると集落北側には位置していない。北が側ががら空きとなる。北側からの災難がなかったからか、とは言え、だいたいは四隅を囲むように設置されている。ここで案内にもでているが、伊覇の石獅子を勘定に入れると北側が守られる。かつて東風平と伊覇は村の期限が同じで家族のようなものだったから、二つの村は一つとして考えられていたのかも知れない。


北の石獅子 (子ヌ方の獅子)

先に訪れた獅子森 (シーシのお墓) のちかくにある。この石獅子は近くにある龕屋に向かって建っているそうだ。以前に一体だけ龕屋に向いている石獅子をみたことがある。なぜ龕屋を向いているのかは質問事項。

龕屋

石獅子が睨んでいるというのはこの龕屋だ。しっかりとしている。まだ使っているのだろうか? 見つけた情報には東風平の龕については無かった。

西の石獅子 (酉ヌ方の獅子)

集落の中心地から南西にかなり近い距離にこの石獅子がある。今では住宅街の中だが、かつてはここが村の端に当たるのだ。それほど大きな集落ではなかったのだろう。この石獅子は火山と呼ばれた南にある八重瀬岳の方向を向いている。火災を防ぐための火返し (ヒケーシ) の役割だ。


南の石獅子 (午ヌ方の獅子)

集落の南にある石獅子で、住宅街の中にある。この石獅子は獅子の形が保たれている。ほとんどの石獅子は風化で原形をとどめていないものが多いのだが、この石獅子はセメントで補修がされた跡がある。もし原形をとどめるように補修が繰り返されていたなら、当時のシーシの様子がわかる貴重なものなのだが.... この石獅子も八重瀬岳を向いている。

東の石獅子 (卯ヌ方の獅子)

集落の東側の八重瀬公営住宅の裏にひっそりとある。ここを探すのには苦労した。大体の場所はわかるのだが、その場所に行く道順まではない。この周りを入り口がないかを探しながら自転車で走った。たまたま集合住宅の奥に石があるのが目に留まったので、念のために団地中に入りやっと見つけた。ひっそりという感じだ。というのも、この公営住宅にはあまり住居者がいないようだ。ほとんどの部屋がカーテンがしておらず、窓が割れているのもある。自転車などが置いてあるので閉鎖されているようではないのだが、本当にひっそりだった。この石獅子も八重瀬岳を向いている。石獅子を横から見ると獅子というよりはマウンテンゴリラにみえてしまうのだが愛嬌はある。


伊覇の石獅子

伊覇の石獅子は参考で載せておく

これで東風平集落を回り終えた。ほぼ一日を使って回ったので少々疲れた。今日は夏日で熱い。これほど獅子への思い入れが強い集落はないのではと思えた。少々残念なのは、文化財には表示板や解説が一切なかったことだ。沖縄も年が過ぎるごとに昔を知っている人が少なくなっていく。沖縄戦については戦争経験者が少なることに危機感を感じて体験談などを録画し、纏めたりはしているが、文化財となると地域によって温度差がかなりある。東風平には多くの文化財があるのだが、ほとんど紹介されていない。地元の人も知らないことが多い。子供たちに地元の文化を残すためにも、東風平には文化財に対しての今一歩アクションをしてもらいたい。


見つからなかった以下の文化財の場所を「殿・御嶽・井戸調査報告書」で調べなおし、再度訪問をする予定だ。

  • 上地嶺之殿 (ビージーヌトゥン)
  • シヤマ之殿 (シヤマヌトゥン、サマヌトゥン)
  • 組直之殿 (イシジャヌトゥン)  この殿もかつての比嘉村にあった。
  • ノロガ-

参考文献

  • 東風平村史 (1976 知念 善栄∥編 東風平村役所)
  • 殿・御嶽・井戸調査報告書 (2002 東風平町教育委員会)

質問事項

  • 東風平之殿は東風平集落で一番大切な拝所か? 氏神となているのでそのようにも思えるが、殿なので御嶽とは少し異なる性格とも思うが?
  • 東風平集落にあった多くの御嶽は現在はどうなっているのか? 印象では御嶽が今でも御嶽としては残っていないように思える。
  • 東風平之殿の裏にある井戸は今帰仁ガー?
  • 東風平之殿の前の石は元々はなんのため?神酒石 (ジンスイシ) ?
  • 宇志久佐門中は現在でも存在している?
  • 上大城門中は大城門中の腹 (分家) ? 大城門中はどこの集落にあった? この拝所の名称は?
  • 東風平之殿の境内に2ヶ所、4つの祠についての詳細
  • 今帰仁ガー 北山との関係は?
  • 伊覇の石獅子の下の拝所は比嘉之殿 (ヒガヌトゥン) ?
  • 獅子の墓とは元々は何だったのだろう?
  • 伊良皆之嶽 (イラミナヌタキ) への入り口は?
  • 北の石獅子はなぜ龕屋を向いているのか?
  • 大ミショウは何を意味するのか?
  • 確認できなかった拝所の位置
  • 龕はまだ残っているのか、葬儀で使われているのか?


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