Okinawa 沖縄 #2 Day 46 (19/10/20) 旧東風平 (9) Yonagusuku Hamlet 世名城集落

世名城集落 (よなぐすく)

世名城集落内
  • 世名城のガジュマル
  • 志伊良アタリ之殿 (シラタイヌトゥン)
  • 中屋 (ナーカヤー)
  • アシビナ溜池
  • 神アシャギ [10月24日 訪問]
  • 後之御嶽 (クシヌウタキ)[10月24日 訪問]
  • 世名城公民館
  • ビジュル
  • トウンチガー
  • 手田川之嶽 (テラガーヌタキ、ティラガーヌタキ) / 御手田川井 (ウティダウガー、テラガー) [10月24日 訪問]
  • ノン殿内
  • 中之井 (ナカヌカー)
  • 前之井 (メーヌカー、イーチガー、産井 [ウブガー])
  • 岸本之殿 (キシムトヌトゥン、イーチガの殿) [10月24日 訪問]
  • 威部之前 (イビヌメー) [2021年2月1日 訪問]
  • 仲村渠之殿 (ナカンダカリヌトゥン、ナカヌトゥン) [10月24日 訪問]
  • 道富之殿 (ミチトミヌトゥン) [未訪問]
  • 外間之殿 (ホカマヌトゥン) [10月24日 訪問]
  • 平原井 (ヒラバルガ-) [10月24日 訪問]
  • 御穂田 (ミフーダ) [2021年2月1日 訪問]
  • 平田門之殿
  • 世名城農村公園
  • トーヌアタイガ- (高良)
  • 中瀬之殿 (ナカシーヌトゥン) [2021年2月1日 訪問]
  • 川田之殿 (タータヌトゥン) [10月24日 訪問]
  • タルガー (高良集落内)
  • イシキヤ之殿 (2月7日 訪問)
世名城グスク (ヨナグスクグスク、ウィユナグスク)
  • [上之城 (ウィグシク、エン佐久真之殿)]
  • [下之城 (シチャグシク、佐久真之殿)] [未訪問]
  • [中之殿、中之殿井]
  • [上世名城之嶽 (ウィユナグシクヌタキ)]
  • [上世名城之殿 (ウィユナグシクヌトゥン)]
  • [中北山えのお通し、東 (アガ) リお通し]
  • [八重瀬えのお通し、南山えのお通し、上世名城井]
  • [七腹先祖の墓]
旧東風平村の13の集落巡りもあと三つの字となった。今日は世名城集落を訪れる。ちょうど一年前にも世名城グスクを訪れているが、集落内の文化財は見ていないので、今日はそちらを中心に巡る。

世名城集落 (よなぐすく)

世名城集落は東風平集落の南側にあり南北に長く伸びている。民家が集中しているところは限られており北と南はサトウキビ畑が広がっている。琉球王朝時代の文献では与那城村として記載されている。
写真は南の世名城グスクから撮影したのだが、北側つまり写真の奥の方にある広く広がる市街地が東風平の村で、手前の民家が集中しているところが世名城集落にあたる。
世名城集落の始まりについても多くの伝承がある。興味深いのは東風平、冨盛、友寄などの旧東風平村集落と兄弟で分けっている系譜が見える。多くは東風平との姻戚関係がある。また、集落を訪れた際に玉城按司の末裔とする説明もあった。

人口は残念ながら沖縄戦終結後の1948年当時、それから沖縄本土復帰じの1973年と現在では殆ど変わっていない。ただ世帯数は沖縄本土復帰当時から2倍になっている。民家は増えてはいるが、核家族化が進み人口は増えていないという状況だ。

沖縄戦当時は旧東風平村でも人口の多い地域だったが現在では比較的人口に少なく字になっている。

東風平村史に掲載されている東風平の拝所は以下の通りだが、見つけられなかって文化財が多かった。とにかく情報が少なすぎる。(太字は訪問した文化財)

  • 御嶽: 上世名城之嶽 (ウィユナグシクヌタキ)手田川之嶽 (ティラガーヌタキ)、我瀬川之嶽 (カズカワヌタキ、ガジャウタキ)
  • 殿: 上世名城之殿 (ウィユナグシクヌトゥン)岸本之殿 (チシムトヌトゥン)中瀬之殿 (ナカシーヌトゥン)、道富之殿 (シードーワーヤー)、仲村渠之殿 (ナカヌトゥン)外間之殿 (フカマヌトゥン)イシキヤ之殿、上地嶺之殿 (ハーエーヌトゥン 所在地不明)、志伊良アタリ之殿 (シラタイヌトゥン)
  • 泉井: 平原 (ヒラバル) 井御穂田 (ミフーダ)イーチガー (前之井、産井)中之井、中瀬井、上世名城井タルガーオテダウカー (ウティダガ-)、ガジャガー

「殿・御嶽・井戸調査報告書」に追加で記載されていた拝所は

  • 殿: 川田之殿
  • その他神アシャギ威部之前 (イビヌメー)ビジュナー (ビジュル)中屋 (ナーカヤー)平田門 (ジョー)ノロ殿内 (ドゥンチ)後之御嶽、冨盛門井、トーヌアタイ井
集落の北側から見ていく。


世名城のガジュマル

字東風平から字世名城に入ってすぐのところの沖縄一の巨木のガジュマルがある。250年以上の樹齢だそうで、幹周りは23.5mもある。確かに大きく神秘的な雰囲気を醸し出している。
この場所には二つ古墓もある。

志伊良アタリ之殿 (シラタイヌトゥン)

このガジュマルの木は志伊良森 (シラムイ) という丘陵の麓にあり、丘陵の向こう側に集落がある。丘陵を登るとその斜面に民家が現れて来る。この丘陵のどこかに志伊良アタリ之殿がある。入り口を探しながら進むと細い階段が丘陵の上に続いているのを見かけた。多分ここだろう。登ると神屋らしき物が見えてきた。
神屋の奥の林には幾つかの拝所がある。

丘陵から集落に向って山道を下ると前に集落が広がっている。向こうには八重瀬岳や世名城グスクがある丘陵が臨める。今日はあの丘陵まで行く予定だ。

中屋 (ナーカヤー)

世名城集落の国元 (クニムトゥ) の志本 (シムト) 門中の祖先を祀っている。神屋の中には5つの香炉があり、その一つに「玉城ナーカから来た先祖の香炉」とある。先祖宝鑑には昔玉城の末裔を世立てとする伝承があると書かれている。ここがその伝承の出元なのだろう。詳しくは書かれていないが、国元の志本門中にはそう伝わっているのだろう。ここは、旧歴1月3日初起 (ハチウクシー、仕事始め)、砂糖の御願、三月御初、旧暦5月・6月のウマチー、六月御初、旧暦12月24日の師走の御願に御願されている。集落で行われる綱引きでは東の綱がここに収められている。

アシビナ溜池

中屋の前には広場があり、そこはかつてはアシビナ溜池があったとされる。部落の行事が行われていた遊び場 (アシビナ) もこの付近にあったのだろう。志伊良アタリ之殿の南側にある一帯は東の古島と呼ばれており、部落が形成された初期の時代の中心地。

神アシャギ (10月24日 訪問)

アシビナ溜池の隣には神アシャギがある。アシャギとは沖縄では「離れ屋敷」を意味しており、客の接待などで、母屋から離れた建物で接待をしていた。神アシャギも同様で、住居とは別に建っており、神を接待する、つまりお祀りをするという意味になる。ここも独立した神屋になっており、国元 (クニムトゥ) の志本門中の司宰。その志本門中の根人が載るクル石が神屋の前に残されている。(写真右下) ここも旧歴1月3日初起 (ハチウクシー、仕事始め)、砂糖の御願、三月御初、旧暦5月・6月のウマチー、六月御初、旧暦12月24日の師走の御願に御願されている。


後之御嶽 (クシヌウタキ)[10月24日 訪問]

詳細は不明だそうだが、地頭火の神ではないかともいわれている。旧歴1月3日初起 (ハチウクシー、仕事始め) に拝まれている。



世名城公民館

公民館で拝所マップがあれば見せて貰う為に立ち寄った。年配の男性 (おじい) と中年女性が事務所にいたので尋ねると、その様な物は作っていないというのだが、おじいが何かの本に拝所が載っていたのを思い出し、その本を探してくれるのだが、結局見つからなかった。おじいによれば集落で拝む拝所は11あると言う。(東風平村史にはその倍は載ってた) 二人は何か作業中だったので、それ以上は聞けなかった。話をしても女性は拝所の名前や場所などは殆ど知らず、おじいは良く知っているようだった。

ビジュル (ビジュナー)

公民館の横にティラ若しくはテラと呼ばれる祠があり、霊石 (写真中) が祀られている。沖縄では霊石の事をビジュルとかビジルという。このビジュルは別の場所にあったがここに移設してきたそうだ。面白いことに、昔はこのビジュルを力石として遊んでいたという。神聖な物で遊ぶという感覚は面白い。それだけ生活に入り込んでいたとも解釈できる。部落の綱引きと8月15夜に拝まれている。

トウンチガー

集落の西の端の報徳川近くにある井戸。井戸の所には大正9年に整備した際の香炉がある。現在はコンクリートで覆われているが、この香炉は取り除かずそのまま残している。この井戸は参考にした二つの資料には出てこない。香炉が置かれていないところを見ると拝所とはされていないのだろう。それで記載されていないと思う。トウンチガ-とは殿内井と書くのだろうか? そうであれば拝所となってもおかしくないのだが.... パイプが通っているので農業用として今でも使われているようだ。

手田川之嶽 (テラガーヌタキ、ティラガーヌタキ) / 御手田川井 (ウティダウガー、テラガー) [10月24日 訪問]

トウンチガーから少し西の報徳川の近くに手田川之嶽と御手田川井 (ウティダウガー) があるはずなのだが見つからなかった。

10月24日にもう一度探してみた。前回通った農道にあった。気が付かなかったのだ。ここは糸満市の与座になるのだが、世名城集落の門中の屋号宇根家が司宰をしており、昔に読谷村波平から移住してきた屋号宇根の租神を祀っている。手田川之嶽 (ティラガーヌタキ) が祀っているのは 寄石威部 (ユリイシノイベ) で初ミジナディ (水撫) で御願されている。


ノン殿内

報徳川近くの拝所を見た後、今度は世名城集落の南側にある拝所に向かう。まずはノン殿内に来た。集落で最も大切な御願所となっているのが、このノン殿地だ。公民館でもおじいが真っ先に教えてくれたのがここだ。これには少し興味が湧いた。どの集落でもノン殿内はあり、祠や神屋が建っているのだが、御嶽ではなくノン殿内が集落の祭祀の中心になっているのは珍しい。世名城集落は古島と呼ばれるかつての集落は幾つかに分かれていた。先に訪れた志伊良アタリ之殿 (シラタイヌトゥン) がある東 (アガ) リ古島、このノン殿内の西側には西 (イ) リ古島になる。このノン殿内が二つの古島の中間にあった事で、このノン殿内が中心地になっていったのかも知れない。旧歴1月3日初起 (ハチウクシー、仕事始め)、砂糖の御願、三月御初、旧暦5月・6月のウマチー、六月御初、旧暦8月13日直前の寅の日のコウの御願、かま廻り、旧暦12月24日の師走の御願に御願されている。
金満御嶽と上之御嶽への遥拝所があると書かれていた。ノン殿内の裏にあった祠はそれにあたるのだろうか? 金満御嶽とは東風平集落にあったもののことだろうか?

中之井 (ナカヌカー)

ノン殿内の前には中之井 (ナカヌカー) がある。ノン殿内への御願の際にはここで身を清めていたのだろう。初ミジナディ (水撫) で御願されている。

前之井 (メーヌカー、イーチガー、産井 [ウブガー])

ノン殿内を南側は丘陵地になっており、その丘陵の麓は一面サトウキビ畑となっている。そのサトウキビ畑の中に井戸がある。ここはウブガーとも言われていることから、正月の初水として使われた重要な井戸。拝所コースの一つになっている。初ミジナディ (水撫) で御願されている。

岸本之殿 (キシムトヌトゥン、イーチガの殿) [10月24日 訪問]

前之井から更に丘陵側に四つの殿があると地図では書かれていたが、見つからず、10月24日に再度探してみた。そのうち三つは何とか見つけられた。岸本之殿が道路沿いにあった。世名城村に合流する前にあった岸本村の岸本ノロが生まれた場所で、根屋であったと伝わる。旧暦5月・6月のウマチーに御願されている。ここは国元の志本門中が司宰をしている。


威部之前 (イビヌメー) [2021年2月1日 訪問]

この場所には去年二度訪れ、見つからなかった拝所を探したのだが、この威部之前 (イビヌメー) はついに見つけることができなかった。2021年2月1日にたまたまこの地を通った時に、旧正月に向けて拝所への道が整えられていた。ひょっとしてこの付近もきれいにされているのではないかと思い、もう一度来てみた。以前訪れた岸本之殿 (キシムトヌトゥン) の隣が草が刈られ、林の中の道が整備されていた。以前は草が密集し道などは見つからなかった。何かあるだろうと中に入ると、前回は見つからなかった威部之前 (イビヌメー) があった。この威部之前 (イビノメー) は岸本村時代には中心的な拝所であった。



仲村渠之殿 (ナカンダカリヌトゥン、ナカヌトゥン) [10月24日 訪問]

道路沿いを探すが、それらしき拝所は見当たらない。多分この林の中にあるのだろう。道路沿いを入り口のような場所を中に入るが、行き止まり。もう一度、岸本之殿まで戻り、そこにある道のようなところを林の中に入っていく。草でおおわれている。しばらく行くと少し空間がひらけてきた。期待できる。

拝所らしきものを探しても見当たらない。と思っていると木の根元に石柱が倒れている。少し表面の草を取り除くと、仲村渠之殿と書かれている。資料では御願される行事は書かれていない。集落の東内原門中が司宰をしているとある。御願は門中に限られているのだろうか? 荒れ果てた拝所は少し寂しい。ここはましなほうだが、拝所の面倒を見る人が時がたつにつれて少なくなってきているのだろう。若者は村を出ていく。拝所に対しての関心も薄れてきている。拝所の面倒を見るのは村に残った老人となる。老人にとってこの林の中の拝所やそこまでの道を整備するのは大変だ。これは門中だけに押し付け続けていいのだろうか、拝所を沖縄の文化財とみるならば、もっと行政の支援が望まれるところだ。


道富之殿 (ミチトミヌトゥン) [未訪問]

道富之殿が仲村渠之殿のすぐ近くにあると書かれていたので、道路沿いの入り口を探したがないので、10月24日に再訪したとき、仲村渠之殿を見た後さらに林の奥まで探してみた。祠らしきものや、石垣があったのだが、資料に載っていた写真とは異なり、道富之殿ではない。林の中を歩き回ったので、腕と脚は擦り傷だらけになってしまった。これ以上は無理かなと思い断念。資料によればこの辺りは予座川用水路が通り、傾斜地で地滑りが多く水路が保てなかったのでこう呼ばれていると書かれていたが、ちょっとピンと来ない説明だ。


外間之殿 (ホカマヌトゥン) [10月24日 訪問]

岸本之殿まで戻り、道路沿いを東に少し行ったところに外間之殿がある。草むらから石の表示板が頭をのぞかしている。


平原井 (ヒラバルガ-) [10月24日 訪問]

外間之殿 の西側近くの畑の中に平原井 (ヒラバルガ-) がある。ほぼ当時の姿を残している。安全のために金網で策はしてあるものの、コンクリート覆われていないので当時の姿がわかる。個人的にはコンクリートで覆われている井戸跡よりは沖縄を感じられる。ここは初ミジナディ (水撫) で御願されている。


御穂田 (ミフーダ) [2021年2月1日 訪問]

外間之殿の前にある畑のどこかが御穂田 (ミフーダ) と呼ばれる拝所があるはずなのだが探しても見つからなかった。畑仕事をしている男性に聞いたのだが、わからないという。この辺のはずなのだが....  昔は苗を植えるときにはまずこの御穂田に植えてから、ここの田圃に植えたという。ここで取れた稲をウマチーで供え物にするそうだ。これは本土の神道と同じような風習。

この世名城集落を訪れてから、約半年後の2021年2月1日に旧真壁村新垣集落に向かう途中にこの地を通った際に、サトウキビ畑の一部がかられ、そこにこの生い茂っていたサトウキビが御穂田 (ミフーダ) が見えている。旧正月が残り2週間なので、その際に巡る拝所への通路がきれいにされているのだ。


平田門之殿

今度は北にある世名城集落の方向に向かう。途中に偶然、平田門 (ジョー) の拝所を見つけた。この拝所は上地嶺之殿への遥拝所なのだが、上地嶺之殿 (ハーエーヌトゥン) の所在地は未だ確認されていない。ここから上地嶺之殿まで馬で駆け抜ける馬勝負が行われたと伝わる。ここは旧暦5月・6月のウマチーの際に御願されている。

世名城農村公園

だいたい農村公園となっている場所は、以前大きな施設があったケースが多い。サーターヤーやアシビナ、そして馬場跡など。50年程前の地図ではこの付近に馬場があったと書かれているが、はっきりとした場所までは記載されていない。この公園の片隅に石碑が建っていた。馬場溜池跡とある。ここにはかつての馬場と溜池があったのだ。

字世名城にある拝所は幾つかは見つからなかったが、見終わり、ここから世名城グスクに向かう。字世名城から字高良に入る。この二つの字はかつては一つだったので、二つの字にまたがり、共通の拝所が多い。高良地区にある共通の拝所も訪れた。

トーヌアタイガ- (高良)

報徳川の支流が字の境界線になっている。この川を越えたところが高良になる。高良に入ったところに、道路沿いに形式保存されているトーヌアタイガ-がある。初ミジナディ (水撫) で御願されている。


中瀬之殿 (ナカシーヌトゥン) [2021年2月1日 訪問]

「東風平村史」の大まかな地図には中瀬之殿の場所が記載されていたのだが、「殿・御嶽・井戸調査報告書」では所在地不詳となっている。「東風平村史」で記載している場所は畑になっている。

2021年2月1日に旧真壁村新垣集落に向かう詩にここを通った際に畑がきれいに刈られ、その中に石柱が建っている。以前ここを探したが見つからなかった中瀬之殿 (ナカシーヌトゥン) とかかれている。やはりこの場所が殿だったのだ。


川田之殿 (タータヌトゥン) [10月24日 訪問]

高良農村公園にある殿。旧正月の2日と5月6月のウマチーで御願されている。


タルガー (高良)

世名城グスクのある丘陵の麓北側にある井戸で、世名城集落と高良集落共通の拝所井戸。ここも、初ミジナディ (水撫) で御願されている。

いよいよ世名城グスクに向かう。


世名城グスク (ヨナグスクグスク、ウィユナグスク)

世名城集落と高良集落の共通の拝所の世名城グスクに向かう。集落の南に東西に伸びた丘陵地がある。世名城グスクはその西側にある。(写真では右側) 東側は八重瀬グスクに繋がっている。地元の人はウィユナグスクの方で呼んでいる様だ。(公民館のおじいはそう呼んでいた) グスクは行政区では字高良なのだが、世名城集落の拝所でもあるので、ここに載せておく。グスクとはいえ、ここは城塞としてではなく聖域としてのグスクで、多くの拝所が集中している。
丘陵の標高60mぐらいまで登るとグスクへの道がある。

[上之城 (ウィグシク、エン佐久真之殿)]

道を進むとまず上之城と書かれた拝所跡がある。琉球国由来記ではここがエン佐久真之殿であるとしている。

[下之城 (シチャグシク、佐久真之殿)] [未訪問]

上之城の道を挟んだところに下之城があるはずなのだが見つからない。背の高いサトウキビの畑のなかにあるのだろうか?これでは見つからないだろうということで断念。



[中之殿、中之殿井]

グスクへの道を進むと拝所がある。ここは中之殿。グスク入り口とグスクの下世名城御嶽との中間点にあたる。旧正月、旧暦の1月3日のミッチャヌスクー、ウハチ墓参りの際の (御初) 拝み [御初とは初めてお出しする御馳走のこと] と夏のウハチの際に御願される。
拝所の側には中之殿井があるのだが、草が伸び放題で埋没している。昨年ここに来たときは標識の頭は見えていた (写真左) のだが、今回は全く隠れるほど草が生茂っている。インターネットで草を刈った後の写真 (右) があるのでそれを拝借。

2021年2月1日に再訪した際には間w理の草がきれいに刈られ、井戸跡がはっきりと見えるようになっていた。旧正月に向けて村の人たちが行なったのだろう。

道の向こうに広場見えてきた。あそこが御嶽だろう。

[上世名城之嶽 (ウィユナグシクヌタキ)]

この広場一帯が御嶽だそうだ。この御嶽は二御前 (フタオーメ [二つの神]) と呼ばれ、字世名城と字高良のそれぞれの祭祀場となっている。広場には大きなガジュマルがあり、その根本には幹の窪みの中に威部 (イビ) がある。ここで祀られているのは雪揚威部 (ユキアガリノ御イベ)と行末威部 (ユキスイノ御イベ) ここに向かって、この広場でウマチーの際にノロが祭祀を行なっていたのだ。
このガジュマルは他のガジュマルと異なり、少し独特な雰囲気を持っている。まるで動物の様にダイナミックに生きている様だ。隣の別のガジュマルと一帯化している。空間に枝を伸ばして、遂に合体。更にそこから幹が地面に伸びて根を生やしている。どれ程の年月でこんな事ができるのだろう? 自然の力は凄い。この自然と信仰が一体化し、このガジュマル自体が信仰の対象となっていったのだろう。

[上世名城之殿 (ウィユナグシクヌトゥン)]

上世名城之御嶽の奥に上世名城之殿がある。御嶽と殿が隣接して、尚且つ、殿が御嶽の上にある。何故、この様な位置関係にあるのだろう。かつては、御嶽は神聖な場所でノロなど限られた人しか入れない場所で、村の人達は殿で御願を行っていた。通常は殿は御嶽への道の途中にある。もう一つ御嶽と殿の区別が分かりにくい。御嶽は集落の共通の御願所で殿は門中の御願所という定義もある。時代と共に変わってきているのだろうが...
殿の前には石が置かれている。時々見かけるのだが、この殿では何に使われていたのだろう?

[中北山えのお通し、東 (アガ) リお通し]

上世名城之殿に向かって左側には遥拝所がある。中山と北山への遥拝所と、東御廻りの御願所への遥拝所となっている。この様な拝所は拝む時期が決まっており、お供えするものも細かい決まりがあるのが一般的だ。沖縄ではその作法についてのガイドブックが売られており、一般の人はそれを見ながらお参りをする。東 (アガ) リお通しは旧暦の1月3日のミッチャヌスクーに御願する。

[八重瀬えのお通し、南山えのお通し、上世名城井]

上世名城之殿に向かって右側にも遥拝所があった。すぐこの近くの八重瀬への遥拝所と三山時代にこの地域を支配していた南山への遥拝所だ。お通しの奥には墓と上世名城井がある。八重瀬えのお通しは赤ちゃんが生まれたときに額を産井の水でなでる「初水ナディー(なで)」の際に御願する。南山えのお通しは旧暦5月と6月のウマチー (麦と稲の豊作祈願と豊作感謝祭の4回) の時に御願。上世名城井は初水ナディーのとき。

[七腹先祖の墓]

グスクへ向かう道には墓もいくつか見受けられた。道に面して一つ墓があり、その横には上に登る道がある。上に行ったところに七腹先祖の墓があった。この旧東風平村を巡って、この七腹は幾つかの集落で見かけた。いつも七腹で集落の主要な七つの門中の祖先を祀っている。ここの七腹は高良集落の門中のもの。七腹は高良集落の7つの門中を指し、浦添、大屋、西門、宮城、山城、佐久間、安谷屋の各腹だ。 何故「七」なのだろうかとの疑問が湧いて来る。この世名城集落には七つ星風水森というものがあったそうだ。災難の厄除けの為に風水に従って設けた丘だ。沖縄ではこの「七」には特別な意味があるのだろうか? 沖縄では奇数を割り切れない数として神の数字として扱い、今でも供物などは奇数の数になっている。その中でも「七」は特別な数字だそうで、神聖なものとされている。という事で、七腹の墓もこの信仰から来ているのだろう。

七腹先祖の墓の隣には二つの古墓がある大屋門中と佐久間門中の墓だ。この二つの門中も七腹に入っている。


世名城集落で拝まれている拝所一覧を作ってみた。これでみるとおじいが言っていたようにノン殿内が最も多く御願されている。御嶽ではなくノン殿内であったことは意外だった。次いで国元の志本門中が司宰している中屋と神アシャギの神屋となっている。神屋という門中の拝所だが、国元ということでいまだに部落では大きな影響力を持っているのだろう。別の角度から見ると豊年祈願と収穫祭にあたるウマチーの時が、最も多く拝所をめぐる日で、次いで旧暦の正月二日の初起しが忙しい日になっている。拝所が隣の字の高良と与座に多くあるのも興味深い。

世名城グスク訪問の後に高良集落の文化財の一部も見たのだが、その詳しい紹介は次回に高良集落を訪れたときの訪問記に含めることとする。今日も夏日で暑い。二週間前は台風の影響で涼しかったのだが、そのあとは日中は夏に戻った様だ。

おじいの探していた本が図書館にある事が分かり、さっそく調べに行く。東風平町教育委員会編纂の「殿・御嶽・井戸調査報告書」だ。それに基づいて、もう一度訪れることにした。(10月24日に再訪)


世名城集落の文化財で見つからなかったものは、また公民館に行って聞いてみることにしよう。

  • 我瀬川之嶽 (カズカワヌタキ、ガジャウタキ) (川石之御威部) / ガジャガー: この御嶽は我謝腹門中の子孫を祀ってある。我謝腹門中の元々住んでいた具志頭の安里を拝む場所だそうだ。
  • 道富之殿
  • 中瀬井


イシキヤ之殿 (2月7日 訪問)

このイシキヤ之殿 (イシチャヌトゥン) については東風平村史では所在地不詳となっていたので、探さなかったのだが、今日 (2月7日) 訪問地からの帰途の途中に、この場所が目に留まり、見てみると石柱にイシキヤ之殿と書かれていた。司宰門中も不詳ということで詳細は不明。地元の人には認識されているのだが、東風平村史でも殿・御嶽・井戸調査報告書でも名前以外の情報はかかれていない。自転車の移動ではなるべく同じ道は通らないようにしている。見落としている文化財や、場所がわからなかった文化財が、思いかけず見つかることがある。


質問事項

  • 志伊良アタリ之殿 (シラタイヌトゥン) がある東 (アガ) リ古島は集落が始まった場所?
  • 国元の志木門柱は高良集落にある川田之殿の司宰だが、高良と世名城の関係は?
  • アシビナ溜池のところにはアシビナが存在したのか?
  • 世名城公民館はかつての村屋?
  • 御嶽ではなくノン殿内が御願の中心地になった理由は?
  • 農村公園はかつては何だったのか?
  • 上世名城御嶽が上世名城之殿より前方にあるが、普通は逆のはず。なぜか?
  • 世名城グスク内に八重瀬へのお通しがあるが、八重瀬岳はすぐそばなのになぜお通しがあるのか?
  • 見つけられず訪問できなかった拝所の確認 (御嶽)  手田川之嶽 (ティラガーヌタキ)、我瀬川之嶽 (カズカワヌタキ、ガジャウタキ) 、道富之殿 (シードーワーヤー)、仲村渠之殿 (ナカヌトゥン)、外間之殿 (フカマヌトゥン)、 上地嶺之殿 (ハーエーヌトゥン)     (泉井) ヒラバル井、中瀬井、オテダウカー、ガジャガー

参考文献

  • 東風平村史 (1976 知念 善栄∥編 東風平村役所)
  • 殿・御嶽・井戸調査報告書 (2002 東風平町教育委員会)

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