Okinawa 沖縄 #2 Day 87 (28/02/21) 旧大里村 (1) Zenimata/Hirakawa/Takamiyagi Hamlets 銭又/平川/高宮城集落

旧高平村 (たかひら)
銭又集落 (ぜにまた、ジンマタ)
  • 銭又公民館
  • 銭又井泉 (ジンマタガ-)
  • 仲程井泉 (ナカフトゥガ-)
  • 後之井泉 (クシヌカー)
  • ナーカヌ後ろ (ナーカヌクシロ)

平川集落 (ひらかわ、ヒラカ―)

  • チブガー井泉 (ガ-)
  • 野原子 (ヌバルシー、野原之嶽/野原之殿)、野原子之井泉 (ヌバルシーヌガ-)
  • 中之井泉 (ナカヌカ-)
  • グスタガ-
  • 平川門 (ヒラカワジョー) 門中の屋敷跡 (平川公民館)
  • 新東小 (三―アガリグヮー) の敷地内の拝所
  • 名幸 (ナコー) の神屋
  • 井戸跡
  • 新徳東 (三―トゥクアガリ) の屋敷跡の拝所
  • 上之殿 (ウィーヌトゥン)
  • 上之殿之井泉 (ウィーヌトゥンヌガ-)
  • 名幸殿 (ナコードゥン、ナカウ之殿)
  • タジラシ殿 (トゥン)
  • タジラシ殿之井泉
  • 外間井泉 (フカマガ-) 
  • 火返しの神 [未訪問]
  • アシジャガー

高宮城集落 (たかみやぎ、タカナーグスク)

  • 産井泉 (ンブガ-) 
  • 高宮城グスク、殿 (トゥン、殿小 トゥングヮー、高宮城之殿 タカナーグスクヌトゥン)
  • トウ井泉 (ガ-)
  • 高宮城村屋跡 (公民館)
  • 前金城 (メーカナグシク)
  • 新屋 (ニーヤ)
  • ノロ殿内 (ドゥンチ、高宮城巫火神)
  • 前之井泉 (メーヌカー)
2月24日に糸満市の名城集落訪問の後、糸満市で未訪問の喜屋武と摩文仁は資料が揃ってから訪問する事にして、図書館である程度情報がある南城市を調べた。二日間図書館に缶詰になり、何とか次の訪問先の情報は揃った。昨日は確定申告を一日中格闘してなんとか仕上げて提出完了。今は会計ソフトからインターネットで提出できるので便利になった。
今日は家から7kmほど先の旧大里村の高平区を訪問する。高平区には戦前の3つの村で構成されている。その3つの集落をめぐる。南城市は沖縄で一番人気の歴史上のヒーローの尚巴志ゆかりの地であることや、三山時代のグスクが多く残っていること、沖縄開闢の地との伝承もある事から、文化財活用に対しては他の市町村に比べて力を入れており、南城市の文化財や歴史についてはかなり詳しい資料を編纂して発行している。この資料に沿って文化財を見ていく。


旧大里村 (おおざと)

大里は三山時代 (1314 - 1429年) には「島添大里」として南山王の拠点であった。琉球王府時代から沖縄県及島嶼町村制が施行される1908年 (明治41年) までは大里間切 (島添大里間切) で間切内には25村が存在していた。沖縄県及島嶼町村制で村は字に改称された。

  • 1737年 新里、小谷、津波古を佐敷間切に、神里を南風原間切に分離。稲福、大城、目取真を玉城間切から編入。
  • 1742年 宮城、与那覇を南風原間切に編入。与那嶺村は廃村となり,20か村をもって明治期に至る。
  • 1908年 大里村の18村 (南風原、真境名、湧稲国、平川、高宮城、古堅、島袋、嶺井、与那原、大見武、板良敷、仲程、平良、稲嶺、上与那原、与那嶺、西原、当間) を7字に統合。
  • 1908年 島嶼町村制に大里間切から大里村となる。(10字 = 大里、古堅、嶺井、与那原、上与那原、板良敷、仲間、高平、稲福、大城)
  • 1949年 北部海沿いの与那原、上与那原、板良敷の3字(与那原、与原、大見武、当添、板良敷、上与那原の6行政区) が分立し、与那原町となる。それに伴い大里村は7字18行政区となり、村役場が中央部の字仲間に移転。
  • 1990年 大里グリーンタウンなどの住宅地ができ、行政区が18から21になる。
  • 2006年 玉城村、佐敷町、知念村と合併し、南城市となり消滅。


旧字高平 (たかひら)

1908年 (明治41年) の沖縄県及島嶼町村制の際に銭又村、平川村、高宮城村を統合し、字高平となる。今日はこの旧字高平の3つの村の文化財を巡る。

旧銭又村 (ぜにまた、ジンマタ)

まずは、一番近い銭又村から訪問。銭又村は屋取集落で、首里の旧士族が帰農し、当間と高宮城の一部で農業を始めた。いつ頃できたのかは明確なではないのだが、18世紀後半には銭又に居住していたようだ。当時の大里村の士族は住民の31%と首里や那覇以外ではかなり高い比率だった。住民の大部分が瑞慶覧 (ずけらん) 姓で、瑞慶覧門中はじめ6つの門中があり、そのほとんどの当世 (トーシー) 墓は帰農前に住んでいた首里の識名にある。瑞慶覧の祖先は尚円王を祖とし尚豊玉の代  (1621年)、上間親方長胤を始祖とする瑞慶覧長喜を祖先とする一族と伝わっている。

1934年 (昭和9年) に高宮城の銭又屋取集落に当間の与那堂屋取 (17世紀末にはこの集落の存在が文章に残っている)、福原のウサ瑞慶覧が合流し、独立した字銭又となった。字銭又は南は武富毛 (ダルキンモー)、東は殿内毛 (トンチンモー)に囲まれた銭又毛にあった。 さとうきびや野菜、マンゴーなどの栽培が盛んな農村集落だそうだ。確かに民家はそれ程多くなくほとんどが畑。銭又村は歴史的には新しい屋取集落なので拝所などはなく農業に必要な井戸だけが文化財となっていた。

人口は国勢調査のデータを使ったのだが、旧大里村内の字単位のデータは1960年以降のものしかなく、明治、大正、昭和戦前のデータが見つからなかった。大里村の人口は沖縄戦で急激な減少がみられる。その後、沖縄本土復帰以降急増しているが、現在は1920年 (大正9年) に比べて11%鹿増えていない。銭又集落の本土復帰以前の人口の推移については判らないが、屋取集落ということもあり、あまり増減はなかったのではないかと想像する。1960年以降は人口は減少が続いており、1960年当時に比べ19%減少で、旧大里村の中では人口が二番目に少ない字になっている。一方、世帯数は70%増で世帯当たりの人数は減少。

銭又集落で行われている年中祭祀は下記の通りで、屋取集落なので集落としてのつながりも薄く拝所も少なく、正月の初起しのみ。


銭又集落訪問ログ


銭又公民館

銭又公民館は民家が数軒ある場所にあった。他の琉球王朝時代からあった集落特有の碁盤の目の様な路地は無い。これは他の屋取集落共通で、帰農した士族は開墾する畑の側に住居を構えていたので、民家は畑の中にポツンポツンとある。これは今でも変わっていない。家と家とがかなり離れていたので、屋取集落内での住民の繋がりもあまり強く無かったという。これが屋取集落に御嶽や殿がほとんどない要因となっている。この公民館があるところはかつてはサーターヤーがあった。

銭又井泉 (ジンマタガ-)

南城市発行の「南城市の御嶽」には4つの井戸が掲載されていた。銭又集落の南東の畑地に銭又井泉がある。直径約5m程の井戸で、石積みで囲われている。現在は農業用水として使用されている。

仲程井泉 (ナカフトゥガ-)

集落の南西部の畑の中に井泉があるとなっている。そこに行くと民家の敷地の裏の畑の中にありそうだ。たまたまその民家の人が家の前に出ていたので尋ねると、親切に井戸まで案内してくれた。コンクリート製の井泉があった。香炉などは置かれていないので、今でも御願されているのかと聞くと、今ではもう行われていないとの事。この井泉は仲程家の近くにあることから仲程井泉 (ナカフトゥガ-) と呼ばれている。この親切な人は、仲程家の人だったのだろう。井泉にはホースが差し込まれており、農業用水として使用されている様だ。

後之井泉 (クシヌカー)

公民館の北西の道路脇に後之井泉 (クシヌカー) がある。コンクリート建ての平屋の中にあり、香炉が置かれて拝所になっている。この井泉も今は農業用水として使用されている。

ナーカヌ後ろ (ナーカヌクシロ)

後之井泉 (クシヌカー) の近くの畑の中にある井泉なのだが、一面サトウキビ畑だ。畑の中に入って行けば探す事は出来るのだが、畑で鎌でサトウキビを刈っているおじいがいたので、この井戸の事を聞くと、このおじいも親切に井戸を教えてくれた。この井泉もコンクリート製になっている。香炉が見当たらないので御願されているのかを聞くと、たまに拝みに来る人がいるそうで、拝みにきたのかと聞かれた。農業用水として使用されているそうだ。このおじいの畑でもこの井泉の水を使っているのだろう。おじいはゆっくりと昔ながらに手作業でのサトウキビの収穫をしている。いつまでかかるのだろう?

銭又集落の4つの井泉を見終わり、次は隣の平川集落の文化財訪問に移る。



平川集落 (ひらかわ、ヒラカ―)

銭又集落の南側の丘を越えたところに平川集落がある。
1962年に書かれた琉球千草之巻の琉球村々世立始古人伝記によれば、世立初めは島尻世主の御子東風平按司在所根所、地組始は大里西原村より来る平川大主在所とあるので琉球王朝時代の事であったと考えられる。この平川もさとうきび畑が広がる静かな農村集落だった。丘陵の北側はほぼ全土がサトウキビ畑が中心の農地で、平川集落の村の始まり場所であった。その後、現在の集落の場所に移ってきた。現在の集落の方は北側とは趣が異なり、畑は少なく、民家が集落の外側にも広がっていた。1920年 (大正9年) の国勢調査では、旧大里村では3番目に人口の少ない字だったが、本土復帰以降人口は増え、2000年代にはいると、安定期になってる。2012年から再度、人口が増加し始め、現在の増え続けている。何が再増加の要因なのかは書かれてないが、感染道路も近くに走り、徒歩の距離にイオンタウンが造られ、生活環境の向上が理由ではないかと思う。上の掲載した民家の分布の変遷図でも、住宅地域が広がっていることがわかる。


大里村史 通史に記載された拝所 (太字は訪問した拝所)

  • 御嶽: 野原之嶽
  • 殿: 根所火神 (所在地不明)、平川之殿 (所在地不明)、ナカウノ殿 (名幸殿)野原之殿


平河集落で行われている年中祭祀は下記の通り。清明祭 (シーミ―) では集落外の拝所や墓を御願している場所が多い。祖先が三山時代頃に移り住んでくる前に住んでいた場所にある拝所でその時代から今まで御願を続けている。この集落では名幸門中と門門中の神屋と上ヌ殿がほとんどの祭祀で御願されている。この3つが集落の信仰の中心であることがわかる。


平川集落訪問ログ

銭又集落から南側の丘陵を西に向かって、登っていく。二又道に出て、丘陵の北への道が旧集落があった場所、南の道が現在の集落二向かう道になる。まずは北側に行く。この道の向こうには標高80mの丘が見える。そこには高宮城グスクがある場所。そこに向かい、畑の中の農道を走る。


チブガー井泉 (ガ-)

二又から北側の道に入って、一つ目の井戸の拝所がある。ここに広がる農耕地帯は現在の平川集落に移る前の古島で、その西側にチブガー井泉 (ガ-) がある。井泉は埋められ形式保存されて、香炉が置かれている。

野原子 (ヌバルシー、野原之嶽/野原之殿)、野原子之井泉 (ヌバルシーヌガ-)

チブガー井泉 (ガ-) から少し西に向かい、北に広がる畑の中に御嶽と殿が残っている。野原之嶽と野原之殿の祠が二つあり、その横には形式保存された野原子之井泉 (ヌバルシーヌガ-) がある。それらをまとめて野原子 (ヌバルシー) とか野原毛 (ヌバルモー) と呼んでいる。琉球国由来記の「野原之嶽 (神名 野原シ御イベ) と考えられており、この野原之殿では高宮城ノロによって「稲大祭 (ウマチー)」が司祭されていた。隣村の高宮城ノロの管轄地域は広範囲に及び、地元の高宮城、この平川、他に古堅、当真、中程、真境名、平良にまで出向き祭祀を行っていた。
ここで農作業に来ている男性が休憩していた。この拝所について聞いてみた。名前は知らないという。地元の人でも御嶽や殿、井泉の名前まで知っている人は非常に少ない。この拝所は村として役員や神人が村行事で拝んでいるそうだ。一般の人はこの拝所については、あまり気にしていないそうだ。この人から、この辺りが古島だったと教えられた。いつ頃、ここから現在の集落に移ったのかは知らないが、随分昔の事らしい。琉球王朝時代に薩摩藩の琉球侵攻の直後、首里王府の経済状況が疲弊し、農民からの租税収入を増加させるため、農業に適している場所にあった集落は丘陵地斜面のような低生産性の土地に強制移住させられた時代がある。この時期に移住があったのかもしれない。

今はサトウキビ収穫の期間、2月中旬から3月中旬にかけて行われるそうだ。この付近はサトウキビ畑が広大なので、機械で刈っている。銭又ではおじいが手作業でサトウキビを刈っていたのを思い出した。時々、鎌でサトウキビを刈っているのを見かけるが、いつもおじいとかおばあが刈っている。手作業で刈れるサトウキビは量も限られ、それほどの収入はないだろう。後継者もいないのだが、先祖から受け継いできた畑は自分の代まではとの想いで、守っているのだろう。


中之井泉 (ナカヌカ-)

野原子 (ヌバルシー) の西側にも井戸跡がある。川の古島のはぼ中央部にあったので中之井泉 (ナカヌカ-) と呼ばれている。この井泉も埋められており、形式保存され拝所になっている。ここを見つけるには少し苦労した。探しても見当たらなかったのだが、刈ったサトウキビの束の隙間から丸い井戸の様なものが見えた。サトウキビの束を取り除くと井戸跡が現れ、そこには大量のありの群れがあふれてきた。サトウキビの糖に群がっていたのだ。井泉の周りを綺麗にして写真撮影。

この場所から南側に横たわる丘陵の写真。この丘陵を越えたところに平川集落がある。集落へは丘陵の東と西を迂回する道があるのみ。


グスタガ-

集落との間にある丘陵の麓にも井泉が形式保存されている。平御香が香炉の上に置かれている。最近ここに拝みに来た人がいたのだ。

次は来た道を戻り、南の道で集落に向かう。集落は丘陵の斜面に広がっているが、元々あった集落は規模が小さい。今では集落の外側の方が、大きくなっている。



平川門 (ヒラカワジョー) 門中の屋敷跡 (平川公民館)

集落に入ったところに平川公民館がある。この場所は元々は平川の村立てをした平川門 (ヒラカワジョー) 門中の屋敷跡だそうだ。後に村屋として使われていたのだろうか、公民館の入り口には酸素ボンベの鐘が吊るされている。公民館の中には門 (ジョー) と呼ばれる祭壇と火の神が祀られているそうだ。(写真右は資料から拝借) 以前は平川門門中により拝まれていたが、現在は平川区により旧正月やウンケー・ウークイなどの祭祀で拝まれている。(平川門 (ヒラカワジョー) 門中は現在の門中リストには出ていないので、絶えてしまったのだろう。) 


新東小 (三―アガリグヮー) の敷地内の拝所

公民館の向かい (南側) の民家の庭にある拝所で、沖縄戦の時に平川で戦死した人の遺体を置いていた場所という。


名幸 (ナコー) の神屋

公民館の東側には名幸 (ナコー) の神屋がある。平川の旧家の名幸 (ナコー) 門中の元屋 (ムートゥ―ヤー) の屋敷跡といわれている。今はだれも住んでおらず空き地に村を見渡すかのように神屋が建てられていた。


井戸跡

名幸 (ナコー) の神屋の道路の角に名不詳の井戸跡がある。元は道向かいにあったのを移設している。形式保存だが、その横には香炉が置かれているので、村の拝所の一つだ。


新徳東 (三―トゥクアガリ) の屋敷跡の拝所

名幸 (ナコー) の神屋の隣は畑になっており、その後方に徳東 (三―トゥクアガリ) の屋敷跡があったそうだ。そこに石の祠が置かれ、拝まれている。新徳東 (三―トゥクアガリ) の屋敷跡も民家はなく空き地となっている。


上之殿 (ウィーヌトゥン)
名幸 (ナコー) の神屋から北へ丘陵に入る道がある。綺麗に整備されている。この道を少し入ると右手側に広場があり、そこに平川の根屋と呼ばれる拝所がある。

平川の根屋は上之殿 (ウィーヌトゥン) と呼ばれ、平川子が祀られているという。平川子は旧大里村の真境名集落の玉城門中の元屋 (ムートゥ―ヤー) の屋号「前」からの分家だそうだ。隣のむらの南風原町神里集落の神里ノロによっても祭祀が執り行われていた。現在も、神里ノロの子孫の代表者が拝んでいる。この上之殿 (ウィーヌトゥン) は平川集落では最も大切な拝所のはずだが、なぜこの集落を管轄している高宮城ノロではなく、神里ノロが祭祀を行っていたのだろう。

ここに慰霊碑が建っている。傍らには沖縄戦で犠牲になった方々の名前が刻まれている。これは新しく建てられたもので、慰霊塔の後ろには、以前の犠牲者刻銘板が横たわっていた。村の人には今でも忘れられないことで、新しく造られたのだろう。


上之殿之井泉 (ウィーヌトゥンヌガ-)
上ヌ殿の敷地内には上之殿之井泉 (ウィーヌトゥンヌガ-) と呼ばれている井戸がある、産井 (ウブガー) として使用されていたそうだ。


名幸殿 (ナコードゥン、ナカウ之殿)

上之殿 (ウィーヌトゥン) から奥に向かうと、そこは平川の元屋の一つである名幸門中の屋敷があった場所。屋敷はなく、ちょっとした広場になっている。現在は民家はなく、そこに殿があり、現在は区で管理している。琉球由来記の「ナカウ之殿」とされ、高宮城ノロにより「稲大祭 (ウマチー)」が司祭されていた。


タジラシ殿 (トゥン)

名幸殿 (ナコードゥン) から更に奥に向かう道があり、その行き止まりにタジラシ殿 (トゥン) と呼ばれる拝所がある。平川の村立てを行ったタジラシという人物の屋敵跡があったともいわれている。

タジラシ殿之井泉

タジラシ殿の隣にはタジラシ殿之井泉がある。以前は水があったが、上砂崩れで消失。現在はタジラシ殿のそばの香炉をタジラシ殿之井泉として拝んでいる。

外間井泉 (フカマガ-) 
公民館の南に公園があり、道路を挟んだ北西に外間井泉 (フカマガ-) あり、ミ-ガ-ともいわれている。


火返しの神 (未訪問)

集落内東部には火返し (火事除け) をすると考えられている拝所があるのだが、この辺りなのだが、それらしき祠や香炉が見当たらなかった。


アシジャガー
集落からみて東方の畑の中にある井戸で、アシジャガーと呼ばれている。この井戸は1800年頃に造られたそうだ。

引き続いて、隣の村の高宮城集落に向かう。平川からは歩いてもそれほどかからない距離のところにある。


高宮城集落 (たかみやぎ、タカナーグスク)

高宮城グスクからの高宮城集落。向こうに見える丘の手前の集落がそうだ。左側にはイオンタウンがあるがこの場所は元々旧大里南小学校があった場所。琉球村々世立始古人伝記によれば、世立始は大里村南風原屋より来る名城大主在所根所世持屋と云う。地組始は玉城普天間家より来る伊良部子在所座神とある。

1920年 (大正9年) の国勢調査では、旧大里村では一番人口の少ない字だったが、本土復帰以降人口は急増し、現在も人口増加傾向にある。上の写真でもわかるようにこの辺りは住宅街になり、大型商業施設も建てられ、住みやすい環境になった事が要因だろう。注目される点は世帯当たり人数の下落が比較的抑えられている事。2.8人は大里村平均で2.6人、南城市平均で2.4人なので、家族には住みやすい場所になっているのだろう。

大里村史 通史に記載された拝所 (太字は訪問した拝所)

  • 御嶽: 黄金森 [神名: コガネシオブルクウノ御イベ]
  • 殿: 高宮城巫大神 (ノロ殿内)高宮城之殿 (殿)


高宮城集落で行われている年中祭祀は下記の通り。昔からの祭祀を続けているように思える。御願されている拝所の数は決して多くないのだが、他の多くの集落では現在では途絶えている収穫を感謝するカシチーが3つも残っている事、麦の2月、3月のウマチーが行われていることがそれを表わしている。祭祀を行っていた高宮城ノロはこの集落以外にも古堅、仲程、平川、真境名、平良、当真の合計7つもの集落の祭祀も担当していた。ウマチーなどは同じ日に各集落で行われているので、かなりの忙しさだっただろう。


高宮城集落訪問ログ


産井泉 (ンブガ-)

この場所は平川の古島からの方が近いので、現在の平川集落に向かう前に訪れた。高宮城グスクの殿に上る道沿いの畑の中に産井泉 (ンブガ-) があり、イーヌカーともよばれている。住民の生活用水としての他、正月の若水 (ワカミジ)、産水 (ンブミジ) としても使用されたという。現在は農業用水として使用されている。産井泉 (ンブガ-) の向こうにはこの後いく高宮城グスクがある丘が見えている。

高宮城グスク、殿 (トゥン、殿小 トゥングヮー、高宮城之殿  タカナーグスクヌトゥン)

産井泉 (ンブガ-) から高宮城グスクと考えられている山の中に向かう。ここからは高宮城集落が眼下に、向こうの丘陵には仲程の団地が広がる。この後訪れた公民館で話しかけた地元の人によれば、この付近は高宮城が現在の集落に移る前にあった古島だそうだ。この森の中に殿 (トゥン) があり、 別称、殿小 (トゥングヮー) とも呼ばれ、黄金子 (クガニシ―) という人物を祀っている。黄金子は「おもろさうし」に鎧兜の姿で謡われている。
この殿は、琉球国由来記の「高宮城之殿」とみられている。以前、殿の中にあった祠は、仲程区内にあるクガニシーと呼ばれる拝所に勧請されている。この拝所では稲二祭 (ウマチー) が行われ、高宮城の百姓の他、仲程村の百姓からも神酒が供出されていた。
殿の前方に一つ、後方にも拝所が二つある。名不詳だが、現在でも五月ウマチーで拝まれている。

トウ井泉 (ガ-)

平川集落から高宮城集落に入った直ぐに所、集落の北端に井泉がある。トウ井泉 (ガ-) と呼ばれ、井泉のそばに「大正6年9月」と刻まれたコンクリート製の祠がある。かつては飲料水として使用されていたそうだ。

高宮城村屋跡 (公民館)

高宮城は小さな村で南北に3列、東西に4列に区画された集落。トウ井泉 (ガ-) から2ブロック進んだ所に高宮城公民館がある。公民館の中には、仏壇があり、沖縄戦で一家離散した家の祖先を高宮城区で祀っているそうだが、今日は日曜日で閉まっている。公民館の台所には火ヌ神もあり、5月のウマチーで拝まれているそうだ。公民館の庭には沖縄戦犠牲者の慰霊碑があった。

前金城 (メーカナグシク)

公民館の後方にある神屋があり、五月ウマチーで拝まれている。

新屋 (ニーヤ)

公民館から北東約60mのところに新屋 (ニーヤ) と呼ばれている神屋があり、国代 (クニデ―)、クニシーとも呼ばれている。仲程区のアサトヌ殿へのお通し (遙拝所) といわれている。
新屋 (ニーヤ) の裏にも祠があった。中は空。ここは以前の新屋で新しく建て替えられたのだ。

ノロ殿内 (ドゥンチ、高宮城巫火神)

公民館の南にノロ殿内 (ドゥンチ) がある。かつては、今日訪れた殿がある山の麓にあったが、80年代に現在地に移設されている。高宮城ノロは、高宮城の他、平川、当間、平良、真境名、古堅、大城でも祭紀を行っていた。このノロ殿内は琉球国由来記の「高宮城巫火神」に相当するとみられ、この拝所では高宮城ノロによって稲穂祭三日崇 (ウマチー) が可祭されていた。

前之井泉 (メーヌカー)

ノロ殿内 (ドゥンチ) のすぐ側、集落南の端に広場がある。その広場の前の道向かいに井泉がある。比較的新しい井戸で、1920年代または1930年代に機機で掘ったもの。前之井泉 (メーヌカー) と呼ばれており、飲料水として使用されていた。
広場の建物がある場所にも石の祠があった。資料には載っていなかったので名前や何を祀っているのかは不明。

今日の予定していた集落3つが終わった。高宮城集落の直ぐ側にあるイオンタウンで暫く休憩して帰路に着く。

参考文献

  • 南城市史 総合版 (通史) (2010 南城市教育委員会)
  • 南城市のグスク (2017 沖縄県南城市教育委員会)
  • 南城市の御嶽 (2018 南城市教育委員会)
  • 大里村史通史編・資料編 (1982 大里村役場)
  • 銭又区五十年の歩み (1989 [銭又区]五十周年記念誌編集委員会)
  • 南城市文化財ガイドマップ

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