Okinawa 沖縄 #2 Day 87 (28/02/21) 旧大里村 (1) Zenimata/Hirakawa/Takamiyagi Hamlets 銭又/平川/高宮城集落
- 銭又公民館
- 銭又井泉 (ジンマタガ-)
- 仲程井泉 (ナカフトゥガ-)
- 後之井泉 (クシヌカー)
- ナーカヌ後ろ (ナーカヌクシロ)
平川集落 (ひらかわ、ヒラカ―)
- チブガー井泉 (ガ-)
- 野原子 (ヌバルシー、野原之嶽/野原之殿)、野原子之井泉 (ヌバルシーヌガ-)
- 中之井泉 (ナカヌカ-)
- グスタガ-
- 平川門 (ヒラカワジョー) 門中の屋敷跡 (平川公民館)
- 新東小 (三―アガリグヮー) の敷地内の拝所
- 名幸 (ナコー) の神屋
- 井戸跡
- 新徳東 (三―トゥクアガリ) の屋敷跡の拝所
- 上之殿 (ウィーヌトゥン)
- 上之殿之井泉 (ウィーヌトゥンヌガ-)
- 名幸殿 (ナコードゥン、ナカウ之殿)
- タジラシ殿 (トゥン)
- タジラシ殿之井泉
- 外間井泉 (フカマガ-)
- 火返しの神 [未訪問]
- アシジャガー
高宮城集落 (たかみやぎ、タカナーグスク)
- 産井泉 (ンブガ-)
- 高宮城グスク、殿 (トゥン、殿小 トゥングヮー、高宮城之殿 タカナーグスクヌトゥン)
- トウ井泉 (ガ-)
- 高宮城村屋跡 (公民館)
- 前金城 (メーカナグシク)
- 新屋 (ニーヤ)
- ノロ殿内 (ドゥンチ、高宮城巫火神)
- 前之井泉 (メーヌカー)
旧大里村 (おおざと)
大里は三山時代 (1314 - 1429年) には「島添大里」として南山王の拠点であった。琉球王府時代から沖縄県及島嶼町村制が施行される1908年 (明治41年) までは大里間切 (島添大里間切) で間切内には25村が存在していた。沖縄県及島嶼町村制で村は字に改称された。
- 1737年 新里、小谷、津波古を佐敷間切に、神里を南風原間切に分離。稲福、大城、目取真を玉城間切から編入。
- 1742年 宮城、与那覇を南風原間切に編入。与那嶺村は廃村となり,20か村をもって明治期に至る。
- 1908年 大里村の18村 (南風原、真境名、湧稲国、平川、高宮城、古堅、島袋、嶺井、与那原、大見武、板良敷、仲程、平良、稲嶺、上与那原、与那嶺、西原、当間) を7字に統合。
- 1908年 島嶼町村制に大里間切から大里村となる。(10字 = 大里、古堅、嶺井、与那原、上与那原、板良敷、仲間、高平、稲福、大城)
- 1949年 北部海沿いの与那原、上与那原、板良敷の3字(与那原、与原、大見武、当添、板良敷、上与那原の6行政区) が分立し、与那原町となる。それに伴い大里村は7字18行政区となり、村役場が中央部の字仲間に移転。
- 1990年 大里グリーンタウンなどの住宅地ができ、行政区が18から21になる。
- 2006年 玉城村、佐敷町、知念村と合併し、南城市となり消滅。
旧字高平 (たかひら)
旧銭又村 (ぜにまた、ジンマタ)
1934年 (昭和9年) に高宮城の銭又屋取集落に当間の与那堂屋取 (17世紀末にはこの集落の存在が文章に残っている)、福原のウサ瑞慶覧が合流し、独立した字銭又となった。字銭又は南は武富毛 (ダルキンモー)、東は殿内毛 (トンチンモー)に囲まれた銭又毛にあった。 さとうきびや野菜、マンゴーなどの栽培が盛んな農村集落だそうだ。確かに民家はそれ程多くなくほとんどが畑。銭又村は歴史的には新しい屋取集落なので拝所などはなく農業に必要な井戸だけが文化財となっていた。
人口は国勢調査のデータを使ったのだが、旧大里村内の字単位のデータは1960年以降のものしかなく、明治、大正、昭和戦前のデータが見つからなかった。大里村の人口は沖縄戦で急激な減少がみられる。その後、沖縄本土復帰以降急増しているが、現在は1920年 (大正9年) に比べて11%鹿増えていない。銭又集落の本土復帰以前の人口の推移については判らないが、屋取集落ということもあり、あまり増減はなかったのではないかと想像する。1960年以降は人口は減少が続いており、1960年当時に比べ19%減少で、旧大里村の中では人口が二番目に少ない字になっている。一方、世帯数は70%増で世帯当たりの人数は減少。
銭又集落で行われている年中祭祀は下記の通りで、屋取集落なので集落としてのつながりも薄く拝所も少なく、正月の初起しのみ。
銭又集落訪問ログ
銭又公民館
銭又井泉 (ジンマタガ-)
仲程井泉 (ナカフトゥガ-)
後之井泉 (クシヌカー)
ナーカヌ後ろ (ナーカヌクシロ)
銭又集落の4つの井泉を見終わり、次は隣の平川集落の文化財訪問に移る。
平川集落 (ひらかわ、ヒラカ―)
大里村史 通史に記載された拝所 (太字は訪問した拝所)
- 御嶽: 野原之嶽
- 殿: 根所火神 (所在地不明)、平川之殿 (所在地不明)、ナカウノ殿 (名幸殿)、野原之殿
平河集落で行われている年中祭祀は下記の通り。清明祭 (シーミ―) では集落外の拝所や墓を御願している場所が多い。祖先が三山時代頃に移り住んでくる前に住んでいた場所にある拝所でその時代から今まで御願を続けている。この集落では名幸門中と門門中の神屋と上ヌ殿がほとんどの祭祀で御願されている。この3つが集落の信仰の中心であることがわかる。
平川集落訪問ログ
銭又集落から南側の丘陵を西に向かって、登っていく。二又道に出て、丘陵の北への道が旧集落があった場所、南の道が現在の集落二向かう道になる。まずは北側に行く。この道の向こうには標高80mの丘が見える。そこには高宮城グスクがある場所。そこに向かい、畑の中の農道を走る。
チブガー井泉 (ガ-)
野原子 (ヌバルシー、野原之嶽/野原之殿)、野原子之井泉 (ヌバルシーヌガ-)
今はサトウキビ収穫の期間、2月中旬から3月中旬にかけて行われるそうだ。この付近はサトウキビ畑が広大なので、機械で刈っている。銭又ではおじいが手作業でサトウキビを刈っていたのを思い出した。時々、鎌でサトウキビを刈っているのを見かけるが、いつもおじいとかおばあが刈っている。手作業で刈れるサトウキビは量も限られ、それほどの収入はないだろう。後継者もいないのだが、先祖から受け継いできた畑は自分の代まではとの想いで、守っているのだろう。
中之井泉 (ナカヌカ-)
この場所から南側に横たわる丘陵の写真。この丘陵を越えたところに平川集落がある。集落へは丘陵の東と西を迂回する道があるのみ。
グスタガ-
次は来た道を戻り、南の道で集落に向かう。集落は丘陵の斜面に広がっているが、元々あった集落は規模が小さい。今では集落の外側の方が、大きくなっている。
平川門 (ヒラカワジョー) 門中の屋敷跡 (平川公民館)
新東小 (三―アガリグヮー) の敷地内の拝所
公民館の向かい (南側) の民家の庭にある拝所で、沖縄戦の時に平川で戦死した人の遺体を置いていた場所という。
名幸 (ナコー) の神屋
公民館の東側には名幸 (ナコー) の神屋がある。平川の旧家の名幸 (ナコー) 門中の元屋 (ムートゥ―ヤー) の屋敷跡といわれている。今はだれも住んでおらず空き地に村を見渡すかのように神屋が建てられていた。
井戸跡
名幸 (ナコー) の神屋の道路の角に名不詳の井戸跡がある。元は道向かいにあったのを移設している。形式保存だが、その横には香炉が置かれているので、村の拝所の一つだ。
新徳東 (三―トゥクアガリ) の屋敷跡の拝所
名幸 (ナコー) の神屋の隣は畑になっており、その後方に徳東 (三―トゥクアガリ) の屋敷跡があったそうだ。そこに石の祠が置かれ、拝まれている。新徳東 (三―トゥクアガリ) の屋敷跡も民家はなく空き地となっている。
平川の根屋は上之殿 (ウィーヌトゥン) と呼ばれ、平川子が祀られているという。平川子は旧大里村の真境名集落の玉城門中の元屋 (ムートゥ―ヤー) の屋号「前」からの分家だそうだ。隣のむらの南風原町神里集落の神里ノロによっても祭祀が執り行われていた。現在も、神里ノロの子孫の代表者が拝んでいる。この上之殿 (ウィーヌトゥン) は平川集落では最も大切な拝所のはずだが、なぜこの集落を管轄している高宮城ノロではなく、神里ノロが祭祀を行っていたのだろう。
ここに慰霊碑が建っている。傍らには沖縄戦で犠牲になった方々の名前が刻まれている。これは新しく建てられたもので、慰霊塔の後ろには、以前の犠牲者刻銘板が横たわっていた。村の人には今でも忘れられないことで、新しく造られたのだろう。
名幸殿 (ナコードゥン、ナカウ之殿)
上之殿 (ウィーヌトゥン) から奥に向かうと、そこは平川の元屋の一つである名幸門中の屋敷があった場所。屋敷はなく、ちょっとした広場になっている。現在は民家はなく、そこに殿があり、現在は区で管理している。琉球由来記の「ナカウ之殿」とされ、高宮城ノロにより「稲大祭 (ウマチー)」が司祭されていた。
タジラシ殿 (トゥン)
タジラシ殿之井泉
火返しの神 (未訪問)
集落内東部には火返し (火事除け) をすると考えられている拝所があるのだが、この辺りなのだが、それらしき祠や香炉が見当たらなかった。
高宮城集落 (たかみやぎ、タカナーグスク)
高宮城グスクからの高宮城集落。向こうに見える丘の手前の集落がそうだ。左側にはイオンタウンがあるがこの場所は元々旧大里南小学校があった場所。琉球村々世立始古人伝記によれば、世立始は大里村南風原屋より来る名城大主在所根所世持屋と云う。地組始は玉城普天間家より来る伊良部子在所座神とある。
1920年 (大正9年) の国勢調査では、旧大里村では一番人口の少ない字だったが、本土復帰以降人口は急増し、現在も人口増加傾向にある。上の写真でもわかるようにこの辺りは住宅街になり、大型商業施設も建てられ、住みやすい環境になった事が要因だろう。注目される点は世帯当たり人数の下落が比較的抑えられている事。2.8人は大里村平均で2.6人、南城市平均で2.4人なので、家族には住みやすい場所になっているのだろう。
大里村史 通史に記載された拝所 (太字は訪問した拝所)
- 御嶽: 黄金森 [神名: コガネシオブルクウノ御イベ]
- 殿: 高宮城巫大神 (ノロ殿内)、高宮城之殿 (殿)
高宮城集落で行われている年中祭祀は下記の通り。昔からの祭祀を続けているように思える。御願されている拝所の数は決して多くないのだが、他の多くの集落では現在では途絶えている収穫を感謝するカシチーが3つも残っている事、麦の2月、3月のウマチーが行われていることがそれを表わしている。祭祀を行っていた高宮城ノロはこの集落以外にも古堅、仲程、平川、真境名、平良、当真の合計7つもの集落の祭祀も担当していた。ウマチーなどは同じ日に各集落で行われているので、かなりの忙しさだっただろう。
高宮城集落訪問ログ
産井泉 (ンブガ-)
高宮城グスク、殿 (トゥン、殿小 トゥングヮー、高宮城之殿 タカナーグスクヌトゥン)
トウ井泉 (ガ-)
高宮城村屋跡 (公民館)
前金城 (メーカナグシク)
新屋 (ニーヤ)
ノロ殿内 (ドゥンチ、高宮城巫火神)
前之井泉 (メーヌカー)
参考文献
- 南城市史 総合版 (通史) (2010 南城市教育委員会)
- 南城市のグスク (2017 沖縄県南城市教育委員会)
- 南城市の御嶽 (2018 南城市教育委員会)
- 大里村史通史編・資料編 (1982 大里村役場)
- 銭又区五十年の歩み (1989 [銭又区]五十周年記念誌編集委員会)
- 南城市文化財ガイドマップ
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