Okinawa 沖縄 #2 Day 9 (1/5/20) 南風原町 (9) Kamizato Hamlet 神里集落

神里集落

  • 村屋 (ムラヤー)
  • ナカシモー
  • サーターヤー跡
  • イルジガー
  • トゥンチガー
  • ウビーガー
  • ダキグサイガー
  • ミートゥガー
  • シーシーガー
  • リンドゥガー
  • ウブガー
  • アブガー
  • ウブガー
  • ヌールガー / ダキドゥンガー
  • 案内書には載っていない井戸跡
  • 仲之殿 (ナカヌトゥン)
  • 御願毛 (ウガンモー)
  • 神里御嶽
  • 上ノロ殿内 (ウィーヌンドゥンチ)
  • 上間之殿 (イーマヌトゥン)
  • シーサーウクイモー
  • 高屋之殿 (タカヤヌトゥン)

神里集落

神里集落は南風原町で山川集落の南にあり、八重瀬町と隣接している。南風原町の12の字の中で最も人口の少ない地域で、約850人ほど住んでいる。他の集落と同様に丘陵の斜面に集落が形成されている。この集落がいつどの様な経緯で始まったのかは調べきれなかった。字の刊行物にはそれが書かれているようだが、コロナウィルスの影響で閲覧できる場所は休館となっていた。収まればもう一度ここに来て調べてみたい。
山川集落を抜けると津嘉山バイパスに入る。すると向こうに丘陵が見えて来た。丘陵 (シーサーウクイモー) だ。この丘陵の向こう側の斜面に神里集落がある。
集落は丘陵からくだっていく斜面から平坦地に流れる細い川まで続いている。
集落には細い道路が碁盤目に走っている。集落はかなり小さい。南風原の9つの字を見て来たが、どこの集落内には一軒も商店が無い。日本本土では色々な田舎の集落も見たが、小さなよろず屋の様な店はあった。これはどうしたことだろう。昔から無かったのか? 集落の周りが開発され、スーパーやコンビニができ、店をたたんだのか? 車社会なので不自由は無いのだろうが、少し気になる。

紹介されていた赤煉瓦屋根の古民家で集落内では一番古いそうだが、昭和32年に建てられたとある。既に終戦10年が過ぎた頃なので、思っていた以上に新しい。ここも沖縄戦で焼け野原になってしまったのだろうか? ただ戦後10年間は家はどうしていたのだろう。もしその期間に家を建てたなら今でも数軒は残っている筈だが。これも聞いてみたい事だ。沖縄戦の後、米軍が沖縄を占領し、住民は収容所に移され、米軍の監視下で生活をしていた。収容生活から解放され村に戻ってきたが村に戻ってきたが、村は焼け野原で家などは残っていない。住民は掘立小屋を造り生活を始めていた。ようやく昔ながらの家を建てられるようになったのが、この時期と解釈するのが妥当ではないかと思う。なんと10年もの期間、村の再建を待ち続けていた。これは日本本土の復興よりも随分と長い期間がかかっている。これが沖縄の戦後復興の実態を表している。その様にこの家を見るべきなのだろう。

村屋 (ムラヤー)

集落のほぼ中心に村屋 (ムラヤー) があった。当時の名残は残っていない。跡の前には大きなカジュマルの木がある。集落内には樹齢70年以上のカジュマルがいくつか残っている。沖縄戦を潜り抜けたのだ。

ナカシモー

村屋 (ムラヤー) の側にナカシモーと云う場所がある。石垣の上に木が植っている。何の為の物かは書かれていない。以前はもっと木が多く、集落の子供が木登りをして遊んでいたと書かれてあるのみ。

サーターヤー跡

この集落も以前はサトウキビの栽培を行っており、製糖小屋 (サーターヤー) があった。今は公民館になっている。

観光案内書で目立ったのは井戸跡が多い。その井戸跡を見てみよう。

イルジガー

津嘉山バイパスを出た所にあったのだが今は道路工事で埋められてしまい。井戸は残っていない。

トゥンチガー

この井戸には水汲みポンプが備わっている。今でも使っているのだろうか? この様な形になったのは戦後だろうと思う。この井戸の周りは広場になっている。この広場が水場であっただろう。

ウビーガー

ダキグサイガー

ミートゥガー

シーシーガー

リンドゥガー

ウブガー

ここには表示板は無いのだが地図ではこの辺りにある筈。見ると丸いコンクリートの蓋の様になっている。これが井戸に違いない。

アブガー

ウブガー

ここにもウブガーがある。集落には二つウブガーがある。だいたいの集落にはウブガーがある。ウブガーとは産水井戸と書く。名の如く戦前まで産水 (うぶみず) や若水 (わかみず)をくむ井戸として利用された。

ヌールガー / ダキドゥンガー

集落からウガンモーの丘陵を越え、北の方に降る途中にこの二つの井戸が案内書に記載されているのだが、とうとう見つからなかった。インターネットで調べるも全くヒットせず。ここら辺にある筈なのだけれど....

案内書には載っていない井戸跡

サーターヤー跡にある公民館から細い川沿いにこの井戸跡があった。洒落た休息所になっている。観光案内に載っていないので、新しく造ったのかも知れない。
これでわかっている井戸跡訪問は終わり、次は、これも集落での生活に欠かせない拝所を巡る。

仲之殿 (ナカヌトゥン)

中之殿は「琉球国由来記」に記されている拝所 (うがんじゅ) のひとつ。上ノロ殿内 (うぃーぬんどぅんち) に合祀されていたが、1991年に元の位置に戻された。

御願毛 (ウガンモー)

仲之殿 (ナカヌトゥン) から向こうにグラウンドが見える。ウガンモーと云う丘陵。集落の北側にあり、現在は町民のいこいの広場にもなっている神里ふれあい公園。

神里御嶽

かつてこの御願毛 (うがんもー) は、拝所 (うがんじゅ) で、沖縄の古い歴史書「琉球国由来記」の中に登場した聖地「神里之嶽 (かみざとのだき)」と考えられている。

上ノロ殿内 (ウィーヌンドゥンチ)

集落の北側の高台にあり、地元では「お宮」とよばれています。ここの神屋 [神屋は拝所の小屋の事] は1959年に茅葺きから石積みへ、さらに1978年には石積みからコンクリートへと改築された。上ノロ殿内の前は広場になっており、今でも獅子舞等の集落の行事が行われている。管理は、隣接する野呂殿内 (のろどぅんち) が行っていると書かれているが、野呂殿内 (のろどぅんち) は紹介されていない。恐らくここの野呂門中 (ムンチュー) のことだろう。集落ではいくつかの門中 (ムンチュー) があり、それぞれが村にある拝所を管理している。

上間之殿 (イーマヌトゥン)

御願毛 (ウガンモー) の東、集落の北の端の小さな丘にこの拝所 (ウガンジュ) がある。トゥンヌグワーとも呼ばれている。

シーサーウクイモー

神里集落の上部からさらに高い場所にある丘陵で神聖な場所とされていた。

高屋之殿 (タカヤヌトゥン)

シーサーウクイモーにある高屋之殿も「琉球国由来記」に記されている拝所 (うがんじゅ) のひとつ。中山 (中城:なかぐすく) と北山 (今帰仁:なきじん) への遥拝所 (うとぅーし) として重要な場所と解説されていたのだが、ここにいく道が見つからない。いつか再度来てみよう。以前は上ノロ殿内 (ウィーヌンドゥンチ) に合祀されていたが、後に元の場所に戻された。
以上で神里集落の見学を終えた。気づいた事は、集落の門中の墓地が見当たらなかった。墓地はだいたいのケース、集落の外れにある丘陵にある。集落の周りも走ったのだが見当たらなかった。どこかにあるのだろう。もう一つは石獅子も無い。これは特におかしい事では無いのだが、近隣の集落が石獅子を置いていたのにこの集落が置かなかったのはなぜだろう。他の集落の様に八重瀬岳に火の被害が無かったのか? (南風原間切では八重瀬岳に一番近い字なのだが....) 隣の集落とは特に問題が無かったのか? そういえば、隣の山川集落喜屋武集落にも石獅子は見当たらなかった。

今日も暑く、汗まみれ。帰宅してシャワーを浴びてゆっくりしよう。借りているフラットは5階にあるので、窓を開けていると涼しくて過ごしやすい。来週から梅雨が始まる。沖縄の集落巡りもままならず、家に留まる事が多くなるだろう。暑さと疲れであまり食欲が無いので、今日の夕食は中国人の王さんに教えて貰ったきゅうりと卵の炒め物。ご飯はお茶漬けにして流し込んだ。
最近、街中でコロナウィルスの拡散防止のため、車がスピーカーで自宅での自粛を喚起している。良く聞いていると、これを行なっているのは沖縄にある数々の政党グループだ。党員の名前を連呼して、あたかも所属政党がこのコロナウィルスに対していかに努力しているかを訴えている。何の事はない、自粛喚起の名を借りた選挙運動の様だ。したたかさを感じた。

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