Okinawa 沖縄 #2 Day 2 (14/4/20) 南風原町 (2) Yamakawa Hamlet 山川集落
Yamakawa Hamlet 山川集落
- フルサーターヤーモー跡
- 宇平橋 (うふぃばし) 碑
- 東井戸 (アガリガー)
- 西 (イリガー)
- かつての拝所跡?
- 百度之御嶽 (ヒャクドノウタキ)
- ナカジン之殿 (トゥン)
- ムラヤー跡 (山川集落センター)
- メンターガー
4月10日に津嘉山集落を訪れて、翌日は訪問記の編集に集中、その後、次の集落の訪問を予定していたが、12日と13日は雨と強風で自宅で過ごさざるをえなかった。日本全土は低気圧に覆われ、全国的に荒れた天候。ここ沖縄も気温が低く台風の様な強風だ。
今日ようやく晴天が戻ってきたが、まだ風がある。天候の変化が激しい沖縄なので、近場の訪問にとどめ、天気が崩れたら直ぐに自宅に戻れる様にしよう。
今日は10日に訪れた津嘉山集落のすぐ南の山川集落に向かう。ここには目玉になる様な史跡は無いが、町の雰囲気に触れてみたい。
山川集落 Yamakawa Hamlet
先に訪れた津嘉山に比べ人口は10分の1の1000人で、南風原町の12の字の中では、8番目に多い地域になる。山川集落が琉球の歴史書簡に現れたのは17世紀で、「琉球国高究帳」に南風原間切の新垣村の村名で記載されている。1713年の「琉球王国由来記」には山川村は、東風平間切に属している。1739年の「球陽」では、再び南風原間切に所属。1768年に風水が悪いという理由で川田原へ集落の移動が行われた。1847年には、以前の新垣原集落に戻っている。
ホームページに山川集落の史跡案内があるので、これに沿って見学をする。
フルサーターヤーモー跡
山川集落は沖縄県内でも屈指の野菜の産地だ。確かに集落のまわりは、広い農地が広がっている。集落を巡っていると、この地の名産のかぼちゃを収穫して山積みになっている家が数件あった。かぼちゃの他には、へちまが生産量日本一だそうだ。昔はさとうきび畑が広がり、ここには製糖小屋が建てられていた。手作業で黒糖を作っていた。昭和14年に機械化が行われて、黒糖より高く売れるグラニュー糖の製造も可能となった。
サーターとは漢字で書くと砂糖。琉球語では母音がア、イ、ウの三つでオはウと、エはイと発音される。さとうはサータウ、サーターとなる。この法則を知っていれば、琉球語が少しは推測が可能だ。サーターヤーは砂糖小屋でヤーが屋。ではサーターヤーモーはなに何か?モーは毛と書き、広場の意味。多分小屋がある周りも含めての製糖場を意味するのだろう。もう山川にはサーターヤーモーは残っていないのだが、インターネットでこのサーターヤーモーを復元したものがあった。これで大体のイメージがつかめる。
集落から少し外れた国道沿いにはJAの即売所があり、山川で収穫された野菜が売っている。価格は那覇市内のスーパーの半額ぐらい。興味本位で寄ったのだが、ついつい買ってしまった。
山川集落は那覇市の漫湖から国場川を経て、その支流である長堂川の沿った丘陵地帯にある。色々な沖縄南部の集落を訪れたが、集落の多くは丘陵地帯に集落がある。以前に地元の人に教えてもらったのだが、海とか川沿いは水位が増し氾濫した時に水捌けが非常に悪いので、高台に村をつくっていたそうだ。
現在はちゃんと灌漑対策がうたれているので、開発された平地は多くの住宅や商店となっている。この間訪れた津嘉山集落もこの山川集落も丘陵の斜面に村が形成されていたのだ。集落内は細い道路が入り組んで、ぎっしりと住居が並び、お店などは無い。
現代になって開発された平地地帯には広い道路幅の国道が走り、それに沿って住宅街やマンションや商店が建っている。元々の集落地区と開発されたその周りの地域とは雰囲気が全く異なる。
宇平橋 (うふぃばし) 碑
字山川と字津嘉山の境近くに宇平橋がある。長堂川に架かる橋だ。山川集落からは少し離れており、近代に開発されたい地区だ。上の写真がこの橋のある交差点で、広い道路と高いマンションが目立つ。
ここには二つの史跡がある。一つは宇平橋自体で、琉球王朝時代の第二尚氏 第11代 尚貞王の1690年にそれまで木造だった宇平橋を石橋に架け替えたことを記念して、琉球王府が建てた石碑がある。ここは那覇港から首里城に向かうルートであったので、道の確保は重要であった。橋は沖縄戦で破壊されてしまい戦後に架けられたものだが、石碑は沖縄戦で破壊は免れ今は南風原文化センターに大切に保管されており、現在の石碑はレプリカ。
もう一つは沖縄戦まで沖縄南部を結んでいた軽便鉄道の駅にひとつの山川駅があった場所。ケービンと呼ばれた軽便鉄道は長堂川沿いを走っていた。山川の農作物の運搬にそれまでの馬車から鉄道に変わり、山川農業の発展に助けになった。沖縄戦では物資輸送に使われていたので、米軍の攻撃目標でもあった。ここは「死の山川橋」と云われ、橋に続く道路には、砲弾に打ち砕かれた人々の遺骸が散乱していたという。戦禍はここだけでなく、山川集落にも及んでいた。
沖縄戦の後はこの軽便鉄道はついに再建される事は無かった。地図を見て判る様に沖縄南部の網羅していた。現在の公共交通手段は那覇市内はゆいレールと呼ばれるモノレールとその他の地域はバスだ。これが那覇市への人口集中に拍車をかけている。軽便鉄道が残っていたら、沖縄はもっと発展していたと思う。「たられば」の話だが、鉄道が再開されなかったのは残念な事だ。
東井戸 (アガリガー)
どこの集落に行っても井戸が史跡として紹介されている。井戸は琉球語ではガー 。大川集落には。かつては7カ所もの共同井戸 (ムラガー) があり、そのなかで集落の東側にある東井戸 (アガリガー) は重要な井戸だった。井戸としては大きな部類に入るからか大井戸 (ウフガー)とも呼ばれていた。この集落内で特別な井戸で、産水や正月の若水や、信仰の対象ともなった特別な井戸だ。現在はコンクリートで囲まれているのだが、広い広場にある。今でこそコンククリートで固められた広場だが、かつてはここに水汲み場や炊事場、さらに住民ができる様な小屋があったのかも知れない。
西 (イリガー)
名前の通り、こちらは集落の西 (イリ) にあった井戸。東井戸 (アガリガー) と同じく広場に同規模ぐらいだ。今でも残っているところを見ると、東井戸 (アガリガー) に次いで重要な井戸だったのだろう。ここは多分、集落の西のだったのだろう。東井戸と西井戸とは50mぐらいの距離でこの間に集落があったのだろう。
かつての拝所跡?
集落は北側に勾配が上がっており、集落の北側にはいくつかの拝所 (ウガンジュ) があったと書かれている。案内板ではかつてあった7つの拝所 (ウガンジュ) の場所が示されていた。沖縄の集落では大体のケースは拝所 (ウガンジュ) は集落から少し離れた丘や林の中に多い。ここ大川もそうなっていた様に思われる。今はいくつかが集約されて新しい拝所 (ウガンジュ) となっている。興味が湧いたので、この7つあったかつての拝所跡を探してみた。一つはここだなと思える場所があった。大きなガジュマルの木があり、そのガジュマルまで道がある。拝所らしきものはもうないのだが、個人的な推測は、このガジュマル自体がこの集落の信仰の対象になっているのではと思えた。そんな雰囲気の空間だった。
百度之御嶽 (ヒャクドノウタキ)
別の三つは現在の体育センターとなった場所のグラウンドにあったと記載されている。これを集約して、クシヌ殿 (トゥン) があった場所に百度之御嶽 (ひゃくどのうたき) として新しく拝所が造られていた。
ナカジン之殿 (トゥン)
残りのかつての拝所は住宅地にあり、場所を特定する事ができなかった。ただ現在は配所としては存在しておらず、これらも集約されて、ちゃんと拝所小屋が造られて管理されていた。
ムラヤー跡 (山川集落センター)
集落が途切れたところの西側すぐのところに山川集落センターなるものがある。山川集落の集会所として使われているのだろう。
メンターガー
ムラヤーのすぐ西側にもう一つ井戸がある。ここは村はずれだったのではと思う。ここで畑仕事をしていた人が使っていたのだろうか?
これで山川集落巡りは終了。上に書いた軽便鉄道が長堂川沿いを走っていた事を思い出し、長堂川沿いに通っている遊歩道 (多分、農道と思う) で自宅に帰る事にする。これであれば自動車道路を使わずにマンションの裏まで行ける。
川には鯉のぼり。5月の子供の日まで3週間を切ったのだ。
南国沖縄ならではの風景。島バナナがぶら下がっている。
島バナナは輸入バナナより小ぶりでお供えに使われている。結構値段は高い人房が数千円している。お供え様のためなので、お盆とかの時期にしかスーパーには出回らない。お盆が終わると、売れ残りの島バナナは2-300円に値下がり。昨年はこの値段はに心を動かされたのだが、青いままで売られている。これを放っておけば熟れて食べれるのか?という疑問。調べててみると、そのままでは熟れないそうだ。りんごと一緒に袋に入れていれば熟れて食べれる様になるらしい。島バナナは輸入バナナより酸味が強く、少し違う味との事。やってみるかと思い、翌日、売れ残りバナナがあったスーパーに行ったところ、お盆コーナーは無くなっていた。バナナも見当たらず。残念!今年こそ島バナナを食べてみよう。
今晩のメニューはチキンステーキとなすの味噌炒め。
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