Okinawa 沖縄 #2 Day 1 (10/4/20) 南風原町 (1) Tsukazan Hamlet 津嘉山集落
- 高倉 (たかくら)
- クンタマ新井戸
- 後原 (クシバル) 新井戸
- アシビーナ
- 津嘉山地域振興資料館
- 公方 (クボー) 御嶽
- イーチ御嶽
- ヰーチキ御嶽
- 東 (アガリ) 御嶽
- 高津嘉山御嶽 (2019/9/18 訪問)
- 津嘉山の殿、仲間の殿、玉那覇の殿、三月五日拝所
- ビズル
- ノロ殿内 (ドゥンチ) 邸跡
- 飛び安里記念碑 (2019/9/18 訪問)
- 旧日本軍第32軍司令部跡
- クニンドー遺跡 (仲間グスク比定地) (2019/9/18 訪問)
- 仲間馬場 (ナカマウマィー)
- 山垣橋
Haebaru 南風原町
南風原町には字が12ある。琉球王朝時代の行政区画がそのまま残っている。三山時代の南風原の様子は歴史上残っていないが、1650年 (第二尚氏 10代尚質王) に編纂された「中山世鑑」では、 三山時代には中山の版図に南風原・西原・真和志は間切ではなく、七代官制のもと、首里之平代官管轄の首里三平等として一括されている。三山時代から200年近く経ってからの中山の歴史書簡なので中山とされているが、三山時代当時は各地域の按司は緩やかな同盟関係で、中山の臣下という立場ではなく、状況ににより南山や中山と同盟を結んだり、中立を維持したりしていた。1701年 (11代尚貞王) の蔡温編纂の「中山世譜」によると首里王府直轄から四代官制のもと島尻方代官管轄の島尻山南府所属の南風原間切と記載されている。1745年 (13代尚敬王) の「球陽」では四代官制から三区となり、島尻方管轄となっている。だた、中頭方中山府に移っていたこともある様だ。
沖縄で町としては1番人口が多い。自然増加数は町村で全国1位。人口も那覇市のベットタウンとしてまだまだ増加傾向にある。人口分布も他の沖縄の地区と同じ様にまだ少子高齢化はそれほどでは無い。幾度となく他の行政地区と合併の協議が行われたが不調に終わっている。2002年には、現在の八重瀬町との合併、最近では那覇市との合併が話し合われていた。いずれも合意に至らず話し合いは解消となった。この理由についての記事は見つからなかったが、南風原町にはイオン沖縄本社があり、町としては潤っているのではと思う。八重瀬との合併ではお荷物を抱え込む、那覇との合併しなくともやっていけるという事なのではと思う。那覇中心から5kmぐらいしか離れておらず、那覇への対抗意識もあったのかもしれない。
名産品
文化
Tsukazan Hamlet 津嘉山集落
- 御嶽: 伊計之御嶽 (イーチの御嶽)、高津嘉山之御嶽 (高津嘉山の御嶽)、コバウ之御嶽 (クボーの御嶽) 以上高津嘉山巫管轄、サイ之御嶽 (サーチキの御嶽)、アヘダ之御嶽 (安平田の御嶽) 以上玉那覇巫管轄、東の御嶽 (アガリヌウタキ、骨神 琉球国由来記に記載なし)がある。
- 殿: 里主之殿 (津嘉山の殿)、下名嘉眞之殿 (仲間の殿)、津嘉山巫火之神 (ノロ火の神) (以上高津嘉山巫管轄)、アヘダ之殿 (安平田の御嶽)、アヘダ之御嶽之殿 (安平田の御嶽)、里主之殿 (玉那覇の殿)、玉那覇巫火之神 (玉那覇ノロ火の神) (以上玉那覇巫管轄)
- 井泉: 玉那覇ガー (タンナファガー)、クンタマ新井戸、後原 (クシバル) 新井戸、
- その他: ビジュル、三穂田 (ミフーダ)、
津嘉山集落も、例に漏れず、沖縄戦で被災しているので、多くの施設は破壊された。集落内で沖縄戦で被災した家の塀に銃弾の跡が残っている。近くにある高津嘉山とチカシ毛にかけてあった旧日本軍第32軍司令部が一時的に置かれていたので、この集落も米軍の攻撃に巻き込まれたのだ。
大きな家には井戸や豚フールと呼ばれる豚小屋がある。この豚 (フゥワー) フールはトイレ (沖縄方言でフール) でもあり、住民の排泄物を豚が食べてくれるのだ。豚フールは豚便所と一般的には言われており、三山時代の閩人三十六姓が豚とともに福建省から直接持ち込んだ説がある。ただ、その中国でも豚フールはあるものの、人糞を豚に食べさせる習慣は殆ど確認されておらず、豚の排泄物を肥料として使う目的の所が殆どという。沖縄ではこの豚フールは戦前までは一般的であったが、戦後は不衛生という理由で使われなくなった。(これ以降訪問した集落ではこの豚フールの跡がいくつか見られた。) 豚フールを人糞を豚に食べさせると言った習慣は、沖縄独特のものかも知れない。
高倉 (たかくら)
この家には珍しい沖縄独特の倉庫がある。高倉 (たかくら) と呼ばれる高床式穀物貯蔵庫。
全ての家に井戸があるわけでない。井戸の無い家の方が多く、その為に、集落内には多くの共同池や共同井戸がある。
クンタマ新井戸
後原 (クシバル) 新井戸
共同池は現在は埋め立てられて、公園や駐車場や畑になっている。写真右下の畑になっている池跡は先の高倉があった家の敷地内にあったそうで、ある程度裕福な家だったのだろう。
アシビーナ
津嘉山地域振興資料館
この集落での最大の祭りは綱曳。この綱曳が集落内にある津嘉山地域振興資料館で紹介されていた。綱曳 (綱引き) は沖縄のいたる所で盛んに行われている祭りだ。最大なのは那覇大綱引き。昨年参加して実際に綱を引いてみた。結構盛り上が理、楽しかった。ここ津嘉山では規模は小さい。西地区と東地区がそれぞれ2チームをエントリーして競い合う。7月に開催されるそうだが、今年はどうだろう?コロナウイルスが収まって開催できれば、参加してみたい。沖縄の綱曳の始まりは、グスク時代の南山王 (汪応祖が南山王になる前)が明から伝えたと言われている。明に留学中に綱曳の方法を習った南山王が津嘉山村に綱曳を行わせたと伝わっている。汪応祖は綱曳だけではなく、爬竜 (はりゅう、ハーリー) も伝えたと言われている。
沖縄の各地を廻っていると、至る所で出会すのが拝所だ。この津嘉山でも例に漏れず多くの拝所があった。ほとんどの拝所は石があるだけのものや、石の小さな祠があるもので、本土の立派な神社のような建物はない。この拝所を沖縄では御嶽 (うたき) と呼ぶ。御嶽は琉球の神話の神が存在する場所、あるいは来訪する場所のことで、置かれている石は神が降臨する標識のようなもので、本土のような御神体を意味する訳ではない。本土の半商業化した神社とは異なり、御嶽は今での地域住民の信仰の中心として大切に守られているものが多い。本土の神社では石を御神体としているところが多いが、立派な社で囲んで神秘性を深めたのだが、沖縄ではこのように立派な建物で囲むことはせず、昔のままの石が剥き出しになっており、その周り一帯が神聖な空間と考えられている。明治以降、日本政府は主要な社や鳥居を立てて神社化したのだが、沖縄戦で破壊された後は、元の剥き出しの石に戻っている。ここは非常に興味深い事象だ。日本では神道が国の政治に利用され変化発展したことに比べ、沖縄では、琉球王朝が国民統率の手段としての宗教利用は限定されていたので、御嶽は庶民主導の信仰のよりどころのままで残っているように思える。沖縄は日本国内では最も仏教寺院や神社の数が少ない県だ。(沖縄での神社や仏教寺院についたは以前にブログで書いている。下記のリンク参照)
御嶽 (ウタキ)
この津嘉山では案内板に従って5つの御嶽を訪問した。通常は村落のような一つの集団に一つ御嶽があるのが原則という。ここに5つの御嶽があると言うことは、津嘉山集落はいくつかの小集落が集約した集落ということになる。確認できた5つの御嶽は「高津嘉山御嶽」「東(アガリ)御嶽」「ヰーチキ御嶽」「イーチ御嶽」「クボー御嶽」である。それぞれの御嶽の位置関係を見ると、それなりの距離がある。時代を経て、現在の津嘉山集落の場所に移動して来たか、集落が拡大をし、さらに集約をして現在の津嘉山集落が中心地となったか?「クボー御嶽」付近で始まった二つの門中 (村) が北の方に移動していき、津嘉山集落を形成したとある。
公方 (クボー) 御嶽
最も南に位置するクボー御嶽は津嘉山集落の中で最も古い御嶽であり、津嘉山発祥の地と言われている。いつの時代に造られたのか調べきれなかったが、少なくとも800年前以前からあったと考えられる。小高い山の上に御嶽はあり、今でも集落住民により綺麗に整備維持されている。階段で御嶽にまで登るのだが、昇り口のところに小さな拝所があった。階段を登れない老人のために設けられた遥拝所かもしれない。階段を上り切り、道の奥に二つの拝所が見えて来た。
手前の拝所は「津嘉山村門中」と書かれている。門中 (もんちゅう、琉球語: ムンチュー) とは始祖を同じくする父系の血縁集団のことで、本土で言う同族にあたる。ここに門中の配所があるのは沖縄の祖先信仰が御嶽の自然信仰と同化していることが窺えると思う。(この祖先信仰は沖縄独特の門中墓の亀甲墓に現れており、門中の人々はこの共同墓に葬られている。)ここにあった門中は北に移動していったが、祖先を大切にしており、現在でもこの場所は津嘉山集落住民にとっては何世紀にも渡って神聖な場所であり続けている。そのクボー御嶽が奥に静かに建っている。
イーチ御嶽
クボー御嶽からすぐ北にイーチ御嶽がある。津嘉山の古ジマの一つの仲間村 (門中) にゆかりのある御嶽だ。仲間村は津嘉山に移動して津嘉山集落を形成した二つの門中の一つだ。
ヰーチキ御嶽
イーチ御嶽の北にヰーチキ御嶽がある。津嘉山の古ジマの一つの玉那覇村 (タンナファ 門中) にゆかりのある御嶽。玉那覇村 (タンナファ) も津嘉山に移動してきた門中。
東 (アガリ) 御嶽
そして東御嶽がある。ここは東地区の住民の御嶽だったのだろうか? この東 (アガリ) 御嶽には言い伝えがある。グスク時代に、この地域を治めていた仲間按司が長嶺按司と戦った際に戦死した兵を葬った場所で骨神 (フニシン) と云われている。ここには津嘉山ノロの墓もあるのだが、どれがそれなのかはわからなかった。写真右下にには線香が備えられている。平御香 (ヒラウコー) と呼ばれている線香で6本の線香が平べったくつながっている。一本一本に剥がすこともできる。沖縄独特の線香だ。
高津嘉山御嶽 (たかつかざんうたき)
高津嘉山御嶽は津嘉山集落のすぐ北に位置する高津嘉山の上にある。ここが津嘉山集落の御嶽だ。津嘉山発祥の地のクニンドーから二つの門中が移ってきてここに集落を作った。その集落の御嶽が造られたのだ。御嶽は神聖な場所で、御嶽への拝礼は女官であるノロによって行われ、王国時代は御嶽への立ち入りは完全に男子禁制であった。
津嘉山の殿、仲間の殿、玉那覇の殿、三月五日拝所
男子禁制の御嶽に拝礼できない住民は、御嶽の近くにある殿 (トゥン) と呼ばれる拝所がある広場にて行われた。各集落に御嶽は原則一つたが、殿も原則一つであった。ここ津嘉山集落にも高津嘉山の麓に拝所の殿がある広場がある。この広場が自転車を停めた場所。ここには複数の殿がある。津嘉山集落内に複数の村落があったからだろう。「津嘉山の殿」「仲間の殿」「玉那覇の殿」この他に「三月五日拝所」と名前の記載がない拝所がある。仲間・玉那覇はクニンドーから移ってきた二つの門中。「三月五日拝所」は変わった名前だ。殿ではなく拝所とある。三月五日とは何か特別な日なのか?この日に住民が一斉にここで拝礼をしていたのだろうか?この疑問については、もう一度この集落に来て誰かに聞いてみよう。
ビズル
馬場 (ウマィー) のの近くに別の拝所があった。ビズルと書かれてある。ここは先に見た沖縄の土着信仰の御嶽や殿とは少し異なっており、中国から伝わった仏教に関わりがあり、釈迦の主要な弟子の十六羅漢のビズルを祀っている。ビズルは漢字では賓頭慮と書き、十六羅漢の筆頭である跋羅駄闍尊者 (ばらだしゃそんじゃ) もしくは賓度羅跋羅惰闍尊者 (びんどらばらだじゃそんじゃ) がなまってこの様な名になっている。ここ津嘉山では、ビズルは火の神と水の神になっており、五穀豊穣や雨乞いの神様だそうだ。沖縄の他の地域でもこの十六羅漢を祀っているところがあるが、何の神として祀っているかはその地域によって異なるそうだ。沖縄では仏教は発展せず、このように元々あった自然崇拝信仰に同化されてしまっている。人々は仏教を意識してこのビズルに祈りを捧げているわけではない。これは沖縄ならではの宗教観だ。
ノロ殿内 (ドゥンチ) 邸跡
この広場のすぐ下にかつてのノロの住居跡があった。身分の高い人の邸宅を意味する殿内 (ドゥンチ)と呼ばれていた。(王族の邸宅は御殿[ウドゥン]と呼ばれる)御嶽での神事を司るのがノロだ。琉球王朝の第二尚志時代初期に作られた王朝直轄の組織から派遣されていたのがノロで、この津嘉山集落にも派遣されていたのだ。この殿内 (ドゥンチ) 内にも豚 (フゥワー) フールがあり、拝所もあった。現在でもこの拝所は集落の人々が大切にしている。
飛び安里記念碑
高津嘉山には飛び安里飛行記念碑が麓から高津嘉山御嶽に向かう道の途中にある。ここで安里が初飛行に成功したと言われている。ここは昨年9月18 日に訪れた。飛び安里は南風原町住民が最も誇らしく思っている人物の一人だ。詳しくは下のリンク先に書いている。ライト兄弟よりも100年も前の18世紀後半に飛行に成功したそうだ。ただ日本でも飛び安里が話題になる事は無い。琉球王国時代の事だ。日本では江戸時代にあたる。これを世界での初飛行とするかは別として、飛び安里の諦めず飛べるはずとの情熱で何年も挑戦し続けた事は素晴らしい。このような人物が世の中には必要だ。この記念碑と町役場にあるレプリカをおとづれたレポートは下記リンクにある。
旧日本軍第32軍司令部跡
前述でここ津嘉山集落も沖縄戦で激しい戦地になった事に触れたが、高津嘉山には旧日本軍司令部が置かれていた。ここには昨年9月に来たが、山の中に入り司令部跡は見れないので、麓から眺めるだけだった。南風原町が出している案内板とその時のレポートのリンクを掲載しておく。
クニンドー遺跡 (仲間グスク比定地)
高津嘉山から南へ連なる丘がクニンドー毛 (もう: 琉球語で野原のこと) で、近年の調査で土器や中国磁器の破片などが発見されて、その周辺は遺跡になっている。さらに堀切や土塁も発見され、ここを中心に、東から西へのびる尾根一体には約500〜800年前にグスクが存在したと考えられている。まだグスクと確定されておらず、比定地となっている。確定すれば沖縄では、唯一の「土のグスク」となる。文献には仲間グスクのすぐ東には馬場 (ウマィー) があったとあるので。ほぼここが仲間グスクである可能性は高いだろう。それにここでは12世紀から19世紀まで集落があったと推測できる発掘物が出ている。
ここが仲間グスクとすると、14世紀中頃に仲間按司によって築かれたと伝わっているグスクにあたる。沖縄南部で広く行われていた雨乞いの儀礼の「アミシの御願」の由来発祥のグスクでもある。津嘉山地区では、昔は、仲間按司との戦いに破れ戦死した長嶺グスクの長嶺按司の霊を慰める為に豚をいけにえとして祭りを催したと伝わっている。昨年9月18 日にここにも来たのだが、入り口が見当たらず、周囲を廻っただけに終わってしまった。今回はなんとか中に入ってみたかったのだが、やはり入り口がわからなかった。インターネットでは山の中の様子が出ていたので、写真を拝借した。
仲間馬場
山垣橋・古戦場
グスク時代に仲間按司と長嶺按司と戦った場所がここだ。写真左上が長嶺グスク、左下がクニンドー毛で仲間グスク比定地。仲間按司と長嶺按司は犬猿の仲で、18回戦を繰り広げたとする伝承もある。この二つのグスクの中間地点に流れる長堂川 (ながどう) にかかる橋が山垣橋でここで最後の戦いが行われた。この戦いに関して伝承がある。仲間按司には美しい娘がおり、隣あっていた長嶺按司 (ながみねあじ) が『自らの妃に差し出せ』と迫り『拒否するなら戦を仕掛ける』と猶予付きで脅して来たそうだ。長嶺按司は武勇に優れていたが、仲間按司はやむを得ず、戦の準備に取り掛かる。その後、長嶺按司が部下と共に長堂川で船遊びをしているとの一報が入り、仲間按司は兵を連れて長嶺按司を急襲し、長嶺按司は自害。勝利をおさめた。この戦いで戦死した兵を葬った場所が、前述の東の御嶽と云われている。 (一説ではここで自害した長嶺按司は戦士を装っていただけで落ち延びたともある。) この戦いで戦死した長嶺按司の霊を慰めるために行ったのがアミシ御願で、これも前述の仲間馬場で行われていた。今でも綱曳が終わった後は、子供がこの橋から長堂川へ綱曳の手綱を流すのが習いになっている。娘云々の話は信憑性に乏しいのだが、戦いは確かにあったのだろう。
参考文献
- 南風原村史 (1971 南風原村史編集委員会)
- 南風原の文化と歴史 (1985 南風原町教育委員会)
- 60年前の南風原 南風原歴史民俗地図 (1935年頃) (1994 沖縄県南風原町史編集委員会民俗部会)
- 沖縄風土記全集 第4巻 南風原村 大里村 与那原町編 (1968 沖縄風土記刊行会)
- 南風原町の歴史散歩 (2020 宮城信夫)
- 「津嘉山」のパンフレット
- 南風原町沖縄戦戦災調査4 津嘉山が語る沖縄戦 (1990 南風原町教育委員会)
- 南風原町史 第7巻 社会・文化編 ゼロからの再建 (2005 南風原町史編集委員会)
- 戦世の南風原 (2013 南風原町史編集委員会)
- 資料集 飛び安里 (1991 飛び安里」初飛翔顕彰記念実行委員会)
これで今日の津嘉山見学は終了として、長堂川沿いにある遊歩道 (右上) をサイクリングして自宅に帰ることにする。今日は4時間ぐらいの軽い訪問であったが、津嘉山のことが多く知ることができた。
0コメント