Okinawa 沖縄 #2 Day 10 (3/5/20) 南風原町 (10) Yonaha Hamlet 与那覇集落
与那覇集落 (よなは、ユナファマキョ)
- 与那覇グスク (ユナファグスク)
- クシヌ毛 (クシヌモー)
- イン殿 (イントゥン)
- 与那覇ノロ殿内 (ヌンドゥンチ)
- 当間之御嶽 (トーマヌウタキ)
- 村屋 (ムラヤー)
- 穏子根嶽 (ウサン二ダキ、オサン二ダキ) / 穏子根子 (ウサンシー) の墓
- 沖縄における浦島太郎伝説
- 御殿小 (ウドゥングワー)
- ウーヌミーグワー
- ナビラ毛 (ナビラモー)
- 製糖小屋跡 (サーターヤー)
- 首里道 (スイミチ)
与那覇集落
与那覇集落 (よなは、ユナファマキョ)
与那覇集落は南風原町の東の端にあり、与那覇グスクのある丘陵に広がる集落。字としては人口約2500人で南風原町では五番目に多い。南風原町字与那覇の東は隣町にあたる与那原町 (よなばる) がある。集落の観光案内では浦島太郎伝説の村を前面に出している。
南風原町の字でも古くからある村で、琉球王国時代には『与那波村』と呼ばれていた。南風原間切時代は脇地頭を与那覇親方朝完 (向氏与那覇殿内。元祖・向桓、北谷王子朝里。尚清王五男)が勤めていた。
与那覇グスク (ユナファグスク)
まずはこの集落の聖域であった与那覇グスクだが、ここには昨年の夏に訪れた。ただグスク跡のあったクシヌ毛 (グスクヌチジーともいわれている) と呼ばれた丘陵は道路を通すために削られてしまい、もうグスク跡の面影も遺構も消滅してしまった。現在も道路工事は続いている。昨年よりも進んでいる。グスク跡は工事中の道路で分断されている様だ。築城年代や築城主は不明。城塞と言うよりは、拝所としてのグスクではないかと推測されている。このグスク跡は「与那覇クボー御嶽遺跡」と紹介されており、グスク系土器が大量に採集されている。出土品からは、約600年程前に造られたと考えられ ている。「与那覇クボー御嶽遺跡」とある様に、かつては「クボー御嶽」があったそうだが、どこにあるのかは書かれていない。かつてのクシヌモーの丘陵の北側 (与那覇集落とは反対側) の麓に拝所があった。名前は不明。(これがクボー御嶽かも知れない) 下の写真は昨年夏に訪れた際のもの。
クシヌ毛 (クシヌモー)
イン殿 (イントゥン)
与那覇ノロ殿内 (ヌンドゥンチ)
当間之御嶽 (トーマヌウタキ)
村屋 (ムラヤー)
穏子根嶽 (ウサン二ダキ、オサン二ダキ) / 穏子根子 (ウサンシー) の墓
ここがどうもこの与那覇集落の目玉の様だ。与那覇集落には、琉球版浦島太郎伝説の穏子根子 (ウサンシー) という人物が住んでいたと云われ、いくつかの伝承の地が残っている。ここは集落の南の外れ。穏子根嶽 (ウサンダキ) がある。穏子根子 (ウサンシー) の墓とされており、拝所となって祀られている。(神名はクバツカサノ御イベ) 琉球王府時代には上与那原の祝女 (ノロ) が管理していた。(上与那原は隣の与那原町の字) ここに伝わっているのは各地にある浦島太郎伝説とほぼ同じ内容。沖縄の人は浦島太郎伝説の元祖は沖縄と思っている。気持ちはわからないでも無いが.... 沖縄の話は以下の通り (浦島太郎という名では無いのだが) で、 18世紀初頭に編纂された「遺老説伝」に書かれている。「南風原の与那覇村の男が、与那久浜 (与那原町の港) で髢(かもじ 入髪 [いりがん])を拾う。探しているそぶりの美女 (ニライカナイの娘とされる) に返すと感謝され、竜宮 (ニライカナイであろう) に招待したいと言われる。男が(手を)引かれて歩くと海が二つに割れて道が開け、竜宮に通じていた。その美女は神であり、男と竜宮で歓待の日々を過ごすことになる。三ヵ月ほど経つと男は故郷が恋しくなり帰郷を思い立つ。神女は、元の世を去ってからすでに三十三代経っており、男には子孫もいないと諭すが、断念させられない。仕方なく、絶対に開けてはいけないと伝え、紙包みを渡し、男の里帰りを許した。男が郷里に帰り着くと、辺りは変わり果て、村人に、自宅を指さし、家族について尋ねるが、嘲笑され癩人扱いされる。なすすべなくなった男は丘に登り桑の杖を突きたてて穏作根 (坐って休み、オサン=座る)。ふと、何か良策が出るかと思って紙包みを開いたが、中に入っているのは白髪だけで、それが飛んできて体に付着すると、どんどん老爺に変わっていき、最後には動けなくなって死んだ。地元の者が、この老爺をその場所に神として祀ったのが、穏作根嶽 (うさんにだき) であるという。丘には、桑の木が繁げっているが、それは、男が竜宮から持ってきた桑の杖が茂ったものだと言い伝えられ、信じられている。」
伝承の中で、坐って休んだ事から、穏子根子(ウサンシー) と呼ばれる様になったので、本当の名前は不明なのだろう。最もこの穏子根子 (ウサンシー) が実在したとは考えられないのだが....
沖縄における浦島太郎伝説
ここで沖縄における浦島太郎伝説 (亀報恩型の昔話) について調べてみた。浦島太郎伝説は沖縄本島にのみ見られ、北から国頭村、東村、大宜味村、恩納村、読谷村、具志川市、那覇市、西原町と広範囲に及ぶ。宮古島や八重山諸島では亀ではなくエイとなり色話で亀報恩型の昔話とは少し性格が異なる。亀報恩型では本土の浦島太郎伝説と同じ様に「いじめられたいた亀 (カーミー) を助ける」ものとこの与那覇村の様に「婦人の添え毛 (かもじ) を拾う」という二つに分類される。
先に訪れた宮平集落にも似た様な亀報恩型の伝承があったのを思い出した。善縄大屋子 (ユクツナウフヤク) に関わる話だ。伝統的な浦島太郎伝説とは少し筋が違い、美女からもらったかめに噛まれて死んでニライカナイに行くという話。善縄大屋子の詳しい話のリンク。
昨年暮れに東海道を走った時に、神奈川県の浦島伝説ゆかりの慶運寺 (幕末にフランス領事館として使われていた) を訪れた事も思い出した。
御殿小 (ウドゥングワー)
穏子根子 (ウサンシー) に関わる史跡 (?) がもう一つ。これは与那覇集落の中にある。御殿小 (うどぅんぐゎー) と呼ばれる拝所で、穏子根子 (ウサンシー) の住まいがあったと伝えられている。小 (ぐゎー) は沖縄の言葉では親しみを込めるときや、小さい場合に言葉の後ろにつける接尾語。御殿小 (ウドゥングワー) は村民に親しまれていたからか、屋敷と呼ぶには少し小さかっから、こう呼ばれているのかもしれない。この小 (ぐゎー) は、今は年配の人しか使わないという。拝所はコンクリート造りに変わっている。窓越しに中を覗くと、隅に威部 (イビ 神石) があった。前述の伝承から考えると、穏子根子 (ウサンシー) は村に帰って直ぐに死んでしまったので、住まいなどなかった筈で、穏子根子 (ウサンシー) が指差した300年以上も前の住まいがここだったのか? 伝承とはこんなものだ。辻褄が合わない。それで良いのだ。昔、何かがあったのだろう。沖縄の信仰の原点のニライカナイに行った穏子根子 (ウサンシー) に共感したか、畏敬したかで穏子根子 (ウサンシー) の伝承が登場し、それに村人の思いが重なっていき、いつしか、ここが住んでいた場所となったのだろう。沖縄の浦島太郎伝説はニライカナイと結びついて言い伝えられているのだろう。これも沖縄の信仰を知る上で、一つの要素になると思う。
ウーヌミーグワー
ナビラ毛 (ナビラモー)
製糖小屋跡 (サーターヤー)
首里道 (スイミチ)
メーヌカー
疑問/質問
- 与那覇グスクには按司が存在したのか?
- 現在の村人にとっての穏子根子 (ウサンシー) とは?
- 村屋 (ムラヤー) の確認
- ウーヌミーグワーでの百度の御願とは何か?
- 首里道 (スイミチ) のルート (調べたが不明のまま)
- 門中墓はどこにあるか?
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