Okinawa 沖縄 #2 Day 10 (3/5/20) 南風原町 (10) Yonaha Hamlet 与那覇集落

与那覇集落 (よなは、ユナファマキョ)

  • 与那覇グスク (ユナファグスク)
  • クシヌ毛 (クシヌモー)
  • イン殿 (イントゥン)
  • 与那覇ノロ殿内 (ヌンドゥンチ)
  • 当間之御嶽 (トーマヌウタキ)
  • 村屋 (ムラヤー)
  • 穏子根嶽 (ウサン二ダキ、オサン二ダキ) / 穏子根子 (ウサンシー) の墓
  • 沖縄における浦島太郎伝説
  • 御殿小 (ウドゥングワー)
  • ウーヌミーグワー
  • ナビラ毛 (ナビラモー)
  • 製糖小屋跡 (サーターヤー)
  • 首里道 (スイミチ)

与那覇集落

一昨日は一日中、台風の様な大雨で外出は出来なかった。ここから1キロも無い真玉橋では避難準備勧告までていた。昨日も一日中雨、史跡巡りは出来なかった。近くのスーパーに買い物に行ったが、ずぶ濡れで帰って来た。本格的に梅雨に突入したのか? 雨の中、巨大カタツムリを発見。エスカルゴより大きい。食べられるのだろうか?
今日は晴天で気温も高く、真夏の様だ。史跡巡り日和。今日で南風原町は十日目で10番目の集落に行く。
那覇糸満線を登り、途中で南風原バイパスに入る。バイパスの向こう側に与那覇の丘陵が見えて来た。集落は丘陵の向こう側の斜面にある筈だ。


与那覇集落 (よなは、ユナファマキョ)

与那覇集落は南風原町の東の端にあり、与那覇グスクのある丘陵に広がる集落。字としては人口約2500人で南風原町では五番目に多い。南風原町字与那覇の東は隣町にあたる与那原町 (よなばる) がある。集落の観光案内では浦島太郎伝説の村を前面に出している。

南風原町の字でも古くからある村で、琉球王国時代には『与那波村』と呼ばれていた。南風原間切時代は脇地頭を与那覇親方朝完 (向氏与那覇殿内。元祖・向桓、北谷王子朝里。尚清王五男)が勤めていた。

与那覇集落の変遷がわかる地図を集めて比較してみた。左上から右に、1919年、1975年、1994年、そして現在。これを見ると大正時代までは、集落の規模は今回立ち寄った所に限られていた。恐らく琉球王統時代とそれほど変わってはいなかっただろう。戦後に急激に村が発展していったのがわかる。
例の如く、町が発行している観光案内書に従って巡る。


与那覇グスク (ユナファグスク)

まずはこの集落の聖域であった与那覇グスクだが、ここには昨年の夏に訪れた。ただグスク跡のあったクシヌ毛 (グスクヌチジーともいわれている) と呼ばれた丘陵は道路を通すために削られてしまい、もうグスク跡の面影も遺構も消滅してしまった。現在も道路工事は続いている。昨年よりも進んでいる。グスク跡は工事中の道路で分断されている様だ。築城年代や築城主は不明。城塞と言うよりは、拝所としてのグスクではないかと推測されている。このグスク跡は「与那覇クボー御嶽遺跡」と紹介されており、グスク系土器が大量に採集されている。出土品からは、約600年程前に造られたと考えられ ている。「与那覇クボー御嶽遺跡」とある様に、かつては「クボー御嶽」があったそうだが、どこにあるのかは書かれていない。かつてのクシヌモーの丘陵の北側 (与那覇集落とは反対側) の麓に拝所があった。名前は不明。(これがクボー御嶽かも知れない) 下の写真は昨年夏に訪れた際のもの。


クシヌ毛 (クシヌモー)

クシヌ毛 (クシヌモー) は与那覇グスク (ユナファグスク) があった丘陵地帯。今日は、昨年に続き2回目の訪問。昨年はまだ道路はできていなかったが、道路工事は随分と進んで今は新しい道路が出来上がり、この先の工事に移っていた。今日は昨年とは別のルートで来たのだが、ここからだと、 グスクのあったクシヌモーの丘陵が半分削ぎ落とされているのがハッキリとわかる。痛ましい。
グスクがあったところの道路工事は完了しており、去年見た拝所が、遮るものもなくなり、良く見える。昔はあの拝所がある辺りからグスクに登れたのだろう。
グスク跡には小さな拝所があった。住宅街になっているのだが、その隙間に大切に管理されている。
グスクから集落へ降りる道端に拝所がある。名は不明。
ここから集落に降り、集落内を散策する。ここも中世の集落の形が表れている。グスクがあった丘陵の裾野に集落が形成されていた。
集落内で山羊にあった、人懐っこい。もう一つ変わり種石敢當。塀にイラストと共に描かれていた。今まで見たものは全て石柱のものばかりだった。

イン殿 (イントゥン)

グスク跡があるクシヌ毛 (クシヌモー) の高台に拝所がある。イントゥンと呼ばれている。グスクの領内にあったのではないかと思う。綺麗に手入れされている。ハイビスカスが咲いている。南国の雰囲気が味わえる。

与那覇ノロ殿内 (ヌンドゥンチ)

イントゥンから丘陵を少し降るとノロ殿内 (ヌンドゥンチ) がある。拝所がある場所の前は広場になっている。この広場にかつてはノロの屋敷があったのだ。この場所より上は神聖な場所と考えられて、庶民は立入れなかった筈。今はその様な風習はなくなり、一般庶民でもお詣りはできる。
拝所 (ウガンジュ) の中には二つの隅に威部 (イビ 神石) があり、平御香 (ヒラウコウ) を燃やした跡が残っている。今でも村民に信仰されているのだ。棚には多くの香炉が並んでいる。どれがどの神様かは分からない。村の人は知っている、並べる順番も決まっているのだ。

当間之御嶽 (トーマヌウタキ)

与那覇ノロ殿内 (ヌンドゥンチ) から少し下り東に進むと与那覇集落 (ユナファマキョ) の中心の村屋 (ムラヤー) があったと思われる場所のすぐ上に御嶽がある。火の神 (ヒヌカン) を祀っているそうだ。この付近は当間原(トーマバル) と呼ばれ、鍛冶屋 (カンジャーヤー) があり、鍛冶屋には大切な火の神 (ヒヌカン) を祀っていたのだ。戦前は、シマヌ山 (どこにあるのか調べきれなかった) とよばれる小高い丘の中にあったと書かれていた、戦後に移設され、その後に名が付いたのだろう。神聖な御嶽 (ウタキ) にしてはあまりにも村の中心に近すぎると思っていた。以前は、御嶽は神聖な領域で一般庶民は入れず、丘陵などの村の外れにある事が多い。

村屋 (ムラヤー)

当間之御嶽 (トーマヌウタキ) のすぐ下に与那覇コミュニティセンターがある。案内書には書いていないのだが、村屋 (ムラヤー) があった場所と思う。ほぼ間違いないと思う。 集落を訪ねるときには、公民館や村役場などを検索する。ほとんどの場合、この様な公共施設が、村屋 (ムラヤー) があった場所に建てられており、そこが集落であった事がわかるからだ。コミュニティセンターの前は広場になっている。だいたい、公民館や村役場の前は広場になっている。かつてのアシビーナ (遊び場) か馬場 (ンマウィー) の可能性が高い。(アシビーナの方が確率は高いのだが...) この広場で村の祭りや行事が行われていたのだ。広場からはこの後に行く穏子根嶽 (ウサン二ダキ) がある丘陵が見える。


穏子根嶽 (ウサン二ダキ、オサン二ダキ) / 穏子根子 (ウサンシー) の墓

ここがどうもこの与那覇集落の目玉の様だ。与那覇集落には、琉球版浦島太郎伝説の穏子根子 (ウサンシー) という人物が住んでいたと云われ、いくつかの伝承の地が残っている。ここは集落の南の外れ。穏子根嶽 (ウサンダキ) がある。穏子根子 (ウサンシー) の墓とされており、拝所となって祀られている。(神名はクバツカサノ御イベ)  琉球王府時代には上与那原の祝女 (ノロ) が管理していた。(上与那原は隣の与那原町の字) ここに伝わっているのは各地にある浦島太郎伝説とほぼ同じ内容。沖縄の人は浦島太郎伝説の元祖は沖縄と思っている。気持ちはわからないでも無いが....   沖縄の話は以下の通り (浦島太郎という名では無いのだが) で、 18世紀初頭に編纂された「遺老説伝」に書かれている。「南風原の与那覇村の男が、与那久浜 (与那原町の港) で髢(かもじ 入髪 [いりがん])を拾う。探しているそぶりの美女 (ニライカナイの娘とされる) に返すと感謝され、竜宮 (ニライカナイであろう) に招待したいと言われる。男が(手を)引かれて歩くと海が二つに割れて道が開け、竜宮に通じていた。その美女は神であり、男と竜宮で歓待の日々を過ごすことになる。三ヵ月ほど経つと男は故郷が恋しくなり帰郷を思い立つ。神女は、元の世を去ってからすでに三十三代経っており、男には子孫もいないと諭すが、断念させられない。仕方なく、絶対に開けてはいけないと伝え、紙包みを渡し、男の里帰りを許した。男が郷里に帰り着くと、辺りは変わり果て、村人に、自宅を指さし、家族について尋ねるが、嘲笑され癩人扱いされる。なすすべなくなった男は丘に登り桑の杖を突きたてて穏作根 (坐って休み、オサン=座る)。ふと、何か良策が出るかと思って紙包みを開いたが、中に入っているのは白髪だけで、それが飛んできて体に付着すると、どんどん老爺に変わっていき、最後には動けなくなって死んだ。地元の者が、この老爺をその場所に神として祀ったのが、穏作根嶽 (うさんにだき) であるという。丘には、桑の木が繁げっているが、それは、男が竜宮から持ってきた桑の杖が茂ったものだと言い伝えられ、信じられている。」

伝承の中で、坐って休んだ事から、穏子根子(ウサンシー) と呼ばれる様になったので、本当の名前は不明なのだろう。最もこの穏子根子 (ウサンシー) が実在したとは考えられないのだが....

後日、図書館で「南風原町の歴史散歩」にはこの穏子根子についての記述があった。武寧王の四男 本部王子の次女 (聞得大君) の恋人か付き人だったとある。尚巴志が首里城の武寧を攻め滅ぼした際に、二人で首里から薩摩に亡命した。その後二人は薩摩から帰国し、聞得大君は与那原の御殿山で余生を送ったが、穏子根子は身分が低い為に殺されたと言われる。殺されたのは本人だけで無く、親類縁者も抹殺され闇に葬られた。ただ穏子根子の「子」はある程度の身分の人にしか付かないので、それ程身分が低かった訳では無く、聞得大君との関係を秘匿する為に殺されたのではとも思われる。

昔と今のウサン嶽がある丘陵
昔は与那覇村の近くまで海だったという。このウサン嶽はもっと小高い森で、与那原に来る船の目印になった。穏子根子はこの森に連行されて殺されたとも伝わる。穏子根子の墓は元々はここにあったが、土地開発で現在の場所に移設された。沖縄戦ではこの森に日本軍が壕を掘り、食料や軍用トラックを格納していたそうだ。


沖縄における浦島太郎伝説

ここで沖縄における浦島太郎伝説 (亀報恩型の昔話) について調べてみた。浦島太郎伝説は沖縄本島にのみ見られ、北から国頭村、東村、大宜味村、恩納村、読谷村、具志川市、那覇市、西原町と広範囲に及ぶ。宮古島や八重山諸島では亀ではなくエイとなり色話で亀報恩型の昔話とは少し性格が異なる。亀報恩型では本土の浦島太郎伝説と同じ様に「いじめられたいた亀 (カーミー) を助ける」ものとこの与那覇村の様に「婦人の添え毛 (かもじ) を拾う」という二つに分類される。

先に訪れた宮平集落にも似た様な亀報恩型の伝承があったのを思い出した。善縄大屋子 (ユクツナウフヤク) に関わる話だ。伝統的な浦島太郎伝説とは少し筋が違い、美女からもらったかめに噛まれて死んでニライカナイに行くという話。善縄大屋子の詳しい話のリンク

昨年暮れに東海道を走った時に、神奈川県の浦島伝説ゆかりの慶運寺 (幕末にフランス領事館として使われていた) を訪れた事も思い出した。



御殿小 (ウドゥングワー)

穏子根子 (ウサンシー) に関わる史跡 (?) がもう一つ。これは与那覇集落の中にある。御殿小 (うどぅんぐゎー) と呼ばれる拝所で、穏子根子 (ウサンシー) の住まいがあったと伝えられている。小 (ぐゎー) は沖縄の言葉では親しみを込めるときや、小さい場合に言葉の後ろにつける接尾語。御殿小 (ウドゥングワー) は村民に親しまれていたからか、屋敷と呼ぶには少し小さかっから、こう呼ばれているのかもしれない。この小 (ぐゎー) は、今は年配の人しか使わないという。拝所はコンクリート造りに変わっている。窓越しに中を覗くと、隅に威部 (イビ 神石) があった。前述の伝承から考えると、穏子根子 (ウサンシー) は村に帰って直ぐに死んでしまったので、住まいなどなかった筈で、穏子根子 (ウサンシー) が指差した300年以上も前の住まいがここだったのか? 伝承とはこんなものだ。辻褄が合わない。それで良いのだ。昔、何かがあったのだろう。沖縄の信仰の原点のニライカナイに行った穏子根子 (ウサンシー) に共感したか、畏敬したかで穏子根子 (ウサンシー) の伝承が登場し、それに村人の思いが重なっていき、いつしか、ここが住んでいた場所となったのだろう。沖縄の浦島太郎伝説はニライカナイと結びついて言い伝えられているのだろう。これも沖縄の信仰を知る上で、一つの要素になると思う。

御殿小 (ウドゥングワー) の向かいに広場があり、そこにも拝所がある。蔦に覆われた威部 (イビ 神石) がある。名前は不明。

ウーヌミーグワー

集落にもう一つ拝所が紹介されていた。ウーヌミーグワーと呼ばれている。拝所となった経緯などは、見つからなかった。地元の人に聞かなければわからないだろう。ウーは沖縄方言では「芭蕉」で、グワーは「小」、ヌミーは不明。芭蕉が生えていた池があり、池の中には「獅子頭 (シシガシラ) と呼ばれる小さな中洲があったそうだ。百度の御願に拝んだと書かれてある。百度の御願とは何かはわからなかった。尚泰久の王女の百度踏揚 (ももとふみあがり) と関係があるのだろうか?

ナビラ毛 (ナビラモー)

集落の東の端に丘陵がある。東にある与那原町との境にあたる。昔はこの丘陵の東まで海が押し寄せていたらしい。今は住宅街になっており、丘陵の上までは行けなかった。

製糖小屋跡 (サーターヤー)

集落の南には製糖小屋 (サーターヤー) があった。集落の南にはサトウキビ畑が広がり、その加工場がここにあった。当初は四つの門中がそれぞれの製糖小屋 (サーターヤー) を持ち馬を使いサトウキビを絞り、手作業での製糖工程だった。機械を導入した後は共同製糖所となった。現在の製糖小屋跡 (サーターヤー) 跡は住宅街になり、倉庫があった場所はゲートボール場となっている。

首里道 (スイミチ)

製糖小屋跡の直ぐ南には、現在の南城市の大里から首里城に通じる首里道 (スイミチ) があった。当時は石畳の道で馬車が通っていた。首里道 (スイミチ) は琉球王国時代な重要な幹線道路のひとつ。この他には有名なアガリウマーイミチ (乗廻り道・あ新下り道) があった。
今は民家に挟まれているのだが、当時は民家はなく、一面サトウキビ畑が広がっている中を走っていたのだろう。今でも、南側は民家は少なく、当時の雰囲気が今でも感じられる。

メーヌカー

集落で最も重要な井戸がメーヌカー。前之井戸と書くのではと推測。産水井戸 (ウブガー) とも呼ばれた。村で赤ん坊が生まれたときに清める水を汲んでいた。神人であるノロがイントゥンでの祭礼の前に身を清める場所でもあった。集落には数多くの井戸があったが住宅建設で埋められて、保存されているのはメーヌカーのみとなってしまった。
これで今日の集落巡りは終了。

疑問/質問

  • 与那覇グスクには按司が存在したのか?
  • 現在の村人にとっての穏子根子 (ウサンシー) とは?
  • 村屋 (ムラヤー) の確認
  • ウーヌミーグワーでの百度の御願とは何か?
  • 首里道 (スイミチ) のルート (調べたが不明のまま)
  • 門中墓はどこにあるか?

この暑さの中、何時間も外にいるので、汗が次から次へと吹き出し、目に入りしみる。主要な所は見終わったので、今日は南をぐるっと周り家に帰る事とする。この暑さ、外を歩いている人は少ない。まして自転車で走っているのは皆無。沖縄の人は暑すぎて自転車には乗らない。
アパートに帰り、シャワーを浴び、1時間ほど昼寝。夕食の食材の保管の為、冷蔵庫を借りている土肥さんのアパートに次の3日分の食材をとりにいき、夕食を作る。今日のメニューはチキンステーキと温野菜。

コロナウィルス騒動に対して感じる事

今年になりコロナウィルスにより、世の中は混乱を極めている。マスコミもこの状況につき連日連夜情報報道やコメントを放送している。個人的にはこれら報道を少し冷ややかに見ている。政府の指導力のなさ、ある意味で冷たい対応には失望するのと同時に、非常に日本人的対応が表面に現れていると思う。言われた事を完璧にこなそうとする霞ヶ関の官僚。重箱の隅まで気になる内閣政府。仕事には熱心だ。ただ何の為にやっているのか、ゴールが何なのかが、仕事に忠実になるにつれてぼやけてくる。日本の会社と全く同じだ。ここは欧米人の思考回路と日本人の違いがあるだろう。日本は良いリーダーがいれば、これだけ優秀な官僚を使いこなし、どこの国より良い仕事ができる筈だが。その意味では、安倍首相と小池都知事はリーダーとしては失格と思っている。

ただ、政府だけが変なのでは無く、影響を受けていると思っている国民も変だ。
今回は命を守れればそれで良しではないかと思う。ワクチンは近い将来に開発されるだろうし、治療法も出て来ている。ある一定の期間さえしのげば良いだけ。肺炎にかからないうつさない事を第一に考えれば、どうするかは誰でもわかる、非常にシンプルな事だ。
物事を複雑にしているのは「生活を守る」という言葉だ。「この生活を守る」とは何を意味しているのだろう? 今の生活レベルを維持する事を「生活を守る」と考えている人がほとんどと思う。東京や大阪など首都圏で生活している人はあまりにも贅沢になりすぎている。その贅沢 (本人は贅沢とは思っていないのだが) が出来なくなると、大変だ、不幸だと思っている。人も命を最優先にすべきで、それ以外はおまけと思うべきだろう。会社勤めで本当に命の危機を感じるなら、感染リスクを強要するような会社など辞めてしまい、理解ある会社を探すのも一つではないか? どうしても仕事は見つからない場合は失業保険もあるし、休業手当もある。究極は生活保護を受ける事ができる。日本の生活保護は命をつなぐにはある程度の制度はある。贅沢はできないが、それを望まなければ生活に困る事は無い。あまりにも世の中の人は弱くなりすぎている。このコロナ騒動はいつまでも続くわけでは無いので、世の終わりと悲観する必要は無いのだが...
今まで日本全土を旅して地方の田舎の人達を見てきた。都会の人と田舎の人の動揺の度合いがあまりにも大きな開きがある。マスコミは東京を基準に報道しており、地方にも悲壮感を感染させている。この様な社会にしてしまったのは、都会に住んでいる人にも責任があるだろう。より良い生活を求めて都会に出たのは、その人の選択で、それにはリスクもある。都会生活が人の生活力を軟弱にしてしまったのだ。この状況になって、生活保障は国が行うべきと言う人の多くは、今までは必要でも無い贅沢をし、この様な危機に備えていなかったのではと思う。それは個人の責任でもあるのではないか? 田舎の人がこれをみれば、都合の良い時だけ権利を主張していると思っているかも知れない。都会で今までできていた生活を続けられる様な支援など不必要と思う。国や地方自治体の給付金は後に国民が税金として払うのだ。今でも東日本大震災の復興特別税を払っている。今回はそれ以上の税金の額になるのではないか?
歴史を振り返れば、このコロナ騒動以上に危機的状況に置かれていた事はあった。東日本大地震、豪雨災害、神戸震災、など数々ある。全国的規模ではないが、その地に住んでいた人達は今回の事態以上に苦しい環境に置かれていた。住む所が一瞬になくなり、家族を失い、仕事も無くなってしまった。あきらかに今回よりも悲惨だ。本当に生きていくことしかできなかった期間があった。今回のコロナは地理的範囲が広いが、突き詰めれば、それ以下だ。それと比較して、今回はあまりにも人間の身勝手さが現れている様に思える。外に遊びに行けない、家で暇で仕方がない、トレーニングができない、コンサートに行けない、外食ができない。子供といるとストレスがたまる。何を言っているのだろう?これが、都会人の生活を守りたい基準だ。呆れてしまう。
今は沖縄にいるのだが、沖縄戦は更に悲惨な出来事だったろう。戦後まともな生活に戻るには10年以上かかった。その期間に今の都会人が不便と思っていることなど考えもしなかった筈だ。このコロナウィルスで一人一人が、何のためにに生きているのか、本当は何が必要なのか、何が本質的に大切なのか、納得行く人生とは何なのかを考えるべきと思う。決してコロナウィルスによる影響は、その人の人生を潰してしまう事はない。潰れるかどうかは、その人の考え方と行動次第だ。
今後、コロナウィルスによる世の中の動きで感じた事を書き留めて行こうと思う。自分の考えが正しいかどうかはわからない。人からは非難される意見もあると思うが、後でその時の感じた事を検証するためには残して置いた方が良いと思った次第だ。

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