Tokaido 東海道 02 (31/10/19) Kanagawa Shuku 神奈川宿

(02) Kawasaki Shuku 川崎宿

  • 川崎大師
  • 万年屋跡
  • 川崎稲荷社
  • 田中本陣跡
  • 一行寺
  • 川崎宿交流館
  • 宗三寺
  • 問屋場/中の本陣
  • 小土呂橋
  • 大徳寺
  • 佐藤本陣跡
  • 教安寺
  • 川崎宿京入口
  • 芭蕉句碑
  • 八丁畷無縁塚
  • 市場一里塚
  • 鶴見川水難者慰霊供養塔
  • 寺尾稲荷道
  • 鶴見神社
  • 設楽茶屋
  • 名主佐久間家
  • 鶴居堂
  • 道念稲荷
  • 生麦事件発生現場
  • 生麦事件碑
  • 東子安一里塚

(03) Kanagawa Shuku 神奈川宿

  • オランダ領事館跡 (長延寺)
  • 良泉寺
  • 能満寺
  • 神明宮
  • 熊野神社
  • 金蔵院
  • 神奈川宿高札場跡
  • 外国宣教師宿舎跡 (成仏寺)
  • フランス領事館跡 (慶運寺)
  • 神奈川台場跡
  • 滝ノ橋と本陣跡碑
  • 神奈川の大井戸
  • ヘボン博士施療所跡 (宗興寺)
  • イギリス領事館跡 (浄瀧寺)
  • 権現山城跡
  • 洲崎大神
  • 普門寺
  • フランス公使館跡 (甚行寺)
  • アメリカ領事館跡 (本覚寺) / 青木城跡
宿の近くの川崎大師から今日は周り始める。



(02) Kawasaki Shuku 川崎宿

川崎宿は東海道2番の宿場で品川から2.5里 (9.8km) の距離。本陣3軒(うち1軒は江戸後期に廃業)、旅籠72軒、戸数541戸、人口2,433人。川崎宿は東海道の宿場が制定された時には、正式な宿場ではなかったが、品川宿 - 神奈川宿間が往復十里と長く、伝馬の負担が重かったために、1623年 (元和9年) に正式に宿場として設置された


川崎大師

まだ朝早いので、川崎大師の参道の店は開店準備を始めた頃で、参拝者は殆ど見当たらず、近所の人だろうが、散歩に来ている人がちらほら見える。川崎大師は厄除け大師として知られており、真言宗智山派の大本山で正式には平間寺 (へいけんじ) と言う。平安時代の1128年に創建された。
浮世絵に描かれた川崎大師

[大山門/不動門]  川崎大師の入り口はいくつかあるのだが、参道の仲見世通りからは表玄関にあたる大山門 (写真右上) と不動門 (写真左上) がある。規定コースの大山門から入る。大山門が建っている所は、元々は山門があったのだが、空襲で焼失した。そのあと昭和23年に福島県にあった門を移設していたが、昭和52年 (1977) に開創850年の記念事業としてここに大山門が建てられた。門の入り口には大きな提灯、両脇には四天王像が安置されている。提灯には「魚がし」と書かれてあり、これは魚河岸講と呼ばれるのだが、魚河岸が仲間を募ってこの川崎大師に参拝した時に奉納したもの。江戸時代にはこの「講」が盛んで、富士講とか伊勢講とか神社やお寺へのツアーが行われていた。今でもいくつかの「講」は続いており、ここでも魚河岸講が健在。大山門が建てられた時に、昭和23年に移設された門は、数十メートル離れた所に不動門として移設された。


[納札所/聖徳太子堂/お水屋]  大山門を入ると正面に大本堂、左手に五重塔が現れる。右手には、納札所と聖徳太子堂、そして手を清めるお水屋がある。


[経堂]  大本堂に進むと、左手にお経を保管している経堂があり中が見学できるようになっている。天井には飛天が何体も描かれ、正面の金色の釈迦像の周りには経典がいっぱい納められ、前には金剛杵 (こんごうしょ) が置かれている。この飛天と金剛杵は寺を見学するとよく見かけるのだが、その意味については気にはなっていたが、調べていなかった。この際、ちゃんと理解しようと言う事で、調べてみた。飛天はインドのガンダーラの仏教美術が日本に伝わり、奈良時代の法隆寺などでも描かれている。このガンダーラはペルシャ帝国の支配下にあった時代に、ゾロアスタ教の有翼神像が形を変えて飛天になったと言われている。飛天はその後、天女と変化していった。金剛杵も良く見かけるもの。金剛杵はインド神話ではヴァジュラと呼ばれ、インドラ (帝釈天) がこのヴァジュラを用いて、蛇の形をした悪魔の首領のヴリトラを退治したと伝わる。煩悩を滅ぼすと言う菩提心の象徴として、このヴァジュラが法具としてチベット仏教や日本では天台宗、真言宗、禅宗で用いられている。仏教も他の宗教と同じく、古代宗教の発展型のように見える。これは神道の日本神話やキリスト教の旧約聖書と成り立ちが同じように思える。(キリスト教徒は違うと言うだろうが、そのバリエーションの一つに思える。)


[大本堂]  1964年 (昭和39年) 5月落慶。ここにも大きな提灯が二つ。本尊は弘法大師。弘法大師が本尊の真言宗の寺は時々見かける。これは少し違和感を感じる。真言宗は大日如来を仏とし、それ以外の諸仏、諸菩薩、諸明王は大日如来の化身としている。弘法大師も大日如来の化身と考えて本尊にしているのだろうか? ここの所は宗派によって教義が違い、仏教を理解するのが難しいところだ。


[八角五重塔]  中興塔が正式な名前。1984年 (昭和59年)、弘法大師1150年御遠忌、大開帳記念として落慶。ここの五重塔は八角で珍しい。日本で現存している八角の塔は長野県の安楽寺八角三重塔だけだそうだ。どこにもはっきりとは書いていないのだが、川崎大師の八角五重塔が焼失前には、存在していなかった様だ。塔の近くには金色の「祈りと平和の像」が建っており、中央の女神が「祈り」、周囲の天女が「平和」を表しているそうだ。


[大坊堂/浄光殿/鐘楼/北の湖像]  大本堂に向かって左に寺務所の大坊堂 (左上)、檀徒菩提所の浄光殿 (右上)、鐘楼 (左下) がある。秋なので、境内には菊の花の品評会や即売所が設けられてあった。大相撲の横綱だった北の湖の像がある。力士では無く紋付袴の理事長時代の像だ。何故ここにと思っていたのだが、北の湖は出身は北海道だが、この川崎大師の檀徒でお墓もこの寺にある事が分かり、納得。


[不動堂/中書院/茶筅塚/六字名号塔]  大本堂の隣の奥まった所に、不動堂 (左上)、中書院 (右上) があり、中書院の所には茶筅塚と六字名号塔がある。不動堂は比較的新しく明治23年の創建で、空襲で焼失後、昭和39年に造られ、成田山新勝寺の本尊を勧請した不動明王像が本尊。不動明王は起源をヒンドゥー教の神の一つで、空海が伝えた密教では大日如来の化身とされている。真言宗をはじめ、天台宗、禅宗、日蓮宗等の日本仏教の諸派および修験道で幅広く信仰されている。中書院は1966年(昭和41年)に造られ、信徒接待にも使用される。寛永5年建立の六字名号碑が


[弘法大師道標/鞠塚/力石]  弘法大師の遍路姿の立像がある。 (写真上部 右・中)  像の周囲に四国八十八箇所札所の石柱が立ち、四国遍路をした際の砂が埋納されている。ここにも、お寺によくある力石が残っている。旅人たちが、力自慢を競い合ったのだろう。昔はお寺は、参拝の場でもあり、人々が集まる社交場でもあった。曲芸に使う道具の供養のまり塚があり、毎年、法要と演芸会が行われている。主催は寺では無く、太神楽曲芸協会で、今でも、地域と寺を繋げて、集いの場となっている。


[薬師堂/信徒会館/庭園]  薬師堂 (左上) は1963年 (昭和38年) に創建され、その後、インド風の堂宇に建て替えられている。その裏手には鶴の池の庭 (下) があり、青色の降魔成道釈迦如来像と金色の釈迦如来坐像がある。鶴の池に隣接する形でまつられている。鶴の池には沢山の鯉が泳いでいる。地元の人たちが、処分に困った鯉をここにはなしていると、ここで会った地元のおばさんが話していた。時々ここに参拝に来て鯉の成長を見るのが楽しみと言っていた。信徒会館 (右上) 一階はロビー、地下には300名収容のホール、二階、三階は信徒接待等の会議室や結婚式場がある。


川崎大師の見学を終えた感想は、明治以降に建てられた堂や空襲で焼失後、新たに加った建造物もあり、江戸時代以前の様子を想像するのが難しい。これは少し、しっくりといかない。江戸以前はもっとも規模の小さなものだったのではなかろうか? これから東海道五拾三次に戻る。川崎は空襲後、近代都市となり、昔の東海道の街道の面影は無くなっているのだが、川崎市はその宿場時代所縁の地を案内板で紹介しており、それをたどっていくのも、思った以上に面白い。


万年屋跡

品川から六郷の渡しで多摩川を渡り川崎宿に着いて直ぐの所に万年屋跡がある。江戸時代の川崎宿では一番有名な旅館兼茶屋だった。十返舎一九の東海道中膝栗毛に登場してからは大人気だったそうだ。


川崎稲荷社

古くから川崎新宿の稲荷として、土地の人々の信仰を集めてきた神社。戦災で社殿や古文書は 焼失。現在のものは昭和26年 (1951) 頃、戦前の建物を模倣して再建された。


田中本陣跡

川崎宿の三つあった本陣の一つ。ここで興味をひいたのは、地元の住民屋役人は川崎宿の廃止を願い出た。川崎は江戸に近く、宿に立ち寄る旅人も多く潤っていたと思っていたのだが、廃止を願い出たとは意外だった。川崎宿の交通量が増えるにつれて、宿の伝馬、問屋場、助郷の使役に駆り出されていた住民や近隣の農民の負担が増大し、問屋場は破産状態、民は生活が窮乏化していったのが理由だった。(一例では、八代将軍吉宗の江戸入城の際、1,300頭の馬と18,000人の 人足が集められた。かなりの負担が住民に強いられていた)  この田中本陣で問屋、名主、本陣を務めていた田中休愚は、幕府と交渉の結果、六郷の渡しの権益を川崎宿のものとし、救済金を取り付けるなど、川崎宿再建のために大きな役割を果たした。


一行寺

川崎が宿場町として繁栄するようになり、寛永8年 (1631年) に浄土宗の寺として創建。閻魔堂があり、おえんまさまと呼ばれていた。境内には菩薩像の前に六地蔵 (地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天の六道) がある。


川崎宿交流館

旧街道沿いに江戸時代の宿場の様子を紹介する交流館がある。内容は充実している。一階には、先に通った万年屋の雰囲気を出し、各フロアにはパネル展示で宿場の役割や変遷、史跡の紹介をしている。


宗三寺

曹洞宗の寺で本尊は釈迦如来。戦国期あるいは室町時代に創建され、川崎宿で最も古い寺。境内には大正初期と昭和63年に建てられた飯盛女 (遊女) の供養塔がある。


問屋場/中の本陣

問屋場と中の本陣は街道を挟んで向かいに建っていた。三つの本陣の一つで惣兵衛本陣だが、佐藤・田中本陣の間にあるので中の本陣と呼ばれていたが、江戸後期に廃業。理由については書かれていないが、これは気になる。川崎宿自体を廃止の懇願をしていたくらいだから....


小土呂橋

この地域は度々冠水で東海道の通行に支障をきたしていた事と農業生産性を上げる為に、江戸時代初期に開削された排水路の新川掘が東海道と交差する所に架けられていた石造りの橋だが、昭和6-8年 (1931~1933) に埋め立てられ、現在は橋の欄干の親柱が保存されている。


大徳寺

17世期半ばに開山した浄土宗の寺。ここも戦災で焼けたのだろう、寺はビルの一階にある。寺と書いていなければ分からない。多分、ここの住職だろうが、狭い境内(?)に仔犬を散歩させていた。挨拶をしたのだが無視された。歓迎されていない様なので、早々に退散。


佐藤本陣跡

京よりの西の三つ目の本陣跡。別名、惣左衛門本陣。


教安寺

天文22年 (1553) 創建の浄土宗の寺。本尊は阿弥陀三尊立像。改装工事中で、奥には入れず、入り口付近だけを見学。浄土宗は念仏を唱える念仏宗で、江戸時代この寺では信者に一日に何回唱えたかを自己申告すれば、その回数により様々な賞品 (名号書) を与えたという。境内にはがもらえたという。境内には、江戸中期に庶民から「生き仏様」と敬われた徳本上人の六字名号碑があるが、中には入れないので見れなかった。(この東海道、紀伊半島の旅で、多くの六字名号碑に遭遇する事になる。)


川崎宿京入口

川崎宿の京方面への出口。京方面からは川崎宿への入り口となる。ここには石垣で見附があり、通行人を監視していた。現在は名残はなく、駐車場になっている。


芭蕉句碑

1694年に芭蕉が子の治郎兵衛と共に長崎へ旅立つ際に、芭蕉との別れを惜しむ江戸の門人が川崎宿まで見送りにきて、ここ八丁畷で最後の別れをかわす。この時に芭蕉が詠んだ句「麦の穂を たよりにつかむ 別れかな」の碑が建っている。東北を旅した時に芭蕉が歩いた奥の細道にも多くの句碑があった。瀬戸内にもあった。芭蕉は旅をしながら、その土地で遭遇する出会い、地域住民の生活や自然を見て、その想いや感動を俳句に残した。自分にはその才覚は無いが、感動を受ける所までは経験できる。芭蕉が旅に出る理由がなんとなくわかる様な気がする。


八丁畷無縁塚

ここに八丁畷の由来が書かれてあった。川崎宿京口を出ると八丁畷。八丁 (870m) の畷 (道が田畑の中をまっすぐのびたあり様) があった事に由来するそうだ。今は田畑は無くなってしまったのだが、当時はこの一面は湿地帯だった。ここで工事の際に江戸時代の人骨が十数体出て、昭和9年に地元と川崎市とで建てた慰霊塔がある。


市場一里塚

川崎市を抜け鶴見市に入る。一里塚跡があった。日本橋から5里 (20km) の地点。つまり5番目の一里塚だ。跡には稲荷社が祀られている。これから多くの一里塚跡に出会うのだろう。三条大橋迄の東海道には124の一里塚があるそうだ。


鶴見川水難者慰霊供養塔

鶴見川を渡る。土手に何か石碑があるので、休憩がてら寄ってみた。この川で発見された水難者の遺骨の慰霊供養塔だった。江戸時代、この鶴見川河岸の葦の繁みから水難者の白骨遺体が発見されることがしばしばあり、その遺骨を「お骨さま」として無縁墓に葬っていた。この無縁墓に詣でると眼病が治るという話が伝わり、一時は参詣者が溢れていたが、やがてそれも下火となり、関東大震災や堤防工事などで無縁墓は川底に沈んでしまった。昭和55年に地元の人達が沈んでしまった無縁墓を供養塔として復活させ、今でも供養を続けているそうだ。ここで堤防に座って昼食。


寺尾稲荷道

ここの道標がある。昔から建っているものでなく、新たに建てられたものだが、昔もここに道標が建っていたのだろう。東海道から分岐して寺尾稲荷に行く道。この様な道の分岐点を追分と言うが、東海道や中山道などの街道を巡っていると、追分や道標に出会う。この近くにある寺尾稲荷神社は馬術の上達や馬上安全を祈願するための神社。道標の上部に「馬上安全」とある。今で言えば「交通安全」となるのであろう。寺尾稲荷神社は寺尾城址の西斜面にあった。5代目寺尾城主諏訪馬之助は馬術が不得意であったが、この稲荷に馬術上達を日夜祈願し、大願を成就した事が口コミで広まり、馬術上達や馬上安全を祈願する稲荷社として有名になり、江戸時代には、多くの参拝者が東海道から寺尾道を得て寺尾稲荷を参拝したそうだ。
ここに神奈川宿までの案内図があった。これに沿って史跡に立ち寄る事にする。


鶴見神社

鶴見神社の創建は、推古天皇の時代 (7世紀初め) と伝えられ、古くは杉山大明神と称していた。1920年 (大正9年) に、鶴見神社と改名。横浜-川崎間では最古の神社。境内に寺尾稲荷道 道標がある。先程見た寺尾稲荷道 道標の場所に建っていた本物の方で、ここに移設保存されている。社の裏には富士講の富士山に見立てた富士塚がある。関東には富士山信仰の富士塚が多く見られる。


設楽茶屋

江戸時代にはこの場所に立場 (たてば) と呼ばれた茶屋があった。ここ鶴見は川崎宿と神奈川宿の真ん中にあたりこの様な村を間の村 (あいのむら) と呼んでいた。川崎宿を出た旅人が神奈川宿への途中、間の村の鶴見の立場で休憩していた。設楽茶屋は繁盛していたそうだ。それにあやかって、今は同じ名前をつけたラーメン屋が商売をしている。


名主佐久間家

鶴見村の名主の屋敷があった場所。2001年まであったのだが、残念ながら、今は無くなってしまっている。


鶴居堂

ここには、せきの特効薬「苦楽丸」で街道筋に知られた「鶴居堂」を営む黒川四郎左衛門の屋敷があった場所。ここも今は表示板だけ。


道念稲荷

道念稲荷社に数百年前から伝わる「蛇も蚊も祭り」の説明版があった。横浜市の無形民俗文化財だそうで、生麦が農漁村であったころの雨乞い祈願の行事で、萱で作った蛇体に悪霊を封じ込めて海に流流し、悪疫を追い出し豊漁も祈る祭で今も続いている。



生麦事件発生現場

あまりにも有名な生麦事件があった場所。薩摩藩 島津久光が700人の家臣を引き連れ江戸に行った帰りの行列に四名のイギリス人が馬で入り込み、薩摩藩主に無礼打にあい、一人は死亡、二人は重症、最後の一人は無傷で逃げた。
当時の生麦村の古写真
この事件は当時の尊王攘夷運動を極限迄沸騰させるきっかけとなった。この事件は日本国内だけでなく英国でも様々な捉え方をしていた。幕府は薩摩に対して非協力的であった。今日の天皇は称賛。薩摩は幕府/天皇の思いもよらぬ対応に当惑。民衆は喝采。英国ジャーナリストは薩摩に同情的で当の英国人四名には批判的、英国政府始め四ヶ国は日本への圧力の好機と見ていた。その四ヵ国の英仏蘭米の艦隊が横浜に入港、幕府と賠償交渉を開始。この時には幕府の影響力は低下しており、英国は単独で薩摩にも賠償を求めたが交渉は不調。英国戦艦が薩摩藩船の拿捕をきっかけに、薩英戦争が勃発。英国戦艦と薩摩藩共に大きな被害があり、最終的には講和となる。この生麦事件は尊王攘夷の過激化を招いたが、結果的に攘夷が如何に無謀かを理解し、国として西欧に匹敵する技術や軍事力が必要である事を認識するきっかけにもなった。薩摩が討幕への方針転換の序章にもなった訳だ。薩英戦争については、鹿児島を訪れた時にその所縁の地を訪れた。


生麦事件碑

生麦事件の現場からそう遠く無いところに石碑が建っている。薩摩藩士に斬られたリチャードソンがここで落馬し、とどめを刺された場所。ちょうどキリンビール横浜工場の正門のところにある。ちなみにキリンビールは横浜が発祥の地。


東子安一里塚

日本橋から6里にある一里塚跡。一里塚は影も形もなく、国道1号線脇のトタン板に表示板が貼り付けてあるだけ。市場一里塚からまだ4kmしか来ていないが、この距離の中で、かなりの数の史跡がある。全部はとてもじゃ無いが見きれない。


(3) Kanagawa Shuku 神奈川宿

神奈川宿は東海道3番の宿場で川崎宿から2.5里 (9.8km) の距離。本陣2軒、旅籠58軒、戸数1,341戸、人口5,793人


長延寺跡 (土居)

ここが神奈川宿の江戸側の入口で土居が築かれていた。ここでは土居と紹介されているが、見附と言われているところもある。詳細は後述のオランダ領事館跡に含めている。



良泉寺

良泉寺は海岸山と号し、浄土真宗大谷派に属す。本願寺第8世蓮如上人に帰依した蓮誉が、小机付近の旧街道沿いに草創、慶安元年 (1648) に入寂したこの寺の第4世良念の代に、徳川幕府より境内地の施入を受け、現在地に移転したと伝えられる。開港当時、諸外国の領事館に充てられることを、快よしとしないこの寺の住職は、本堂の屋根をはがし、修理中であるとの理由を口実にして、幕府の命令を断ったといわれる。(神奈川区宿歴史の道)


能満寺

能満寺は、当所の住人内海甚左衛門の先祖光善が、正安元年 (1299) に海中から仏像を発見し開基となり、重蓮法印が開山。


神明宮

神明宮の草創についてはいくつかの伝説があるが定かではない。「新編武蔵風土記稿」は別当能満寺の草創と同じ正安元年(1299)の勧請としており、この神社と能満寺が草創当初より極めて密接な関係があったことを伺わせる。かつて境内を流れていた上無川に牛頭天王の御神体が現われ、洲崎大神およびこの神社に牛頭天王を祀ったとの伝承もある。また、境内にある梅の森稲荷神社には、若い女旅人にまつわる哀れな話も伝わる。(神奈川区宿歴史の道) 恐らくこの神社は神仏習合で能満寺にあったのではと思う。分離令で分かれたのだろう。


熊野神社

熊野神社は、平安末期に紀伊の熊野権現を祀り権現様として親しまれている。もと権現山にあったが、江戸中期に金蔵院境内に移り、神仏分離令により金蔵院から分かれた。(神奈川区宿歴史の道)


金蔵院

金蔵院は、京都醍醐三宝院の開祖勝覚僧正により平安末期に創られた古刹である。その後、徳川家康から十石の朱印地を許された。
「金川砂子」のこの図には江戸後期の様子が描かれている。参道は街道まで延び、金蔵院・熊野神社が境内に並び立っている。本堂前には徳川家康の「御手折梅」と称された梅の古木が描かれている。かつては毎年1月に当院の住職が、この梅の一枝をたずさえて登城するのがならわしであったという。(神奈川区宿歴史の道)



神奈川宿高札場跡

この高札がある通りは綺麗な松並木になっている。昔からなのか近年作ったのか分からないが、当時はこの様な感じだったのだろう。


権現山城跡

権現山城は1510年 (永正7年) の権現山の戦いの舞台となった城。このときの城主の相模守護代 上田蔵人政盛は北条早雲と手を組み、関東管領 上杉氏に叛旗を翻すが、上杉朝良の2万の軍勢に囲まれ落城。現在城址は幸ヶ谷公園となっている。
神奈川宿の特徴は幕末に欧米諸国に門戸を開き、その国の駐日大使や領事などが多く住んでいた事だ。あてがわれた住居ほとんどが寺だった。宿場街なので、立派な宿もあるだろうに、わざわざ寺を使っている。何故か? 個人的推測だが、一般庶民や侍、それに女性達との接触を最小限にしようとしたのでは無いだろうか? その住居跡となった寺が紹介されていた。


  • オランダ領事館は長延寺跡
寺も神奈川宿の入り口であった土居 (見附) は残っておらず、公園となっている。


  • 外国宣教師宿舎は成仏寺
キリスト教は明治初期まで禁止だったはずだが、アメリカから宣教師が幕末に来ていたという。日本人への布教の為か? 居留している外国人のためだろうか? 日本人への布教の為に来たのだが、キリスト教は禁止されているので、英語や西欧技術を教えたり、日本研究をしながら禁教が解かれるのを待っていたそうだ。

  • フランス領事館は慶運寺
ここには浦島太郎伝説が残っている。沖縄にも多くの浦島太郎伝説があった。これから行く東海道にもいくつか同じような伝説があるのだろう。

  • ヘボン博士施療所は宗興寺
ヘボンは米国の長老派プロテスタントの宣教師として日本に来たが、先にも書いたがキリスト教は禁止の時代。ヘボンは医療活動と日本語研究を行なっていた。この宗興寺の施療所には毎日100〜150人の患者が来ていたそうだ。日本語研究ではアルファベットで日本語を表記する方法を考案。今でもローマ字表記をヘボン式ローマ字として残っている。

  • イギリス領事館は浄瀧寺

  • フランス公使館は甚行寺

  • アメリカ領事館は本覚寺 (青木城跡)
解説では日米修好通商条約を結んだタウンゼント・ハリスが自ら選んだとある。理由は見通しである。高台から広範囲を見渡す事ができる。生麦事件では負傷したイギリス商人が駆け込んだ場所として知られている。
ここは以前は青木城があった場所。遺構は全く残っていないが、ハリスが選んだようにここは城には立地条件が良い所だ。北条氏の家老、多米氏の居城と伝わる。築城時期については諸説あり、戦国時代に多米周防守 (小田原征伐で松平修理大夫に攻められ討ち死) よって築かれたとも、大永年間 (1521年~1528年) に北条早雲がつい今し方行った隣接する権現山城とともに築いたとも言われている。(青木城と権現山城はひとつの城だったという説もあり 写真左下に権現山城が見える)。1590年 (天正18年) の豊臣秀吉による小田原征伐後に廃城。
これで神奈川宿沿いの主要な史跡はかなりまわった。もう5時になる。空も薄暗くなっている。今日は横浜のカプセルホテルを1時間ほど前に予約した。観光シーズンも終わっているので難なく予約が取れた。ここから横浜の関内までは5キロ弱で20分ほどで着くだろう。途中で今日の夕飯を買っている間に完全に暗くなっている。横浜の夜景は覚えが無いので初めて。海岸沿いを走り、運河越しに夜景を楽しむ。
市の中心にある観覧車のイルミネーションが様々な模様を描き出している。ここまでしなくても十分に華やかなのだが、しばしどんな風に変わるかを観察。
宿に到着。綺麗で清潔なホテルだった。あまり泊まり客はいない。昨夜もそうだった。ここは2000円を切るのだが、普通の料金のホテルよりきれいだ。

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