Ride in Kyushu Day 50 (3/2/19) Kagoshima City Ride 鹿児島

Former Site of Tempozan Battery 薩英戦争 天保山砲台跡
Statue of Zusho Shozaemon 調所笑左衛門像
Sakamoto Ryoma’s monument of Honeymoon 坂本龍馬新婚の旅碑
Former Site of Shimazu Nariakira’s War Camp 島津斉彬御陣所跡

鹿児島の道路を走っていると、やたらと安全運転を促す掲示が目につく。
「茶いっぺ」とは? と思い調べてみたら、「慌てず急がずお茶を一杯飲んで行ってください」という意味で昔から伝わる相手の事を気づかう鹿児島の方言だとかいていた。良い言葉と思う。あくせく働きストレスいっぱいの現代人が忘れている心の余裕が戻って来る言葉だ。この言葉をかけられると、肩の力が抜けるのじゃないかな。
ただ、これ程掲示板があるという事は、運転マナーが決して良くは無いのだろう。旅行していて九州は他の地域に比べて、車の運転は良くは無い。車優先の頭で運転している印象を持った。携帯で通話しながら運転しているのが目につく。駐車場から車道に出る時は歩行者や自転車が通り過ぎるのを待たない。一度軽くだが、これでぶつけられた。横断歩道を青で渡っている時に、前方から右折左折してくる車はこちらのスピードに合わせて曲がってくる、止まらないのだ。こちらは相手が気づいているのかがわからないので、初めはびっくりする。自転車のお尻にギリギリで曲がって行く。自己中心の運転手が多いと感じた。
今日は一日中雨の予報で午後から強くなるらしい。鹿児島市内を西南戦争所縁の地をゆっくりと回ろうと思う。雨宿りしながらになるだろう。

Former Site of Tempozan Battery 薩英戦争 天保山砲台跡

当時は薩摩は先の藩主の島津斉彬の西洋技術の導入政策で、溶鉱炉を建設し、日本で最も工業化が進んでいた藩ではあるが、島津久光は無謀にも英国と戦争に踏み切った。事のきっかけは生麦事件にある。神奈川県の生麦村 (東海道を走った際に訪問した) で、薩摩藩参覲交代の行列の前を馬で横切った英国人を斬り殺した。これの対抗として英国が賠償を求め軍艦を薩摩に向かわせた。当初は話し合いがなされたが、薩摩は英国の要求を拒否。英国の武力行使が行われ、薩摩も開戦を決意し、この砲台から砲撃が始まる。結果は鹿児島の城下の一割が消失、砲台なとが破壊されたが、英国の損害も多く、戦艦は横浜に帰った。これを敗走と捉えられていたふしもある。この戦争で西欧諸国の日本への見方が変わる。英国のやり方に西欧諸国は批判的であったこともあり、これ以上も戦争は無かった。薩摩と英国はこれ以降、関係が緊密になっていく。薩摩あっぱれという感じだ。勝てると思ってやった戦争では無いだろうが、正義と信じることに対しては、勝ち負けは二の次で筋を通すという日本の武士道があるのでは無いだろうか。もう一つ感心するのは、薩摩の外交手腕だ。最後まで非は認めず、幕府から金を借りて英国から軍艦を購入する事で決着をつけ、軍艦えお手に入れた。(幕府には返済せず) 良い人材が薩摩にはいたのだろう。

Statue of Zusho Shozaemon 調所笑左衛門像

調所はいつも悪者で登場する。直木三十五の南国太平記ではあたかも妖怪のように描かれている。映画やドラマではいつも悪者。事実は随分と違う。彼の功績は非常に大きい。確かに藩の借金を250年無利子と強引に飲ませた事は、悪事に様に言われているが、薩摩藩の莫大な借金を返済し蓄財まで生み出した。幕府に隠れて密貿易で儲けた金だ。この密貿易の悪事が幕府に露見することになり、自分だけが責任を被り、自害した。密貿易にしても幕府が利益を独占しようとしたもので、薩摩藩にすれば、幕府の勝手で、自分達も儲けて何が悪いかだろう。この調所を茶坊主から取り立てたのが、島津重豪で次の藩主斉興に使えた。有名なお由来事件では斉興を支持して斉彬とは仲が悪かった。密貿易の露見は斉彬が仕組んだと言われている。斉彬と西郷隆盛 対 重豪と調所という構図で語られるのでいつも悪者だ。

Sakamoto Ryoma’s monument of Honeymoon 坂本龍馬新婚の旅碑

日本で最初に新婚旅行をしたのが坂本龍馬と言われている。以前には無かったのかどうかは知らないが、当時の男尊女卑が一般的だったとすると、世間の常識に囚われず、思ったように行動する坂本龍馬は魅力的だ。この新婚旅行ではエピソードがある。高千穂の逆鉾を抜き取り、得意にその事を手紙にしたためている。神聖なものとして誰も触れなかったものを抜いてしまった。好奇心か、既成概念に囚われない、反骨精神か とにかく面白い人物。

Former Site of Shimazu Nariakira’s War Camp 島津斉彬御陣所跡

これが九州の面白いところだが、外国の文化の入口だ。福岡/博多、小倉、長崎、天草とそれぞれの時代で九州が外国との接点になり、刺激を受けて日本の文化の発展に寄与していた。この鹿児島は自らそれを望み、積極的に取りに行った点で、他の地域とは異なる。これが明治維新後の急速な発展に大いに寄与していた事は間違いない。この鹿児島の特異性を作り出したのは、あくまで私見ではあるが、関ヶ原に負け、外様として生きていかねばならなかった。その中で、幕府に対する反骨精神が根強く、それを着実に実行していた事。琉球が薩摩の管轄だった事により、そこを通しての貿易、貿易を介して海外の情報を得ていた事。これが大きく寄与しているのではないか。この要素を2つとも持った藩は鹿児島以外には無い。
斉彬は軍備を中心とした西洋技術の導入に熱心であり、導入は単なる過程、軍備増強のためにこのような演習場を儲けていた。不幸な事に斉彬の藩主の期間は短く亡くなった。思い描いた夢の半ばであった。ただ、その意思は、西郷や大久保、そして世間は政敵と思っていた久光にまで受け継がれていく。斉彬が描いていた夢と全く同じでは無いが、後継者が修正しながら受け継いだと言えるだろう。斉彬がとことん潰した調所笑左衛門の改革がなかったら、絵に描いた餅で終わったであろう。斉彬は調所を評価していたのだろうかが気になるところだ。

Kyogetsu-tei 共月亭

雨が強くなってきたので、天保山公園の中にある共月亭で雨宿り。鳩が飛んできて、一緒に雨宿り。ついでに昼食。パンの屑をやるとどこからともなく大勢飛んできた。彼らにもおすそ分け。これは中国長沙との姉妹都市締結を記念して長沙市から寄贈されたもの。
餌を与えてはいけないそうです。後から見つけた.....
昼食を終えて、休んでいると爺さんがお邪魔しますと言って雨宿りに来た。そこから長い交流が始まる。話好きな70歳の爺さん。話に夢中になると鹿児島弁が混じる。わからない。街で若者が話しているのを聞いても訛りやイントネーションが独特で聞き取り難い。爺さんは建設業の人夫をしている。その日暮らしの模様。鹿児島生まれで、日本全国の工事現場で働いていた。工事現場での思い出話や、ホームレスとの交流の話。住むところこそあるようだが、生活は大変なようだ。話はまともで、世の中を良く見ているし、話の中に人の良さを感じる。収入の話をしている時に、少々自嘲気味に鹿児島は沖縄に次いで賃金が安いとこだ。人夫の日当もどんどん安くなってきている。ここのところは以前から気になっていた。学生時代に (もう40年もまえだが)日雇い人夫は1日で1万円もらっていた。当時はファーストフード店で時給400円ぐらいだったかな。今は900ー1000円で2倍以上になっているが、日雇い人夫は8000円ぐらいだそうだ。下がってきているのだ。この背景はなんだろう? 不景気で安くとも人が集まる?外国人労働者の安い賃金に影響されている。日雇い派遣のピンハネが実質賃金を下げている。爺さんは自分をどう見たかわからないのだが、仕事がある所を勧めてくれた。鹿児島では2月から転勤が増えるため、日通が日雇いの募集をまもなく出すので行ってみてはと言われた。くれぐれも日雇い派遣業者には行かないようにと注意された。久々に肉体労働してもいいかなと頭をかすめる。また別に面白い話は鹿児島はまだ封建が続いている江戸時代の島津氏の子孫がやっている島津興業が鹿児島にまだまだ影響力を持っている。土地を多く持っており、建設計画ではいつもこの島津興業との土地交渉があり、島津興行が主導権を握っていると言っていた。どこまで確かな話かわからないが、そのような風土があるのだろう。
安い宿やスーパーを教えてくれた。
雨は止む気配無く強くなってきているのだ。今日はこれ以上、何処にも行けないだろうから、爺さんとの話で今日はおしまいだなと思うと、爺さんとの話が弾む。さあ、そろそろ行きますと言うと、爺さんが、名残惜しそうに、話ができて楽しかったと言ってくれた。

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