Okinawa 沖縄 #2 Day 6 (24/4/20) 南風原町 (6) Miyahira Hamlet 宮平集落
Miyahira Hamlet 宮平集落
- ナカントゥモー
- 番所跡 (バンジョ)
- フクギ群
- 上里モー (イーサトゥモー) / ノロ殿内 (ドゥンチ)
- ヌル石
- 東大城の拝所
- メーミチ
- ナカミチ
- ムラヤー/手習所跡
- 宮平駅跡
- 善綱御嶽 (ヨクツナウタキ)
- 善綱井戸 (ヨクツナガー)
- アガリガー
- 井戸/拝所
- 二本松 二本松 (たーちまーつー)
- なーでぇらシーサー館
今朝起きると、2年前に日本一周の旅を始めた時、四国遍路で知り合ったニュージーランドのジョンの悲報が届いていた。一昨日に亡くなったという。同じく遍路の旅で知り合った韓国の友人からだった。2年前にあった時に、ジョンとはいろいろな話をし、65歳で定年となり、次の人生の生き方探しの旅だと言っていた。昨年夏にはまだ見つかっていないとまた旅に出たそうだ。その後の知らせがこの悲しいものだった。ご冥福を祈りたい。
気を取り直し、沖縄巡りの続きにでかける。国道82号線を走り、今日の訪問予定の宮平集落を目指す。途中で、国場川 (クシガーラ) の遊歩道に入り走る。国場川にはいくつもの川に降りる階段がある。殆どは草に覆われて、現在は使っていないようだ。昔は人々が洗濯をしたり、子供の遊び場になっていた風景が浮かぶ。
宮平川 (メーガーラー) との合流点に着く。ここは一昨日きた兼城集落がある場所。この宮平川に沿って行くと宮平集落にたどり着ける。
宮平集落 (なーでらまきょ)
一昨日訪問した兼城の東側に東側に隣接する集落で、琉球王朝時代は南風原間切の番所が置かれたいたので、行政の中心地であった。南風原間切は琉球王朝の直轄地で王朝の一族の大美御殿の領地で按司地頭は置かれず、大美御殿の下に総地頭として宮平里主が南風原間切を仕切っていた。総地頭の宮平里主の補佐として、各村に親方 (ウフヤ) や親雲上 (ペーチン) が 脇地頭として任命されていた。
現在は南風原町の中で津嘉山について人口が多い字で約7600人住んでいる。今まで見た5つの南風原の集落と同様に、集落は丘陵の斜面に造られている。
この集落にも観光案内があるのであるので、それに沿って見学をする。
ナカントゥモー
ここは宮平集落の始まりの場所。へーマチガニーという名の人物がこの宮平に住み始めたという。へーマチガニーはこの宮平集落の東大城門中の祖で、この門中はこのモー (毛) に住んでいたという。現在は住宅や商業施設となり、わずかに林が残っている程度だ。ここにあった拝所は、この後、訪れる善綱御嶽に合祀されている。
番所跡 (バンジョ)
琉球王朝第二尚氏の第7代尚寧王 (しょうねいおう 在位1589年 - 1620年、本土では江戸時代初期)が各間切に番所を設置した。琉球全土で35の番所が置かれた。
南風原間切には宮平に番所が置かれた。これにより、宮平はドウ (中心) と呼ばれていた。この番所は明治32年まで続き、その後は役場として機能していた。
この番所が置かれた時を境に、その前とその後で村落の形態に変化が生じたという。「近世末期・沖縄の間切番所が置かれた村落(主村)における空間構成の復元に関する研究 (鎌田誠史 ,齊木崇人)」という論文にわかりやすく説明されているので引用する。
この南風原町の集落を探索してきたが、この集落は古琉球的村落の形態が残っている。その特徴はについてこのように書いている。集落をめぐって感じたことと全く一致しており、納得がいった。
ここで登場した尚寧王は尚氏本家 (首里尚家) ではなく、第3代尚真王の長男で廃嫡された浦添朝満の血筋で浦添尚家 (浦添按司家) と呼ばれている家系。この尚寧王については、昨年沖縄に滞在した時の訪問記「Okinawa 沖縄の旅 Day 33 (3/09/19) Study 第二尚氏王統 (1)」に簡単に記載している。琉球王朝の王の中でも薩摩侵攻の最も難しい時代の王で、その中で様々な功績をあげた名君だ、NHK大河ドラマ「琉球の風」に登場している。また、尚寧王は第二尚氏の代々の王の玉陵でなく、浦添ようどれに葬られていた。
フクギ群
上里モー (イーサトゥモー) / ノロ殿内 (ドゥンチ)
宮平集落の聖域が上里モー (イーサトゥモー)で丘陵の高台にある。ここにはノロの屋敷であるノロ殿内 (ドゥンチ) が存在し拝所 (うがんじゅ) もあったが、今は住宅街になっている。鬱蒼と茂った林が住宅街の合間にあるのだが中には入れないほどの茂みだ。
ヌル石
上里モー (イーサトゥモー)にあるノロ殿内 (ドゥンチ) の屋敷囲いの道の脇に何の変哲もない石が転がっている。これはヌル石と書かれている。案内書にしか載っていない。表示版もない。これはノロ が馬に乗る時に足をかけた石なのだ。今まで回った史跡で何回か見たことがある。ノロ は琉球王統府から指名されているので身分は高い。移動は馬を用いていたのだ。
東大城の拝所 (うがんじゅ)
今日最初に訪問したナカントゥモー登場した東大城門中の拝所がここにある。ここは東大城門中の住居があった場所だそうだ。ナカントゥモーから上里モー (イーサトゥモー) に移ったのだろう。多分この宮平 (ナーデー) では根人 (ニーッチュ、ニッチュ) であったのだろう。ノロは根神 (ニーガン) として、この東大城門中から出たのだろうか? この東大城門中の屋敷はノロ殿内と極めて近い場所にある。
メーミチ
この集落 (マキョ) にもメインストリートのメーミチがあるが、それほど広いものではない。メーミチはどのような漢字だろうか?
ナカミチ
メーミチがあればナカミチもある。中道わかりやすい。この道も他の集落にもあるのだが、メーミチと同じくメインストリートだ。ここでも同じなのだが、今まで見た集落では、この二つの道は挟んで平行に走っている。
ムラヤー/手習所跡
ナカミチ沿いに宮平公民館がある。ここはかつての村屋 (ムラヤー) で集落 (マキャ) の集会所。ここに石碑が立っている「南風原町間切宮平村・手習所之跡」とある。1868年 (第二尚氏第19代尚泰王 [琉球王朝最後の王]の時代、明治元年)、仲村渠筑親雲上 (なかんだかりちくぺーちん) が首里奉公の中で覚えた学問を地元の子供たちへ教えるためにムラヤーに「手習所」を創設したのだ。これが島尻 (しまじり) 地区で初の教育施設、学校のはじまりとなった。南風原における教育発祥の地。
宮平駅跡
善綱御嶽 (ヨクツナウタキ)
ウガンヌ前公園は別名「ウガンヌメー」ともよばれる拝所 (うがんじゅ) で、宮平の村づくりをした善綱大屋子 (ユクツナウフヤク) の館があった場所に建てられ、後方には善綱大屋子の墓がある。墓はこの公園ができた時に、新しく建てられたものだが、以前あった墓の碑文は忠実に新しい墓の裏面に刻まれている。この地の善綱大屋子に関しての言い伝えがが記されている。これが刻まれたのが道光12年 (1832年) とある。約200年前のことだった。
1949年、沖縄戦で破壊された御嶽 (ウタキ) 3カ所、拝所 (うがんじゅ) 9カ所、カー (井戸) 5カ所の神々を一カ所に集め、ウカミヤー (御神屋) を建てた。現在のウカミヤーは、2000年に建て直したもの。中を見るとすべて同じような石と香炉が並んでいる。壁にはそれぞれの配置図が貼ってあった。この宮平集落には今まで巡った集落ほど、御嶽や拝所や井戸跡が少ないと思っていたのだが、合祀されていたのだ。各々の住民はここに来てそれぞれの地区の配所に向かって拝んでいるのだろう。
拝所内右隅には善綱大屋子を祀った香炉が置かれている。善綱大屋子は地方役人の大屋子を務めていた。村の政務において善政を尽くしたとして、集落の住民からから尊敬されていたという。善綱大屋子が亡くなった後、神として祀られることになったのだ。
善綱井戸 (ヨクツナガー)
善綱御嶽の東南に大きな井戸が残っている。善綱井戸 (ヨクツナガー) または神ガーとよばれていた。集落のウブガー(産井戸) やワカミジ (若水: 正月に使う水) として利用されていた。
この善縄大屋子 (ユクツナウフヤク) には言い伝えがある。「宮平に住んでいた漁師で、使者の亀とともにニライカナイ(天国)へ行ったとされています。ナイチの天国は空の上にありますが、沖縄の天国は海の彼方にあり、使者はたいていの場合、美女と亀。
"善縄は漁を生業としていた。ある日、善縄大屋子が西原 (首里の東側) の我謝の浜で、竹で編んだ柵に魚の追い込み漁を行っていたところ、突然、海中から大きな海亀だ飛び出し、その後すぐに美女が現れた。「この大亀をあなたにあげるから、早く背負って家に帰りなさい」と言われ、大喜びで帰路に着く急いだ。ところが、善縄は背負った大亀に首を噛まれ、気絶して命を落としてしまったという。村人はこれを哀れんで、善縄大屋子を埋葬し、の地の風習 (沖縄の一部地域には、戦前まで「翌日見(なーちゃーみ)」という風習が残っていた。死者が生き返ってはいないだろうかと、甕棺を覗きに行くのである。) に従って、三日目後に、お墓へ行き、甕棺を覗いたところ遺体が亡くなっていたという。このとき、天からの声で、「善縄はニライカナイ(儀来河内=楽土) へ行き、宮平村を守る神となったのだ。」という御神託があったそうだ。それ以来、善縄大屋子の家を御嶽として、宮平村を守る嘉美司嘉美淵威部 (カミツカサカミフチイベ) という神となり祀られている。” これは浦島太郎伝説の一つのバージョンなのだが、沖縄には日本の浦島太郎伝説に酷似したものが数多くある。沖縄の人と話すと、沖縄の浦島太郎伝説が、日本に伝わったのだという。だた、この浦島太郎伝説は東アジア各国で見られる。どこから始まったのかは不明だ。
アガリガー
宮平の観光案内書に載っていた2つの井戸跡の一つ。二つ以外の5つの井戸にあった拝所の香炉は先程の善綱御嶽に合祀されている。この場所に来てみたのだが、兼城集落を訪れた時にこの井戸跡には来ていた。あるサイトではメントゥヌガーとして紹介されていた所。兼城の井戸か、それとも宮平の井戸か?地図でこの場所を調べると字宮平だった。宮平ではアガリガーとなっている。漢字ではどう書くのだろう? 沖縄でアガリと言えば東なのだが、このアガリガーが東井戸ならば、少し変だ。ここは宮平の西端。
井戸/拝所
二本松 (たーちまーつー)
富士山に似ているというので富士山小 (ふじさんぐゎー) とよばれる小高い丘の西側に、二本 (たーち) の松の木がある。現在の松は、戦後に植えられたものです。ここは広い広場になっており、昔はここは子供の遊び場や村の運動会などが行われていた。この二本松 (たーちまーつー) の由縁などは見つからなかったのだが、遠くからもこの二本の松が見えて、宮平集落のシンボル的存在だったのではないだろうか。
なーでぇらシーサー館
二本松がある富士山小 (ふじさんぐゎー) の丘の前に「宮平獅子舞・伝統芸能保存継承資料館(なーでぇらシーサー館)」がある。宮原の伝統芸能の獅子を展示していた。宮平の獅子舞は、冠船劇の獅子舞と伝えられる伝統芸能。沖縄の獅子舞は中国の獅子舞に似ており、日本本土の獅子舞と少し異なっている。特に獅子舞の胴体が沖縄のものはふさふさした毛で覆われているが、本土のものは布になっている。これは学者によれば、日本の獅子舞も中国から渡来したのだろうが、奥縄よりもっと早い時期だったのではないか、その後、独自に発展していったのだということを言っていた。
宮平にはもう一つ伝統芸能が伝わっている。女踊りだ。琉球王朝時代に王と同席して三味線を習うことを許された宮平ウファーがこの芸能をひろめた。
そ女踊りのひとつの綛掛 (カシカキ) は町指定無形文化財となっており、その衣装も展示されていた。 綛掛 (カシカキ) は、「干瀬節 (ひしぶし)」「七尺節 (しちしゃくぶし)」「サアサア節」の3曲構成で、「かせ」と「かせわく」を操利ながら、愛する人への思いを歌に踊る古典舞踊の女踊りの伝統的な型を受け継いる。
宮平集落は史跡がそれほど多くなかったので、比較的早く終了。今まで見た集落では石獅子があったが、ここにはない。元々無かったのか、消滅してしまったのか? いつか聞いてみよう。
帰りは今日も、国道は出来る限り避け、川沿いを走り帰宅。
今日の夕飯はシンプルに鯖の照り焼きを作ってみた。定番の豚汁とキャベツとセロリの浅漬け。鯖の照り焼きはもう一つの出来。鯖はやっぱり味噌の方があう。これは昨日作ったのだが、やはり味噌の方が美味しかった。
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