Okinawa 沖縄の旅 Day 39 (9/09/19) Urasoe Gusuku Castle Ruins 浦添城跡
Nishimui Utaki 北森御嶽
Taihei Kyo Bridge 太平橋
Ahacha Basi Bridge 安波茶橋
Urasoe Magiri Bansho 浦添間切番所跡
Place of Ryufukuji Temple 龍福寺跡 (極楽寺)
Nakama Hinukan Haisho 仲間火之神拝所
Ni Dunchi 根殿内
Gubasanu Utaki グバーサヌ御嶽
Sataya サーターヤー跡
Umachimou 御待毛
Nakama Hija 仲間樋川
Atuga Public Well アトゥガー
Noroga Public Well ノロガー
Nakama Kushibaru Village 仲間後原遺跡
Urasoe Youdore The Royal Tomb of Ryukyu Chuzan Kings 浦添よーどれ
Urasoe Gusuku Castle Ruins 浦添グスク跡
Iso No Takauhaka 伊祖の高御墓
Urasoe Shell Mound 浦添貝塚
Iso Gusuku Castle Ruins 伊祖グスク跡
四日ぶりに雨があがった。天気予報は曇り、時々雨が降るかもしれないが、スコールなので長くは降らないだろう。雨で外出ができなかった間に色々と調べ、那覇の次は浦添と決めていた。浦添は中山国が首里に都を移す前までは中心地だった。中山国の起源ともいうべき所だ。首里からはルートにもよるが4-6キロの距離でかなり近い。まずはゆいレールの儀保駅まで行き、そこから史跡を巡りながら浦添グスク跡を目指す。
たどっていく道は尚寧王が浦添グスクと首里城を結ぶ道を整備した中頭方西海道 (なかがみほうせいかいどう)。今日は首里城からではなく儀保からスタートとする。
Nishimui Utaki 北森御嶽
儀保駅から中頭方西海道に入ってすぐのところに北森御嶽があった。(沖縄語では北のことを”にし”と云う) 先日訪問した末吉公園の端にあたる。地元のおじいさんがお詣りをしていたので、立ち寄った。北森御嶽入口の右隣にある黄金豊饒神を祀った拝所があり、石畳の参道をいく、途中に拝所がある。北森御嶽がいつからあるのかは不明だが、かなり古い様だ。17世紀には、代々国頭間切の地頭を務めた琉球王国の大名、国頭御殿 (くにがみうどぅん) の七世に当る国頭王子正則が、御嶽の前に拝殿を建て、弁財天を祀ったと伝わっている。
更に参道が続く。
拝所があり、火の神と守護神となっている。この儀保の守り神のようだ。
さらに進み、突き当たりにもう一つ拝所がある。岩のくぼみの中にお札が入っている。何のためか? 何を意味しているのかはわからないが、まだ新しいものだ。ただ、未だに、この沖縄ではこのような信仰が生きていることだけはわかる。
Taihei Kyo Bridge 太平橋
首里と浦添を結ぶ街道に架けられた石造のアーチ橋。平良橋 (テーラばし) ともいう。琉球王国時代の1597年に、尚寧王が首里から浦添城に至る道を整備した際、板橋であった太平橋が石橋に改められた。皮肉にも、尚寧王が整備したこの道は1609年の薩摩侵攻の際の道となってしまい太平橋付近は、浦添方面から攻め上った薩摩軍との激戦が行われた。更に、1945年 (昭和20) の沖縄戦では、米軍の侵攻の阻止のため、日本軍に橋を爆破されてしまった。戦後、やや上流側にコンクリート製の橋が架けられ、現在でも首里・浦添を結ぶ交通の要所となっている。
Ahacha Basi Bridge 安波茶橋
海道を先に進み、那覇市から浦添市に入る先日たまたま訪れた経塚を過ぎたところに安波茶橋がある。浦添八景の一つ。橋は経塚と安波茶の谷間を流れる小湾川上流に架けられた南橋とアブチ川に架けられた北橋からなり1597年に尚寧王の命で浦添グスクから首里平良までの道を整備したときに造られた。国王もこの道を通って普天間宮に参詣していた。(中頭方西海道は浦添グスクの手前で普天満参詣道に分岐する。) 橋は沖縄戦で破壊されたが平成10年に修復されている。
石畳道も復元されている。
ここから浦添グスクの城下町に入る。城下町には数ヶ所の史跡があり、浦添市は誘導版も整備して各史跡の場所がわかりやすくなっている。各史跡には説明板も設置して観光客には親切な案内になっている。那覇市の史跡案内板がしっかりしている事に感心したが、浦添市も同様にしっかりしている。
Urasoe Magiri Bansho 浦添間切番所跡
この浦添間切と言われた地は、琉球中山国の中心で、三山時代の前から舜天王統、英祖王統、察度王統の都となっていた。琉球国の原点とも言える場所。
Place of Ryufukuji Temple 龍福寺跡 (極楽寺)
創建時は極楽寺と呼ばれていた。琉球で最初の仏教寺院と言われている。英祖王統 初代王の英祖が鎌倉から派遣されたと言われている禅鑑僧の教えで、仏教に帰依し、居城であった浦添グスクの西側にこの補蛇楽山極楽寺を建てたと伝わっている。第一尚氏以前の中山王が祀られていた。火災で焼失の後、尚寧王により再建された。
Nakama Hinukan Haisho 仲間火之神拝所
この地域は仲間と呼ばれる。ここにも、他の地域と同じく古くから続いている拝所が多くある。ここは火の神様を祀っている。沖縄の家庭の台所には火ヌ神が祀られているが、村にも火ヌ神が祀られている事が多い。浦添の説明では「この石の祠は、近世の仲間村の「地頭火ヌ神」といわれている。地頭は琉球王国時代に間切や村 (今の字) を領地にした士族で、その就任や選任の時に拝んだのが地頭火ヌ神。また、王府の公的祭祀として、浦添ノロ (神女) がとりおこなう稲二祭 (ウマチー) などでも、他の拝所とともに地頭火ヌ神がおがまれたようだ。現在は、旧暦五月・六月の稲二祭や十二月の御願解き (うがんぶとぅち) などの年中行事に、仲間自治会の代表者数人で、ムラ拝みをおこなっている。
Ni Dunchi 根殿内
Gubasanu Utaki グバーサヌ御嶽
Sataya サーターヤー跡
製糖所跡
Umachimou 御待毛
ここが中頭方西海道から浦添グスクを通る普天満参詣道に分岐する広場
Nakama Hija 仲間樋川
ここにも古くからの公衆水場の川 (ガー) や樋川 (ヒージャ)がある。
Atuga Public Well アトゥガー
Noroga Public Well ノロガー
城下町の史跡を巡ぐり、いよいよ浦添城 (グスク) だ。入り口によーどれ館の資料館がある。生憎、月曜日は休館日。ここで浦添グスク時代の集落跡が発見された。
Nakama Kushibaru Village 仲間後原遺跡
Urasoe Youdore The Royal Tomb of Ryukyu Chuzan Kings 浦添よーどれ
浦添大公園に入ったすぐのところに浦添八景の一つのよーどれへの降り口がある。降りて見上げると、まるで城塞のような何段にもなった石垣がそびえ立っている。再現したものだが、写真をベースに忠実に復元している。石垣のすぐ上は浦添グスクで、よーどれは城の一部を構成しているかの如くに思える。
玉陵もそうだったが、国王の墓には必ず番所があり、監視をしていた。よーどれへの登り口にこの番所があった。
よーどれへの道
戦前の写真と現在の姿。沖縄戦のダメージはどこでも大きい。完膚無きまでに破壊されている。
英祖王の墓として造られた。
尚寧王は玉陵には入らずここに眠っている。浦添グスクは王に即位する前の育ったところで、ここの方が居心地が良いのだろう。墓庭から向かって右側が西室(英祖王陵)、左側が東室(尚寧王陵)となっている。墓の前に石碑 ようとれのひのもん (極楽山之碑文) には、「尚寧王は浦添から首里の王位に就かれた。ようどれは英祖王の墓であるからこれをきれいに修理するとともに、祖父 (小禄御殿二世・尚弘業、浦添王子朝喬) と父 (三世・尚懿王、与那城王子朝賢) の遺骸も葬った。ゆくゆくは尚寧王もここに入るだろう」という趣旨の内容が和文並びに漢文で石碑の表裏にそれぞれ記されていた。
Urasoe Gusuku Castle Ruins 浦添グスク跡
12世紀-15世紀初頭にかけて舜天、英祖、察度の3王朝10代にわたって居城した所と言われているが、舜天は実在の人物かどうかは未だ明確にはなっていない。中山国の中心であった。
グスクは浦添八景の一つで、この城跡も沖縄戦で日本軍の基地の一つになり、米軍と激戦が行われた。城内にはその爪跡が数多く残っている。
ハクソーリッジ (前田高地)
係員さんによると、ここは沖縄戦では一番の激戦区で、まるで地獄さながらだった。海岸に上陸した米軍が進攻してきて、日本軍の基地があったこの浦添城が攻撃のターゲットとなった。日本兵3000人、米兵1000人の戦死者を出した。メル- ギブソン監督の映画 Hacksaw Ridge の舞台。クリスチャンの米兵が信仰故に人を殺さず、衛生兵として負傷兵の救出を行なったというドラマ。浦添城も岩壁にハシゴを渡し80名程の命を救ったと言われている。この映画は見てはいないので、是非見てみたい。浦添の人たちは、この映画に対しては、米国からの一方的な視点絵はあるものの、この地でこのような悲劇と感動があった事を伝える映画には好意的な対応であったそうだ。
日本兵の慰霊碑 ハクソーリッジの戦いの日本兵犠牲者の慰霊塔
浦添グスクの遺構
殿
グスクは城と書かれるので、日本の城のイメージが非常に強いのだが、グスクはもっと広い範囲の使用目的があり、村の集落でそれを守るための城塞化されたもの、集落の中でも有力者の住居、集落の拝所、それらが組み合わさったものと様々な形がある。色々のグスクを訪れたが、殆どのグスクで城内には数カ所の拝所があった。聖域としての意味は大きかっただろう。ここのところは、日本の城とは少し異なる性格を持っている。
正殿と思われる場所
浦添八景の一つの為朝岩 (ワカリジー、ニードルロック)
為朝の名がついてはいるのだが、直接は関係はないようで、この地に為朝伝説があるから、大正時代ごろから為朝岩と呼ばれ始めたようだ。英祖王の子供 イソノシー (伊祖の子)を祀っているらしい。ここも沖縄戦で米軍の攻撃目標となっていた。
浦添城からの市内
米軍嘉手納基地の滑走路
浦添城の前の碑
尚寧王が造らせた、首里城と浦添城を結ぶ道路の竣工記念碑。碑には草書体のひらがなと漢文で書かれてある。草書体の平仮名はほとんど分からない。漢文の方が何とか理解できて、漢文と平仮名を比較しながら見ると面白い。琉球国では平仮名が一般的に用いられていたが、りゅうきゅうの言葉を音として平仮名で表している。のちに漢字が用いられるのだが、あて字が多く日本語の漢字の意味とは異なっている事も多い。
数十メートルではあるが、尚寧王が造らせた石畳が発掘され残っている。石畳は復元されたもので、全てが当時のものではなく、色が黒ずんでいるものが当時のもので、それに新しく石を付け加えて復元している。
やはりここにも拝所があった。
何故かここに沖縄学の父と言われた伊波普猷の墓がある。那覇市では普猷に関わる史跡をいくつか訪れた。でも、何故城内にあるのだろう? あって悪いわけでは無いのだが、気になる。後で係員の方に聞いてみた。明治時代には、城は私有地になっていたそうで、伊波普猷の希望で、沖縄の原点とも言えるこの地に墓を作ったそうだ。私有地ではあっても、尊敬されていた伊波普猷だからこそ、できた事だろうと言っていた。
浦添から海寄りの伊祖に向かう。伊祖グスクがお目当。途中に英祖に関係した史跡があるので訪問。
Iso No Takauhaka 伊祖の高御墓
英祖 (在位1260~99) の父、恵祖世主 (えそよのぬし) の他、二人の按司が納骨されている。浦添貝塚の上部の岩の斜面にある洞穴を利用し、その前面を相方積み (亀甲乱れ積み)で塞いだ崖葬墓。沖縄の古い形式墓。墓内には石厨子一基と甕棺2基が安置されている。浦添貝塚の時代では岩陰住居として利用されいた。恵祖世主は伊祖グスクを拠点としていた。
Urasoe Shell Mound 浦添貝塚
約4000年前の土器や石の斧、石の臼、貝製の腕輪や矢じり、骨でつくった道具などの他、九州縄文時代後期の土器 (鹿児島県の市来式土器) と奄美系土器が出土し、沖縄と奄美・九州の交流があったことが確認された。
Iso Gusuku Castle Ruins 伊祖グスク跡
グスクの築城年代は不明だが、歴代伊祖按司の居城だったと思われる。伝承上の天孫氏 (琉球の始まりの時代の王、殆ど神話の世界) の思兼松金王の四男の西原王子が伊祖大主の養子となり、その子が恵祖世之主、孫が英祖であると伝わっている。英祖王はここで生まれたと言われている。1259年に英祖が浦添按司になった後に廃城になったとも浦添グスクの支城とも云われている。この城も浦添八景の一つ。
城壁で囲まれているが、復元された石垣が殆どだが、一部当時から残っているものもある。
登っていくと、鳥居がありそこに英祖の宮という拝所がある。他の拝所と同じように中には石が祀られている。多分一つ一つが英祖王統の王か関係者をあらわしているのだろう。
英祖の宮の裏をさらに上がると、物見台がある。井戸跡が二つ。それに拝所もあり、そこに近づくと、猫が警戒してか唸り声を出している。あたかも拝所を守っているかの様だ。その後は近づいてきて体を擦り寄せて来た。どうやら、警戒心を解いて、認めてくれた様だ。
物見台からは浦添の海岸部と北の宜野湾市内が一望出来る。
ちなみに、浦添八景とは…平成26年に、昔ながらの風景や市民の生活との関わりが説明できるものという観点から、未来に残したい浦添市の原風景を募集して決定されたもので今日はそのうち6つを訪れた。残り二つは亀瀬 (カーミージー) と 杜の美術館 (浦添市美術館)
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