Okinawa 沖縄の旅 Day 22 (23/08/19) Shuri (2) 首里 その2

Kanshorei-ki Monument 官松嶺記
Matsugawa Hija Public Well 松川樋川
Banzairei Peak Monument 万歳嶺跡
Remains of Chuzanmon Gate 中山門跡
Remains of Makan Dunchi 真壁殿内跡
Remains of First Nakagusuku Udun 旧中城御殿跡
Remains of Ufumi Udun 大美御殿跡
Remains of Uchakuya 御客屋跡
Ankokuji Temple 安国寺
Tama Udun 玉陵
Remains of Tinkeji Temple 天界寺跡
Site of Shuri Machi Market 首里市跡
Ryutan Pond Park 龍潭
Remains of Yomochi Bashi Bridge 世持橋跡
Ryutan Bashi 龍潭橋
Enkanchi Ike Pond 円鑑池
Inscription of Jushi Tennyo Bashi Bridge 重修天女橋碑記
Ruins of Enkakuji Temple 円覚寺跡
Remains of Takajou 高所跡/沖縄県師範学校跡
Site of Shuri City Office 首里市庁跡
Site of Kaizuri Bugyosho 貝摺奉行所跡
Remains of Matsuzaki Baba 松崎馬場跡
Remains of Naka Gusuku Udun 中城内殿跡
Yamato Gaa Public Well 大和井戸

Kanshorei-ki Monument 官松嶺記

官松嶺 (俗称 下(シム)ナチジナームイ」) は、万歳嶺 (ばんざいれい) (俗称上(ウィー)ナチジナームイ、現観音堂) の西方に続く小高い丘で、かつては眺望の良い景勝の地だった。1497年に尚真王がこの丘に数千株の松の苗を植えさせて (松の木々はすでにない)、頂上に官松嶺記の碑を建立。以来、この丘を官松嶺と称した。1914年 (大正3) の首里・那覇間の電車開通 (現在の県道) により、官松嶺の北側斜面沿いに軌道が敷設。1945年 (昭和20) の沖縄戦でで破壊。その後、官松嶺の頂上付近が削られ民家となり、南側にホテルが建設された。

Matsugawa Hija Public Well 松川樋川

Novotel (旧沖縄都ホテル) の敷地内にこの水場がある。(ヒージャとは琉球語で湧き水の事) ホテルの方に場所を聞いてそこに行ってみた。この樋川には美女伝説があり、かつての琉球王朝時代、この地区には美人が非常に多く、役人が花嫁を探しに来るなど、お城に上がる女性を多数輩出していたことから、美女になれると言うパワースポットらしい。

Banzairei Peak Monument 万歳嶺跡

万歳嶺 (俗称 上(ウィー)ナチジナームイ) は、首里台地の西端に位置する丘のこと。かつては松が生い茂り、頂上から美しい眺望が開けていたため、万歳嶺夕照と詠うたわれた首里八景の一つであった。時の国王尚真がこの地に遊覧した際、王の治世、国の繁栄を祝う万歳の声がわきおこったことから、1497年 (尚真 32才 即位して20年) に丘の頂上に万歳嶺記の碑を建立し、この丘を万歳嶺と称した。先に訪れた官松嶺と言い、自分の功績 (?) を讃えた碑を同じ年に立て続けに建てるとは自画自讃気味だが、クーデターで父の尚円が第二尚氏政権を設立し、叔父の第2代王の尚宣威 (しょうせんい) を母の宇喜也嘉の策略で退位させ12才で即位した尚真には王家の安定が重要課題であったろうから、このように些細な事でも石碑を建てPRをせざるを得なかったのでは無いかと思う。
1617年、後の国王となる第8代琉球王 尚豊 (しょうほう) が国質 (くにじち) =人質)として薩摩に赴いた際、父尚久は息子の無事な帰国を祈願し、同年尚豊が無事帰国し、翌1618年、尚久は万歳嶺の南斜面に千手観音像を奉じ、観音堂と慈眼院を建立した。その後、観音堂は旅の航海安全を祈る場所として人々の信仰を集めていたが、1945年 (昭和20) の沖縄戦で焼失し、万歳嶺記の碑も破壊。戦後、万歳嶺の頂上付近を削り、観音堂が新たに建てられた。万歳嶺記の碑も、残った一部を台座に組み込み、復元。
昔首里城に通じていた大通りの綾門大道に出る。ここからは、首里城に関わる史跡が多くある。

Aijo Ufumichi 綾門大道

琉球王国時代、海の玄関口那覇港から長虹堤を通り泊の崇元寺を経て首里城に至る道は、王国随一の公道であった。下の綾門 (シムヌアイジョー) と呼ばれた中山門と、上の綾門 (ウィーヌアイジョー) と呼ばれた守礼門の間を中心とした幅広い道を綾門大道 (アイジョーウフミチ) といった。綾門大道の周辺には、世子殿の中城御殿や王家別寮の大美御殿をはじめ、王家陵墓の玉陵、御客屋、天界寺や安国寺など王府関連の建造物が建ち並び、王都にふさわしい景観を形づくっていた。かつて、この大道では、国王一代に一度限りの綾門大綱 (ウフンナー 大綱引) や、毎年元日に行われる馬勝負 (ンマスーブ 馬術) などが催された。1945年(昭和20)の沖縄戦で壊滅的な被害を受けたが、守礼門、玉陵、そして首里城が復元されている。

Remains of Chuzanmon Gate 中山門跡

中山門は、王都首里の第一の坊門で、綾門大道 (アイジョーウフミチ) の西端。下の綾門 (シムヌアイジョー)、下の鳥居 (シムントゥイ) とも呼ばれた。1428年の第一尚氏第二代王の尚巴志の創建とされており、当初は建国門と呼ばれていた。中国の牌楼式の門で、1681年に板葺から瓦葺に改められた。中山門の名称は、尚巴志王の冊封使柴山 (さいざん) が1425年に来琉時に献じた 「中山」 の文字を、後に扁額に仕立てて掲げたことによる。1959年 (昭和34) に復元された守礼門と同型同大である。1879年 (明治12) の沖縄県設置後に老朽化が進み、1908年 (明治41) に払い下げられ、撤去された。

Remains of Makan Dunchi 真壁殿内跡

琉球王国時代の高級女神官の一人の真壁大阿母志良礼 (マカンウフアンシタリ) の神殿及び住居跡。
尚真王代 (1477~1526年 第二尚氏 第三代王)に、神女組織が整備され、最高女神官 聞得大君加那志(チフィジンガナシ)の下に真壁 (マカベ)・首里 (シュイ)・儀保 (ジーブ)の大阿母志良礼と呼ばれる3名の高級女神官が置かれ、琉球国全域の神女 (ノロ) を3区域に分けて管轄させた。首里 (シュイ)・儀保 (ジーブ) の大阿母志良礼の神殿及び住居跡は昨日訪問した。1879年 (明治12) の沖縄県設置後に、真壁・首里・儀保の各殿内の3つの神殿は統合されて三殿内 (ミトゥンチ) と呼ばれ、天界寺の一角に移されたが、沖縄戦で失われた。沖縄県設置の際は琉球王朝を廃止にはしたが、明治政府の目指した天皇中心の国の基盤であった国家神道は、流石に、沖縄にそれを強要することは出来なかったのだろう。

Remains of First Nakagusuku Udun 旧中城御殿跡

琉球国王世子の旧殿宅跡。尚豊王代 (1621~40年) に創建され、二百数十年間、世子殿の役割を担った。1875年に世子殿が龍潭の北側 (旧県立博物館敷地) に移転すると、跡地は下の薬園 (シムヌヤクエン) となった。1879年 (明治12) の沖縄県設置後、1891年 (明治24) に沖縄尋常中学校 (後の県立第一中学校) が置かれ、1945 (昭和20) の沖縄戦後には、首里高等学校の校地となった。

Remains of Ufumi Udun 大美御殿跡

もとは尚清王 (1477~1526年、1487年即位) が世子だった頃の別邸。1547年に増築し、首里城内の女性の休養・産所、また冠婚葬祭などの礼式を行う場所となった。1853年に来琉したアメリカのペリー提督一行が首里城を訪問した際、大美御殿を摂政邸と称して、宴会が催された。1879年 (明治12) の沖縄県設置後、建物の一部に首里役所が置かれたが、明治後期に敷地・建物ともに払い下げられ、1925年 (大正14) に県立第一中学校の運動場となった。沖縄戦後は、首里高等学校の校地として引き継がれている。

Remains of Uchakuya 御客屋跡

薩摩藩の在番奉行などが首里城に登城する際の控所。創建年代は不明。在番奉行一行等は、ここで城からの案内を待って登城した。1879年 (明治12) の沖縄県設置後に首里警察署が置かれた。1890年 (明治23) に首里尋常小学校となり、校舎が建てられたが、1912年 (明治45) に首里尋常高等小学校として首里城内に移転した。その後に民間の電気会社に払い下げられた。
現在の安国寺の隣にあった。

Ankokuji Temple 安国寺

景泰年間 (1450~57) に尚泰久王 (位1454~60) が建立した禅寺で、開山は熙山周雍(生没年不明)。もとは那覇市首里久場川町に位置していたが、康熙13年(1674)に現在地に移転。沖縄戦で焼失し住職も戦死したが、戦後復興して現在に至っている。
次に、今日、最も来たかった場所に向かう。少し長く時間を使うだろう。

Tama Udun 玉陵

玉陵は、2000年12月に「琉球王国のグスク及び関連遺産群」として世界遺産に登録。1501年、尚真王が父尚円王の遺骨を改葬するために築かれ、その後、第二尚氏王統の陵墓となった。墓室は三つに分かれ、中室は洗骨前の遺骸を安置する部屋。創建当初の東室は洗骨後の王と王妃、西室には、墓前の庭の玉陵碑に記されている限られた家族が葬られた。沖縄の墓は大きいと思っていたのだが、それは個人の墓ではなく、その家の墓であった事と、風葬であった事。姿体を骨になるまで安置する空間が必要だった。この風葬は初めて目の当たりにした。この玉陵には風葬で葬られた歴代第二尚氏一族が眠っている。中室である程度白骨化すると、女性が骨から残っている肉を綺麗にして、足から頭部へと順番に厨子甕 (骨壷) に入れていく。完了すると、身分により東室又は西室に安置した。厨子甕は、途中から沖縄の陶器製に変わっている。係員さんの話では、今は沖縄全土では風葬はせず火葬になっているが、離島では数年前までは風葬が続いていたそうだ。
墓の両脇に番所跡
第一門、第二門を潜ると、玉陵。
玉陵の古写真 展示室にパネル展示されている。
厨子甕
玉陵の中に石碑がある。1501 (弘治14) 年に建てられたとなっているから、尚真王が36才で即位してから15年の時である。玉陵に葬られるべき人々の名がひらがなで書かれている。尚真王他8人の名が記され、この書き付けに背くならば、”天に仰ぎ、地に付して祟るべし”と書かれている。碑文には第二尚氏第2代王の尚宣威や尚真王の長男・次男、そして王妃の名が無い。尚宣威が除外されているのは母の宇喜也嘉の影響だろう。長男・次男は廃嫡されたのだが、何があったのだろう。長男の尚維衡は1494年 (弘治7年)、次男の尚朝栄は生誕時期は不明だが、この石碑が建てられた時は長男は7才だ。この幼い時期に廃嫡を決めるのは異例だ。第4代王は五男の尚清がなっている。長男 尚維衡の母親は尚真の正室で宇喜也嘉の陰謀で廃位に追い込まれた尚宣威の娘だった。次男の尚朝栄の母親は不明となっているが、おそらく王妃であったのでは無いか? 尚宣威の血筋のものには王位を継がせたく無いと言う思惑が見える。五男 尚清の母は側室の華后。どうもここにも宇喜也嘉の影が見えるように思える。碑文の本当の意図は、尚真王の長男 尚維衡、浦添王子朝満が葬られるのを排除することが目的出あったろうと考えられている。尚清が第4代王に即位した後は、この碑文に背き、浦添王子朝満をここに移してきている。この後の尚氏系図に第7代 尚寧が即位するのだが、尚寧は尚宣威/尚維衡の血筋で、ここで積年の怨みを晴らしたかの様だ。この尚寧は玉陵には葬られていない。先祖を廃位させた尚真系の墓には入りたくなかったのだろう。
ここで少し尚真王 (在位 1477年 - 1527年) について触れておこう。尚氏は第一尚氏琉球王朝と第二尚氏琉球王朝に分かれる。それぞれがクーデターで設立した王朝。第一尚氏琉球王朝の前の中山王も尚氏であったが、第一、第二それぞれ血の繋がりは無い。スムーズな冊封の為に、クーデターで前尚氏を倒した後にも、尚氏を名乗った。
この風葬を描いた映画が今年の一月に封切りされている。「洗骨」というタイトルで今月末まで上映されている。ガレッジセールのゴリが本名 照屋年之で監督をし、奥田瑛二主演。粟国島を舞台にして、沖縄の家族、親族、地域の繋がりや、それを通しての人の思いを表している。沖縄の人の現在はこの様な昔から何百年も続いてきた風習が文化となり、その人となりに影響を与えているのだろう。沖縄を知るには必見の映画だ。
第二尚氏 第2代 尚真王
彼の即位に関わる出来事などを見ると尚真王に対してマザコンで操り人形の様なイメージを持つと思うが、記録では、琉球王朝の中央集権体制を確立し、基盤を築いたのは、この尚真王だ。功績は数々ある。
  • 各地の反乱の恐れのある按司を首都・首里に集居させ、地方には按司掟という役人を派遣して領地を管理させた。第一尚氏の祖の尚巴志も第二尚氏を起こした父の尚円にせよ、当時の中山王の按司で、クーデターで政権を奪った。按司の勢力は無視できないものだったので、妥当な政策だったろう。
  • 身分制度を確立して、身分に応じてハチマキの色やかんざしの種類が決められた。(下の位階制度は後の1689年のものだが、その原型というものが、尚真により作られている。)
  • 地方制度を改革し、現在の市町村に相当する地域を間切、字に相当する地域をシマとした。(ここ数日で那覇市の中にあった間切を訪問、下は1907年の間切区分、尚真の時代とは区分が異なってはいるが、この間切と言う行政単位の導入は琉球王朝がなくなるまで続いた。)
  • 神女を聞得大君の元に組織化し、各地のノロをその統制下においた。初代の聞得大君には王の妹、月清が就任。妹の霊力で政治を行う兄を守護するというおなり神信仰だが、同時に神祇面での中央集権化。
  • 中央官庁には王を補佐する三司官を置いた。
  • 宮古・八重山から奄美に至るまで琉球王国に服属するに至った。1500年 (弘治13年) には八重山諸島で起きたオヤケアカハチの乱を平定、1522年(嘉靖元年)には与那国島を征服。
個人的な想像だが、政権の安定のために、独り立ちしてからは、母の悪女とも言われる宇喜也嘉を利用したのだろう。第2代王の尚宣威を蹴落としての即位、おそらく尚宣威一族は復讐を考えていたかもしれない。尚宣威の血を引く長男では禍根があるとしたのかもしれない。この宇喜也嘉は先に出てきた石碑の墓に入るべき人物として名は出ている。しかし実際には玉陵には埋葬しなかった。母の存命中は名を除くわけにはいかなかっただろうが、入れる気は無かっただろう。だから死んで死人に口なしで、どこかに葬ったのだ。悪行を全て母の宇喜也嘉のせいにしたのだろう。多分事実は、尚真王が反対に糸を引いていたかもしれない。そういう意味では、琉球王朝を確立したのは尚真王と母の宇喜也嘉だったと考えてもいいのでは無いだろうか? あくまで個人の推測だが....

Remains of Tinkeji Temple 天界寺跡

琉球王国時代の臨済宗の寺院跡。第一尚氏第6代国王尚泰久が、景泰年間 (1450~56年) に創建。創建当初の伽藍は、寝室・方丈・東房・西房などで、尚徳王 (第一尚氏第七代国王) 代の1466年に大宝殿が建立され、また、成化己丑 (せいかきちゅう 1469年) 鐘銘の梵鐘も掛けられた。1576年、火災により焼失、順治から康煕年間にかけて、堂宇が建立され、再興となった。再興後は、尚泰久王・尚徳王の位牌のほか、第二尚氏の未婚の王子・王妃が祀られ、円覚寺・天王寺とともに尚家の菩提寺 (三ヵ寺) の一つとなった。国王の元服や即位の際には、三ヵ寺詣での慣わしがあった。1879年 (明治12) の沖縄県設置 (琉球処分) 後は、尚家の私寺となったが、後に払い下げられた。1913年 (大正2) 頃、跡地の北東隅に、首里 (シュイ) 、儀保 (ジーブ)、真壁 (マカベ)の3人の大阿母志良礼 (ウフアンシタリ) の神殿を統合した三殿内 (ミトゥンチ)が置かれ、信仰を集めた。1945年 (昭和20) の沖縄戦により、三殿内は消失し、天界寺の寺域跡は、現在は道路及び首里城公園の一部 (レストセンター・管理棟) となった。
跡地には、1697年に掘られたという天界寺の井戸が現在も残っている。

Site of Shuri Machi Market 首里市跡

琉球王国時代から明治期にかけての首里の市場跡。大市 (ウフマチ) ともいう。この一帯は首里地域最大の市場であったため、地名も市場の側(そば)を表す町端 (まちばた)という。肉・魚・野菜などの生鮮品や古着、壷などの日常品のほか、近郊地域からも品物が持ち込まれて販売された。遅くまで賑わいを見せ、町端の二度夕飯 (ニドユーバン 売れ残りを料理すること) という言葉も伝わっている。明治期以降、玉陵付近に市場 (真和志市 (マージマチ) が移ったため、1920年 (大正9) に、町端の地名は、龍潭にちなみ池端と改称された。玉陵付近にも、この近くにも、那覇の様な市場の名残は見られない。

Ryutan Pond Park 龍潭

15世紀はじめの尚巴志王代 (1422~39年) に冊封使をもてなす為に人工的に造られ池の公園。龍頭形に彫られた大池は、周辺約416m、面積8400平方メートルになる。池の周りには、東側に松崎馬場があり、馬場に面して国学と孔子廟があった。池の東南端にある龍淵橋をはさんで円鑑池とハンタン山があり、さらに首里城がそびえている。池の南側の森の頂には、園比屋武御嶽 (そのひやんウタキ) がある。森の中には、もと龍潭の由来を石に刻んだ安国山樹華木之記碑 (あんこくざんじゅかぼくのきひ 1427年宣徳2年) が建っていた。池の北側には、王世氏の殿である中城御殿があり、池の北淵の排水路に架ける世持橋には、精巧な石彫勾欄が取り付けられていた。首里城内の龍樋からあふれる水は、ハンタン山を流れて円鑑池を満たし、さらに龍潭に注いでいた。池には沢山の魚がいたので、龍潭はイユグムイとも呼ばれた。昔、冊封使滞在中の重陽の節句 (旧暦9月9日) には龍潭で龍舟 (りゅうしゅう) の宴が催された。1945 (昭和20) 年の沖縄戦で池のまわりの姿は変わり、戦後2度目の修復工事 (1992年度) を経て現在の姿となっている。この説明を読むだけで、風光明媚な所だった事がわかる。戦火で殆どが消滅してしまったのは残念。ここからは復元された首里城がそびえ立っているのがよく見える。当時は最も風情のある風景だったのだろう。
人懐っこい水鳥がいっぱい。

Remains of Yomochi Bashi Bridge 世持橋跡

首里龍潭の排水口に1661 年に架けられた。精緻で美しい橋であったが、沖縄戦で破壊された。勾欄羽目 (欄干) の一部が残存。高肉彫りの魚介・水禽が刻まれ、琉球の石材彫刻の水準の高さを示す。
龍潭をまわってみる事にし、自転車を停めて徒歩にて反対側にある龍潭橋まで歩く。
龍潭橋
この龍潭橋の上に出ると、別の池が現れる。

Enkanchi Ike Pond 円鑑池

池には中島に弁財天堂がありそこに行くための天女橋が架かっている
ここからの首里城

Inscription of Jushi Tennyo Bashi Bridge 重修天女橋碑記

重修天女橋碑記は、円鑑池 (えんかんち) の中島にある弁財天堂に架けられた天女橋を1744年 (乾隆9) に改修した記念に建立された石碑。後に倒壊したため、1798年 (嘉慶3) に新たに建てられ、乾隆9年の碑文内容に嘉慶3年の建碑情報を新たに追加した石碑となっていた。表文が弁財天堂および天女橋の来歴、裏文が天女橋の改修及び石碑建立の経費、さらに嘉慶3年の新碑建立の経費等となっている。石碑は、1945年 (昭和20) の沖縄戦で破壊されたが、残っていた碑の一部や拓本・写真等をもとに復元したもの。

Ruins of Enkakuji Temple 円覚寺跡

天徳山円覚寺は七堂伽藍を備えた琉球第一の寺で、旧王家の菩提寺。1492 (弘治5) 年、尚真王の創建。首里城の北側の丘の斜面に西向きに建てられ、建物が並ぶ内囲いの敷地(約3,560平方メートル)のまわりは、正面に高い石垣を築き、残りの3面は土留(どど)めの石垣をまわしてあった。内囲いのまわりは、円覚寺松尾と呼ばれた深い緑でおおわれ、さらにそのまわりは石垣で囲まれていた。正面石垣の中央に総門、その左右に石造破風屋根の掖門があり、主要建物は総門から奥へ一直線に配置されていた。総門をくぐり放生橋を渡ると山門がそびえ、その奥に重層屋根の仏殿があり、その中央には金剛会図の壁面を背にした須弥壇があって三尊像が安置され、さらにその前に三面三方牌が置かれていた。仏殿の後ろの一段高い基壇に寺内最大の龍淵殿が建ち、先王の位牌がまつられていた。大殿の東北隅には枯山水の小庭があり、殿の南に軒を連ねて庫裏があり、その手前に石冷泉(井)があった。仏殿の南手前に鐘楼、その南に行堂、仏殿の北隣に獅子窟 (旧御照堂) があった。
沖縄戦で、半壊した龍淵殿と放生橋を残して、他は全部失われた。現在、復元された総門、掖門と修復された放生橋がある。

Remains of Takajou 高所跡/沖縄県師範学校跡

琉球国内の新開田畑の石高や貢船の貨物などに関する事務を扱う首里王府の役所跡。1669年創設。
高所は、算用座 (王府の役所、1732年 勘定座に改称) の事務の一部を引き継ぎ、国内の田畑から上がる収穫量など石高にかかる事務や、地方を廻って農民の労働状況などを視察した。中国・日本への貢船の出入国の際には、貢船の検査や貨物の点検なども行った。1766年に高所の事務量が多いとの理由で、田地方を新設して農事に関する事務を分離した。高所が置かれた一帯は、かつて「池上院(ちじょういん)」と称する臨済宗の隠居寺があったといわれ、1669年に御用地とされた。その後、一帯には王府の諸座・諸蔵 (役所) が置かれ、貝摺奉行所 (1745年)、龍潭側に国学 (1801年)、孔子廟 (1837年) などが設置された。1879年 (明治12) の沖縄県設置により高所は廃され、跡地には1886年 (明治19) に、那覇に置かれた沖縄県師範学校が新築移転された。1945年 (昭和20) の沖縄戦により師範学校は消失。現在は沖縄県立芸術大学になっている。

Site of Shuri City Office 首里市庁跡 

那覇市に合併する前の旧首里市の行政を担った役所跡。琉球王国時代、王都として栄えた首里は、真和志平等 (まわしのひら)、南風平等 (はえのひら)、西平等 (にしのひら) の 首里三平等 (しゅりみひら) と呼ばれる3つの行政区域の総称で、それぞれの平等に役所が置かれていた。行政区分で間切というものに度々出くわしたが、首里は琉球王朝の中心地なので、王直轄地域だった。そこを3つの平等 (ひら) で分けていた。先に女神官も聞得大君御殿 (チフィジンウドゥン) の下にこの平等のそれぞれを管轄する三人の大阿母志良礼 (オオアムシラレ) がいた。
1879年 (明治12) の沖縄県設置 (琉球処分) により、王家の別邸であった大美御殿に首里の仮役所が置かれ、三平等の役所は廃止された。1886年 (明治19) 頃、首里役所は、円覚寺の隣接地 (現在地) に移転した。1896年 (明治29)、首里と那覇に区制がしかれ、1921年 (大正10)、那覇区とともに、沖縄県で初めて市制が施行された。この間、県庁所在地として政治・経済的に発展した那覇に対し、王国解体後、人口流出が続いた首里では、区域拡張が図られ、隣接する西原間切から平良・石嶺・末吉村などを編入した。その後も、首里城など王国時代の建造物の国宝指定や、郷土博物館・市立図書館の設置など、首里市は、文教都市としての発展を図り、昭和10年代には、役所名も首里市庁と改めた。沖縄戦において、首里城地下に日本軍の司令部壕が置かれたため、壊滅的な被害を被った。沖縄戦後の首里市の復興は、1945年 (昭和20) の首里建設先発隊の派遣に始まり、翌年市役所も再開された (現首里中学校隣接地)。1950年(昭和25)、市役所は中城御殿跡地南西隅に移転、1954年 (昭和29) には、那覇市との合併により那覇市に編入された。戦前の首里市庁跡地は、現在、沖縄県立芸術大学付属図書館の敷地となった。

Site of Kaizuri Bugyosho 貝摺奉行所跡

王家御用、献上・贈答用などの漆器製作にかかる事務及び職人を指導・監督する首里王府の役所跡。相国寺跡 (所在地不明) から1745年にこの地に移設された。琉球王国では、15~16世紀に朝貢で、馬・硫黄のほか献上品として漆塗りの腰刀などを中国へもたらしており、早くから漆芸品を製作していた。貝摺奉行は、貝摺師・絵師・檜物師・磨物師・木地引などの職人を監督していた。奉行所では中国皇帝や日本の将軍・諸大名への献上用の漆器の形態・図案が決められたほか、数量及び材料などにかかる金銭の出納などの生産管理事務が行われた。1879年 (明治12) の沖縄県設置により貝摺奉行所は廃され、跡地には1886年 (明治19) に沖縄師範学校が置かれた。その後、漆器は民間の手で製作されつづけ、1912年 (明治45) には漆器産業組合も結成されるなど、本土への移出品、記念品としてもてはやされた。
ぐるっと回って龍潭の東側に戻ってきた。

Remains of Matsuzaki Baba 松崎馬場跡

首里城から浦添方面に至る街道の一部及び広場の名称。龍潭に突き出した一帯には松が植えられ、そこから松崎と名付けられた。1801年に、この地 (現沖縄県立芸術大学敷地) に国学 (琉球王国の最高学府) が置かれた際、松崎前の条路に木々が植えられ、この一帯が整備された。中国から冊封使が来琉した際には、この地で重陽宴が開かれ、爬龍船競漕見物のため桟敷席が設けられた。馬場と言うからには馬が関係しているのだろうが、案内版にはそれは触れられていない。調べてみたら、やはり馬が関連していた。王家の尚家の御用馬場であった。松崎馬場と崎山馬場がある。琉球王朝による公式行事の会場として使用された。崎山馬場は歴代の琉球国王の馬揃えの舞台であった。この他に一般には規模の大きい識名村の識名真地、平良村の平良真地が沖縄競馬に利用された。沖縄競馬は馬をとばすのではなく、「脚組 (あしくま) す」という早足で競争したらしい。

Remains of Naka Gusuku Udun 中城内殿跡

中城御殿の中にあった井戸跡。先程寄った首里高校が旧中城御殿跡でここがそこから移ってきた次の中城内殿跡になる。

Yamato Gaa Public Well 大和井戸

首里市の側の町端 (今は池端町) の井戸。大和 (ヤマトンチュ) が掘ったと書かれている。大正初期に掘られたそうだ。別の案内では1702年に掘られたとある。在番役人の専用井戸で、一般庶民は使用できなかったとある。今でも使える様だが、飲み水としてはもう使っていないそうだ。
見学が終わって見ると、今日は24ヶ所も訪れていた。玉陵以外は案内板のみあるというもので、それ程、時間はかからないのだが、ひとつひとつを掘り下げていくには、少し多過ぎた感がある。一日中で見て、掘り下げるには、この半分ぐらいにしないと、旅日記に数日かけることになってしまう。翌日にはその日の日記を完了させないと、記憶が風化してしまう。


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