Okinawa 沖縄の旅 Day 21 (22/08/19) Shuri (1) 首里 その1

Yamaga Tama Udun 山川の玉陵
Former Matsuyama Udun 松山御殿
Former Birthplace of Giwan Choho 宜湾朝保生家跡
Remains of Saion Residence 蔡温旧宅跡
Former Jiibu Dunchi 儀保殿内跡
Former Kikoe Okimi Udun 聞得大君御殿跡
Kokuo Shotoku Memorial Monument 国王頌徳碑
Turajiyama Mountain 虎瀬山
いよいよ首里城のある首里地区を巡る。那覇歴史博物館の案内図ではこの地区には何十もの史跡跡が紹介されているので数日は必要だろう。

Yamaga Tama Udun 山川の玉陵

住宅地の細い急な坂道を登る。グーグルマップで表示はあるのだが、そこへは道が通じていないどこが入り口かが分からず、住宅街をさまよい、多分これだという所までは来た。墓が3つほどかたまってありどれが玉陵かは表示もなくわからない。その内の一つが他のものよりも、門もあり塀で囲われて立派な造りになっている。これがそうだ。後でインターネットで調べてやはりそうだった。琉球の王陵は、玉陵、 伊是名玉陵、山川陵、宝口玉陵の4ヵ所で、宝口玉陵は沖縄戦で消失。首里城近くの玉陵には国王/王妃/世子/世子の妃を葬っているが、側室や王位につかなかった王族を葬るのが西の王陵・山川陵などの脇墓。この山川陵 (山川の玉陵とも呼ばれている)は王妃の墓ともいわれている。当初は王夫人の墓として使用されていたが、夭死して玉陵に葬られなかった者も祀られており、19代の王尚泰の七男である尚時も葬られている。沖縄戦で、石垣の大部分が破壊されたが、1781年に設置された石造りの門はかろうじて難を逃れ残っている。この門を入ると、琉球石灰岩の自然洞窟を利用した墓室がある。
一説によると、ここには宇喜也嘉 (おぎやか) も入っていたという。 宇喜也嘉は、第二尚氏王統初代尚円王 (金丸) の側室で、第三代尚真王の母。宇喜也嘉は陰謀を企て、尚円王の正妻とその子たちを暗殺、尚円の跡を継いだ第二代王の尚宣威を策略で退位させ、自分の子の尚真を即位させるなど沖縄では悪女的存在。尚円王の死後は、夜ごと寝屋に男を引き入れ、父親不明の子供を次々に産んだという女性。第三代尚真王は母の振る舞いを恥じ王の一族が眠る玉陵に葬らず、人里離れた辺地である前田むい (現在の浦添市前田) に葬った。この説では後に、前田むいからこの山川陵に移したとしている。
この山川の玉陵の隣の2つの墓も正体も判明。写真上が金武按司 (きん あじ) 家の墓で下が尚清王の第八男、読谷山王子の墓。
ここの高台から見た那覇市街

Former Matsuyama Udun 松山御殿

琉球王国最後の国王尚泰の四男、松山王子尚順の屋敷だった。廃藩置県後に建てられた広大な敷地内には、名水で知られる指司笠樋川 (サシカサフィージャー) がある。1924年、広大な屋敷内に「桃原農園」を設立し、沖縄の温暖な気候を活用した熱帯果樹や香辛料、観葉植物の栽培を行っていた。御殿は沖縄戦で消失したが、戦後庭園部分には「首里トロピカルガーデン」を経営 (1999年閉園) 今は建物はあるが、なのをやっているかは不明。人影はなかった。
桃源農園の絵葉書

Former Birthplace of Giwan Choho 宜湾朝保生家跡 

琉球処分直前の三司官で、和歌人としても著名な宜湾朝保の生家跡。宜湾朝保は、1823年に首里で生まれた。生家の宜湾家は向氏小禄御殿の分家で、宜野湾間切の総地頭家でもあり、三司官を二人も出した名家。
宜湾は、表 (おもて) 十五人の名職を歴任し、1862年に三司官に任じられた。1868年に明治政府が成立すると、1871年に維新慶賀使の副使として上京し、尚泰を琉球藩王にするとの命を受け、喜んで帰国した。1875年に琉球処分が具体化しはじめると、宜湾ら維新慶賀使の責任として世の非難を浴び、同年に三司官を辞職した。翌年失意の内に54歳の生涯を閉じた。宜湾は、王朝時代を代表する和歌人でもあり、和歌集『沖縄集』・『沖縄集二篇』を編集、私歌集に「松風集」がある。

Remains of Saion Residence 蔡温旧宅跡

琉球王国時代の政治家蔡温の住居跡。蔡温は1682年に久米村で生まれた。沖縄名は具志頭親方文若 (ぐしちゃんウェーカタぶんじゃく) といい、蔡温は中国名、「澹園 (たんえん)」と号した。蔡温は1708年に通事として中国に渡り、そこで儒学などを学んだ。帰国後の1713年に、13歳で即位した尚敬王の国師 (学問師匠) となったことから、首里赤平村に屋敷を賜った。1728年に三司官に就任し、1753年に辞任するまで25年間務めた。この間、羽地大川の改修 (1735年) や地方の山林視察など、自らが治水・治山を実践して、山林真秘などの実学書を残した。また、蔡温は、儒教の教えをまとめた御教条や王国の政治経済についての提言書の独物語 (ひとりものがたり) など多くの書物を残し、近世琉球王国を代表する政治家であった。1761年に享年80歳で死去した。1729年に、尚敬王の王妃が、蔡温の長男の翼 (よく) に嫁ぐことになり、改めて邸宅 (現在地) を賜った。敷地は600坪余あり、屋敷には門が2つあったという。沖縄戦時中、屋敷は日本軍の宿舎となり、石垣の石は飛行場建設のために供出された。戦後、道路拡張により敷地の一部は削られたが、蔡温が掘ったという井戸や当時の石垣はわずかに残されている。多分、沖縄ではこの蔡温はトップ10に入る偉人として扱われていると思う。博物館などでは、かなり詳しく紹介されていた。

Former Jiibu Dunchi 儀保殿内跡

琉球王国時代の高級女神官の一人の儀保大阿母志良礼 (ジーブウフアンシタリ) の神殿及び住居跡。この女神官の制度は沖縄の特徴の一つで、これほど祭儀が国政の柱になった近世国家は多くないと思う。尚真王代 (1477 ~ 1526年)、琉球王国の神女組織が整備された。最高女神官 の聞得大君 (きこえおおきみ) の下に首里 (シュイ)・真壁 (マカベ)・儀保 (ジーブ) の3人の大阿母志良 (礼ウフアムシラレ) が置かれた。3人の大阿母志良礼は首里の士 (サムレー) の女むすめから選ばれ、聞得大君を補佐して国王の長寿・国の繁栄・五穀豊穣・航海安全を祈願するほか、琉球国中の御嶽・神女を3分割して所管させた。儀保大阿母志良礼は、首里の西之平等・儀保・赤平・久場川をはじめ、浦添・西原間切や慶良間・粟国・渡名喜(となき)島などの12間切3島の御嶽や神女 (ノロ) を管轄した。1879年 (明治12) の沖縄県設置後、首里・真壁・儀保の3つの殿内の神殿は天界寺 (ティンケージ) 跡の一角に移され、1つの建物にまとめられて三殿内 (ミトゥンチ) と呼ばれた。儀保殿内は大正初期には敷地・建物ともに払い下げられ、民有地となった。
この女神官の制度の存在が沖縄人の宗教観を確立したと思える。日本からの神社や寺院もこの中に組み込まれたが、この組織の中枢を占めていたのは沖縄固有の地元の巫女の様な人で、古来から伝わる祭儀を中心として行った。先にも触れたが、神社での崇拝対象は御嶽で、神社はそれの建物にしか過ぎなかった。現在でもこの古来から伝わる祭儀を続けているノロは多くいる。もっともそのノロも本当の神人 (かみんちゅ) は少なく、人の弱みに付け込んだ商売でやっている人も多いと聞く。本土の祈り屋の様な感じだ。もう一つ個人的に推測しているのは、この制度は尚真王 (12才で即位) が始めたと言われているが、その後ろには母である宇喜也嘉 (おぎやか) がいたのではないかと思う。宇喜也嘉は幼い尚真王に代わって政治を牛耳っており、宮廷の女神官を管轄し、第二代王の尚宣威の退位はその女神官を使って仕向けた。自分の権威を安定させる為に尚真王を利用した事はあり得る。

Former Kikoe Okimi Udun 聞得大君御殿跡

琉球王国時代の最高女神官の聞得大君加那志 (チフィジンガナシ) の神殿及び住居跡。
初代聞得大君は尚真王の姉妹月清 (げつせい) であった。以来、王女・王母がその職につき、1879年 (明治12) の沖縄県設置 (琉球処分) に至るまで15代を数えた。聞得大君の就任の儀式を御新下り (オララオリ) といい、首里城を出発して与那原・佐敷(mを経由し、知念間切にある聖地の斎場御嶽 (セーファウタキ) に到り、久高島遙拝などの神事を行った。聞得大君御殿の敷地は汀志良次 (ティシラジ)にあったが、沖縄県設置後、御殿の神殿は中城御殿b(ナカグスクウドゥン 旧沖縄県立博物館敷地)に移され、更に、1945年 (昭和20) の沖縄戦の後には、首里中学校敷地の一部(グラウンド一帯)となった。

Kokuo Shotoku Memorial Monument 国王頌徳碑(かたのはなの碑)

国王頌徳碑は、琉球王国時代の1543年に建立された石碑。碑文は、国王尚清(しょうせい)の徳を讃えた内容が書かれてある [首里城から、古来より崇拝された弁ヶ嶽 (べんがたけ 後に久高島)・斎場御嶽 (セーファウタキ) の遙拝所として整備され、那覇市内最高の標高165mへの道を石畳道にして、周辺に松樹を植えるなどして、参道を整備した]。表は平仮名文であり、裏は漢文で刻まれている。また、首里城から東に延びる丘陵 上の毛 (ウィーヌモー) の東端部を「かたのはな」といい、この付近に建立されたことから、別名「かたのはなの碑」ともいう。1945年 (昭和20) の沖縄戦で石碑は破壊されたが、碑の一部が沖縄県立博物館・美術館に残されており、本碑は、碑の一部や建立年の近い石碑を参考にして、石碑建立地に近接する現在地に新たに復元したもの。

Turajiyama Mountain 虎瀬山

首里城の北北東に位置する、首里赤平町の北沿いに延びる標高約130mの琉球石灰岩の丘陵。頂上の岩石が虎の頭に見えたことから、虎頭山、虎山とも表記され、遠くに海を見渡せる景勝の地。
琉球王国時代、松の生い茂る虎瀬山には「虎瀬御殿(トゥラジヌヌウドゥン)」と呼ばれる小規模な別邸 (創建年不明) が造られ、王家の遊覧地となっていた。虎瀬山の景観は首里八景の一つ、虎山松涛 (こざんしょうとう) と謳われ、松・月を歌題に虎瀬山を謳った詩歌が多く残された。1879年 (明治12) の沖縄県設置後、虎瀬ヌ御殿は廃され、1945年 (昭和20)bの沖縄戦で虎瀬山の松林も焼失。戦後、丘陵の東側及び周縁部は削られて宅地化されたが、1982年 (昭和57) に頂上一帯が整備され虎瀬公園となった。
園内には歌人佐藤惣之助の歌碑がある。

佐藤惣之助詩歌碑

川崎市出身の詩人、佐藤惣之助の詩碑。佐藤惣之助は、1890年 (明治23) 生まれ。12才の頃から俳句を学び、詩作を志した。1922年 (大正11) に、沖縄及び台湾旅行を行い、『琉球諸島風物詩集』(1922年12月刊)を上梓した。詩集には、琉球諸島で接した風物を、琉歌の調子と琉球の言葉を取り入れて詠んだ詩85篇の他、紀行文が収められた。惣之助は新人教育にも力を入れ、津嘉山一穂 (つかやまいっすい)、伊波南哲 (いばなんてつ) など多くの沖縄出身の詩人を送り出した。1942年 (昭和17年) 死去、享年53歳。この歌碑は 1959年 (昭和34)、惣之助の出身地である川崎市から、那覇市との友好と文化的交流親善を深めるため送られ、当時首里城にあった琉球大学構内に設置されたが、首里城復元により、1992年、首里・那覇が眺められる虎瀬公園に移設した。
ここで散歩していた地元のおじさんに話しかけ世間話をした。以前から気になっていたが道路沿いに植えてある木から黄色いみかんにも似たような果実が至る所に落ちていた。これが気になっていた。福木というそうだ。実はみかんの様ではなく柿に近く、渋くて食べれない。なんとか利用出来ないかとジャムにしたりもしたが相変わらず人気ないままだそうだ。何故、食べられない木を多く植えているのかと聞くと、福木は根が真っ直ぐし下に伸びてしっかりと根ずき、幹も太く、葉も多くつけるのでので昔から防風林として家の周りに植えていた。耐火性があり防火林にもなる。成長が非常に遅く、それ程高くない福木でも何十年も経っている。この木はフィリピンや台湾などに多くあるらしい。本土ではお目にかかれない。それからと付け加えられたのだが、沖縄で見かける果実には毒が有るものがあるので、食べられると知らないものは決して食べないようにと言われた。半浮浪者生活をしていると、町になっている果物 (?) を見るとついつい食べたくなるのだが、今後注意しなければ.....

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