Okinawa 沖縄の旅 Day 20 (21/08/19) Mawashi Magiri 真和志間切

Shikinagu Shrine/ Former Jinnouji Temple 識名宮/神応寺跡
Former Mawashi Village Office 真和志間切番所跡
Former Ichinichi Bashi Bridge 旧一日橋跡
Remains of Lifht Railway Tracks 軽便鉄道線路跡
Former Kokuba Railway Station 国場駅跡
Madan Bashi Bridge 真玉橋跡
Former Madan Bashi Railway Station真玉橋駅跡
Former Kumamoto Garrison Oitpost 熊本鎮台分営所跡
Akabataki 赤畑
琉球王朝時代には間切と呼ばれた地域割りをしていた。今で言う村とか町の区分。もう少し広い範囲でであった。今日はその旧真和志間切の地区の識名から国場を通り古波蔵に至る地域を散策してみる。地図でその管轄範囲をみると安里、牧志識名、安謝、天久、国場など今まで廻って来て、馴染みになった地名が含まれている。

Shikinagu Shrine/ Former Jinnouji Temple 識名宮/神応寺跡

今いる所からそれ程遠くないところにあるが、坂道を高度80mぐらい登る。細い脇道を行ったので、ところどころ結構旧な坂がある。識名宮は識名園への道すがらにあり、比較的広い車道が通っている。その道であればそれ程急にはなっていないと思う。後日、識名園にくる際はこも道でくる事にしよう。識名宮は熊野三所権現をまつる琉球八社の一つ。尚元王の長男の病気回復に霊験があったので、識名宮と神応寺を創建したと伝えられている。社殿はもとは洞窟内にあったが、湿気で腐朽したため、康煕19年 (1680年) に洞外に移築。沖縄戦で焼失したが、1968年に再建された。
隣には同時期に建てられていた神応寺跡がある。石垣と階段は戦災をかいくぐり残っている。
戦前の識名宮と神応寺
識名宮の通りみ面しているところに、この地域の観光案内板があった。かなり詳細の書かれてある。ここなら歩いてでも来れるので、この地図を頼りにこの繁多川地区を散策すると、那覇の習慣や土着信仰の様子がわかるような気がする。
高台に来たので、ここからの眺めは最高。左の黒い建物は今滞在しているところから見えていた。
海の向こうに陸地がある。どこだろう。

Former Mawashi Village Office 真和志間切番所跡

琉球王国時代から、1908年 (明治41) にかけての行政単位である真和志間切の行政を管轄した番所跡。南風原・西原間切とともに首里王府の直轄領であった真和志間切は、当初、那覇なども含む広大な間切であった。その後、那覇・久米村の独立、小禄間切の分離設置などによって、真和志間切は天久 (あめく)・識名・国場など12ヵ村をもって構成された。間切番所は、上間村に置かれ、地頭代 (ジトゥーデー) 以下の間切役人が、村々の耕作状況や年貢収納などの監督・指導を行った。
真和志間切番所は、その後も間切役場・村役場庁舎として使用された。1926年 (大正15) に国場 (現真和志支所敷地) へ移転して、1957年 (昭和32) に、那覇市との合併で那覇市真和志支所庁舎となった。    
ここからの景色
ここから坂を下り国道507号線に出る。

Former Ichinichi Bashi Bridge 旧一日橋跡

国場川に架けられた橋跡。琉球王国時代は、この一帯の川は板敷川 (イチャジチガー) と呼ばれていたため、橋も板敷橋と呼ばれた。
橋は、南風原間切 (はえばる)や東風平間切 (こちんだ) と首里を結ぶ重要な橋で、古くは木橋が架けられていた。成化年間 (1465 ~ 87年)、洪水のたびに橋が損壊するので、土台に石組の防水基 (潮切) を築き、堅固な橋としたので、時の国王尚真より褒賞されたという。1689年、石橋に改修された。一日橋の名は、1511年、尚真王の養父花城親方守知 (はなぐすくウェーカタしゅち) の葬送に際し、損壊した橋を一夜二昼の一日で修繕したという伝承に由来するとされるが、板敷橋からの音韻転訛との説もある (= イチャジチバシ) 1945年 (昭和20) の沖縄戦当時、一日橋一帯は、首里から南部へ避難する交通の要衝にあたっていたため、多くの犠牲者を出し、橋も破壊された。終戦直後、米軍により鉄橋が架けられたが、その後、橋より50mほど上流に架けられていた沖縄県営鉄道与那原線の鉄橋跡を利用して、那覇と与那原を結ぶ道路 (現国道329号) が開通し、一日橋として架け替えられた。
ここから軽便鉄道に関わる史跡が続く。

Remains of Lifht Railway Tracks 軽便鉄道線路跡

かつて、この地を走っていた軽便鉄道与那原線の線路跡。軽便鉄道は、鉄道の建設費や維持費を抑制するため、通常の線路幅未満の線路幅が用いられた。1914年 (大正3) に那覇と与那原を結ぶ与那原線が開通し、その後、1922年 (大正11) に嘉手納線、1923年 (大正12) に糸満線が開業した。与那原線は、全長約9.8kmで、停車場は、那覇駅 (泉崎バスターミナル) から古波蔵-真玉橋-国場駅-一日橋駅-南風原駅-宮平駅-大里駅の各駅を経由し、与那原駅を終点とした。軽便鉄道は、1945年 (昭和20) の沖縄戦により破壊され、戦後、再興されることなく今日に至る。標示板の下を通る水路には、現在もレンガ造りの橋脚の一部が残されている。

Former Kokuba Railway Station 国場駅跡

グーグルマップにあった国場駅跡。表示板はない。多分、この辺だろう。

Madan Bashi Bridge 真玉橋跡

途中にあった橋の遺構。真玉橋が架橋されたのは琉球王国第二尚氏時代、第三代尚真王の1522年。按司など役人が首里城への交通の便を考慮し、真玉橋の南側にあった豊見城と水害の保護、島尻地域の軍勢を那覇港に集結させるため、であり首里と沖縄本島南部 (島尻地域) を結ぶ真珠道 (まだまみち) の一部として建造された。初代の橋は木造であったが、第11代尚貞王の1708年に、5連のアーチ状石橋が完成。1945年沖縄戦の際退却する日本軍によって破壊された。現在は2002年建造されたアーチ橋が架かっている。
真玉道

Former Madan Bashi Station 真玉橋駅跡

ここもグーグルマップでは史跡跡と表示されているが、案内板はない。マンションの駐車場になっている。
ここからまた旧な坂道を登る。

Former Kumamoto Garrison Oitpost 熊本鎮台分営所跡

日本陸軍熊本鎮台分遣隊の駐屯地跡。当時熊本鎮台は九州全土を管轄していた。明治維新を成し遂げた新政府は、領土確定を図るため、日清両属体制をとる琉球国の処遇問題に着手し、1872年 (明治5) 琉球国を琉球藩とし、1875年 (明治8)、藩内保護の名目で熊本鎮台分遣隊の派遣を決定し、真和志間切古波蔵村 (こはぐらむら) 周辺を駐屯地敷地とし、兵舎・練兵場等を設置したが、翌年、陸軍は駐屯地を首里城と定め、古波蔵駐屯地は使用されなくなった。日清戦争後の1896年 (明治29)には、古波蔵駐屯地は農事試験場用地として使用された。1909年(明治42)に真和志村が敷地の払い下げを受けたが、1928年(昭和3)に、改めて敷地約4,000坪余を陸軍へ提供し、在郷軍人の演習等に使用された。これ以降、付近住民は一帯を「兵隊屋(ヒータイヤー)」と呼んだ。
沖縄戦後、この一帯は米軍の貯油施設 (ガソリンタンク) として使用されていたが、1972年 (昭和47) に沖縄の本土復帰とともに返還され、住宅地となった。一帯は現在でも「タンク跡」と呼ばれている。

Akabataki 赤畑

かつて漫湖 (まんこ) に突き出ていた小丘の名称。この付近は赤畑原 (あかばたきばる) といった。丘の上には松が生えており、奥武山・ガーナー森 (ムイ) とともに漫湖の景観に趣を与えていたという。また丘の中腹は墓が点在し、平地は、対岸の小禄村 の人々が耕すイ草の畑であった。沖縄戦後、急激な人口増加に対応するため、1957年 (昭和32) に真和志市は琉球政府に対し、赤畑から南東側に広がる兼久原 (かねくばる) 地先一帯の埋立申請を行い、1959年 (昭和34) に埋立を行なわれ、工場用地・宅地として区画整理したが、現在は工業用地のほとんどが漫湖公園となっている。
一方、赤畑から北西側は、1959年にベニヤ板製造工場が建設されたが、1978年(昭和53)、ベニヤ工場の整理統合により、一帯は埋立・区画整理が行われ、住宅地となった。
まだ埋め立てられていない時の風景。奥武山は島、赤畑は突堤、まだ橋もかかっていない。
住宅地になっている赤畑から北西側
漫湖と漫湖公園
この後、県立図書館に行き調べ物をして帰宅。

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