Okinawa 沖縄の旅 Day 19 (20/08/19) Shimajiri 島尻 (小禄間切)

Site of Nakashima Gumui 仲島小堀跡
Meiji Bridge 明治橋
Onoyama Sports Park 奥武山運動公園
Okinogu Shrine 沖宮
Gokoku Shrine 護国神社
Former Minato Village Office みなと村役場跡
Utinda 落平
Gajambira ガジャンビラ
Former Okinawa Regional Meteorological Observatory 沖縄地方気象台跡
Former Sachibaruzachi Lighthouse 先原崎灯台跡
Former Toma School 当間学校跡
Kateramui Navy Underground Headquarters カテーラムイ 旧海軍壕
Former Oroku Magiri Administrative Office 小禄間切番所跡
Former Urukunundunchi 小禄ノロ殿内
旧泉崎町で行きそびれた所があったので、まずはそこに向かう。

Site of Nakashima Gumui 仲島小堀跡

泉崎村にあった人工の溜池跡。かつて泉崎村の地先一帯は、久茂地川が漫湖に合流する河口で、土砂が堆積した中州は仲島と呼ばれ、その後の埋立により陸続きとなった地域。河口の水が湾入していた所は、17世紀中頃、泉崎村在住の唐人の薦めにより、火難封じの風水として、土俵をもって潮入口を塞ぎ、溜め池(小堀 クムイ)とした。小堀は、王国時代から養魚場として使われ、後に泉崎村の管理地となり、池から上がる収入で小堀の浚渫費に充てたという。仲島小堀では、その後も鯉や鮒が養殖されていたが、昭和初期には埋め立てられた。一方、仲島には、1672年に辻とともに花街が開かれた。泉崎村から仲島へは花街への出入り口の小矼(こばし)が架けられた。仲島は、1908年 (明治41) に辻に統合・廃止され、小矼も埋立・道路拡張により消失。
ここは県庁や市役所に近く昔の花街の面影もなく風俗店などは一件もない。辻の花街跡と大きな違いだ。
昔の街並みがわかる。やはり花街は海岸沿いにある。随分と埋め立てられたものだ。仲島の大石は海岸にあったということは、県立図書館は埋立地に建っているという事か。かなり広範囲い埋立がおこなわれたのだ。
泉崎から那覇港に架かる明治橋を渡り、旧那覇市の西の端、そして、旧小禄村方面に行く。昔は小禄間切と呼ばれていた地域。
橋を渡った所に奥武山運動公園がある。公園内にこの地域の地形の変遷を説明した案内板があった。これは面白い。那覇がどう変わってきたかのかがよくわかる。
公園内には様々な運動施設や子供の遊戯場などが備えられている。

Okinogu Shrine 沖宮

昨日行った那覇港にもともとこの沖宮が創建された場所があったが、埋め立てでここに移転してきた。
小高い丘にあり、社殿は沖縄風で屋根は沖縄瓦。
南国風の手水所と神社らしいカフェテリア
見終わると雨がパラパラと降り出した。どんどん強くなってきた。きっと大雨になる。昼食がてら近くの東屋で雨宿り。案の定、大雨に変わった。スコールだからしばらくすればやむだろう。最近は雨に慣れて、あわてない。だいたい降りそうな気配がすると、雨をしのげる場所を探してそこに自転車を停める様にしている。雨がやんだので次の場所へ移動。
Gokoku Shrine 護国神社
昭和11年に招魂社として創建し、昭和14年に護国神社と改称。、昭和15年に県社相当の社格を与えられた。沖縄には琉球八社と呼ばれる主要な神社が8社あるが、この護国神社を除いて全て無格社。氏子制度が無かったことが大きな理由で維持が大変。
日清戦争以降、沖縄戦までに犠牲になった沖縄県出身者の人々の英霊を祀っている。この護国神社も沖縄戦では神社も戦火で、本殿ほか一部の施設のみを残す状態だった。戦後、境内地は学校用地として使われていたが、昭和34年に仮社殿を建立し再開した。
国道331号に大鳥居がありここから参道が始まる。
護国神社と言うこともあって、境内には沖縄戦の犠牲者の慰霊碑が数多くあった。

Former Minato Village Office みなと村役場跡

沖縄戦後に、特別に設置された行政区みなと村の役場跡。1945年 (昭和20) の沖縄戦の後、米軍専用となった那覇港における米軍需物資や民間の食料品等の荷役作業は、当初日本軍捕虜によって行われたが、捕虜の解放、本土への引揚げにより、沖縄県民約2千人の那覇港湾作業隊が組織された。この作業隊及びその家族を含めて約1万人の生活・労務管理等を円滑に行うため、1947年に、当時の沖縄民政府がみなと村を設置した。役場庁舎には奥武山(おうのやま)の世持神社 (よもちじんじゃ) の建物が使用された。米軍のテントカバーで作られた規格住宅が1世帯に1棟ずつ割り当てられ、奥武山などの区域内には規格住宅が建ち並んだ。1950年 (昭和25) になると、港湾作業が民間業者の請負制になったため、那覇市に合併し、みなと村は解消された。
ここで気になるのは、作業が請負になった後の、ここで働いていた人はどうしたのか? 確かに、戦後間も無く、米軍から一万人が生活していけるだけの仕事が与えられたのは、当時の人にとっては有り難い事だっただろうが、仕事がなくなって、この一万人もの人はどうなったのか。この地に住んでいた。街ができていたはず。地図で見てもみなと村はかなり広い。この時のみなと村の村長が那覇港湾作業隊総支配人の國場幸太郎だった。沖縄に詳しい人ならこの國場と聞いて、ピンと来るはずだ。1950年 (昭和25) に請負を獲得したのは國場幸太郎率いる地場の企業の國場組だった。沖縄全島の米軍港湾荷役を請負った。ここから國場組が成長していく。調べても分からなかったが、おそらく那覇港湾作業隊のほとんどは、國場組が再雇用したのではないかと思う。
村の中には修景池がありシーサーのそばには亀と猫が休んでいた。

Utinda 落平

那覇港湾内の奥武山 (おうのやま) に向かい合う小禄 (おろく) の垣花 (かきのはな) にあった樋川 (ヒージャー) 跡。樋川とは、丘陵の岩間から流れ落ちる湧水を、樋を設けて取水する井泉のこと。なんとなくその跡が残っているように見える。落平は崖の中腹から流れ出て、小滝のように崖下の漫湖 (まんこ) の水面に注いでいた。那覇港に出入りする船は、朝から夕方まで落平に参まり、取水のため、先を争って口論が絶えなかったという。浮島と呼ばれた那覇は、周りを海に囲まれているため、井戸水は塩分が多く、飲料には適さなかったという。1879年 (明治12) の沖縄県設置後、人口が増加した那覇では、水問題が一層深刻となっていた。そのため、大きな水桶 2~3個に注いだ落平の水を伝馬船で那覇に運び、それを女性がてんびん棒にかついで売り歩く水商売が繁盛したという。明治期以来、水道敷設計画は何度も持ち上がっていたが、ようやく、1933年 (昭和8) に至って念願の水道が敷かれ、水道普及により、水商売も姿を消していった。終戦後、米軍の軍港整備にともない、那覇港南岸のこの垣花から出た土砂や、那覇港浚渫の土砂を用いて、1957年 (昭和32) 頃、落平と奥武山の間が埋め立てられ、陸続きとなった。水が湧き出る落平の岩肌は残されたものの、一帯は宅地化が進んだため、落平の水量も減少した。現在では、岩肌からしみ出る程度となっており、1807年に新たに造られた樋川は、拝所となっている。

Gajambira ガジャンビラ

垣花から安次嶺 (あしみね) にいたる坂道の名称。蚊坂 (ガジャンビラ) と呼ばれていた。名称の由来は定かではないが、南島風土記には、坂の付近に住む人名または屋号をとって、我謝の坂 (ガジャヌヒラ) から転訛したものではないかと記している。一方、那覇の民話では「昔、中国から持ち帰ってきた蚊が、この坂の上で逃げてしまい、ここから琉球国中に広まった」と伝えている。1905年 (明治38) に始まった垣花と糸満村を結ぶ県道工事により、ガジャンビラの坂道は整備され、1918年 (大正7) には馬車軌道も敷設された。坂の両側や付近の丘陵には松が生い茂り、また、坂の頂上からの眺望はすばらしく、眼下に見下ろす那覇・垣花の街並みは、絵画や絵ハガキの題材にもなった。1945年 (昭和20) の沖縄戦の後、坂一帯は米軍基地となったが、1972年 (昭和47) の日本復帰後、ガジャンビラを含む旧県道は、那覇糸満間の幹線道路国道331号として整備された。1984年 (昭和59) には国道331号山下高架道開通により、ガジャンビラの一部は旧道となった。(この旧道沿いには自衛隊がある。)
上の2つの写真が国道331号で左下が旧道、右下は港からこの坂に登ってくる階段。

Former Okinawa Regional Meteorological Observatory 沖縄地方気象台跡

1927年 (昭和2) に建てられた気象台跡。沖縄の気象観測は、1890年 (明治23) に那覇の松尾山 (現那覇市松山公園付近、先日訪問済み) に、沖縄県立那覇二等測候所が設置されたことに始まる。当初、那覇の人々は測候所の看板を見て、那覇(人)を測る所と思い、皆驚き逃げ帰ったという。1900年 (明治33) に那覇一等測候所に昇格。1917年 (大正6) には県立那覇測候所と改称。1924年 (大正13) 5月に失火により全焼、東京の中央気象台は測候所の国営化を要望し、同年に国立中央気象台付属沖縄測候所として再出発。1927年 (昭和2) にガジャンビラ高台に施設が完成。1932年 (昭和7) に中央気象台沖縄支台、1939年 (昭和14) には福岡管区沖縄地方気象台と改称。1945 (昭和20) 年の沖縄戦で施設は全壊し、跡地は米軍基地となり、現在陸上自衛隊駐屯地となっている。
自衛隊のゲートにもシーサーが!

Former Sachibaruzachi Lighthouse 先原崎灯台跡

中城湾津堅 (なかぐすくつけん) 島の灯台とともに、沖縄で最初に建てられた灯台跡。1896年 (明治29) に陸軍省臨時台湾燈標建設部により、島尻郡小禄間切安次嶺村(しまじりぐんおろくまぎりあしみねむら)の地先、崎原 (サチバル) の突端岩礁 (通称崎原グスク) の上に、高さ12mでレンガ造りの灯台及び官舎・倉庫が建設された。1900年 (明治33) には三重城にも、無人の灯台が設置された。1945年 (昭和20) の沖縄戦で灯台は破壊され、跡地は米軍により航路標識塔が建てられた。現在、付近一帯は那覇航空交通管制部の敷地となっているが、岩礁の上には煉瓦の礎石や米軍の標識塔が残されている。
当時の灯台ではないがここに灯台があった。ここは那覇飛行場の隣で、色々な施設があり、立ち入り禁止地区が多く、迂回してようやくたどり着いた。
島尻にある那覇飛行場でしばし休息。
那覇飛行場からモノレールのゆいレールに沿って走り、小禄地区に行く。

Former Toma School 当間学校跡

この地に建てられた小禄(おろく)尋常高等小学校跡。小禄間切 (まぎり) の小学校は、1880年 (明治13)、小禄間切番所内に置かれたのに始まる。1891年 (明治24) 頃、小禄間切赤嶺村と当間村の境に新築移転し、小禄尋常小学校と称した。当時は、4学年制で、習字や算術の授業が主であった。1894年 (明治27) の日清戦争勝利後、児童の就学数も次第に増え、小禄間切でも、1902年(明治35)、金城村 (かなぐすくむら) に新たに学校を設置し、東部 (とうぶ) 小禄尋常小学校と称し、もとからの学校を西部 (せいぶ) 小禄尋常小学校と称した。翌年、西部小禄尋常小学校に高等科が設置され、小禄尋常高等小学校とした。これらの学校は、その所在地から金城学校、当間学校 (訪問している所) と称された。1923年(大正12)、小禄尋常高等小学校が、校舎が手狭になり改築され、赤レンガ造りの2階建て校舎2棟が建設された。沖縄県で初めてのレンガ校舎で、「レンガ造りの当間学校」として有名になった。学校周辺は、那覇と糸満を結ぶ糸満街道 (現国道331号及び県道231号線) が通り、隣接地には、「当間の機織学校」と称された島尻女子工業徒弟学校 (1903年開校) や、小禄村役場が置かれ、昭和戦前期は、小禄村の中心地域であった。1945年 (昭和20年) の沖縄戦により、当間学校は消失し、一帯は、米軍基地 (那覇空軍・海軍補助施設) となった。1980年 (昭和55) から基地が返還され、小禄金城土地区画整理事業により、小禄地区の新しい街が創られた。当間学校跡地には、1986年(昭和61)に県営赤嶺市街地住宅が建設された。
現在はマンションになっている。丁度、現在のゆいレールの赤嶺駅の前にあった。

Kateramui Navy Underground Headquarters カテーラムイ 旧海軍壕

海軍航空隊巌部隊の本部陣地壕跡。日本軍は、この地を寿山と称した。小禄飛行場防衛のため、小禄・豊見城一帯では、連合陸戦部隊が編成され、多くの陣地壕が掘られた。その一つが本壕で、1944年 (昭和19) 8月から12月にかけて住民も動員して突貫工事で完成した。総延長は約350mで、その中に司令室・兵員室・暗号室などが設けられた。1945年 (昭和20) 6月4日、米軍は飛行場のある字鏡水(あざかがみず)に上陸して、戦闘が始まった。6月7日、米軍はここカテーラムイ一帯に激しい攻撃を加え、数日で制圧した。壕内には最大1,000人余の将兵・住民がいた。南部への撤退、避難民、戦死者数ともに不明であるが、8月段階でも約50人が壕内に留まっていたという。
落書きされた案内板

Former Oroku Magiri Administrative Office 小禄間切番所跡

琉球王国時代から、1908年 (明治41) にかけての行政単位である小禄間切の行政を管轄した番所跡。
1673年に真和志間切の小禄・金城・儀間村、豊見城間切の大嶺・当間・安次嶺(あしみね)・赤嶺・宇栄原(うえばる)・高良(たから)・翡宮城(ぐしみやぐすく)・具志村の11の村を割いて新たに小禄間切が設置された。間切番所は小禄村に置かれ、地頭代 (ジトゥーデー) 以下の間切役人が、村々の耕作状況や年貢収納などの監督・指導を行った。1879年 (明治12) の沖縄県設置後、1899年 (明治32) の沖縄県間切島吏員規定により、番所は役場、間切役人は間切長・書記などと改称され、さらに1908年 (明治41) の沖縄県及島嶼町村制の施行により、間切は町村、村は字となり、小禄間切は小禄村となった。
小禄間切番所は、その後も間切役場・村役場庁舎として使用されたが、1912年 (大正元) に安次嶺へ移転した。沖縄戦後は高良に新築され、1953年 (昭和28) に那覇市との合併で、那覇市小禄支所庁舎となった。

Former Urukunundunchi 小禄ノロ殿内

琉球王国時代、首里王府より任命された小禄間切小禄村(むら)のノロの屋敷跡。ノロは正式には「のろくもい」と記されるが、通常「ノロ」または「ヌル」・「ヌール」と呼ばれ、管轄する1~3の村落のウマチー (稲や麦の祭) など農耕儀礼をはじめとする村落祭祀の中心的役割を担った。15~16世紀にかけて「聞得大君(きこえおおきみ)」を頂点とする神女組織が整備されると、沖縄本島をはじめ奄美大島から八重山諸島にいたるまで、村落ごとに王府からノロ (宮古・八重山ではツカサと呼ぶ) が任命された。小禄間切には小禄・儀間・赤嶺・大嶺・具志の各村にノロが置かれ、管轄する村や隣接する村落の祭祀に関わった。照屋家は屋号をノロ殿内 (ヌンドゥンチ) といい、王国時代、小禄ノロは代々照屋家の女性から任命された。1879年 (明治12) の沖縄県設置により、王府の任命によるノロ制度は崩壊したが、小禄ノロ殿内のようにノロが現在でも引き継がれ、村落の祭祀に携わっている地域もある。照屋家は、屋敷横の石畳道や石垣など戦前のたたずまいを残しており、往時の様子を今に伝えている。また、母屋の前の建物は「前の殿内 (メーヌトゥンチ)」といい、「ノロ火の神 (ノロヒヌカン)」を祀っている。
今日はこれで時間切れ、豊見城のスーパーで食料の買い出しをして帰路に。到着は8時近くとなった。


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