Okinawa 沖縄の旅 Day 18 (19/08/19) Naha Market & Naha Port 那覇市場と那覇港

Site of Naha-nu Machi 那覇市跡
Former Shianbashi Bridge 思案橋跡
Former Toshingumui 唐船小堀跡
Former Myakugura 宮古蔵跡
Former Watanji 渡地跡
Former Yuwa Gusuku 硫黄城跡
Former Geion Tei 迎恩亭跡 / Former Original Okinogu Shrine 沖宮拝所跡
Former Original Rinkaiji Temple 旧臨海寺跡
Former Suraba スラ場跡
Omomo Gusuku Castle Ruins 御物城跡
Mi Gusuku Castle Ruins 三重城跡
Yarazamui Gusuku Castle Ruins 屋良座杜城跡
Sumiyoshi Area 住吉
Utinda 落平
昨日は少し腰に痛みがあったので休養としたが、今朝起きると何ともないので、無理をしない程度に、一昨日、訪問した旧東村、旧西村の地区を廻る。

Site of Naha-nu Machi 那覇市跡

この地にあった公設民営の市場跡。東市場とか大市と呼ばれた。1463年の中国の文献に那覇の市場が出ているので、これ以前からあったようだ。中国の冊封使の記録には、”午後になると、大勢の婦人が頭に物を載せて集まって来て、地面に筵を敷いて列んで座って商売する。その商品は、油・野菜などで、豆腐と芋が最も多い。1683年 汪楫「使琉球雑録」” )とあり、冊封使一行の宿泊所である天使館前の空地一帯で、野菜・芋・雑貨などの市が開かれていたことが分かる。1782年、東村の海岸沿いに新たに道路が造られ、「東下い」と称し、そこに魚市場ができたという。1879年 (明治12) の琉球処分後は、東村・西村には、他府県からの移入品や米穀・金物・呉服などを専門に扱う本土からの寄留商人の店が軒を連ねたが、野菜などの日常品は、旧天使館前の市場で売買された。野菜市・布市、雑貨を販売する据笥市があり、売り手は大きな傘を広げ、その下に品物を並べて販売した。旧天使館の北側には、壺屋市・肉市があった。1913年 (大正2) の東町の大火による焼跡整理後、1918年 (大正7) に魚市があった東下いに、新たに敷地を確保し、布市を除く各市場を移設し、小間ごとに使用料を徴収した。西と東の境界地点にある西本町は、米穀、肥料、呉服、漆器などを扱っている寄留商人による大きな店が軒をつらね、旅館や銀行などの集中する繁華街である。東市場は庶民の市場としてにぎわっている。道を隔てて東西に分かれ、東側は肉市場、魚市場、壷屋市場 (壷屋産の食器類を売る)、米市場、砂糖市場、鶏市場などが並び、西側には野菜市場、芋市場、豆腐市場、ちんし市場 (祝儀、不祝儀のときの品がそろっている) などがある。魚は遠く糸満や垣花から、野菜は近郊農村から、佃煮や漬物、乾物類等、内地からの移入食品も多く出回っていた。台湾や中国、東南アジアから米や茶も輸入され売られていた。市場は、朝8時頃から準備と仕入れが行われ、一般の人々の買物は、午後4時頃が一番賑わったといい、夕方には、松明が焚かれ、午後8時頃に店仕舞いとなった。生鮮品以外は、売り台として使った箱に収め、市場近くの屋敷にお金を払って預けた。売れ残った生鮮品は、持ち帰り水炊きして、近所に安くで売られたという。また、肉市を除き、売り手も買い手もほとんどが女性で、男性が市場に出入りするのを嫌ったという。
1944年 (昭和19) 10月10日の空襲や、その後の地上戦により市場は開かれなくなった。終戦後、市場があった東町や那覇の中心地は、米軍により立入禁止区域となっていた。1945年 (昭和20)、壺屋地区の一部が解放されて、日用雑器の生産を始め、壺屋・牧志一帯を中心に戦後の復興が始まった。1947年 (昭和22) ヤミ市の取り締りの為、牧志公設市場ができた。この那覇の東市場は再開されなかったようだ。この近辺を走ったが市場らしきものは何も無い。他の地区は市場があった場所は公設市場やアーケード街になっているのだが、那覇市場跡は事務所や飲み屋などになってしまって、名残は無くなっている。

那覇港および周辺の旧跡

那覇の港は、14~15世紀以来、琉球王国の表玄関として繁栄してきた。大交易時代には、中国をはじめ東南アジア・朝鮮・日本と貿易を展開し、東アジアの一大交易港となっていた。その後も沖縄第一の港として発展を遂げてきた。このため港の周辺には、多くの名所・旧跡が散在し、豊かな自然ともども那覇を代表する景観を形づくっていた。その景観は、沖縄戦などで一変し、当時の面影は殆んど無いが、案内板では王国時代の絵図と明治期の写真で往時の姿を披露していた。案内板に沿ってその場所を実際に見てみた。
那覇港の定期船や観光船の待合所。一般旅客の定期便は、那覇港からは県外へは東京、名古屋、大阪、神戸、瀬戸内、北九州、博多、鹿児島行きがある。県内は先島諸島 (石垣、与那国島、平良) への航路があり、その他の島には泊港から船が出ている。旅客以外の貨物船は海外航路も運航している。(ほくべい、中国、フィリピン、台湾)
案内板に乗っていた場所に行ってみる。何も残っているわけではないのは百も承知だが、それぞれの距離とか、地名表示とかを見ることのより、少しでも当時を想像する事ができる。明治初期の地図があった。これから廻る所が赤で囲った所。渡地は島になっていた。
■思案橋 (Former Shianbashi Bridge)
東町から渡地(ワタシジ)にかけられた橋。那覇の3つの遊郭のひとつの渡地遊郭への通り道にあったため思案橋と名づけられたという。上の地図で渡地遊郭は海岸沿いの島であった事がわかる。この橋が遊郭への入り口の役割を果たしていたのだ。渡地遊郭のお客は、船乗りと島尻ニーセー (青年) たちで首里や那覇の人はめったに来ることはなかった。遊女にはランクがあった。辻は上等、次いで仲島、渡地の順だった。(辻遊郭跡は先日訪問)
思案橋も今は何の面影もない
■唐船小堀 (Toshingumui)
渡唐船や冊封船などの修理を行った掘割で、島津進入前の開削とされる。明治以降は埋め立てられた。ここも名残は無くセメント工場になっている。
■宮古蔵 (Myakugura)
宮古・八重山からの貢租等を収納・管理する役所兼倉庫。創建は近世初期と考えられている。明治以降、税務署が置かれていた。同じ倉庫でも近代的倉庫が建っている。
■渡地 (Watanji)
那覇港北岸、東側の地名。対岸の垣の花への渡しがあったことによる呼称とされる。唐船小堀が開かれて後は、東町との間に思案橋が設けられていた。同地には、渡地遊郭、硫黄城 (ユーワーグスク)、荒神堂などがあった。
観光クルーズ船の出航場所になっている。
■硫黄城 (Yuwa Gusuku)
渡地の東側の崖上に築かれたグスクで、中国への進貢品である硫黄を貯蔵したという。14~15世紀の創建とされ、御物城 (オモノグスク) とともに、屋良座杜城、三重城築城以前の港の防塁とする説もある。明治以降は切り崩されて農工倉庫となっていた。
■迎恩亭 (Geion Tei)
冊封使渡来の際の上陸地である通堂崎にあった東屋。通堂屋ともいう。冊封使はここで三司官等の出迎えを受け、宿舎の天使館に向かった。船から降りてすぐの所で出迎えたのだ。現代で言えば、米国大統領を専用機からタラップを降りたところで出迎えるようなものだ。天使館はここからすぐ近くの久米村にあった。鄭週の筆とされる「迎恩」の扁額が掲げられていた。写真に写っている社は沖宮拝所跡でこの向こうの港側に迎恩亭があった。
写真の沖宮拝所跡は創建された場所。明治41年 (1908年)、築港工事の為、琉球八社の一つ安里八幡宮の境内地隣域に遷座、そして沖縄戦により焼失。戦後、昭和36年 (1961年) に通堂町へ仮遷座し、昭和50年 (1975年) に奥武山公園内へ遷座し現在に至る。
■臨海寺 (Original Rinkaiji Temple)
通堂崎から三重城に至る間の崖上にあり、琉球八社のひとつである沖宮の別当寺。通堂から三重グスクまでの海中道路の途中に所在したため俗に「沖之寺」と称されていた。島津侵入前に創建された真言宗の寺で、寺内に熊の権現を併せ祀っていた。那覇港を出入港する際に実施された船改めの休息所や出張所として、また異国船渡来時の接待所として利用された。明治41年の築港工事で、寺は垣ノ花、権現は安里八幡に移され、跡地は倉庫となっていた。(移転して、戦後再建された臨海寺は先日訪問済 8月16日)
■スラ場 (Suraba)
那覇港南岸、垣の花前の中州の西側にあった古琉球から近世期の造船所。1881年には、監獄がおかれた。中州の東側には君南風御嶽 (チンペーウタキ) があった。現在は、米軍港の一部になっている。
■御物城 (Omomo Gusuku)
那覇港内の小岩礁に築かれたグスクで、大交易の時代、交易品を収納管理する倉庫だったとされる。明治30年代には料亭風月樓がおかれていた。北明治橋架橋に際して、奥武山 (おうのやま) と地続きとなった。現在は陸続きとなり米軍那覇港湾施設の通信所が御物グスク内に設置されていることから、一般人の立ち入りは制限されている。城壁と入り口が残っている。
■三重城(Mi Gusuku)
港の北岸に設けられた城砦。通堂崎 (トゥンドゥサチ) から、小橋、大橋、沖ノ寺、仲ノ橋、仲三重城、ツキ橋を経て、三重城に至った。尚清王時代の創建とされるが、第一尚氏代の創建とする説もある。南岸の屋良座杜 (ヤラザムイ) グスクと対をなしている。
先日もこのグスクに訪れたが、写真は那覇港から見たところ。
右端が三重城で那覇港を渡った向う岸 写真左が屋良座杜城。1609年、薩摩侵攻の際はこの二つの城を鎖で結び、薩摩船に屋良座杜グスクと三重グスクから石火矢を打ち込んで撃退している。
■屋良座杜城 (Yarazamui Gusuku)
港の南岸の城塞、1554年の創建。同年建立の碑文に、港の防備のため築いたことが記されている。戦後、米軍による那覇港接収によって徹底的に破壊され、また周辺も完全に埋め立てられ、桟橋の一部となった。
■住吉 (Sumiyoshi)
那覇港南岸の地名。丘陵の中腹に住吉神社があったことからの呼称とされる。丘陵は、松林が美しく、観月の名所だった。戦後は、米軍による軍港の整備と土地接収のため住吉神社は移動を余儀なくされた。そのため他の御嶽 (拝所) などとともに山下町の一カ所にまとめて移転されたが、1982年に現在の場所に拝殿が造営された。(後日訪問予定。この写真のどこにあるのだろう?)
■落平 (Utinda)
落平は奥武山の対岸、垣の花にあり、崖上から湧き水が滝の様に落下していた。この奥武山は漫湖に浮かぶ小島だった。小島にあったため龍渡寺は、中国や日本で麻疹や疱瘡などの伝染病が流行した際に船旅から帰った者が病気を発症しないか一定期間過ごしたり、那覇居住の者で伝染病にかかった者を隔離する施設としても使用された。1903年に渡地村から奥武山北端経由で垣花村まで明治橋が架橋されたため奥武山は那覇と島尻をむすぶ交通の要衝となった。近世から昭和初期まで、崖下の水売舟は、いくつもの桶に水を受け、那覇の町に運んでいた。今は沖縄セルラースタジアム那覇が建っている。

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