Okinawa 沖縄の旅 Day 17 (18/08/19) 東村/西町 他
Former Naha Theater 那覇劇場跡
Kainan Area 開南地区
Gusuku Dake 城嶽
Former Bakushosanbo 曝書山房跡
Remains of Okinawa Prefectural Agriculrual Experimental Station 沖縄県立農事試験場跡
Yamanokuchi Baku “Zabuton” 山之口獏詩歌碑「座浦団」
Birthplace of Higaonna Kanjun 東恩納寛惇生家跡
Remains of Satsuma Government Office 薩摩藩在番奉行所跡
Remains of Oyamise Trading Office 親見世跡
Nishinu Umi Site 西の海跡
Remains of Shintenchi Teater 新天地劇場跡
Former Residence of Ihafu Yusei 伊波普猷生家跡地
今日はまずは那覇が形成された時代に泉崎村を訪ねる。その後は、東村/西村まで足を伸ばす予定。
泉崎村から......
Former Naha Theater 那覇劇場跡
旧真和志村 (現那覇市壺屋) に建立された芝居専門の演芸場跡。1945年 (昭和20) の沖縄戦により、沖縄住民は収容所生活を余儀なくされた。住民を代表する沖縄諮詢会 (しじゅんかい、後の沖縄民政府)が組織され、その下に文化部が置かれた。文化部では収容された琉球芸能の役者・音楽家など約200人を集め、松・竹・梅の3劇団を組織し、各収容所の慰問公演を行った。1945年には、那覇市の部分的解放が行われ、壺屋・牧志を中心に住民の居住が広がり、中央劇場、アーニーパイル国際劇場、那覇劇場の順に劇場が造られた。
1969年 (昭和44) に閉館し、劇場跡地は売却され、市場利用者の駐車場として経営されている。
Kainan Area 開南地区
開南地区。付近に建てられた学校名が地域の名前になっている。かつて、この一帯は真和志間切与儀村の村外れで、墓が点在する場所であった。大正期になると、付近に沖縄県立第二中学校 (現那覇高等学校)、沖縄県庁、沖縄刑務所等が相次いで移設され、にわかに人口が増え始めた。戦後、この地から松尾に向かう道途中に闇市が発生した。闇市取締のため、後に牧志 (現牧志公設市場一帯) に市場が開設された。
現在でもこの地区にはいくつかの商店街があり、開南交差点から国際通りまで迷路の様なアーケード商店街がある。今日は日曜日で、観光客でごった返している。この商店街の中に旧第一牧志公設市場があった。今は近くに移転している。仮設と表示されていたので、今後、新しい建物が建つのだろうか? 鮮魚店と精肉店が一階にあり、二階は食堂街になっている。昼時なのでほぼ満席で、ほとんどが中国人。牧志公設市場のほかに「のうれんプラザ」では個人商店を集めた公設市場が出来ている。闇市から商店になった店が入っているのだろう。
商店街、のうれんプラザ
第一牧志公設市場
Gusuku Dake 城嶽
楚辺 (そべ) にある小丘陵で城岳と呼ばれている。この地方の住民の御守護海上安泰を祈願する拝所があった。
葛飾北斎の琉球八景に、城嶽霊泉と題する絵があり、城嶽と東側にある旺泉 (現:汪樋川) が描かれている。
城嶽には、古波蔵村の拝所、再興された城嶽御宮、古波蔵嶽、奥武山公園(護国神社裏山)から移設された「二中健児の塔」が建っている。
1945年 (昭和20) の沖縄戦中は城嶽周辺で激しい戦闘が繰り広げられた。終戦後、城嶽の山頂部は削り取られ、遊園地「新世界」が開園。本格的な遊園地で、那覇の一大名所として賑わったが、1961年 (昭和36) に、経営難で閉園。那覇市が跡地を購入し城岳公園」として整備し、現在に至る。
Former Bakushosanbo 曝書山房跡
沖縄学の父とされる伊波普猷 (いはふゆう) の別荘跡。沖縄学とは、沖縄県で歴史的に蓄積されてきた言語、民俗、文化活動を研究、考証し、主に本土側の文化との対比を通じて、その学問的意義を論証する研究分野を開拓し、本土に対する自己認識の確立を促した諸学問の総称。伊波普猷は「日琉同祖論」を提唱し、沖縄県民 (琉球民族) が大和民族と同源の支族であることを客観性に基づいて証明しようとしていた。伊波が論拠を求めた学問は、琉球時代の最重要テキスト『おもろさうし』の研究にはじまり、歴史学、言語学、人種学、人類学、考古学、宗教学、神話学、文化人類学 (民族学)、民俗学、文学などと多岐に渡る。沖縄からはこの伊波普猷の沖縄学の担い手が排出されている。ここで出てきた「おもろさうし」は琉球國第4代尚清王代の嘉靖10年 (1531年) から尚豊王代の天啓3年 (1623年) にかけて首里王府によって編纂された歌謡集と博物館で展示されていた。一度読んでみたい。
城岳の西の麓にあった。沖縄県立沖縄図書館長時代の1914年 (大正3) に持病の療養のため、地内に12坪ほどの瓦葺きを建て日々を過ごした。この別荘は、比嘉春潮らも参加して沖縄研究の会が開かれたほか、組合協会 (キリスト教) 運動の拠点ともなっていた。そう言えば一昨日に訪れたオランダ屋敷に住んでいたアメリカ人宣教師とも交流があったと書かれていた。なるほど、繋がる。
Remains of Okinawa Prefectural Agriculrual Experimental Station 沖縄県立農事試験場跡
沖縄県の気候に適した作物の栽培・試験・研究等を行った農事施設跡。1881年 (明治14)に造られた。当初の業務は、甘蔗・稲・麦・煙草・藍・椰子・鬱金等の試作と砂糖製造に関する試験で、特に黒砂糖の品質改善に取り組んだ。
農事試験場は、その後、西原村、名護、普天間へ移転した。1928年、真和志村与儀に糖業試験場那覇苗圃を造り、1931年 (昭和6) に糖業・農事の両試験場を再度合併し、与儀の那覇苗圃を農事試験場の本場とし、主に甘蔗の品種改良・栽培の研究が行われた。
沖縄戦後、与儀の試験場が再興され、甘藷、花卉(かき)栽培、牛・豚・山羊等の増殖事業を展開したが、周辺地域の急激な都市化と研究施設の充実のため、首里崎山町に1961年 (昭和36) に移転。試験場跡地は、病院・学校・公園などの公共施設が建てられた。沖縄の農業事情について沖縄県はどう考えているのだろう? ほとんどの農作物は県外から輸送され、価格はべらぼうに高い。沖縄では全く自給できない状況。何時頃からこうなってしまったのだろう。これほど農作物が自給自足できない県は無いのではないか。このまま放っておけば将来大きな問題になるだろう。
現在は余儀公園になっている。公園内にD51が展示されている。沖縄にあったケービン鉄道で使われていたものか? この公園は3度目だがいつも老人たちがたむろしている。男性だけ。家では居心地が悪いのだろう。
Yamanokuchi Baku “Zabuton” 山之口貘詩歌碑「座浦団」
1975年 (昭和50)、貘の十三回忌に合わせ、建てられた詩碑。碑文には、1935年 (昭和10) に発表された「座蒲団」が刻まれている。
山之口貘は、本名を山口重三郎といい、1903年 (明治36)、那覇区東町に生まれた。薩摩国(移住当時、後大隅国)口之島から、琉球王国へ移住した帰化人の子孫。ペンネームにそれが現れている。沖縄県立第一中学校 (首里高等学校の前身) 在学中から新聞などに詩を投稿。その後、山城正忠、国吉真哲等とともに「琉球歌人連盟」の結成に参加。処女詩集『思辨の苑』(1938年)、『山之口貘詩集』(1940年) の他、『定本山之口貘詩集』(1958年)を発表し、第2回高村光太郎賞を受賞。生涯で197編の詩を書き4冊の詩集を出した。故郷沖縄を描いた詩も多くある。
旧泉崎村から旧東村に向かう。バスターミナルを通り、久茂地川を渡りサンシャイン通りに出るとそこは東町。
サンシャイン通り
東町交差点
Birthplace of Higaonna Kanjun 東恩納寛惇生家跡
沖縄研究者東恩納寛惇の生家跡。東恩納は先程訪れた伊波普猷が始めた沖縄学の担い手の一人。
東恩納寛惇は1881年 (明治14) に、那覇東村で生まれた。東恩納家は那覇士族の愼(しん)氏。東恩納は、沖縄尋常中学校を経て、熊本の第五高等学校 (現在の熊本大学)、ついで東京帝国大学 (現東京大学) 史学科に進んだ。卒業後も東京で東京府立高等学校の教授となり、東京府からの派遣で、東南アジアやインドを歴訪。戦後の1949年 (昭和24) に拓殖大学の教授に就任。東恩納の沖縄研究は、大学在学中から行なっており、歴史学が専門。主に「歴代宝案」を研究。(歴代寳案は琉球王国の外交文書を記録した漢文史料) 沖縄史関係資料が乏しい中、寛惇が集めた資料、彼の著書は沖縄研究において重要な役割を果たしている。琉球新報や各種雑誌等で論文を発表している。主な著書に「尚泰侯実録」(1924年)、「黎明期の海外交通史」、「泰ビルマ印度」(1941年) など多数あり、戦後も「南島風」(1950年)、「校註 羽地仕置」(1952年)がある。沖縄県立図書館に「東恩納文庫」がある。
東恩納の生家跡は、王国時代は、薩摩藩在番奉行所の脇仮屋であった。このすぐそばに、薩摩藩在番奉行所がある。
Remains of Satsuma Government Office 薩摩藩在番奉行所跡
薩摩藩役人の琉球における役所跡。在番仮屋 (ざいばんカイヤ)、大仮屋 (ウフカイヤ) ともいう。1609年の島津侵攻後、薩摩藩が出先機関として1628年に設置。以来1872年までの250年間、薩摩藩による琉球支配の拠点となった。在番奉行や附役 (つけやく) など約20人が常勤し、薩琉間の公務の処理や貿易の管理にあたった。1872年の琉球藩設置後、外務省、ついで内務省出張所となった。1879年 (明治12) の沖縄県設置で仮県庁、1881年 (明治14) から沖縄県庁となり、1920年(大正9)に美栄橋町の現在の県庁へ移転するまで県政の中心地となった。
絵に描かれている様に、奉行所の前の通りでは那覇四町 (なはユマチ) の大綱引がもこの通りで行われた。
この大綱引は今でも続いている。那覇大綱挽と呼ばれている。琉球王国時代の西暦1450年頃に始まったとされている。地方の農村行事としての綱引きが、稲作のための雨乞い・五穀豊穣・御願綱を起源とするのに対し、町方 (都市) の綱として、交易都市那覇を象徴する大綱挽です。みーんな (女綱)、をぅーんな (男綱) をかぬち棒 (頭貫棒) で結合させて、西東に分かれて挽きあう綱は、陰と陽の結合を意味し、人類繁栄を願う神話的行事。勝負に熱中するあまり喧嘩口論が絶えなかったところから、1812年 (嘉慶17年/文化9年)那覇里主、御物城の命により那覇綱挽規模帳 (規則集) が制定され、以後この規定により綱挽が実施された。明治以降は、お祝い綱として幾度も開催されたが、1935年 (昭和10年) を最後に途絶えていたが、沖縄の祖国復帰の前年1971年、市制50周年記念事業として「10・10那覇空襲」の日に復活。
Remains of Oyamise Trading Office 親見世跡
琉球王国時代の那覇の役所跡。もとは、首里王府が海外貿易で得た貨物を販売する「御店 (おみせ)」だったとされる。1609年の島津侵攻の際に、降伏会議はここで開かれた。楼門 (ろうもん) 造りの門前の通りは、港に続く東・西両村を分ける道であり、門前の横には大市 (ウフマチ、市場) が広がる那覇の中心地であった。1638年に上位機関の那覇里主所 (なはさとぬしじょ) が設置されると、もっぱら那覇四町(なはユマチ = 東村・西村・泉崎村・若狭町村) の民政を担当。琉球処分時には大屋子 (うふやく)、筆者 (ひっしゃ) など10数人が常勤していた。
その後、1876年に熊本鎮台沖縄分遣隊営所となり、1884年 (明治17) から1915年 (大正4) まで那覇警察署、その後は山形屋百貨店となった。
Nishinu Umi Site 西の海跡
西村の西の海のこと。かつて、那覇港先の三重城 (ミーグスク) から、潮の崎 (スーヌサチ 現那覇市辻三文珠公園一帯) にかけては、U字形に湾入しており、西の海と呼ばれた。沿岸部は 「下り (サガイ)」と呼ばれ、「牛町下り (ウシマチサガイ)」・「嘉手川下り (カデガーサガイ)」 等の小字があった。
1733年、那覇の人口増加に対応して、西の海の一部を埋め立てて、宅地にしたという (『球陽』尚敬王21年条)。1879年 (明治12) の琉球処分後、本格的に西の海の埋立が行われ、1882年 (明治15)、湯屋の前 (ユーワーヌメー) と呼ばれる一帯が埋め立てられ、東本願寺 (現 真教寺) が建立された。
1888年 (明治21) には、三重城に延びる突堤付近の埋立が計画された。1908年 (明治41)、沖縄県により埋立事業が開始されたが、後に尚順 (最後の琉球国王尚泰の四男)が引き継ぎ、1922年(大正11)に竣工した。一帯は、西新町3丁目となり、ミーガタ (新潟) と呼ばれ、1 - 2丁目はフルガタ (古潟) と呼ばれた。当初、ミーガタはゴミ捨て場同然だったといわれるが、1915年 (大正4)に大正劇場が新築された。同劇場は、新天地劇場と人気を二分したという。終戦後、同一帯は、更なる埋立と区画整理により、住宅地の他、倉庫街となっている。
Remains of Shintenchi Teater 新天地劇場跡
上之蔵町の石門 (いしじょう) に建てられた劇場跡。1922年 (大正11) 建立。当初は那覇劇場としてスタート。当時としては珍しい鉄筋コンクリート造りの二階建てで石屋 (イシヤー) とも呼ばれ、ひときわ目立った建物だった。
高台にあった為、客入りが悪く、後に新天地劇場という名の常設映画館として運営された。1944年 (昭和19) の10・10空襲で、劇場内部は被害を受け焼失したが、外部のコンクリート壁面は焼け残った。沖縄戦後もしばらく放置されたが、1953年(昭和28)から始められた一帯の区画整理のため、撤去された。
Former Residence of Ihafu Yusei 伊波普猷生家跡地
沖縄学の父として知られる伊波普猷の生家跡地。伊波は、琉球処分を目前にした1876年に、那覇の西村で生まれた。生家は那覇士族魚氏 (ぎょうじ) の家系で、素封家 (そほうか) として知られていた。
沖縄県立第一中学校在学中の1895年 (明治28) に、英語科廃止問題からストライキ事件が起こり、伊波は、その首謀者の一人として退学処分となった。上京して浪人後、京都の第三高等学校 (現京都大学) に入学。1903年 (明治36) には東京帝国大学 (現東京大学) に進み、言語学を専攻。1906年 (明治39) に卒業して帰郷し、沖縄に関する画期的な研究論文を次々発表し、沖縄人による沖縄研究の先陣を切った。1910年 (明治43) に沖縄県立沖縄図書館の初代館長となる。1911年 (明治44) には諸論考をまとめて、沖縄研究の記念碑的著作となる「古琉球」を出版し、。その後も、真境名安興(まじきなあんこう)、沖縄学の確立に大きな役割を果たした。1925年 (大正14)、館長職を辞して上京。生涯をかけた「おもろさうし」の研究に没頭し、多くの成果を遺した。伊波は、近代沖縄が生んだ第一級の研究者、啓蒙家であった。
ここで夕方近くなった。まだこの西町で回れなかった所があるので、後日訪問を予定している。
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