Okinawa 沖縄 #2 Day 85 (24/02/21) 旧真壁村 (8) Nashiro Hamlet 名城集落

旧真壁村 名城集落 (なしろ、ナーグスク)

  • アガリンナカイロー、工ージナ
  • 北名城ビーチ (西の浜、イリヌハマ)
  • アガリンナカイローのアジバカ (按司墓) ⑰
  • イビシン ⑯ [未訪問]
  • グチバルガー (井泉) ❾
  • 名城ビーチと北名城ビーチの間のビーチ
  • 兼久 (カニク) 2⃣
  • ターバガー (井泉) ➓ [未訪問]
  • 名城ビーチ
  • コペックガー (井泉) ⑵ [未訪問]
  • 砂街道ハニガー (井泉) ❼
  • イズンマシガー (井泉) ❺
  • 獅子 (シーサー) ⑭
  • 前道 (メーミチ)
  • 白髪之山 (シラカンヤマ) ⑬
  • 前之井泉小 (メーンカーグワー) ➍
  • カチンヤマ ⑫
  • カチンヤマの神井泉 (カミガー) ❷
  • 貯水槽謝名世 (ジャナユー) ⑩ / 富盛殿内 (トウムイドウンチ) ⑪
  • 仲門世 (ナカジョーユー) ⑨
  • 神差 (カンザシ) の殿 (トゥン) ⑧
  • 神差 (カンザシ) ⑦
  • 神道 (カミミチ)
  • 海勢頭 (ウンスル) ⑥
  • 大殿内 (ウフドゥンチ) ⑤
  • 中道 (ナカミチ)
  • 十万座 (トマンザ) 1⃣
  • 十万座お通し (トマンザウトウーシ) ⑮
  • 大川門裏手の拝所
  • ウサチガー (井泉) ❽
  • ワラビウクイ (童送り) ⑴ [未訪問]
  • 大殿内山 (ウフドゥンチャマ) ①、フェンサグスク国御嶽 (クニウタキ) ②
  • 大殿内 (ウフドゥンチ) のカミアサギ ③
  • 大殿内の殿 (ウフドゥンチヌトゥン) ④
  • 大殿内山の神井泉 (カミガー) ❶
  • 産井泉 (ンブガー) ➌


旧真壁村 名城集落 (なしろ、ナーグスク)

字の西部は東シナ海に面しており、戦前はサトウキビ、甘藷、スイカなどを栽培する傍ら、漁を営む半農半漁の集落であった。近年では野菜のほか、キクの電照栽培を中心とする花卉栽培も盛んになっている。

明治時代の人口は真壁集落では上から三番で比較的多い字であったが、現在は8字の中で真ん中になっている。

沖縄本土復帰後、人口は増加したのだが1986年をピークにその後減少が続き現在では明治時代の人口を20%も下回っている。

元々の集落内の民家が減少し、新しく転入してきた人たちは集落の外に住んでいるようだが、ほとんどは農地でそれほど民家が増えている印象はなかった。名城ビーチに建設中のホテルの開業で村おこしが期待されている。


旧真壁村集落ガイドマップ (2019 糸満市教育委員会) の名城集落の文化財


文化財訪問ログ


アガリンナカイロー、工ージナ

名城の海岸に二つの無人島があり、それぞれの島に拝所がある事を知った。行って見たいのだが、島なので無理だろうと思っていたのだが、干潮時には陸続きになり、島に渡れる事が分かった。干潮の時間を調べると今は午前10時過ぎから昼にかけて干潮となる。最初の訪問地に決めて、出発する。ただ、季節により干潮の度合いがかなり変わるので、今日は渡れるかどうかは分からない。北名城ビーチにこの島はある。写真の右の二つがアガリンナカイロー島で、左側が工ージナ島だ。

北名城ビーチ (西の浜、イリヌハマ)

北名城ビーチはまだシーズン前で平日にも関わらず、そこそこの人が来ている。午前中はちらほらだったのだが、名城集落訪問を終えて帰る際にここを通った際には多くの人がキャンプをしていた。テントを張っているライダーに聞くと、ここは無料キャンプ場だそうだ。ただキャンプ場には「ハブに注意」の看板は出ていた。サンセットが綺麗と書かれていたので、熱くなる前にテントでキャンプがしたくなった。

アガリンナカイローのアジバカ (按司墓) ⑰

浜に近い小さな島がアガリンナカイローだ。干潮なので、この島には細い水路を、またげば島に渡れる。
島の南側の岩険に、名城にハーリーを伝えた人の墓だとされる新地門中の古墓があるそうだ。ナカイローのウグワンジュ (御願所) とも呼ばれ、ハーリーの日の午後にイビシン (隣の工ージナ島にある拝所) とともに拝んでいる。こちらには小魚を焼いて供える。島に渡ったすぐのところに拝所があり香炉が4つ置かれている。てっきりこれがアジバカ (按司墓) と思ったのだが後で、ガイドブックに記載されている写真を見ると違っていた。また来るだろうから、その時に探すことにする。
ガイドブックのアジバカ (按司墓) の写真がこれ。

イビシン ⑯ [未訪問]

アガリンナカイローから奥の工ージナ島に向ったのだが、生憎、今の時期の干潮では陸続きにはなっていない。とはいえ、こちらから見る工ージナ島は綺麗だ。海水は強いエメラルドグリーンで、海底まで透明だ。ここで暫く、景色に見惚れながら休憩。
工ージナ島の西端にイビシン、またはイビガナシーと呼ばれる拝所があるそうだ。今日は渡れなく見れないのだが、ここには海の幸をもたらす神を祀っており、、5月4日の名城ハーリーの日の午後にナマシ (刺身) や酒などを供えて拝んでいる。琉球国由来記に記された「アイゲナ森」(神名「潮花御イべ」) だといわれている。こちら側のアガリンナカイロー島の端に拝所らしきものがある。イビシンへのお通し (ウトゥーシ、遥拝所) だろうか?いつでも工ージナ島に渡れる訳では無いので、ここから御願しているのかも知れない。
この島には大潮の時期しか渡れないそうだ。今日は中潮で89cm。この先、深夜では無い時間に渡れそうな日は3月31日3時で-3cm、4月28日2時で-12cm、29日3時で-13cmとなっている。4月末にもう一度来よう。忘れないためにカレンダーに予定を入れる。

グチバルガー (井泉) ❾

名城ビーチから南に進むとグチバルガーという井戸がある。名城集落の南西の外れで、海岸近くにあり、イリーガー(西の井泉) ともいう。金網で囲まれて中には入れない。給水パイプが何本も敷設されている。農業用水として使われている。

名城ビーチと北名城ビーチの間のビーチ

グチバルガーから海岸に出るとビーチがある。Google Mapでは「名城ビーチと北名城ビーチの間」と書かれている。初めては何のことか分からなかったにだが、ここは穴場ビーチだそうだ。人気があるのでGoogle Mapにものってしまったのだろう。もう穴場では無いのかも....  ここも綺麗なビーチだ。海岸の干潮で現れた岩場で何人かが海藻を取っていた。

兼久 (カニク) 2⃣

東西に細長い兼久 (カニク) という広場がある。ここは、小波蔵のンマイー (馬追い、馬場) であったといわれ、一角に「馬追場」と書かれた石碑が建つ。かってここは砂浜で、名城と小波蔵で所有を巡って諍いがあったといい、毎年8月11日にはカニク祭りと呼ぶ、2つのムラが一緒に豆腐を供えて拝むナカノーイヌウグワン (仲直りの御願) があるそうだ。この場所は字小波蔵の境界線から随分離れて字名城の領域内にある。何故ここに小波蔵の馬場があったのだろう?そうであれば、名城住民にとっては好ましい事では無かっただろう。

ターバガー (井泉) ➓ [未訪問]

名城ビーチ敷地内にコーザンメーカーグワーとも呼ばれるターバガーという井戸跡があるとガイドブックに書かれていたので、名城ビーチに向かったのだが、工事中で名城ビーチには入れなかった。この井戸は住民の生活用水ではなく、戦前は農業用水に用いられたが、現在は使われていない。


名城ビーチ

ケン・コーポレーションと沖縄リゾート株式会社が、名城ビーチ周辺の沖縄戦跡国定公園内にMICE機能を持つ名城ビーチホテル (11階、全452室) の建設2019年3月から行われており、2022年夏開業を予定している。糸満市でははじめての大型リゾートホテルになる。
名城ビーチは有料ビーチでこのホテルが運営するそうだ。拝所はその敷地内にある。後で調べると、この名城ビーチには先に訪れた北側にある二つのビーチから砂浜に沿っていけるそうだ。最も干潮時に限られるのだが、4月末の大潮の時期に来てみよう。

コペックガー (井泉) ⑵ 

名城ビーチの南の字喜屋武との境界線となっている川の辺りにアメリカ兵のコペックが掘ったと言われる井泉があるのだが、この場所へも、名城ビーチ工事でそこに通じる道路は封鎖されて行く事が出来なかった。名城には沖縄戦後、米軍捕虜収容所があったので、この場所に置かれていたのだろう。沖縄戦で捕虜となった住民は北の収容所に送られたが、集落に戻る前にこの収容所に移され生活をしていたのだろう。その際に米軍兵士が捕虜の飲料水確保の為に掘ったと言われる。沖縄戦後、のちに周辺の10か字で運営した簡易水道の水源となったが、現在は畑地になっている。


砂街道

次は名城集落内の文化財探しに向かう。名城ビーチホテルから集落迄は広い道路が走っている。ホテルから南にある喜屋武には伸びておらず、この近くの農地かホテル客しか使わない道だ。ホテルの為にこんな広い道路になったのでは無いだろうか?糸満市のこのホテルへの期待が大きいのか? この道路は砂街道と呼ばれている。沖縄戦当時もこの名なので、それ以前からもそう呼ばれていたのだろう。砂浜も今よりは内陸部まであり、道は常に海風で砂が積もっていたような風景が目に浮かぶ。

ハニガー (井泉) ❼

砂街道の東は畑が広がっている。この畑の中に二つ井戸がある。一つはハニガーでメーンカー (前の井泉) とも呼ばれ、かっては飲料水にもなっていたが、今は農業用水としてのみ使われている。井戸跡は金網で囲われており、草木が密集しており、井戸の全体は良く分からない。

イズンマシガー (井泉) ❺

ハニガーの北側にもう一つの井戸がある。かつては、石で囲われ、きれいな水が湧いており、飲料水としても使われていた。現在はコンクリート囲いの水場に整備されている。

獅子 (シーサー) ⑭

砂街道を進み、集落へは登り坂になる。集落の端には石獅子があった。国吉集落の石獅子以来だ。東風平、八重瀬に比べ、糸満には石獅子が少ない様に思える。元々少なかったのか?戦争で多くは破壊されてしまったのか?間切で文化が異なるのは面白い。沖縄で見つかった中で一番南にある獅子だそうだ。ヒケーシ (火返し) として、字照屋の獅子を真似て造られ、昔から悪疫払いとしてムラで大切にしている石彫りのシーサーだ。喜屋武に向けられているのだが、この名城と喜屋武の間で何かあったのだろうか? 元々はこの場所では無く、道路の反対側の石積みの上に置かれていたが、市道が拡幅された時に移設された。一度盗難にあったが数ヶ月後に戻り、村では十五夜 (ジューグャー) の綱引きの前に拝み大切にしている。石獅子が盗まれ、何故か戻ってきた話はよく聞く。何の為に盗むのかも不可解なのだが、それ以上に戻す動機や理由は何なんだろう?御利益を期待したが、災難続きで恐ろしくなったのか?

前道 (メーミチ)

砂街道は石獅子がある付近、つまり集落が始まるところから前道 (メーミチ) に変わる。左に行けば集落へ、上に行けば、石獅子、白髪之山の方向。

白髪之山 (シラカンヤマ) ⑬

前道を少し上がると、「白髪の嶽」と記された石碑と香炉が置かれている拝所がある。シラカンヤマは市道拡幅工事前は、前道を渡った反対側の集落南側のハンタ (崖) にあり、今日一番に訪れた西の浜 (イリーヌハマ) の沖にある無人島のエージナと関係する拝所が祀られていた。

前之井泉小 (メーンカーグワー) ➍

前道(メーミチ) の崖の下、つまり、集落の南 (前方) は一面畑になっている。その中に小さな雑木林があり、そこに古くから生活用水として使われていた前之井泉小 (メーンカーグワー) がある。小 (グワー) とはいえ、石積みで囲まれて立派な井戸だ。

前道を上り切ると南北に走る県道3号線に合流する。集落はこの県道の西と東に広がっていたのだが、現在は西側には集落が残っているのだが、東側は空き地や空き家が大半となっており、以前の道路も大部分が消滅している。いくつかの拝所や文化財が存在する。それを南から順に見ていく。


カチンヤマ ⑫

大殿内の始祖 樽真佐 (タルマサ) の息子であるヘンサの墓だといわれている拝所。ヘンサは大変な怪力で、ムラの井戸掘りや開拓に尽力したという話や、喜屋武のチャンクガニとカ比べをした伝説が残っている。カチンヤマは、ヘンサとチャンクガニーの妹が逢い引きした場所だともいわれている。

カチンヤマの神井泉 (カミガー) ❷

ヘンサの墓であるカチンヤマの南門ロの側にあるカー

貯水槽

県道3号線沿いに貯水槽が残っている。壁面にいくつもの穴が傷がある。沖縄戦での弾痕だろうと思い、調べるとやはりそうだった。この貯水槽は特に保存されているのでなく、空き地に放置されたままになっているそうだ。立派な戦争遺構なので、保存されればいいのだが...

沖縄戦では名城住民503人のうち169人が亡くなっている。戦没者のほとんどは名城集落で亡くなっている。堂集落で捕虜になった住民は260人でその他の捕虜も近郊で捕まっている。戦没者は集落人口の34%で糸満市全体の平均値とほぼ同じ。糸満は沖縄戦で最後の抵抗が行われ、陸軍本部解散後も書く部隊がそれぞれの判断でゲリラ戦を行った。その中で、実に様々な要因が重なり、これほどまでの多くの民間人の犠牲が出ている。

名城集落の沖縄戦

  • 昭和19年 (1944年)  武部隊が集落に駐屯し、大殿内山やエージナ島に陣地を構築
  • 昭和20年 (1945年) 1月 海上特攻隊役30人が駐屯。特攻艇を大殿内山、カチン山、チンサシ山に保管。
  • 伊江島の飛行場建設に住民が動員される。住民からは兵隊に21人、防衛隊22人、学徒隊1人が動員される。学童疎開は熊本に一人の実。一般疎開は宮崎に31人。3月に山原に70人が疎開。
  • 昭和20年 (1945年) 3月に米軍攻撃が開始されると、住民は集落のアバサーガマ、西の壕、轟の壕に避難。米軍が迫ると日本兵により住民はガマから追い出される。
  • 米軍は6月17日に真栄里を18日には小波蔵を占領。名城に駐屯していた日本兵は摩文仁方面に後退、住民は集落内にあるアバサーガマに戻り、米軍の捕虜となる。日本兵が去った後で、大した抵抗もなかった。米軍は19日に喜屋武、23日にエージナ島を占領。
  • 捕虜となった住民は、まずは伊良波に一時収容され、そこから宜野湾村や越来村の収容所に収容された。昭和20年11月に、収容所から名城海岸にあった米軍兵舎跡を居住地区とし、真壁、喜屋武、摩文仁、高嶺の住民が移動し、テント小屋生活が始まる。役所、学校、診療所が置かれていた。
  • 昭和21年4月に真壁、喜屋武、摩文仁の三村が合併し三和村が誕生し、住民は以前の集落に戻り始める。



謝名世 (ジャナユー) ⑩ / 富盛殿内 (トウムイドウンチ) ⑪

戦争遺構の水タンクのすぐ側に名城集落の有力門中の神屋がある。二つの問中が一つの建物を共有している。右の部屋にはムラの始まりのころに天下りし、ムラを開いたという伝説がある富盛殿内 (トウムイドウンチ) が使用し、左の部屋は国元 (クニムトゥ) の大殿内按司の守り役であったといわれている謝名親方を祀った拝所で、謝名世 (ジャナユー) と呼ばれている。

仲門世 (ナカジョーユー) ⑨

更に奥の方にはムラを開いたといわれている仲門門中の神屋があり、仲門世 (ナカジョーユー) と呼ばれている。屋敷は空き地になって神屋のみが残り、拝まれている。


神差 (カンザシ) の殿 (トゥン) ⑧

仲門世 (ナカジョーユー) から道路を渡った交差点のところに拝所がある。ここは名城集落の北の端にあたる。野面積みの石にコンクリート製の屋根を被せた祠で、「琉球国由来記」に記述がある「浦崎之殿」または「仲里之殿」のいずれかではないかといわれているが、一般的には神差 (カンザシ) の殿 (トゥン) と言われている。


次は県道3号線を渡り、西側の集落内にある文化財を周る。


神差 (カンザシ) ⑦

神差 (カンザシ) の殿 (トゥン) の向かいにムラの嶽々 (御嶽、拝所) の護り元といわれている屋号 神差 (カンザシ) の屋敷跡がある。現在でも人は住んでおり、農耕に関する祭祀にも深く関わっており、ウマチーでは国元 (クニムトゥ) の大殿内門中とともにミキ (神酒) を出す家だそうだ。敷地内には神屋がある。先程の神差 (カンザシ) の殿 (トゥン) との関係については書かれていない。多分、屋号 神差の前にあるので神差の殿と呼ばれているのではと推測。

神道 (カミミチ)

神差 (カンザシ) の屋敷跡の前に人が一人通れるぐらいの細い道がある。これはノロや神人が祭礼の際に各拝所を巡る道。一般の人は通らない。(のだが歩かせてもらった) なぜかどの集落でも神道はこのように細い道になっているのと全部は残っていない。この集落の神道も数十メートルだけだ。推測するに、現在では神道にはこだわってはいないのだろう。


海勢頭 (ウンスル) ⑥

神差 (カンザシ) の隣が名城の海元 (ウミムトゥ) の海勢頭 (ウンスル) の屋敷跡がある。この海勢頭 (ウンスル) は海や海の彼方の世界に関わる祭祀を司っている家だそうだ。現在は空き家になっている。屋敷内にある神屋には海神が祀られており、古い時代はトータビ (唐旅、遠方への旅) に出る際にここを拝んで安全祈願をしたという。

大殿内 (ウフドゥンチ) ⑤

この並びには国元、根屋 (ニーヤ) といわれる大殿内 (ウフドゥンチ) の家がある。現在は1軒北寄りにある。大殿内の神屋はフェンザグスクに移設されている。

中道 (ナカミチ)

大殿内から北へはフェンザグスクへ、南には白髪山を結ぶ道が、かつての中道で村の目抜き通りだった。

十万座 (トマンザ) 1⃣

集落の西の崖の上に名城公民館とハーリー舟置場 (旧村屋の建物) がある。この一帯を十万座 (トマンザ) といい、戦前は5つのサーターヤー (製糖小屋) があった。トマンザはムラ行事の中心的な場所で、十五夜 (ジューグャー) の祭りでは、臼太鼓 (ウシデーク) の踊りや綱引きなどが行われている。

十万座お通し (トマンザウトウーシ) ⑮

公民館の建物の裏手にある遥拝所で、名前はこの一帯がトマンザと呼ばれていることに由来する。工ージナを遥拝するための香炉が3つ置かれている。沖縄戦当時、この村から兵士として若者が出征する際には村の人々はここに集まり武運を祈ったそうだ。


ガイドブックにはなかったのだが、公民館の裏に崖を降りる階段があった。その先には岩の前に石積があり、香炉が置かれている。古墓と思われる。


集落を走っている際に目に留まった沖縄伝統家屋 (一部だけでもっとあった)


大川門裏手の拝所

公民館の近くにもう一つ拝所があった。これもガイドブックには載っていないのだが、屋号 大川門の屋敷跡の裏の西の崖の上にあり、いくつもの香炉が置かれているのと、綺麗に掃除されているので、大川門に関係する拝所なのかもしれない。


ガイドブックにはウサチガー (井泉) とワラビウクイ (童送り) が載っていたが、その場所に行き探すも見つからなかった。説明文は掲載しておく。ワラビウクイ (童送り) はどの集落でも以前は持っていたのだが、今は使っていないからか、どの集落でも見つかったことがない。



ウサチガー (井泉) ❽

西蔵当の西側にあり、古くからある井泉だといわれている。リューグガー (竜宮井泉) ともいい、それにまつわる伝説も残る。西蔵当を調べ、その西は写真のようになっていたが、これが井戸跡なのかは資料にも写真はなく確信はないが、石済みに囲われているので、ここが井戸だったと思う。


ワラビウクイ (童送り) ⑴ [未訪問]

ユースーグワーといって数え7歳以下の子どもが死亡した時には、直接門中墓には葬らず、徳大城小の西崖下のマーツーグワーと呼ばれている所に仮に葬った。



大殿内山 (ウフドゥンチャマ) ①、フェンサグスク

集落の北端にある小高い山を大殿内山 (ウフドゥンチャマ) と呼び、一帯はフェンサグスクがあった。フェンザ グスクは陸から西方の海岸側へ長く続く丘陵の西端部に築城されている。標高25mで南側は丘陵の一部のためややなだらかな地形をとるが、北側は崖を形成している。頂部からは西の海及び北の平地一帯をみおろすことができる。グスクの広場にはいくつもの拝所が建っている。

グスクの築城年代については不明だが、三山時代の城主は南山王 他魯毎 (タルムイ、太郎思) の四男の樽真佐 (タルマサ) と言われ、この人物が名城村の草分け宗家である大殿内 (仲原家) の始祖とされている。グスクの北崖下にあるアジ墓はタルサマ王と孫の四郎樽金 (タルガニー) の墓だといわれる。タルサマ王の息子トウビべンサ (トビヘンサ、ヘンサ) は名城村の発展に尽力した按司で、若い頃、隣村の按司喜屋武クガニーの妹に恋をし、喜屋武クガニーから石投げ勝負の難題を課されたが、敗れた。トウビべンサの嫡子四郎樽金は美男子であった。彼は遠く勝連グスクの第七代城主の浜川按司の娘で絶世の美女と評判の高い真鍋樽 (マナンダルー、マランラルー) を嫁に迎え、国中の話題となったとある。

四郎樽金 (タルガニー) と真鍋樽 (マナンダルー、マランラルー) については伝承が残っている。

  • ある日、京太郎 (チョンダラー、旅芸人集団) たちが、四郎樽金と出会い、「将来の妻は勝連の浜川殿内の真鍋樽しかいない」と告げた。早速、四郎樽金は馬に乗り、遠い勝連の浜川殿内に向かった。浜川殿内には、美女の真鍋樽がいた。四郎樽金が帰り際に、真鍋樽が「次に来る際には、二頭の馬に鞍を一つかけて乗って来て下さい。」との知恵をためすために謎めいたことを言った。四郎樽金はこの問題をどう解けば良いか悩み、隣人の知恵者の老婆に聞くと、老婆は「妊娠している馬に鞍をかけて乗って行きなさい。」と教えてくれた。四郎樽金は早速、教えられた通りにして行き、真鍋樽からの問題は解決したという。(何がどう解けたのかよくわからないのだが....) 一問が解けたのも束の間、また難問が出された。今度は四郎樽金の前にシーグ (小刀)、ワン (茶碗)、ダキ (竹) の三品が出されたが、この意味が解けず困り、また老婆に尋ねた。老婆は「シーグ、ワンダキ。 (すぐに私を抱いてよろしい。)」という意味だと教えてくれた。このようにして、二人はめでたく結ばれましたという。四郎樽金は真鍋樽を妻にする条件として、浜川殿内の家臣となり、勝連に住みつき、子孫も繁栄したとのこと。その後600年以上経ってから、四郎樽金と真鍋樽の遺骨が、名城集落の直系の大殿内に帰り、ヘンサグスクの一角の按司墓に葬られている。

真鍋樽は絶世の美女だったそうで、これ以外にも琉球各地に言い伝えがある。

  • 具志頭間切の白川桃樽金 (シラカワトゥバルタルガニー) が真鍋樽に恋をし結婚を申し込むが、真鍋樽の謎かけが解けないまま結ばれず、二人は恋焦がれるうちに病死してしまい、葬送の行列が北中城で会合したので一緒に埋葬された。


1414年に、南山王 他魯毎 (タルムイ、太郎思) の四男の樽真佐 (タルマサ) は他魯毎が伊敷グスクを落とし、伊敷按司を処刑した後は、樽真佐を伊敷按司に据えようと考えていたが、その時点では樽真佐はまだ5歳で幼く、他魯毎の家臣であった久米村出身の華人の李仲按司に伊敷グスクを任せた。この年に他魯毎は南山王となり尚巴志に1429年に滅ぼされた。このときには樽真佐は20歳になっていた。他魯毎が滅ぼされる前にはこのフェンサグスクの按司になっていたと考えられる。1429年の他魯毎と尚巴志の戦いではどのような立ち位置にいたのか、尚巴志の時代になぜ生き残り、フェンサグスク城主の立場を維持できたのだろうか?


グスクの拝所がある広場から、崖に降りる道がある。

この山の北斜面の岩場にはノロ墓の他、大殿内 (ウフドゥンチ)、神差 (カンザシ)、湾 (ワン)、前門 (メージョー)、海勢頭 (ウンスル)、新地 (ミージ) の各門中の按司墓 (アジシー) が点在し、シジ高い (神の霊力が強い) 場所とされている。かってこの山に入るときには額に煤を付けたという話も残っている。ノロ墓 (写真右中) と大殿内 (ウフドゥンチ) 以外はどれがどの門中の按司墓かは分からなかった。

名城集落の国元 (クニムトゥ) の大殿内門中の トーシ (当世、現在使用している門中墓) 

大殿内門の祖先の四郎樽金 (タルガニー) の墓もあった。


国御嶽 (クニウタキ) ②

フェンザグスクの広場には幾つかの拝所がある。これは国御嶽 (クニウタキ) と呼ばれ、昔、海難に遭遇した唐の人が大殿内山に避難して難を逃れ、そのお礼に贈られたという石でできた灯籠が置かれていたが、沖縄戦などで破壊されたため、現在は祠が造られて代わりの石灯籠が立てられ、もともとの石燈籠の破片が置かれている。昔はこのグスクがある大殿内山 (ウフドゥンチャマ) の近くまで海岸線が迫ってきていたようだ。


大殿内 (ウフドゥンチ) のカミアサギ ③

国元 (クニムトゥ) の大殿内から移設した神屋でカミアサギと呼ばれる。


大殿内の殿 (ウフドゥンチヌトゥン) ④

琉球国由来記の大殿内トノにあたり、名城根所火神も祀られているという。この広場は古い時代に大殿内の屋敷があった場所だともいわれている。フェンザグスク自体が大殿内の祖先の居城であったので納得できる。現在はこの場所から集落に20m程入ったところにある。


大殿内山の神井泉 (カミガー) ❶

国御嶽 (クニウタキ) の前に、大殿内山のカミガーと呼ばれる井泉があり、正月とウマチーのカーウガミ (井泉拝み) にムラと各門中が拝んでいる。


産井泉 (ンブガー) ➌

フェンザグスクから公民館の場所に戻り、そこから海岸側に降りたところに、かっては産湯の水や元旦の若水を汲んだ産井泉 (ンブガー)。トマンザ (十万座) からイリーヌハマ (西之浜) に出る道の途中、坂の下にあることからヒランカー(坂の井泉)ともいい、トマンザガー (十万座井泉) 、クシンカー (後之井泉) とも呼ばれる。


これで予定していた名城集落の文化財巡りが終了。旧真壁村の8つの字全ての集落巡りが終わった。糸満市にはまだ未訪問の旧喜屋武村と旧摩文仁村が残っているのだが、糸満市教育委員会ではこの二つの旧村の文化財ガイドブックは作成されていない。旧兼城村は2011年、旧高嶺村は2013年、旧糸満町は2016年にそれぞれが数百ページに渡りかなり詳しく書かれている。旧真壁村ついては詳細な書籍ではなく、2019年に発行された数ぺージの文化財ガイドブックにとどまっている。糸満の三和地区にある字は一つ一つの規模が小さく、集落の歴史や拝所について詳しく語れる老人も少なくなってきているので、年ごとに詳しい字史を編集するのは大変になってきていると思う。旧真壁村のガイドブックもこれで精いっぱいだっただろう。旧喜屋武村と旧摩文仁村についてはインターネットや図書館などで調べてある程度情報が見つかってからの訪問とし、次は情報がある集落を巡ることとする。明日から数日間は図書館通いと確定申告も作業に追われることになるだろう。


参考文献

  • 旧真壁村集落ガイドマップ (2019 糸満市教育委員会)
  • 糸満市史 戦時資料 (2013 糸満市教育委員会)
  • ぐすく沖縄本島及び周辺離島 グスク分布調査報告 (1983 沖縄県立埋蔵文化財センター)
  • 沖縄県戦争遺跡詳細分布調査Ⅰ南部編 (2001 沖縄県立埋蔵文化センター)
  • 尚巴志伝 (酔雲)
  • 沖縄戦国時代の謎―南山中山北山久米島宮古八重山 (2006)

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