Okinawa 沖縄 #2 Day 85 (24/02/21) 旧真壁村 (8) Nashiro Hamlet 名城集落
旧真壁村 名城集落 (なしろ、ナーグスク)
- アガリンナカイロー、工ージナ
- 北名城ビーチ (西の浜、イリヌハマ)
- アガリンナカイローのアジバカ (按司墓) ⑰
- イビシン ⑯ [未訪問]
- グチバルガー (井泉) ❾
- 名城ビーチと北名城ビーチの間のビーチ
- 兼久 (カニク) 2⃣
- ターバガー (井泉) ➓ [未訪問]
- 名城ビーチ
- コペックガー (井泉) ⑵ [未訪問]
- 砂街道ハニガー (井泉) ❼
- イズンマシガー (井泉) ❺
- 獅子 (シーサー) ⑭
- 前道 (メーミチ)
- 白髪之山 (シラカンヤマ) ⑬
- 前之井泉小 (メーンカーグワー) ➍
- カチンヤマ ⑫
- カチンヤマの神井泉 (カミガー) ❷
- 貯水槽謝名世 (ジャナユー) ⑩ / 富盛殿内 (トウムイドウンチ) ⑪
- 仲門世 (ナカジョーユー) ⑨
- 神差 (カンザシ) の殿 (トゥン) ⑧
- 神差 (カンザシ) ⑦
- 神道 (カミミチ)
- 海勢頭 (ウンスル) ⑥
- 大殿内 (ウフドゥンチ) ⑤
- 中道 (ナカミチ)
- 十万座 (トマンザ) 1⃣
- 十万座お通し (トマンザウトウーシ) ⑮
- 大川門裏手の拝所
- ウサチガー (井泉) ❽
- ワラビウクイ (童送り) ⑴ [未訪問]
- 大殿内山 (ウフドゥンチャマ) ①、フェンサグスク国御嶽 (クニウタキ) ②
- 大殿内 (ウフドゥンチ) のカミアサギ ③
- 大殿内の殿 (ウフドゥンチヌトゥン) ④
- 大殿内山の神井泉 (カミガー) ❶
- 産井泉 (ンブガー) ➌
旧真壁村 名城集落 (なしろ、ナーグスク)
字の西部は東シナ海に面しており、戦前はサトウキビ、甘藷、スイカなどを栽培する傍ら、漁を営む半農半漁の集落であった。近年では野菜のほか、キクの電照栽培を中心とする花卉栽培も盛んになっている。
明治時代の人口は真壁集落では上から三番で比較的多い字であったが、現在は8字の中で真ん中になっている。
沖縄本土復帰後、人口は増加したのだが1986年をピークにその後減少が続き現在では明治時代の人口を20%も下回っている。
元々の集落内の民家が減少し、新しく転入してきた人たちは集落の外に住んでいるようだが、ほとんどは農地でそれほど民家が増えている印象はなかった。名城ビーチに建設中のホテルの開業で村おこしが期待されている。
旧真壁村集落ガイドマップ (2019 糸満市教育委員会) の名城集落の文化財
文化財訪問ログ
アガリンナカイロー、工ージナ
北名城ビーチ (西の浜、イリヌハマ)
アガリンナカイローのアジバカ (按司墓) ⑰
イビシン ⑯ [未訪問]
グチバルガー (井泉) ❾
名城ビーチと北名城ビーチの間のビーチ
兼久 (カニク) 2⃣
ターバガー (井泉) ➓ [未訪問]
名城ビーチ
コペックガー (井泉) ⑵
砂街道
ハニガー (井泉) ❼
イズンマシガー (井泉) ❺
獅子 (シーサー) ⑭
前道 (メーミチ)
白髪之山 (シラカンヤマ) ⑬
前之井泉小 (メーンカーグワー) ➍
カチンヤマ ⑫
カチンヤマの神井泉 (カミガー) ❷
貯水槽
県道3号線沿いに貯水槽が残っている。壁面にいくつもの穴が傷がある。沖縄戦での弾痕だろうと思い、調べるとやはりそうだった。この貯水槽は特に保存されているのでなく、空き地に放置されたままになっているそうだ。立派な戦争遺構なので、保存されればいいのだが...
沖縄戦では名城住民503人のうち169人が亡くなっている。戦没者のほとんどは名城集落で亡くなっている。堂集落で捕虜になった住民は260人でその他の捕虜も近郊で捕まっている。戦没者は集落人口の34%で糸満市全体の平均値とほぼ同じ。糸満は沖縄戦で最後の抵抗が行われ、陸軍本部解散後も書く部隊がそれぞれの判断でゲリラ戦を行った。その中で、実に様々な要因が重なり、これほどまでの多くの民間人の犠牲が出ている。
名城集落の沖縄戦
- 昭和19年 (1944年) 武部隊が集落に駐屯し、大殿内山やエージナ島に陣地を構築
- 昭和20年 (1945年) 1月 海上特攻隊役30人が駐屯。特攻艇を大殿内山、カチン山、チンサシ山に保管。
- 伊江島の飛行場建設に住民が動員される。住民からは兵隊に21人、防衛隊22人、学徒隊1人が動員される。学童疎開は熊本に一人の実。一般疎開は宮崎に31人。3月に山原に70人が疎開。
- 昭和20年 (1945年) 3月に米軍攻撃が開始されると、住民は集落のアバサーガマ、西の壕、轟の壕に避難。米軍が迫ると日本兵により住民はガマから追い出される。
- 米軍は6月17日に真栄里を18日には小波蔵を占領。名城に駐屯していた日本兵は摩文仁方面に後退、住民は集落内にあるアバサーガマに戻り、米軍の捕虜となる。日本兵が去った後で、大した抵抗もなかった。米軍は19日に喜屋武、23日にエージナ島を占領。
- 捕虜となった住民は、まずは伊良波に一時収容され、そこから宜野湾村や越来村の収容所に収容された。昭和20年11月に、収容所から名城海岸にあった米軍兵舎跡を居住地区とし、真壁、喜屋武、摩文仁、高嶺の住民が移動し、テント小屋生活が始まる。役所、学校、診療所が置かれていた。
- 昭和21年4月に真壁、喜屋武、摩文仁の三村が合併し三和村が誕生し、住民は以前の集落に戻り始める。
謝名世 (ジャナユー) ⑩ / 富盛殿内 (トウムイドウンチ) ⑪
仲門世 (ナカジョーユー) ⑨
神差 (カンザシ) の殿 (トゥン) ⑧
神差 (カンザシ) ⑦
神道 (カミミチ)
神差 (カンザシ) の屋敷跡の前に人が一人通れるぐらいの細い道がある。これはノロや神人が祭礼の際に各拝所を巡る道。一般の人は通らない。(のだが歩かせてもらった) なぜかどの集落でも神道はこのように細い道になっているのと全部は残っていない。この集落の神道も数十メートルだけだ。推測するに、現在では神道にはこだわってはいないのだろう。
海勢頭 (ウンスル) ⑥
大殿内 (ウフドゥンチ) ⑤
中道 (ナカミチ)
十万座 (トマンザ) 1⃣
十万座お通し (トマンザウトウーシ) ⑮
ガイドブックにはなかったのだが、公民館の裏に崖を降りる階段があった。その先には岩の前に石積があり、香炉が置かれている。古墓と思われる。
集落を走っている際に目に留まった沖縄伝統家屋 (一部だけでもっとあった)
大川門裏手の拝所
公民館の近くにもう一つ拝所があった。これもガイドブックには載っていないのだが、屋号 大川門の屋敷跡の裏の西の崖の上にあり、いくつもの香炉が置かれているのと、綺麗に掃除されているので、大川門に関係する拝所なのかもしれない。
ガイドブックにはウサチガー (井泉) とワラビウクイ (童送り) が載っていたが、その場所に行き探すも見つからなかった。説明文は掲載しておく。ワラビウクイ (童送り) はどの集落でも以前は持っていたのだが、今は使っていないからか、どの集落でも見つかったことがない。
ウサチガー (井泉) ❽
西蔵当の西側にあり、古くからある井泉だといわれている。リューグガー (竜宮井泉) ともいい、それにまつわる伝説も残る。西蔵当を調べ、その西は写真のようになっていたが、これが井戸跡なのかは資料にも写真はなく確信はないが、石済みに囲われているので、ここが井戸だったと思う。
ワラビウクイ (童送り) ⑴ [未訪問]
ユースーグワーといって数え7歳以下の子どもが死亡した時には、直接門中墓には葬らず、徳大城小の西崖下のマーツーグワーと呼ばれている所に仮に葬った。
大殿内山 (ウフドゥンチャマ) ①、フェンサグスク
グスクの築城年代については不明だが、三山時代の城主は南山王 他魯毎 (タルムイ、太郎思) の四男の樽真佐 (タルマサ) と言われ、この人物が名城村の草分け宗家である大殿内 (仲原家) の始祖とされている。グスクの北崖下にあるアジ墓はタルサマ王と孫の四郎樽金 (タルガニー) の墓だといわれる。タルサマ王の息子トウビべンサ (トビヘンサ、ヘンサ) は名城村の発展に尽力した按司で、若い頃、隣村の按司喜屋武クガニーの妹に恋をし、喜屋武クガニーから石投げ勝負の難題を課されたが、敗れた。トウビべンサの嫡子四郎樽金は美男子であった。彼は遠く勝連グスクの第七代城主の浜川按司の娘で絶世の美女と評判の高い真鍋樽 (マナンダルー、マランラルー) を嫁に迎え、国中の話題となったとある。
四郎樽金 (タルガニー) と真鍋樽 (マナンダルー、マランラルー) については伝承が残っている。
- ある日、京太郎 (チョンダラー、旅芸人集団) たちが、四郎樽金と出会い、「将来の妻は勝連の浜川殿内の真鍋樽しかいない」と告げた。早速、四郎樽金は馬に乗り、遠い勝連の浜川殿内に向かった。浜川殿内には、美女の真鍋樽がいた。四郎樽金が帰り際に、真鍋樽が「次に来る際には、二頭の馬に鞍を一つかけて乗って来て下さい。」との知恵をためすために謎めいたことを言った。四郎樽金はこの問題をどう解けば良いか悩み、隣人の知恵者の老婆に聞くと、老婆は「妊娠している馬に鞍をかけて乗って行きなさい。」と教えてくれた。四郎樽金は早速、教えられた通りにして行き、真鍋樽からの問題は解決したという。(何がどう解けたのかよくわからないのだが....) 一問が解けたのも束の間、また難問が出された。今度は四郎樽金の前にシーグ (小刀)、ワン (茶碗)、ダキ (竹) の三品が出されたが、この意味が解けず困り、また老婆に尋ねた。老婆は「シーグ、ワンダキ。 (すぐに私を抱いてよろしい。)」という意味だと教えてくれた。このようにして、二人はめでたく結ばれましたという。四郎樽金は真鍋樽を妻にする条件として、浜川殿内の家臣となり、勝連に住みつき、子孫も繁栄したとのこと。その後600年以上経ってから、四郎樽金と真鍋樽の遺骨が、名城集落の直系の大殿内に帰り、ヘンサグスクの一角の按司墓に葬られている。
真鍋樽は絶世の美女だったそうで、これ以外にも琉球各地に言い伝えがある。
- 具志頭間切の白川桃樽金 (シラカワトゥバルタルガニー) が真鍋樽に恋をし結婚を申し込むが、真鍋樽の謎かけが解けないまま結ばれず、二人は恋焦がれるうちに病死してしまい、葬送の行列が北中城で会合したので一緒に埋葬された。
1414年に、南山王 他魯毎 (タルムイ、太郎思) の四男の樽真佐 (タルマサ) は他魯毎が伊敷グスクを落とし、伊敷按司を処刑した後は、樽真佐を伊敷按司に据えようと考えていたが、その時点では樽真佐はまだ5歳で幼く、他魯毎の家臣であった久米村出身の華人の李仲按司に伊敷グスクを任せた。この年に他魯毎は南山王となり尚巴志に1429年に滅ぼされた。このときには樽真佐は20歳になっていた。他魯毎が滅ぼされる前にはこのフェンサグスクの按司になっていたと考えられる。1429年の他魯毎と尚巴志の戦いではどのような立ち位置にいたのか、尚巴志の時代になぜ生き残り、フェンサグスク城主の立場を維持できたのだろうか?
グスクの拝所がある広場から、崖に降りる道がある。
この山の北斜面の岩場にはノロ墓の他、大殿内 (ウフドゥンチ)、神差 (カンザシ)、湾 (ワン)、前門 (メージョー)、海勢頭 (ウンスル)、新地 (ミージ) の各門中の按司墓 (アジシー) が点在し、シジ高い (神の霊力が強い) 場所とされている。かってこの山に入るときには額に煤を付けたという話も残っている。ノロ墓 (写真右中) と大殿内 (ウフドゥンチ) 以外はどれがどの門中の按司墓かは分からなかった。
名城集落の国元 (クニムトゥ) の大殿内門中の トーシ (当世、現在使用している門中墓)
大殿内門の祖先の四郎樽金 (タルガニー) の墓もあった。
国御嶽 (クニウタキ) ②
フェンザグスクの広場には幾つかの拝所がある。これは国御嶽 (クニウタキ) と呼ばれ、昔、海難に遭遇した唐の人が大殿内山に避難して難を逃れ、そのお礼に贈られたという石でできた灯籠が置かれていたが、沖縄戦などで破壊されたため、現在は祠が造られて代わりの石灯籠が立てられ、もともとの石燈籠の破片が置かれている。昔はこのグスクがある大殿内山 (ウフドゥンチャマ) の近くまで海岸線が迫ってきていたようだ。
大殿内 (ウフドゥンチ) のカミアサギ ③
国元 (クニムトゥ) の大殿内から移設した神屋でカミアサギと呼ばれる。
大殿内の殿 (ウフドゥンチヌトゥン) ④
琉球国由来記の大殿内トノにあたり、名城根所火神も祀られているという。この広場は古い時代に大殿内の屋敷があった場所だともいわれている。フェンザグスク自体が大殿内の祖先の居城であったので納得できる。現在はこの場所から集落に20m程入ったところにある。
大殿内山の神井泉 (カミガー) ❶
産井泉 (ンブガー) ➌
これで予定していた名城集落の文化財巡りが終了。旧真壁村の8つの字全ての集落巡りが終わった。糸満市にはまだ未訪問の旧喜屋武村と旧摩文仁村が残っているのだが、糸満市教育委員会ではこの二つの旧村の文化財ガイドブックは作成されていない。旧兼城村は2011年、旧高嶺村は2013年、旧糸満町は2016年にそれぞれが数百ページに渡りかなり詳しく書かれている。旧真壁村ついては詳細な書籍ではなく、2019年に発行された数ぺージの文化財ガイドブックにとどまっている。糸満の三和地区にある字は一つ一つの規模が小さく、集落の歴史や拝所について詳しく語れる老人も少なくなってきているので、年ごとに詳しい字史を編集するのは大変になってきていると思う。旧真壁村のガイドブックもこれで精いっぱいだっただろう。旧喜屋武村と旧摩文仁村についてはインターネットや図書館などで調べてある程度情報が見つかってからの訪問とし、次は情報がある集落を巡ることとする。明日から数日間は図書館通いと確定申告も作業に追われることになるだろう。
参考文献
- 旧真壁村集落ガイドマップ (2019 糸満市教育委員会)
- 糸満市史 戦時資料 (2013 糸満市教育委員会)
- ぐすく沖縄本島及び周辺離島 グスク分布調査報告 (1983 沖縄県立埋蔵文化財センター)
- 沖縄県戦争遺跡詳細分布調査Ⅰ南部編 (2001 沖縄県立埋蔵文化センター)
- 尚巴志伝 (酔雲)
- 沖縄戦国時代の謎―南山中山北山久米島宮古八重山 (2006)
0コメント