Okinawa 沖縄 #2 Day 84 (22/02/21) 旧真壁村 (7) Itosu Hamlet 糸洲集落

旧真壁村 糸洲集落 (いとす、イチュジ)

  • 割取 (ワイトウイ) ❷
  • 獅子屋 (シーサーヤー)、ヌルガー 1⃣
  • 陸軍病院第ニ外科壕 ❶
  • 安里グスク
  • 安里の嶽 (アサトゥヌタキ) 7⃣ [未訪問]
  • 古井泉 (フルガー) ② [未訪問]
  • カーウィーガーグワー ③ [未訪問]
  • 神道 (カミミチ)
  • ミャンカチ 9⃣
  • 安里の殿 (アサトゥヌトウン) 8⃣
  • 旧安里村
  • 村屋跡、サーターヤー跡 (糸洲公民館)
  • 川上 (カーウィー) の神屋 2⃣
  • ウーシンジョー 3⃣
  • 新屋 (ミーヤ―) の神屋 4⃣
  • 新井泉 (ミーガー) ①
  • 糸洲グスク
  • 東の殿 (アガリヌトウン) 5⃣
  • 西の殿 (イリーヌトウン) 6⃣



旧真壁村 糸洲集落 (いとす、イチュジ)

糸洲集落は、琉球王朝時代は真壁間切に属し、西に安里ムラと東に糸洲ムラの二つの村が存在したことが18世紀末ごろの作成とされる間切図に表れている。1903年 (明治36年) にこの二つの村が合併して、現在の糸洲村となった。現在は西の安里ムラにはほとんど民家はなく、かつての安里村の拝所が残っている。

琉球王朝時代から明治時代は真壁間切の中で最も小さな字だった。その後、人口は増えて現在では伊敷、宇江城よりも多くなっている。

人口の推移がわかるデータがなく、見つけたデータも正確なものかどうか疑わしい。集落内にあった民家は昭和20年には50世帯程ある。明治時代には21世帯となっているので、各門中の分家が集落内に住まいを新しく建てたと思われる。沖縄戦では、集落の半分の住民が犠牲になったので、世帯数は20-30程になったのではと思われる。現在の集落を周ると、空き地空き家が目立つ、昭和20年当時の3分の一は空き家、空き地になっているようだ。人口の増加は沖縄本土復帰以降に始まったのではないだろうか。これは他の集落ではその傾向がほとんど。

糸洲集落の民家の分布がわかる地図によると、大正時代まで存在した旧安里ムラは、その後、民家が亡くなっているのがわかる。2000年までの人口増加は集落の外の南西部に起こり、2000年代にには集落の外側に広範囲にわたっている。

集落内はこのように空き地や空き地が多くある。


旧真壁村集落ガイドマップ (2019 糸満市教育委員会) の糸洲集落の文化財


文化財訪問ログ


この糸洲集落へは既に訪問した大里、国吉、真栄里を通り、3日前に訪れた伊敷集落から入る。伊敷集落は糸洲集落は多くのグスクが存在していた丘陵で遮られている。



割取 (ワイトウイ) ❷

伊敷集落から、南に見える丘陵への道を通り糸洲集落に入る。この道路は丘陵を切り通して造られた。割取 (ワイトウイ) と呼ばれている。この道は住民によって開通工事が行われ、1950年 (昭和25年) に竣工した。開通以降は険しい山道を通って那覇や他の集落に行っていた。この切通により荷馬車によるサトウキビの運搬なども楽になったそうだ。現在は1994年に開通した名城バイパスが主に使われ、この道の交通量はかなり少なくなっている。

獅子屋 (シーサーヤー)、ヌルガー 1⃣

割取 (ワイトウイ) を抜け、集落に入ると、集落の北になり、そこには獅子屋 (シーサーヤー) と呼ばれる拝所があり、糸洲集落の重要な聖地とされている。建物内にはムラ行事などで拝む国元 (クニムトゥ) と川上 (カーウィー) 門中の香炉のほか、1800年代に寄進された石の香炉が祀られている。そのほか、屋外には御神木といわれるアコウの木や、ヌルガーと呼ばれるカー跡がある。なお、シーサーヤーという名称は、ムラ獅子を保管しているためそう呼ばれるようになったと伝わる。ジューグャー (十五夜) の綱引きでは、この広場でチナウチ(綱作り)が行われる。現在でも、この日には綱引きと獅子舞が続いている。

陸軍病院第ニ外科壕 ❶

割取 (ワイトウイ) の場所の丘陵には沖縄戦の遺構が残っている。沖縄戦時、南風原にあった陸軍病院壕が南部に撤退した際、ここにあったガマ (洞穴) を第二外科壕として使用していた。ひめゆり学徒隊もこの壕にいた。1945年6月18日には、米軍の馬乗り攻撃を受け、引率教員二人に促され学徒達は壕から脱出し伊原第一外科壕 (アブチラ壕) へ向かった。その伊原第一外科壕で解散命令が下され、そこから教員と学徒が戦場を逃げて喜屋武海岸に辿り着く。この先は海で米軍艦隊が艦砲射撃をしている。そこで二人の教員で自決と生き残ることで意見が分かれ、ほとんどの生徒たちは生き残ることを主張した教員についていくことを決め、その場を去ったそうだ。ひめゆり学徒隊が去った翌日に米軍の攻撃を受け、この壕に残った人たちは多くが犠牲になり、この壕は埋没していたのだが、掘り起こされ、後世に伝えるための戦争遺構として保存維持されている。洞窟内にコンクリート製の水タンクと思える建造物が見え、その奥に洞窟が続いている。入っていけそうなのだが、危険もあるだろうから断念。壕の横には「ぬちとうたから」碑が建立されている。以前は「守魂の塔」という慰霊塔があり、この周りに散乱していた遺骨をこの壕に納め納骨堂としていた。その後、戦没者墓苑への集約され、慰霊塔は撤去され、この碑が造られた。「ぬちとうたから」は「命は宝」という意味で沖縄の人はこの言葉を大切にしている。物事の判断の尺度にしている。沖縄で一般的には尚寧王が「戦さ世んしまち みるく世ややがて 嘆くなよ臣下 命どぅ宝」(争いの世が終わり、やがて弥勒仏の世が訪れる。臣よ嘆かないでくれ、命あっての物種だ。) と詠んだと知られているが、実際は1932年 (昭和7年) の戯曲『那覇四町昔気質』に書かれたものだそうだ。ただ、薩摩侵攻という難局で決断を迫られた尚寧王はこのように思っての事だっただろう。その後、沖縄戦を経験し、この言葉は反戦運動のスローガンとなった。

沖縄戦での糸洲集落の犠牲者は当時の住民149人のうち44名、30%で、他の糸満の集落に比較すると比較的少ないと数字上は見えるが、30%自体破壊的な率で、小さな集落での30%はかなりの打撃であることは明らかだ。


安里グスク

陸軍病院第ニ外科壕がある場所はかつては安里グスクがあったとされている。このグスクの詳細については判っていないのだが、第二尚氏王朝の第14代国王 (在位:1752年 - 1794年) の時代、1774年に、元々、安里集落があった国吉グスクの東からこのグスクの南側に移住させられた。琉球王朝は土地利用の統制の為の地割土地制度を寛文年間 (1661 - 1671) に施行し、村落の移動が首里王府の許可制となった。農地として使える土地にあった集落は強制的に移住させられている。この安里集落もその一環として移住させられたのかもしれない。このグスクはこの地に移ってきた後に造られたのではないかと推測されている。そうであれば、城郭としてではなく、聖地としてのグスクであろう。発掘調査では屋敷跡らしきものが発見されているので、安里集落のリーダーが屋敷をここに置き、御嶽も設けて祭祀を行っていたのだろう。昭和20年の集落地図では、この安里グスクの前方に8戸程の小さな集落があり、国頭門中の屋号が6戸を占めている。安里グスクはこの国頭門中の村元 (ムラムトゥ) の屋敷だったかもしれない。強引に林の中に入り、グスクにあった安里之嶽を探すが見つからなかった。グスク内の石垣は沖縄戦以前に取り壊され、土木工事や海岸埋立などに用いられ、現在はほとんど遺構は見られないそうだ。


安里の嶽 (アサトゥヌタキ) 7⃣ [未訪問]

グスク跡地の雑木林内で安里の嶽 (アサトゥヌタキ) を探すが、見つけられなかった。色々調べるも写真も見つからない。「琉球国由来記」の「安里ノ嶽」にあたると考えられている旧安里ムラの拝所で、かって糸洲ノロが祭祀を行っていた。

古井泉 (フルガー) ② [未訪問]

グスクの南の入り口付近に古井泉 (フルガー) があるとガイドブックに書かれていたので、地図に示された場所に向かうが、草が腰まで生い茂り、草をかき分け探すが見つからなかった。ここを見つけた人がンターネットで写真を掲載されていた。この井戸は旧安里ムラの人々の主な水源だったそうだ。その西側には旧集落につながるカーミチ (井泉道) と呼ばれる道があった。ガイドブックには神道 (神道) となっており、安里之殿とこの井戸、そして獅子屋を結んでいる。

カーウィーガーグワー ③ [未訪問]

フルガーの北側にも小さなカーがあるとなっていたが、この井戸も見つからなかった。安里集落の国頭門中にカミンチュ (神人) がいたころは、ウマチーのカー拝みで拝んだそうだ。は所tなっていれば旧安里村から拝所には必ず道があるはずだが、今は拝んでいないのか道らしきものも見つからなかった。(この井戸跡の写真も見つからず)



神道 (カミミチ)

旧安里ムラの拝所と安里グスク、獅子屋の間には神道 (カミミチ) があったが、一部は道はなくなり草で覆われている。写真左は安里之殿からの道で、途中で写真右のように途切れ畑になっていた。この草が生い茂る畑の先に古井泉 (フルガー) があるのだが見つからず。その先には安里グスクの丘陵が見える。


ミャンカチ 9⃣

旧安里ムラには安里の宮とも呼ばれている神屋が残っている。ヒヌカンや香炉が祀られており、安里ムラの旧家とされる国頭 (クンジャン) 門中と字名城の海勢頭 (ウンスル) 門中がウマチーで拝んでいる。

安里の殿 (アサトゥヌトウン) 8⃣

ミャンカチから丘陵側に入ると安里の殿 (アサトゥヌトウン) の拝所がある。二つコンクリート造りの祠が建っている。どちらが安里の殿 (アサトゥヌトウン) なのだろうか?安里集落の大城門中がウマチーで拝んでいるヒヌカンと香炉を祀っているとあるので、写真上の方だろう。もう一つの祠は老朽化がかなり進んでおり、天井が壊れ、鉄パイプで補強されている。この場所は屋号 大城の住居があったのだが、現在は畑になっていた。

安里の殿 (アサトゥヌトウン) の横には別の神屋があるのだが、物置にもなっている。


旧安里村

安里グスクの南側、安里の殿 (アサトゥヌトウン) の周りには、かつては安里集落があったのだが、後に糸洲集落に吸収され、安里集落は消滅している。

村屋跡、サーターヤー跡 (糸洲公民館)

次は旧糸洲ムラ、現在の糸洲集落二向かう。まずは糸洲公民館。ここにはかつて村屋があった場所で、公民館の前にある広場にはサーターヤーがあった。


川上 (カーウィー) の神屋 2⃣

獅子屋の南、つまりかつての集落の北の端に川上 (カーウィー) の神屋がある。現在も人が住んでおり、その敷地内に神屋が建てられている。この川上 (カーウィー) 門中は代々糸洲ノロを派出しているヌル元で、琉球王朝時代は糸洲ヌルは糸洲・安里・小波蔵の祭祀を管轄していた。神屋内部には複数の香炉やヒヌカンが祀られており、ムラ行事で拝んでいる。昭和20年の集落内の区画地図では20戸がこの川上 (カーウィー) 門中の腹に繋がる家がある。集落内での有力門中だ。

ウーシンジョー 3⃣

川上 (カーウィー) の神屋の近くの道路沿いに、岩の拝所がある。ウーシンジョーと呼ばれ、高さ90 cmほどの岩が置かれている。戦前は周囲に松の木が生い茂って鬱蒼としていたという。ジューグャーの綱引きでは、この松の木の枝を利用して綱を綯っていた。現在はこの前の道路で綱引きが行われている。

新屋 (ミーヤ―) の神屋 4⃣

ウーシンジョーの前の道路を渡ると、そのブロックの一画に新屋 (ミーヤ―) の神屋がある。糸洲の祭祀を司る嶽元 (タキムトゥ) とされる新屋の屋敷内にあった神屋なのだが、今は空き地になっており、神屋だけが残っている。内部には香炉が7つ祀られているが、いずれの香炉も詳しいことは不明。

新井泉 (ミーガー) ①

集落内に大きな井戸が残っている。糸洲集落だけでなく、束辺名や上里の両集落の人々も生活用水などに利用したムラガー (村井泉) で、村のブガー (産井泉) でもあり、正月の朝に使うワカミジ (若水) や湯灌の水もここから汲んだ。現在は農業用水として使われている。井戸は「復興乃泉」と書かれている。この意味については判らなかったが、この井戸は戦後間もなくの混乱期に造られたものだそうで、沖縄戦後の復興を記念して、このコンクリートの囲いが2012年に造られ、「復興乃泉」と書かれたのだろう。井戸の上にはこの井戸を拝む香炉が置かれている。

糸洲グスク

丘陵には糸洲グスクがあるのだが、ここには2019年10月18日に訪れている。もう一度、見たくその場所に行くのだが、以前グスクに入った入り口は木々で覆われてしまっている。このような小さな集落では、ムラの御願の行事の時に草を刈るのだが、それ以外は草が伸び放題の状態。前に来たときは多分、旧暦8月15日のジュウグヤ (十五夜) の後だったので難なく入れたのだろう。次は旧暦2月15日のウマチー (麦穂祭) になる。

ということで、今回はグスク内には入らなかった。前回訪れたときの写真を掲載しておく。糸洲グスクについて記載している資料は少なく、歴史的な考察をしているものは皆無だった。発掘調査でグスク時代にあったものと考えられている。どのような性格のグスクか、誰がこの地を治めていたかは分からない。発掘調査で、石垣などの構造が伊敷グスクと似ているので、同じような用途であったのではないかと推測されている。糸洲按司が存在したかは不明だが、存在したとすると、この丘陵にお互いに近距離で、いくつものグスクがあり、真壁按司や伊敷按司などと同盟関係だったと考えられる。


東の殿 (アガリヌトウン) 5⃣

丘陵の雑木林に入ると道が奥に続いている。道の脇に側道がありそこを進むとちょっとした広場があった。そこには、円形に積まれた石積みの中央に木が生えている。これは東の殿 (アガリヌトウン 写真右下) で、糸洲集落では、ウマチーの際に、ウケーメー (おかゆ) や酒などを供えて拝んでいる。井戸跡のようなものもあった。 (写真左下) 資料では井戸があるとなっていたのでこれかもしれない。

西の殿 (イリーヌトウン) 6⃣

東の殿 (アガリヌトウン) から道に戻り奥に向かうと、広場が見えてきた。そこに別の拝所があった。西の殿 (イリーヌトウン 写真右下) だ。この拝所もウマチーでガジュマルの根が絡んだ石積みに供物を置いて拝み、最後に参加者でウサンデー (御願の後供物を「うさんでーさびら」といいながら下げて食することで、先祖のご加護が得られるといわれる。) するそうだ。


糸洲集落巡りは終了。旧真壁村の8つの集落の7つが終わった。名城集落が残っている。次回はその集落に向かう予定。

帰宅し、来年度の沖縄国際大学公開講座をチェックし、申し込みをしようと考えていたのだが、公開講座中止のお知らせが出ていた。昨年は半期ごとに中止のお知らせだったのだが、今回は善意、後期とも今の段階で中止になっている。感染状況で再開されることもあるように書かれているので、後期が始まる前にはもう一度チェックしてみよう。残念だが、当面は今やっているフィールドワークを続ける。


参考文献

  • 旧真壁村集落ガイドマップ (2019 糸満市教育委員会)
  • 糸満市史 戦時資料 (2013 糸満市教育委員会)
  • ぐすく沖縄本島及び周辺離島 グスク分布調査報告 (1983 沖縄県立埋蔵文化財センター)
  • 沖縄県戦争遺跡詳細分布調査Ⅰ南部編 (2001 沖縄県立埋蔵文化センター)

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