Okinawa 沖縄 #2 Day 83 (19/02/21) 旧真壁村 (6) Ishiki Hamlet 伊敷集落

旧真壁村 伊敷集落 (いしき)

  • 殿 (トウン) 1⃣
  • 村屋跡 (伊敷公民館)
  • 殿内のアサギ 2⃣
  • 根屋 (ニーヤ) 3⃣
  • 安里腹のアサギ 8⃣
  • クバオー (11)
  • ヌン殿内の元屋敷 (ムトゥヤシキ) ⑿
  • ニープルカン 4⃣
  • 伊敷グスク 5⃣
  • 古井泉 (フルガー) ②
  • 中の御嶽 (ナカヌウタキ) 6⃣
  • ヌン殿内のアサギ 7⃣
  • フルグムイ伊敷井泉 (イシキガ-)、二本松の壕 (トーンガマ) ①
  • ハブンカター 🔟
  • 竹山 (ダキャマ) ⒀ [未訪問]
  • トウックルグワー ⒁ [未訪問]
  • ウッカーガマ (糸洲の壕)、鎮魂之碑 ③
  • トウルルチ (轟、轟の壕、トルルシガマ、トロロンガマ) 9⃣


旧真壁村 伊敷集落 (いしき)

伊敷集落は糸満市内で最も小さな字で、標高60mの伊敷グスクの麓のなだらかな傾斜地に広がっている。大昔、大東島 (ウフアガリジマ) から久高島の伊敷浜に上陸したアマミキヨが、その後に現在の轟の壕に移り住んだといわれている。そこからこの地は伊敷の名飛ばれるようになったという伝承がある。

伊敷集落は現在は旧真壁村でも一番小さな字だが、明治時代は糸洲集落よりは少し大きかった。糸洲はその後人口が増えたのだが、この伊敷は人口は逆に減っている。

明治時代からの人口推移については、データがちゃんと取れておらず、はっきりと下人口推移はわからないのだが、傾向を見ると明治時代から徐々に人口は減っている。一時期は人口増加があったようだが、減少傾向であることは確かなようだ。人口は明治から30%減少しているが、世帯数は50%増加となっている。

世帯数の増加は元々の集落内ではなく、集落の外側で増えていることが、時代ごとの民家の分布図から見てとれる。

集落内を巡るとこの集落も空き家空き地が目立っている。空き地に神屋が建てられているところが多い。家が絶えたか、もしくは、集落から出ていった後も先祖から受け継いだ土地に神屋を建て、門中が祖先を祀る場所となっている。門中にとっては神聖な場所となっているので、部外者に土地を売ることはためらわれる。これが元々の集落の過疎化の原因となっている。今まで数々の集落を巡って出会った人たちの話からは、過疎化は問題である認識はあるのだが、村おこしで移住者を期待するような想いはない。それよりは先祖からの土地を維持しながら、過疎化が進んでいくことを選んでいる。部落住民は住居なる集落の外には農地を所有しているのだが、本当は農地もそのまま残しておきたいのだが、若者は農家は継がず高齢者が農作業を細々と続けている。息子たちが自分たちの後は農地は売ることもs方がないと思っているようだ。ただ集落内の土地だけは売ってほしくないというのが息子たちへの願いだそうだ。沖縄は門中意識が非常に強く、これが沖縄の独特の文化風習を維持しているドライバーだが、同時に行政にとっては街づくりの中で無視できない要因の一つで、その複雑さがある。

このように空き家には神屋が建てられている。このような場所がいくつもある。

集落内で見かけた沖縄伝統の赤瓦平屋の民家。一つは空き家になっている。


旧真壁村集落ガイドマップ (2019 糸満市教育委員会) の伊敷集落の文化財


文化財訪問ログ


殿 (トウン) 1⃣

まずは集落の中心だった村屋を目指す。村屋跡 (伊敷公民館) 前の広場の一角に香炉が3つ置かれた殿 (トウン) があり、ここは「琉球国由来記」に記載のある「イベノ前殿」だと考えられている。戦前はシジダカサン (霊力が高い) といわれて、草木1本採ってはならない神聖な場所とされていたという。殿 (トウン) の前には形式保存された井戸跡があり香炉がある。


村屋跡 (伊敷公民館)

殿 (トウン) の前に村屋跡があり、現在は伊敷公民館になっている。この公民館の前は広場になっており、村の行事が行われる。


殿内のアサギ 2⃣

村屋跡広場に面しているブロックの一画に伊敷集落の国元 (クニムトゥ) といわれた殿内 (ドゥンチ) 腹の本家でもある屋号 殿内の神屋がある。ここにはムラ獅子が保管されている。神屋の前にある大きなガジュマルの木の枝は、かってチナウチ (綱作り) に使われていた。現在でも十五夜 (ジュウグヤ) の祭りでは綱引きと獅子舞が公民館前の広場で行われている。

根屋 (ニーヤ) 3⃣

殿内のアサギから丘陵の上に農道が伸びている。その道を北に進むと根屋 (ニーヤ) の拝所がある。南向きに開いた祠で、ヒヌカンと3つの香炉が祀られ、さまざまなムラ行事で拝むが、それぞれ何を祀っているかは不明だそうだ。

安里腹のアサギ 8⃣

根屋 (ニーヤ) から農道を更に進むと別の拝所がある。里腹の神屋。内部は見れないのだが、いくつもの香炉が置かれている。

クバオー ⑾

更に道を進み安里腹のアサギ 奥には安里腹の古いアサギの跡があり、周辺は古い時代に安里の屋敷があった場所だという。古いアサギの横には丘陵の林の中に入っていく道があり、奥には岩陰に3つの香炉が置かれている。

ヌン殿内の元屋敷 (ムトゥヤシキ) ⑿

根屋 (ニーヤ) の前にはきれいに草が刈りこまれた広場がある。手入れがされているので、何か大切な場所なのだろう。屋敷跡ではないだろうか、この広場の北側の雑木林の中は古い時代にヌン殿内の屋敷があった場所だといわれ、そこにはは所が残っている。

ニープルカン 4⃣

ヌン殿内の元屋敷 (ムトゥヤシキ) の前の広場を突っ切ると、伊敷グスクへ通じる別の農道がある。その道端にニープルカンと呼ばれる拝所がある。戦前は松の巨木が門扉のように2本並んで生えており、拝所をぐるりと囲むように雑木が植えられていたというが、今は道路となっている。

伊敷グスク 5⃣

伊敷グスクは集落北の登り口から、緩やかな坂道を登り切った標高60mのところにある。このグスクも南山城の出城で、伊敷按司の居城であったのだろう。三山時代には、伊敷按司は真壁按司の娘婿で真壁按司と行動を共にしていた。八重瀬按司であった汪英紫、その長男の達勃期、そして次男の南山王となった汪応祖に仕えていた。汪応祖が達勃期に殺害された後は達勃期側に寝返り、汪応祖の嫡男の他魯毎軍との戦いに巻き込まれている。達勃期の没後、その後を継いだのが摩文仁との説もあるが、この時には伊敷按司は隠居し、その子が伊敷按司を継いでいた。摩文仁の娘婿で会ったことから、摩文仁に味方をして、他魯毎軍と戦っている。真壁グスクが他魯毎軍に落とされた後、この伊敷グスクは包囲され落城、伊敷按司はここに立てこもっていた摩文仁の次男の摩文仁按司と共に捕らえられ、その後、島尻大里グスク (南山城) で、与座按司、真壁按司、摩文仁按司、新垣大親、真栄里大親、真壁之子、新垣之子と共に八人が処刑された。その後、伊敷グスクは他魯毎の家臣であった久米村出身の華人の李仲按司が入城したといわれている。

ニープルカンの農道から山の中に入る登り口がある。この登り口から中に昼と、綺麗に草が刈られた道が奥に続いている。終点にはグスクへの小さな城門跡が残っている。両側には石垣が残っている。

城門を入るとそこは広場になっている。この場所は伊敷按司の屋敷があった場所ではないだろうか?この広場には、いつ造られたのかは不明だが、二つの拝所がある。一つは小さいものだが、もう一つはそれなりの立派なものだ。

広場の奥に入り口らしきものがある。そこから中に入ると、小さな広場があり、ここにも二つの拝所がある。一つは北側の崖の上に置かれている。これも立派で古そうな拝所だ。このグスクの守り神なのかもしれない。その前に小さな拝所がある。アプシバレー (虫畔い) でムラが拝むほか、墓参時に門中が拝んでいる。

このグスクからはかつては360度見渡されただろうが、今は木々に邪魔をされ、木々の間から先日訪れた真壁集落が臨める。伊敷按司と親戚の真壁按司の領地だ。

北西方面は遠くまで臨める。


古井泉 (フルガー) ②

伊敷グスクの麓にある古い時代のカー (井泉) で、周囲に琉球石灰岩が巡らされた直径2 mほどの窪地で、ウカー(御井泉)、カミガー(神井泉)とも呼ばれた。とガイドブックには説明があるのだが、正確な場所は地図では特定できず、グスクン周囲を探した。農地で働ている女性にこの農地の裏に拝所があると教えられ行ってみるとガイドブックに掲載されていた写真と同じ拝所があった。井戸跡は草で覆われて良くは見えなかった。ここを探し当てるのは大変だろう。

中の御嶽 (ナカヌウタキ) 6⃣

中の御嶽 (ナカヌウタキ) も伊敷グスクの山麓にあると書かれていたが、場所は特定されていなかった。説明では大きな岩の周囲4か所が拝所になっているとだけで、写真もない。ここもグスクの周りを探し、たまたま農作業か工事現場の飯場になっているんかプレハブ小屋に作業員が何人かいたので、この中の御嶽ン場所を聞くも、誰も知らないとの答え。プレハブ小屋の裏に山への道があり、名は知らないが拝所があるという。多分そこだろうと思い行くと、確かに4つの香炉が言わん前に置かれていた。ここが中の御嶽 (ナカヌウタキ) だ。ここも見つけるのは大変だろう。

ヌン殿内のアサギ 7⃣

グスクから集落に戻る。集落の東の端に今は新しい家に建て替えられている屋号 ヌン殿内の屋敷の一角に造られた神屋がある。中は見れなかったが、神棚には8個の香炉が置かれており、右からノロ、嶽元、南山、大城世、玉城世を祀ったものだといわれ、残りの3つは門中のカミンチュのものであるという。門中祭祀で拝むほか、アプシバレー (虫畔い) などムラの祭祀でも拝まれている。

フルグムイ

ヌン殿内のアサギの北、集落の端にクムイ (溜池) がある。フルグムイと呼ばれ、池の周りは石垣で囲まれ昔の形を今でも残している。池には何本もの給水ホースが設置されて、今でも農業用水として使用されている。


伊敷井泉 (イシキガ-)、二本松の壕 (トーンガマ)  ①

字伊敷のンブガー(産井泉)で、かっては水が澄んでいることで知られていた。ゆるやかな階段を降りた洞穴の中に水汲み場があり、日中でも薄暗いことからクラガー (暗井泉) とも呼ばれたという。日照りが続いたときに、犬によって発見されたという伝承も残っている。この伝承を聞くのは何度目だろう。ただ、これは実際に起こりえる可能性は高いので、沖縄各地にこの伝承が残っているのは納得がいく。

水場の奥には鍾乳石の洞窟が続いている。このガマは二本松の壕 (トーンガマ) と呼ばれ、沖縄戦では伊敷の住民の避難壕として使われていた。この後訪れるウッカーガマや轟壕と地下水路で繋がっている。この壕やウッカーガマには豊見城から移動してきた山第二野戦病院が避難してきて、使われていた。


ハブンカター 🔟

集落の西の外れ、トウルルチ (轟の壕) への道路沿いにハブンカターと呼ばれる拝所がある。何とも無造作に白ペンキで「拝所」と壁に書かれているのですぐにわかった。2つに割れた岩がある拝所で、岩肌にハプのような模様があることから名付けられたという。昔、岩の間から龍が出てきて、天に昇ったという言い伝えも残っている。

伊敷井泉 (イシキガ-) からウッカーガマ (糸洲の壕) に向かう道の途中に竹山 (ダキャマ) とトウックルグワーという二つの文化財があるとガイドブックでは記されていた。大まかな場所は書かれているので、そのあたりに行き探すも、見つからなかった。後日もう一度探す機会のために、説明だけでも残しておく。


竹山 (ダキャマ) ⒀ [未訪問]

複数の門中がジュールクニチー (十六日) など墓参の日に拝む古墓で、かってのムラ墓だったのではないかといわれている。

トウックルグワー ⒁ [未訪問]
安里腹と殿内腹のアジシー (古墓) がある拝所。ウンジャーとも呼ばれるが、これは古い小地名だという。かって入口に養鶏場があったため、トウイヤーの拝所とも呼ぶ。

ウッカーガマ (糸洲の壕)、鎮魂之碑 ③

ウッカーは集落から離れた字伊敷の前原の字糸洲に近い場所にある糸洲の壕の中にある水源で、かつては、夏場にイシキガーが減水して使えなくなった時に使ったそうだ。このウッカーがある洞窟は、ウッカーガマと呼ばれ、壕の中の反対側はウンジャーガマと呼ばれている。ウッカーは地下を流れて、トウルルチ (轟、轟の壕) に通じている。

沖縄戦では糸洲住人がここに避難していた。この地は沖縄積徳高等女学校学徒も動員された第24師団第二野戦病院 (山3487部隊小池隊) 最期の地として知られ、壕の上には鎮魂之碑など2基の慰霊碑が建てられている。この戦争遺跡には2019年10月15日にも訪れた。その日は壕の中に降りていけたのだが、今日来てみると、壕への降り口は金網で閉鎖されて降りていくことはできなかった。理由はわからないが、年ごとに戦争遺構、特に壕関係は崩落などで維持が困難になり見学を中止するところが目立ってきている。管理している地元は地方行政機関に維持のための経済的援助などを要請しているが決してうまくいっていない。(後でわかったのは、以前は平和学習のガマとしても利用されていたのだが、ガマ周辺の農家からクレームが出て、現在は洞口前に柵を設け、関係者以外立ち入り禁止となったそうだ。) ここに掲載する写真は内部まで写真に収めることができた前回訪問時のもの。


沖縄積徳高等女学校学徒隊 (ふじ学徒隊) の足跡

  • 沖縄積徳高等女学校の前身は、1918年 (大正7年) に那覇市松山町大典寺内に和家政などの私塾として開設。その後変遷を経て、1943年 (昭和18年) に沖縄積徳高等女学校と改称。現在は沖縄積徳高等女学校はなく、女学校があった大典寺に2019年8月19日に訪問したが、境内には学徒たちの慰霊碑が建てられていた。
  • 1945年 (昭和20年) 2~3月 4年生55名が東風平国民学校にあった第2野戦病院壕で看護教育、実習訓練を受ける。しかし、沖縄戦の開戦が避けられない状況となり、実習は打ち切りとなり、卒業式は中止になっている。

  • 3月23日の夜、私立積徳高等女学校の女生徒25名は豊見城村の豊見城城址にある第二十四師団第二野戦病院 (2020年8月4日訪問) に配属された。ふじ学徒隊と呼ばれ、負傷兵の看護や手術の手伝い、水汲み、飯上げ、排泄物の処理、死体埋葬、伝令などで従事していた。西原・浦添方面から負傷した兵士らが次々送られ、一時、壕内には600名近い負傷兵であふれかえっていた。
  • 5月27日、首里の軍指令部まで米軍が迫ってきたため、第二野戦病院小池隊は糸洲の自然洞窟のウッカーに移動。移動にあたっては、負傷兵の歩ける者は部隊に帰し、重傷患者は「処置する」よう命令されていた。しかし軍医 小池勇助隊長 (写真左下) は「本来なら患者を治してやるべき医者が、例え戦争中でも命を奪うのは忍びない」と、患者一人一人に励ましの声をかけ、枕元に水や乾パンと手榴弾を置いて別れたという。(豊見城を訪れた際にこの話を知ったのだが、その時は患者は置き去りにされたと聞いていたが実際は殺害命令を無視して助けたのだった) この軍医・小池勇助隊長は戦時中にあって命の尊さを説く珍しい軍人であり、最期まで学徒隊を守り犠牲を最小限に抑えた人物。
  • 6月17日、砲爆撃が激しくなり、衛生兵や生徒と傷病兵は洞窟の奥へ移動させられたが、壕の周囲は米軍が取り囲み、壕は馬乗り攻撃を受け、壕の上からボーリングし穴を開けガソリンを流し込んで火をつけたり、ガス弾を打ち込まれた。
  • 6月26日の夕方、生徒は全員満窟の入口に集まるように言われ、隊長から今日限りで全員解散すると命令され、生徒たちは、数名ずつ連れだって満窟を出ていき、猛攻撃の中、死の彷徨を続け、ある者は傷を負い、ある者は無傷のうちに米軍に収容。積德学徒隊のうち4名の生徒が死亡。

その後、小池隊長に野戦病院の解散命令が届く。この解散命令とは実際には玉砕命令。小池隊長は学徒隊の命と軍命の狭間で悩むのだが、解散命令を握りつぶし、壕の中で解散の時期を探ることにした。 6月26日になって、沖縄守備隊第三十二軍牛島中将・長参謀自決の報を受け、小池隊長は日本軍の敗北を知り、そこで小池隊長は危険が少なくなったと判断し積徳学徒隊に解散命令を出した。解散にあたって小池隊長は学徒隊を集め、「日本は戦争に負けた。長い間、軍に協力してくださりご苦労だった。負ける戦だと分かっていれば、君たちを預からなかった。親御さんに何とお詫びしたらいいか、本当に申し訳ない」と謝罪し、頭を下げたという。米軍に捕らえられるくらいなら自決を選ぶと言う少女たちに対しては、「捕虜になることは恥ではない、本当の恥は死ぬことだ。決して死んではいけない。必ず生きて家族のもとに帰りなさい。そして凄惨な戦争の最後を、銃後の国民に語り伝えてください」と訓示し、一人一人握手をし、学徒隊を送り出した。解散命令が、沖縄戦の戦闘が終了した後のことであったので、学徒隊25名のうち、戦争の犠牲となったのは3名で、22名が生還。解散の翌日、恐怖のため糸洲壕から遠く離れることができなかった学徒隊の一人の少女が壕に戻り、服毒自決した小池隊長の変わり果てた姿を発見したという。この小池隊長の行動は素晴らしい。今では、彼の行動を本来すべきものとさらりとすましてしまうのだろうが、ほとんどの人が戦争という異常な状態で精神や性悪の判断が麻痺していた時に、大勢に逆らい信念で生き死んでいった。普通の人には出来ないことだ。多くの生徒が生き残った積徳高等女学校の学徒は小池隊長にいつまでも感謝をして語り伝えていたそうだ。地元のガイドさんは必ずこの小池隊長の事を話をしてくれる。積徳高等女学校の学徒はあの悲惨な体験の中で小池隊長という感動を得ている。小池隊長は自決したが、今でも彼の精神が語り伝えられている。(2012年にこのふじ学徒隊についての短編映画が上映されている。)



トウルルチ (轟、轟の壕、トルルシガマ、トロロンガマ) 9⃣

ウッカーガマ から字伊敷と字小波蔵の字界付近に位置しする、トウルルチガマ (轟ガマ) と呼ばれる巨大な自然の洞穴に向かう。轟の壕は、東西におよそ約140メートルに延びている。

この轟の壕には2019年10月15日に訪れている。この時には修学旅行の平和学習で来ていた多くの高校生と一緒に内部を見学しガイドさんの説明を聞いたのだが、今日は誰もおらず、ひっそりとしている。二年前に沖縄の戦争遺構を巡った時には、いつも修学旅行生を見かけた。沖縄では平和学習としてこの轟壕、先ほど訪れた糸洲壕、マヤーガマ、、山城本部壕、アンディラガマ、白梅の塔下のガマ、糸数壕、ちびちり、シムク(読谷)、南風原陸軍壕などへのツアーを企画しているのだが、昨年、今年と新型コロナ感染の影響で、ほとんど修学旅行はなくなっている。平和学習は沖縄の観光業界にとっては大きな収入源だったので大打撃を受けている。今日は見学者は自分ひとり、入り口に昨年10月に洞窟で崩落があったので注意を促していた。自転車ライトを持って中に降りていく。

このガマ内には拝所が4か所あり、このうちの1か所はアマミキヨの墓だという伝承があるが、どの拝所がそれにあたるのか詳細は不明。

ガマ内には先に訪れたウッカーやか伊敷井泉 (イシキガ-) から川が流れており、その水場はトウルルチと呼ばれていた。川が流れる先は池になっており、沖縄戦当時は死体が浮かんでいたとの証言もある。生き残った住民の回想では、水をのむために水辺にきてうつぶせになって死んでいる者、水をのみにはい出してきて死んだ母親の乳房にすがりついて、ぐったりしている赤ん坊。水中にうつぶせになった女の長い髪の毛が、ゆらゆらと生きもののように水中にゆれていた。壕の中は刻々と腐臭がみなぎっていた。腐肉とウジと血と糞便がどろどろに溶け合った泥水が、岩間を伝って下の方へ流れていた。という。

洞窟内は真っ暗で足元が悪い。天井からは水滴が落ちてくる。内部はかなり広くちょっとしたホールという様な場所もある。一人だけなので少し不気味な感じもする。この場所に男百人もの人たちがひしめき合って避難していた。何か月も光のないこの洞窟内で過ごしていたのかと思うとその悲惨な光景が浮かんでくる。

このガマは今まで見たガマの中でもかなり大きく、見学ができるガマの他にも二つほど別のガマへの入り口があった。岩などが崩れて埋まっているところもあったので危険かもしれないと思い中への侵入は断念。

この豪沖縄戦が始まる前から、周辺住民の避難壕として整備、使用されていた。戦中は最大1000人以上の住民や日本兵が避難していたとされる。生存者の証言によれば、日本軍による避難民への暴行、虐殺で多数の犠牲者を出したそうだ。この轟壕で起こったことをNHKが取材しドキュメンタリー「沖縄 出口なき戦場」という番組で詳しく取り上げられていた。書物で読んだものより悲惨さが伝わってくる。


  • 1945年 (昭和20年) 6月5日、当時の島田叡 (しまだあきら) 沖縄県知事以下、県庁職員幹部がこの壕に避難してきた。同月15日に、島田知事は、部下に行動の自由を与えるため警察部を含む県庁解散を宣言。これにより「沖縄県庁最後の地」とも言われている。その後、島田知事は摩文仁の軍司令部壕に向かうため壕を出ていった。
  • その後、銃剣などで武装した日本兵十数人が入り込み入り口付近を占領し、住民や県庁職員は壕内の湿地帯に追い立てられた。民間人の居る場所との境に石や木でバリケードを築き、出入口近くに歩哨を立て、情報が米軍に漏れることを恐れ、だれも壕外へ出ないよう厳重に見張っていた。軍官民雑居の状態となる。
  • 6月18日、米軍によりガソリンや爆薬の入ったドラム缶落とし込むなどの「馬乗り攻撃」が始まり、兵や住民たちが火傷し死傷者が出る。兵隊に食糧あさりで手持ちの食料を取り上げられ、食料を探しに外にも出れず、住民の中には衰弱死するものも出ていたが、日本兵は住民の脱出を許可しなかった。暴行や、壕内での住民の虐殺などが起こっていたこのような状況で、住民は米軍よりも日本兵に対して恐れが高まり、怒りに変わっていった。住民が女と子供だけでも壕の外に出す許可を日本兵求めるも銃殺すると脅され、投降はかなわず。
  • 6月24日に洞窟の中に懐中電灯で照らされ、米軍が殺しに来たと一瞬恐怖におののいたが、『私は宮城だ。みんな壕の外に出なさい。出てもちっとも危険はない。米軍がみなさんを救いにきたのだ』とすでに捕虜となっていた県民の説得により約600人の住民が半信半疑で投降し、米軍に保護された。 この時の写真が幾つか残っている。(下の写真)
  • 米兵は、保護した住民に壕内に残って日本兵を爆雷で殺していいかと尋ね、みんなは『いい』と答え、飲み物や食べ物をあてがわれ車で北へ向かう途中で爆発音聞こえたとき、安堵感があったとの証言もある。同じ様なことがいくつもの壕で起きていたそうだ、はじめこれを読んだとき、なぜ米兵がそのようなことを住民に聞くのかと疑問が沸いたのだが、米軍は保護した住民から日本兵の住民に対しての暴行や虐殺を聞いていた。いつしか米軍は沖縄は日本に蹂躙されていると考えるようになったのではないだろうか? 戦後、米国政府は、奄美大島と沖縄を日本から独立させる計画であったことも分かるような気がする。

沖縄戦当時、伊敷集落の人口は103名で、そのうち戦没者は49名だった。住民の約半分がこの戦争で亡くなっている。この伊敷も激戦地だった。

誰もいない壕の見学は緊張する。壕を出て、休憩をする。その時に目に付いたのがハイビスカスの花、沖縄では色々な色や種類のハイビスカスが至る所で咲いている。ほぼ一年中見ることができる。この花を眺めていると、何となく落ち着いてくる。

これで伊敷集落の散策は終わった。伊敷集落は小さく、文化財の数も多くないので、まだ日没には時間が余っている。糸満の海岸線をポタリングして形式を見ながらゆっくりと帰ることにした。

伊敷から、先日訪れた小波蔵に行き、そこから海岸線に降り、字真栄里の海岸線を走る。砂浜にはキャンプをしているグループも見かけた。夏場は海水浴で賑わうのだろう。

真栄里の海岸を抜けると埋め立て事業で造られた住宅地域の潮崎町に入る。ここに新しいデザインの一戸建ての住宅街で、居ないで見かける無機質なコンクリ―ト造りの家とは全く異なる。ここが沖縄かと思うくらい近代的な街が造られている。海岸にはビーチも造られ、ショッピングモールや立派な糸満市役所があり、糸満市の中心地となっている。住宅街は家の間は十分な空間が保たれて、落ち着いた街並みとなっている。住むならこんなところが理想と思う。那覇までも15キロ程で、買い物にも不便はない、海岸線はビーチと公園が長く続き散歩やジョギングにも気持ちがよさそうだ。いったいいくらぐらいで家が買えるのかと調べると、たまたま写真に写っていた三階建ての家 (写真左下) が売りに出されていた。オーシャンビュウで土地200平米、建物鉄筋(RC造)170平米、4LDK(和 10 / 洋 6・6・6 / LDK 20)、一階駐車場 (4台) 、築2006年で1.2億円也。この家は別格だが、中古住宅なら3LDKで4000万円からある。東京と比べれば、半額といった感じ。

ここからは糸満港と糸満の旧市街が臨める。海はエメラルドグリーンだ。これで海岸線のポタリングは終わり、内陸部を突っ切り家に向かう。


参考文献

  • 旧真壁村集落ガイドマップ (2019 糸満市教育委員会)
  • 糸満市史 戦時資料 (2013 糸満市教育委員会)
  • ぐすく沖縄本島及び周辺離島 グスク分布調査報告 (1983 沖縄県立埋蔵文化財センター)
  • 沖縄県戦争遺跡詳細分布調査Ⅰ南部編 (2001 沖縄県立埋蔵文化センター)
  • 尚巴志伝 (酔雲)
  • 沖縄戦国時代の謎―南山中山北山久米島宮古八重山 (2006)

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