東京 (08/04/21) 江戸城 (21) 内曲輪16門 / 内濠 (4) 半蔵門

  • 千鳥ケ淵戦没者墓苑
  • 千鳥ケ淵
  • 英国大使館
  • 海嶽楼跡
  • [半蔵門]
  • 平河天満宮
  • 中坂
  • 貝坂
  • 平河梅林坂
  • 諏訪坂
  • 富士見坂
  • 弁慶橋
  • 清水谷
  • 紀伊藩徳川家 (上) 中屋敷跡 (清水谷公園、東京ガーデンテラス紀尾井町)
  • 大久保利通終焉地
  • 清水谷坂
  • 紀尾井坂

今日は東京滞在の最終日。8泊9日だったがあっという間に過ぎた。最終日の今日は田安門から半蔵門までの間にある史跡を巡る。午後には自転車を土肥さん宅に預かってもらう為そこまで行くので、四時間程しか時間が無いので、多くは訪問出来ない。



千鳥ケ淵戦没者墓苑

靖国神社のすぐ近くにある千鳥ケ淵戦没者墓苑は、1959年 (昭和34年) に国によって建設され、戦没者の遺骨を埋葬してある無名戦没者の墓。大東亜戦争に於いて海外の戦場で戦没した軍人及び民間人で身元などが判らず引き取りがされなかった約37万柱が収められ、慰霊追悼されている。ここに眠る戦没者者は靖国神社には祀られていない。靖国神社が一方的に決めている規定から外れた軍人と民間人だからだろう。また、靖国神社の祭神はそこに祀られている軍人全てとなるが、ここはは共同墓地と慰霊碑で、神として祀られているわけでは無い。ここを訪れて改めて靖国神社の運用に対しては疑問が深まった。個人的には祭神としてよりは慰霊とすべきとは思う。殆どが人は来ていない。観光地化された靖国神社とは違い、慰霊の為だけに来るだろうから、当然少ないのだろう。

遺骨が収められている六角堂と墓苑内にある慰霊碑など。


千鳥ケ淵

田安門から半蔵門まで北の丸公園に沿った江戸城の濠が千鳥ヶ淵と呼ばれ、桜の名所だ。濠に沿って長い遊歩道がある。生憎、先週で桜の時期は終わってしまい、桜満開の景色は見れなかった。江戸開府当時の千鳥ヶ淵は、水を確保するためのダムとして使われていた。千鳥ヶ淵の名は、冬に都鳥などが多く集まるところからきたとも、V字型の濠が千鳥に似ているからともいわれている。


英国大使館

日本における英国大使館は1859年 (安政6年) に高輪東禅寺に置かれた英国総領事館に始まる。その後、東禅寺事件により公使館員が殺傷されたため、公使館は横浜に移った。明治維新後、多くの大名屋敷が空になったので、1869年 (明治元年)、公使館を三田上野沼田藩の下屋敷跡に移しった。1872年 (明治5年) には七戸藩上屋敷、櫛羅藩上屋敷、七日市藩上屋敷、旗本水野兵部の屋敷跡を合わせた土地に、ほぼ永久貸与条件で移された。ここが現在の英国大使館となった。大使館の正面ゲート近くにアーネスト•サトウが植樹した桜の木があり、記念碑が建っている。

海嶽楼跡

大使館の前の道の半蔵門側に海嶽楼跡の案内板があった。海嶽楼は幕末の儒学者安井息軒の住居と塾だそうだ。息軒は1853年 (嘉永6年) に米艦来航の際、「海防私議」を著わした人物。昌平黌の教官もしていた。海嶽楼は1868年 (明治元年) に焼失している。


半蔵門

1620年 (元和6年) に搦手門として建築された半蔵門は城の西端に位置し、まっすぐ甲州街道に通じている。大手門とは正反対の位置にあり、服部家の部下である与力30騎、伊賀同心200名がこの門外に組屋敷を構え、四谷へと通じる甲州街道沿い一帯が旗本屋敷で固められ、非常時に将軍を甲州街道から幕府の天領である甲府へ避難させる目的があったとされる。

半蔵門には土橋で通じており、橋の北側は半蔵濠、南側は桜田濠となっている。半蔵門を入ると吹上御庭 (現在の吹上御苑) で、隠居した先代将軍や、将軍継嗣などの住居があった。天皇・内廷皇族及び秋篠宮家の皇居への出入りには、主にこの門が用いられている。太平洋戦争で門は焼失し、和田倉門の高麗門を移築している。半蔵門の名称については、この門の警固を担当した服部正成・正就父子の通称「半蔵」に由来するとする説と、山王祭の山車の象の作り物が大きく半分しか入らなかったことする説がある。


平河天満宮

江戸平河城城主太田道灌が、1478年 (文明10年) に城内の梅林坂上に社を創建したのがこの平河天満宮の始まり。1590年 (天正18年) 徳川家康が江戸入城後、本丸築造で上平河村に移された。さらに1606年 (慶長11年) に、徳川秀忠の時代に江戸城増築を行った際に、現在地に移る。平河天満宮は紀州尾張両徳川家、彦根藩井伊家の祈願所になり、幕府からは格式の待遇を受けていた。
境内にある手水場、稲荷神社と神楽殿。
鳥居をくぐった所にある常夜燈は菅原道真の950遠忌であった1852年 (嘉永5年) に造られていると書かれている。170年ほど前のもの。左右2基あったのだが空襲で一基は壊れてしまい、こちらの常夜灯のみ残った。
天満宮なので、恒例の牛の像が五体もあった。時代が過ぎるにつれて、寄進で増えていったのだろう。この牛も1852年 (嘉永5年) に寄進された古いものが残っている。境内には筆塚や力石、百度石 (1852年 嘉永5年) も残っている。
狛犬も古いもので1801年に麹町の住民によって寄進されたもの。220年も前のもの。この二体の左側が狛犬で右が獅子で狛犬には角があるそうだが、この位置からは角が見えないのでどちらが狛犬かは確信が持てない。殆ど同じで、たてがみの模様が異なっている。


中坂

平川天満宮があるブロックの横の道は中坂という緩やかな坂道。この坂は江戸時代初期にはなかった。ここあたり一帯は旗本御家人の武家屋敷が密集していた。1704年 (宝永元年) にこの北に町屋 (麹町のことだろう) ができ、南側の武家屋敷地域との境に坂道が造られた。境にあるので中坂と呼ばれたそうだ。


貝坂

中坂を登って進むと貝坂という急な坂と交差する。この近くに貝塚があったことからそう呼ばれたそうだ。半蔵門外一帯は古くは貝塚という地名で呼ばれていた。また、ここには甲州街道の一里塚があったので土地の人は甲斐坂と呼んでいた。


平河梅林坂

貝坂を下ると平河梅林坂という坂道がある。ここは平河町で、以前2年程、この向かいのビルで働いていたので、何度も通った道。この坂道は昔からあったのではなく、近年にこの地区をオフィス地域として開発した時に坂皇居東御苑にある梅林坂の名をとって造られた。


諏訪坂

平河梅林坂を登と突き当たりに道があり、その道を赤坂見附に向かうと赤坂見附門跡のところが下り坂になっている。この短い坂が諏訪坂と呼ばれていた。かつては諏訪氏の邸宅があったのでこう呼ばれたそうだ。坂の上には赤坂プリンスホテル跡地に建てられた赤坂プリンス クラシックハウスがある。


富士見坂

諏訪坂を下ると広い道路に出る。江戸時代には富士山がよく見通せることから、町名とともに坂の名になったと考えられている。この坂は赤坂見附門があった場所だ。赤坂見附門跡越しに赤坂プリンスホテル跡地に建てられた紀尾井タワー (左) と紀尾井レジデンス (右) が見える。

弁慶橋

富士見坂を下り、赤坂見附に交差点にあり濠に架かっているのが弁慶橋


清水谷

弁慶橋を渡った所は清水谷という場所。道の右側には紀伊藩上屋敷があった。傾斜地なのでここが谷となっていたのだろう。紀伊藩上屋敷地から清水が湧き出ていたことから清水谷と呼ばれていた。ソメイヨシノの時期は先週で終わってしまったのだが、まだ八重桜は花をつけている。


紀伊藩徳川家麹町 (上) 中屋敷跡 (清水谷公園、東京ガーデンテラス紀尾井町)

紀伊藩徳川家は初代紀州藩主の徳川頼宜 (徳川家康の十男) が1618年 (元和元年)、乾濠の西側  (現在の吹上御苑の中程) に竹橋邸を拝領したが、1657年 (明暦3年) の大火・振袖火事で焼失、その後、この場所の麹町に替地を拝領し上屋敷を置いている。この上屋敷も1823年 (文政6年) に焼失し、その後再建されず中屋敷となった。上屋敷の機能は赤坂中屋敷を上屋敷として使っていた。屋敷跡は清水谷公園と東京ガーデンテラス紀尾井町 (赤坂プリンスホテル跡地) となっている。

清水谷の由来となった湧き出ていた清水の井戸を復元している。偕香苑という茶室もあるがこれは屋敷とは関係ないもので、公園の造園後に寄贈されたもの。

公園内には大久保利通哀悼碑が建てられている。この公園の前の道が大久保利通が暴漢により命をおとした場所だ。

もう一つ玉川上水の石碑というのがあった。多摩川から江戸まで玉川上水で水を運び、江戸市中は暗渠で木樋や石樋で排水していたそうで、ここに展示されているのは石樋。今でいう上水管だが、江戸時代に既にこの様な大掛かりな工事が行われていたのは驚き。人の暮らしには水が重要だが、当時世界でも最も発展していた江戸の町はこのような都市整備によることが大きいと感じる。現代でも同じで、インフラ整備や住民サービスを拡充しないと地方活性化は実現しない。

[紀伊藩徳川家江戸屋敷: 麹町 (上) 中屋敷赤坂 (中) 上屋敷芝海手下屋敷]



清水谷坂

清水谷方麹町の町屋への道で紀伊藩徳川家上屋敷の北側に沿って走っている。住民からはシダニ坂、シタン坂と呼ばれていたが、これははシミズダニ坂が変化したものだ。

紀尾井坂

清水谷坂を下って、また登坂になる。この登坂が紀尾井坂だが、紀伊藩徳川家、尾張藩徳川家、井伊家の三邸がこの場所に鼎立していることから、それぞれの上の漢字をとって紀尾井坂と呼ばれていた。



ここで時間切れとなる。今回の東京訪問で内曲輪16門をすべてめぐる予定だったが、なかなか予定通りにはいかない。終日雨の日が一日あったのと、今回はゆっくりと見て回ったので、12門となり、残り4門は次回訪問時に巡ることになる。


内曲輪16門が終わるといよいよ江戸城内壕の中の見学となるのだが、現在は新型肺炎感染防止策としてすべて閉まっており見学はできない。数か月先になるがその時には再開していればよいのだが、新型コロナはなかなか手ごわそうで、数か月で正常に戻るかは難しいだろう。今回も新型コロナの蔓延で友人たちに会う事が限られた。この状況で会食に不安を持っている人もいるので、そのような人たちに連絡することは控えた。次回は会えるような状況に改善していることを望む。

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