Okinawa 沖縄 #2 Day 143 (09/11/21) 旧佐敷村 (3) Shinzato Hamlet / Shinkai Area 新里集落/新開地区

旧佐敷村  新里集落 (しんざと、シンザトゥ)

  • Emu's space 南城
  • 南城市 市役所
  • 沖縄民政府跡 (ユンイチホテル)
  • 平仲大主の墓 (未訪問)
  • 天次門 (天続城、アマチジョー) ガマ
  • 天済御墓 (テージンウハカ)、テージン井戸 (未訪問)
  • ヌル墓 (未訪問)
  • 根人墓 (ニーチュ) (未訪問)
  • 大主墓 (ウフスーパカ) (未訪問)
  • タク川の御嶽
  • 志仁禮久(しじんれいく) 阿摩彌姑 ( あまみきゆ) の墓
  • 御巣人御墓 (ウシジンウハカ)
  • 御巣人井戸 (ウシジンガー) (未訪問)
  • 並里御墓 (ナンザトゥウフハカ)
  • 手登根里之子の墓 (未訪問)
  • 中並里之子墓 (未訪問)
  • 藩坐那志の墓 (未訪問)
  • 池原御墓 (イチバルウフハカ、未訪問)
  • 池原井戸 (イチバルガー、未訪問 )
  • 西銘門中墓
  • 水路
  • 上の樋川 (イーヌ ヒージャー)
  • 並里 (ナンザト) 屋敷跡 (上嶺井門中神屋)
  • 土帝君 (トゥーティークン)
  • 宮城殿 (ナーグシクトゥン)
  • カタハライー井泉 (未訪問)
  • 佐銘川大主屋敷跡 (場天殿、場天御嶽、下場天御嶽、御天座神、上場天井泉、下場天井泉、伊平屋神、佐銘川大主の墓、場天ノロの墓)
  • イビの森
    • 御天竺
    • イビ御嶽
    • 場天御嶽
    • 場天殿
    • 伊平屋神
    • 上場天井泉
    • 下場天井泉
  • 佐銘川御殿 (サミカーウドゥン)
  • 農村公園 (佐久間門毛 サクマジョーモー)
  • 新里の殿 (シンザトゥヌトゥン)
  • 村屋 (ムラヤー) 跡
  • 石畳道
  • 昔産井泉 (ンカシンブガー)
  • 勢理客之殿 (ゼリカクヌトゥン、ジッチャクヌトゥン)
  • 勢理客の井戸
  • 上之井戸 (未訪問)
  • ヌル殿内 (ドゥンチ、東門 (アガリゾー))
  • 中樋川 (ナカヒージャー)
  • 新里公民館
  • 前道 (メーミチ)、馬場 (ンマイー) 跡
  • 徳森小 (トゥクムイグヮー)
  • 国元の神アサギ、村元の神アサギ (未訪問)
  • ダロー森 (ムイ)
  • 龕屋跡
  • メーヌカー墓
  • 桃原 (トーバル) 拝所
  • 西の竜宮 (イリヌリューグー)
  • 東の竜宮 (アガリヌリューグー)

新開地区 (しんかい)


先日と同様に、西原の島添大里の丘陵の上まで登り、そこから新里集落に降りていくルートで新里の歴史をたどることとした。



旧佐敷村 新里集落 (しんざと、シンザトゥ)

新里集落の発祥は名合原にあった名合邑から始まったとされている。アマミキョー族の二つのグループが、それぞれ玉城村仲村渠の明東 (ミントン) 経由と玉城村百名のヤハラヅカサ経由で玉城村下親慶原のアマチジョウガマに移り、近くの新里の沢川水源地付近での生活の後、西方のクールク水源地辺り (名合邑、または仲尾邑) に移り住んだ。これが並里 (ナンザト) 系統の始まりとなる。この頃からの旧家は並里と西銘 (ニシメ) で並里は沖縄戦で絶家している。西銘は代々ノロを出していた。
その後14世紀初期には佐銘川大主、手登年大屋、池原按司達が、村造りをしたとされる。16世紀以降には他の門中が合流し、共に農業や漁労で暮らしていた。17世紀初期には交通や農耕に便利な浜に近い真謝原や運座原あたり (古屋敷跡) に移住。 その一帯は名合原から下方にあたるので「下里 (シムサト)」と呼ばれ、それがシンザトゥとに訛り、新里と表記されるようになったいわれる。 移住した新里邑は、1737年 (尚敬王25年) に蔡温によって島添大里間切から佐敷間切に編入される。新里邑は土地が肥えて水田が多く、米、甘藷、甘蔗、大豆、野菜を栽培し、竹細工が盛んであった。その後1740年頃、当時の三司官の蔡温の農地政策により、沢川原や樋川原の傾斜地に移住されられた。 戦争以降には、交通の便も良く居住環境の良い真謝原や運座原に戻り、現在の新里集落となった。

現在の新里の人口は津波古、新開に次いで三番目に多い地区となっている。那覇に近く、交通の便が良い地域が人口が多い傾向にある。ただ、那覇への通勤は主に国道331号で与那原まで出て、そこからは国道329号の一本しかない。集落巡りが終わり帰途に着くときは、世間は帰宅時間で、いつも双方向とも、道路は混んでいる。那覇までは約10キロだが、自転車と自動車では所要時間はそれ程変わらないだろう。これは沖縄に共通する課題だ。

1932年 (昭和7年) から1946年 (昭和22年) までの人口データは戦争で書類が消失し、不明なのだが、終戦直後の人口は、多くに犠牲者があった事を考慮すると1931年 (昭和6年) の満州事変の頃の人口は863人ぐらいだったと推測される。1946年 (昭和21年) に沖縄刑務所が新里区桃原に新設され、1947年 (昭和22年) に新里区長作原に沖縄民政府が移転し刑務所と民政府の職員やその他の移住民などの世帯が転入してきた事で、人口及び世帯数が旧字時代のそれよりも3倍近くに膨れ上がった。当時は12カ班で字が構成されていた。その後、1948年 (昭和23年) に民政府、1950年 (昭和25年) に1952年には刑務所がそれぞれ那覇市へ移転。それに伴い、職員世帯も新里区から転出し新里区の人口及び世帯数は減少し5ヶ班に編成替えとなった。1960年 (昭和35年) の人口減少は前年1のシャーロット台風にによる地滑りで桃原ヤードイが大きな被害を受け、住民が他市町村や他字に移住した事による。 1980年 (昭和55年) の人口増加は長作原に設立された精神薄弱者授産施設のつきしろ学園の入園者世帯が転入して来た事による。1985年 (昭和60年) の人口減少は新開埋立地に新里から新開へ移住した世帯の影響と考えられる。

新里集落の沖縄戦

1945年3月末に老人と婦女子は国頭への疎開勧告で金武村の並里と中川に疎開。新里に残った区民は、米軍が沖縄に上陸した3月末から5月末までは場天門の中腹やタクガワチジンキの防空壕やタマサーのガマなどで避難生活をしていた。首里陥落後、5月下旬から米軍の南部への砲撃が激しくなり、新里も焦土作戦で火の海となり、ようやく避難指示が出て南部へ避難を始めた。新里に残った老人や避難途中の多くの区民が砲撃の犠牲になっている。沖縄戦を通しての新里の犠牲者は集落住民の28%にもなった。


敗戦後、6月中旬になると新里は捕虜収容所となり南部で捕虜になった人々が送られ、 新里ウマイー跡 (現駐車所) は鉄条網で囲まれて軍人軍属関係が収容され、一般住民はサクマジョウモウ道 (現農村広場の道) の東側低地の焼け残った家に入ったが、家に入れない人々は軒下や木の下などで生活をした。場天門の畑には米軍が駐屯していて健康な男性はそこの使役に駆り出された。7月上旬には久志村の辺野古まで移送され、東喜と二見に収容された。狭い土地の小さな集落に何千名という非難民が収容されたので、たちまち食料が乏しくなり栄養失調になったうえ、マラリアが蔓延して多くの人が死に追いやられたそうだ。

1946年 (昭和21年) 1月、南部 (島尻) 地区への帰還の移動が始まったが、新里は立ち入り禁止区域になり、大里村の稲嶺区、大城区、大見武区、玉城村の船越区、糸数区、当山区、百名区、仲村渠区、知念村の志喜屋区、山里区のハチーなどに分散して収容された。同年4月から佐敷村への入村許可がおり、新里村区民も6月初旬に故郷の土を踏むことが出来た。新里の焼け残った20数軒の家を仮り住まいとし、共同作業で農耕や住宅建築をはじめる。

その頃、新里の赤畑原に多数の米軍住宅があった。 津波古の高台には100台、200台、300台 小谷の高台には400台、 新里の500台と何百軒もの米軍住宅が建設された。その米軍住宅では多数の沖縄女性がメイドとして雇われていた。(写真は新里に建てられた500台の米軍住宅)


琉球国由来記に記載された拝所 (太字は訪問した拝所)

  • 御嶽: 上場天之嶽 (神名: サメガア大ヌシタケツカサノ御イベ、現在の場天御嶽)、下場天之嶽 (神名: コバツカサノ御イビ、現在の伊平屋神)、タコ川之嶽 (神名: カモリシマギシノ御イビ)、サクマチヤウノ嶽 (神名: 西森イシラゴノ御イベ、所在地不明だが、現在のイビ御嶽がそうでないかと考えられている)
  • 殿: 場天巫火神 (ノロ殿内の火の神)、場天之殿 (イビの森内)、宮城之殿勢理客之殿


新里集落でも、以前行われていた祭祀はかなり多くあり、その中には連日に及ぶものもある。合計48の祭祀があり、ほとんど一年中この準備に追われていただろう。

この内、現在集落全体として行われている祭祀は12に絞られている。最も多く拝まれているのはノロ殿内、次いで新里の殿と続いている。

公民館の前に新里内の文化財の案内板が二つあった。手持ちの資料とこの案内板で集落内を巡る。多くの古墓も記載されているのだが、どれも山の森の中にあり、見つけるのは一苦労だ。 (見つかった数の方が少なかった)


新里集落訪問ログ



西原の島添大里から真境名稲福を経由して進むと、字新里の行政区に入る。


Emu's space 南城

おこく橋の歩道橋を渡り、道を進むと、奇妙な物音がする、何かと思いそこに近づいてみると、柵の中にたくさんのエミューが飼育されている。エミューの鳴き声だった。6次産業計画に一貫としてNPOがエミューの飼育に取り組んでいる。南城市からもこの事業の人件費の補助があり、期待はしているようだ。まだ、繁殖に取り組んでいる段階の様で、この後の段階の加工、販売には進んではいないようだが、地元で農園を経営している方がNPO法人の「南城市の産業と文化を考える会」を設立し、6次産業で南城の活性化を模索し、これが「Emu's space 南城」のエミューで6次産業を興す計画に発展している。この農園では既に農産物や鶏などで、6次産業を実現しており、この新たな挑戦をおこなっている。まだ、事業化まではいっていないが、このエミュー農園は子供たちの見学、エミューとのふれあいに開放しているようで、南城市の人たちに夢を与える活動も行っている。NPOとして事業を立ち上げようとする団体は大いのだが、うまくいっているところは一握り。頑張って実用化までこぎつけてもらいたいものだ。

下り坂に変わり、その向こうに大きな建物が見えてきた。


南城市 市役所

南城市は2006年に、島尻郡の佐敷町、知念村、玉城村、大里村が対等合併して誕生。この合併には紆余曲折があった。当初は佐敷町、知念村、玉城村と与那原町で合併合意ができていたが、新市庁舎の位置で合意できず破断。時期を同じく、南風原町、東風平町、具志頭村、大里村で行っていいた合併協議もスムーズにはいかず、大里村が競技から離脱し、佐敷町、知念村、玉城村の教義に加わり、南城市が発足している。(なお、南風原町も協議から離脱し、東風平町と具志頭村のみ合併し八重瀬町となっている。) 旧玉城村役場を市役所本庁舎として使用。2018年に、この新里に新市役所本庁舎を移している。


沖縄民政府跡 (ユンイチホテル)

南城市 市役所の前にはユンイチホテルがある。斎場御嶽内にある霊域一つ寄満 (ユインチ) から名付けられたホテルだ。新型コロナの影響が続いているのだろう、ひっそりとしている。ホテル敷地内に併設されている猿人の湯という天然温泉は地元客が出入りをしていた。


このホテルの北側は沖縄戦後、1946年にアメリカ軍政下で沖縄民政府が置かれていた。

この沖縄民政府と同じように、奄美諸島には「臨時北部南西諸島政庁」、宮古諸島には「宮古民政府」、八重山諸島には「八重山民政府」が設立されている。当時のアメリカ政府は、この地域を日本から解放し独立国とすべきとの考えが強く、この米軍の統制下の民政府がいずれ独立国の政府に移行する思惑もあったようだ。(実際には、当初の理想は薄れ、沖縄は米国の傀儡政権となっていく。) ここに置かれた沖縄民政府は1949年に那覇市久米の旧上山国民学校に移転するまで使用されている。その後、那覇市泉1952年に琉球政府移転し、1972年の沖縄本土復帰までつづく。

このユンイチホテルの北東の丘陵斜面には、新里集落の前身にあたる名合邑があった場所。


平仲大主の墓 (未訪問 上之川原1396番地)

新里集落の祖先の平仲大主の墓あるそうだ。この墓を探すために、ホテル内の遊歩道から、入り口を探すが、見つからなかった。

この墓は、第一尚氏王統初代王尚思紹の父親の佐銘川大主から数えて7代目の氏族の長であった平仲大主のもので、平仲大主から6代目で世継ぎが絶えてしまい、その後は弟の下庫利大主の子孫 (石原勢理客、佐久真) の各門中が拝んでいる。位牌は佐銘川の神アシャギの屋敷内にある別棟に祀られている。


天次門 (天続城、アマチジョー) ガマ

県道137号線の西側の畑の向こうに横たわる丘陵の斜面の上部に尚巴志生誕の地と伝わるガマ跡がある。

天次門 (アマチジョー) ガマと呼ばれ、天続城ガマとも書かれ、別名をアマチグスクとも呼ばれている。苗代大親 (なーしるうふや、後の第一尚氏初代国王尚思紹) は佐敷間切新里村の豪農、美里子 (んざとぅぬしー) の娘と深い仲になり、うちに美里の娘は身ごもり、このガマで出産したと伝わる。親に内緒での出産で、一時は赤子を見捨てようとしたが、それもできず、ガマ戻ってみると、鶏が赤子を抱いて温め、犬が乳を与えていたという。己の誤りを恥じ入り、赤子を連れ戻り、親の許しを請い、苗代大親とともに大事に育てたその子が後に三山を統一した尚巴志となったという話。これには別バージョンもあり、美里之子の娘は、産まれたばかりの赤子のことを父に言い出すことができず、泣く泣く赤子の生命を絶とうとした。そこへ白髪の老人が現れ、「この子はただ者ではない」と言って、苗代大比屋のもとに赤子を届けた。老人によって助けられた赤ん坊だが、美里之子の娘は、どうしてよいかわからず、今度は赤子の尚巴志をひと目のつかないところへ捨てたのが天次門 (アマチジョー) ガマという。尚巴志の誕生の逸話は別にもあり、尚巴志が生まれ捨て置かれた場所は、佐敷にある苗代大親屋の屋敷跡に近い「つきしろの岩」とする伝承もある。こちらは赤子を抱いて温めたのは、鶏ではなく白鳥となっている。この天次門 (アマチジョー) ガマは標高160mの場所にあり、美里子の娘が住んでいた佐敷からは標高差120m以上もの急斜面なので、ここまで来たとは信じがたい。どちらにしても後世に尚巴志を神格化する作り話だろう。

急な斜面を登ると、コンクリート造りの拝所が見えてきた。拝所の中には4つの香炉が置かれその背後がガマになっている。祠からガマの中が覗けるのだが、暗くてよく見えない。沖縄戦当時は、住民がこのガマに避難していた。

天次門 (アマチジョー) ガマから上に上がる道があり、丘陵の上に出る。尾根に沿った道があり、道の行き止まりに拝所がある。岩の前に香炉が置かれ、その前にも、もう一つ香炉がある。資料には載っていない拝所で、詳細は不明。


この天次門 (アマチジョー) ガマ付近には、幾つかの古墓があると資料には出ていたが、はっきりとした場所までは書かれておらず、森の中に入り探す。

幾つか古墓か拝所らしきものはあるのだが、どれも資料にある写真とは異なる。木々が深く、これ以上探すのをあきらめ、次の文化財に向かうことにする。

再度、図書館で別の資料も辺り、機会あればもう一度探すことにする。その時のために、資料に掲載されていた古墓の情報は残しておく。



天済御墓 (テージンウハカ)、テージン井戸  (未訪問 長作原 1961番地)

天済御墓 (テージンウハカ、写真左) は、阿摩彌姑の四世の天済大神加那志のものと伝わっている。 長作原の上峰の口穴という洞窟のアマチジョーガマの岩を利用した按司墓風の古墓。ここにはグサイ (一鎖、関連) の天済井泉 (テージンカー、写真右) もある。 元祖は並里家 (ナンザトゥ、国元) に祀られている。墓は並里系の子孫が神清明祭などに拝まれているほか、各地からの参拝者も多い。井戸は同じく、並里系の子孫がハチウビー、 ウマチー等に拝んでいる。


ヌル墓 (未訪問 長作原1955番地)

このヌル墓は、佐銘川系統のヌルが葬られていると言われているが、年代などその他については不詳。岩を利用した雑石積みの簡単な古墓がある。勢理客 (ジッチャク) 門中が神清明祭等に拝んでいる。


根人墓 (ニーチュ) (未訪問 長作原1966番地)

根人とは、祭祀行事の際にヌルの下で補助役を勤める根人の墓と伝わる。 この根人は佐銘川系から出ていたそうだ。


大主墓 (ウフスーパカ) (未訪問 長作原の1896 番地)

この墓は 「新里大主、または嶺井大主の墓」 と言われている。 墓は長作原 (俗名シメーマ) にあり、大城ダムから東方約150m の崖の上の林の中にある。岩の洞穴を利用した簡単な按司墓だそうだ。元祖は国元の並里元祖と一つにな っている。 新里家門中が神清明祭 等に拝んでいる。

新里は北の海岸線から南の丘陵地頂上付近までが行政区域になっている。丘陵の上から、新里集落へ向かう道 (佐敷玉城線) は新里坂と呼ばれ、長い急な坂になっている。この坂を下っていく。



タク川の御嶽

新里坂の途中、上之川原のタク川山の中にタク川の御嶽がある。ここには、7月5日に旧玉城村親慶原の天次門 (アマチジョー) ガマを訪れた帰りに立ち寄っている。これで二度目の訪問。御嶽への道の途中にはの南西約20m、落差約10mの滝がある。 この近辺は、沖縄戦後、米軍が水源を利用して、貯水タンクを設置し、立ち入り禁止区域だった。この貯水タンクの設置が山崩れの一因になったともいわれている。この様な豊富な水源で新里は戦前は稲作が盛んに行われていた。田植えの前には、このタク川の御嶽に豊作を祈願し、終戦後米軍による道路拡張のため消失してしまったのだがフートゥンジャという一坪ほどの神田 (上之川原1339番地) に稲の初植えをした後、各農家は水田に植付を始めたと伝えられている。

滝を過ぎたところに、小石で囲い簡単な香炉を置いたタク川の御嶽があり、琉球国由来記には「タコ川ノ御嶽 新里村 神名 カモリシマギシノ御イビ。 バテン巫崇所。年浴之時 花米九合、五水四合、 神酒 (百姓)。 麦初種子・ミヤタネノ時、花米九合、芋神酒 (百姓) 供之。同巫祭祀也。」と記載されている。年浴と麦初種子・ミヤタネの祭祀が場天ノロによって執り行われていた。「琉球系図宝典」などによると、並里按司が国頭、 中頭、 島尻を巡行して五穀の栽培方法を広めた時代に、このタク川ノ御嶽ができたものと考えられている。


志仁禮久(しじんれいく) 阿摩彌姑 ( あまみきゆ) の墓 (上之川原1347番地)

タク川の御嶽と滝の間からウフドー山へ登る階段道がある。この山には幾つかの古墓が残っている。

この墓は琉球開闢の神の一世である志仁禮久(しじんれいく) 阿摩彌姑 ( あまみきゆ) のものという。二世の天美人 巣出美人夫妻もこの墓に葬られている。沖縄で一般的に説明されているのが、琉球神話によると一世の二人は天から降りてきて国を造り、その子天帝の長男が天孫子で天孫氏王統を始める。本土の日本神話とほぼ同じで、イザナミとイザナギと対比できる。18000 ~ 20000年前の事だそうだ。この様な話は沖縄各地にあり、墓とされているのも複数ある。ただの作り話と考えるよりは、当時の人々の信仰を表していると考えた方が良いだろう。

志仁禮久 阿摩彌姑の墓は急な坂道を登った所の崖にあるのだが、昔は崖下の洞穴の簡単な按司墓で、墓の前庭から水源地まで平坦だったのだが、1887年 (明治20)年) 頃の大雨で、この一帯が地滑りで崖崩れや落盤があり、墓も流され、落盤でこの様な崖になり、滝ができたと言われている。現在は並里系の子孫が、元の場所に雑石積みで簡単に囲った仮墓を造り、並里系の門中が神清 明祭等に拝んでいる。志仁禮久 阿摩彌姑の位牌は国元である並里の神アサギ (仲嶺井門) にあるそうだ。

この新里集落では少し異なる系図となっており、新里の祖と考えられている先並里はこの五世にあたるとしている。天孫氏王統の初代王の天孫子は五世となっており、一世の志仁禮久と阿摩彌姑の間に二世代加わっている。新里集落では下記の系図のそれぞれの人物 (神?) の墓と伝えられているものがある。この地に集中しているのも面白い。この墓の石碑には志仁禮久 阿摩彌姑の二人の名が刻まれているのだが、この二人の子の二世である天美人、巣出美人夫婦もこの御時墓に埋葬されていると伝わっている。伝わっている下の系図の内、赤で示した人物の墓が新里にある。18000 ~ 20000年前の人物なので、後世のいつの時代かに、祖先の墓が必要ということで造られたのか、誰かの墓をそう伝えるようになったと思われる。


御巣人御墓 (ウシジンウハカ 上之川原1346番地)

志仁禮久 阿摩彌姑の墓の隣には、天済大神 (天孫氏四世) の子、五世 御巣人大神のものと伝わる墓がある。 この神は、ヌル、またはハンザナシーより先代においてムラの祭祀行事を司ったと言われている。1887年 (明治20年) 頃の崖崩れで墓は消失し、現在は並里系の子孫が仮墓を造り拝んでいる。位牌はヌル殿内に祀られている。ここに残っている文書には「志仁禮久と阿摩彌姑の子供の天美人と巣出美人は父と同じ所に埋葬されており、位牌は並里家にある。その子が天済大神で更にその子供が御巣人と長男が並里とある。つまり、御巣人御墓は五世の墓ということになる。

資料に掲載されてた写真 (右) と実際に志仁禮久・阿摩彌姑の墓の隣は異なっているのだが、改修されているのだろう。


御巣人井戸 (ウシジンガー) (未訪問 上之川原1339番地の2)

御巣人御墓のグサイ ( 鎖い) カーが、県道からタク川の御嶽に入った付近に井戸の形をした拝所があるというのだが、見つからなかった。この場所は現在の県道の部分も含めて屋敷だったそうだ。戦後に並里系の子孫がこの拝所を造り拝んでいる。


並里御墓 (ナンザトゥウフハカ、上之川原1379番地)

御巣人御墓 (ウシジンウハカ) から、更に奥に進んだところに古墓がある。阿摩彌姑 (アマミク) の六世の御先並里 (ウサチナンザトゥ)、または並里按司の墓ともいわれている。 墓は沖縄戦までは崖下の洞穴に簡単な按司墓があったが、戦後、米軍により、この周辺は採石場となり、墓も消失してしまった。 その後、並里系 (嶺井門中) が元の場所近くに雑石積みの仮墓を造って拝んでいる。 位牌は国元 (仲嶺井門) にあるそうだ。

この付近には、他にも古墓があるそうなので探す。場所ははっきりとは記載がないので、森の中に分け入る。

岩の空洞を石を積んで塞いでいる場所が幾つかあった。これも、昔、墓として使っていたのだが、探している古墓ではない。森の奥まで探したが、残念だが見つからなかった。

再度、墓探しの時のために、資料から古墓の情報を残しておく。


手登根里之子の墓 (未訪問 上之川原1378番地)

この墓は、手登根大親 (手登根之比屋) の子息の手登根里之子 (テドコンサトゥヌシ) の墓で、大きな岩の洞穴を利用し雑石を積んだ古墓で海に向っている。手登根大親 (手登根之比屋) の父は尚巴志の弟の平田之比屋で、この墓は佐銘川系の子孫に拝まれている。


中並里之子墓 (未訪問 上之川原1378番地)

手登根里之子の墓がある大きな岩の洞穴を利用し、東方に向けて雑石積みの古い墓がある。この墓は先並里の子孫の墓で並里の子孫が拝んでいる。


藩坐那志の墓 (未訪問 名合原 1514番地)

藩坐那志は、ムラにおける祭祀行事の主導者でヌルの役目をする者、ヌルの始まりであると言われる人の墓である。墓は、新地ビチの古墓に古い石厨子がある。この石厨子は無名で確認はできないが古老からの伝えによると、藩坐那志のものと言われる。元祖はヌル殿内のまん中に祀られている。神清明祭に新里家門中が拝んでいる。


池原御墓 (イチバルウフハカ、未訪問 名合原1523番地)

名合原、チジンキヌ下にある墓で池原按司のものと伝わる。 琉球大古史、または字津波古の外子の子孫 (安次富) の門中によると、 池原按司は北山攀安知王の五男の虎壽金 (後に今帰仁子) と尚巴志の妹の場天ノロとの子が池原按司であると伝わる。元の新地ビ チの古墓から西側約40mの崖下に 洞穴を利用した按司墓がある。池原按司の子孫の那覇首里石嶺の呉我系や兼久の宮城系統門中が神清明祭などに拝んでいる。


池原井戸 (イチバルガー、未訪問 崩利下原1303番地)

崩利下原 (通称タクガー原) にある古井戸拝所は、 池原御墓のグサイガ- (関連、鎖い) で、この一帯は池原按司の広大な屋敷跡であったといわれ、池原按司が使用したと伝えられている。池原按司の子孫が拝んでいる。


西銘 (ニシメ) 門中墓

古墓探しの途中に門中墓があった。新里集落が現在地に移ってくる以前、この付近に最初に名合邑に住み始めた並里 (ナンザト) 系の三つの門中 (並里、西銘、新里) の一つで、この近くに屋敷があった西銘 (ニシメ) ヒチの門中墓。並里家の次男 加那西銘が尚寧王 (第二尚氏7代王 1589年 - 1620年) の時代に分家して西銘門中の祖となり、その西銘大屋子の子孫が葬られている。


水路

新里坂の道路脇には石積みの水路がある。いつの時代に造られたのか分からないが、先ほど訪れたタク川の水源地から、新里集落への水路だ。


上の樋川 (イーヌ ヒージャー)

タク川の御嶽から新里坂のを下ると、道沿いに上の樋川 (イーヌ ヒージャー) がある。旧水源地で、タティグ ワー水と言って質のよい湧水だったそうだ。かつてこの付近には並里、西銘大屋等の豪族が住んでいたという。その時代からこの樋川は飲料水や産水、若水に用いられていた。戦前は石で囲った小さな貯水池から石樋が出て水が豊に流れていたが、1946年 (昭和21年) 頃に米軍による道路拡張工事のため樋川敷地が道路になり樋川は消失。現在はわずかに残っていた元敷地に、並里 (ナンザト) 系の子孫によって雑石で簡単に井戸の形を造り香炉を置いて水の神のウシジン大人 (テージン) を祀り拝んでいる。


並里 (ナンザト) 屋敷跡 (上嶺井門中神屋)

上の樋川 (イーヌ ヒージャー) から側道が北に伸びている。この道の先にある土帝君 (トゥーティークン) を目指す。この側道に入った所に神屋があった。ここはここの丘陵斜面を下った所にあった名合邑の村立ての門中の並里家の屋敷があった場所。並里家は沖縄戦で絶家しており、神屋にはこの並里の子孫の上嶺井門中の香炉があった。それ以上の情報は見つからなかった。戦前の民俗地図によればこの場所の一画はシマクサラサーが行われていたようだ。


土帝君 (トゥーティークン)

並里屋敷跡から側道を進んだところ沢川原の高台傾斜地に開けた場所があり、そこに土帝君 (トゥーティークン) の石堂が造られ祀られている。仏ヌ前 (フトゥキメー) とも呼ばれている。土帝君は中国から伝わり、農作物の神、または五穀の神、土地の神として沖縄に広まった。以前は、石堂の中に陶器の仏像 (フトゥキー) が土地の神、農作物の神、観音様として三体祀られていたのだが、戦後、盗難に遭い消失している。1923年頃に首里の七宮から神仏と十二支の守り神を加え合祀されている。昔は土帝君祭りとして旧暦二月二日 (ニングヮチカンカー) に、豚の頭や鶏の丸焼きなど供え物をして盛大に祝っていた。 農作物の害虫被害 が大きい場合には、ここでムシバレー (虫払い) の祈願をしてから西の龍宮を拝み、害虫を木の葉に乗せて海に流した。このほか、稲作していた頃まで はタントゥイ (種取り) のときにも祈願されていた。また観音様は、子供たちや旅に出ている者の健康祈願として拝まれていた。この広場の一角はシマクサラサーの場所 で悪や魔物の侵入を防ぐため牛の骨片や豚の足を左縄 (しめ縄)に結び、牛の血をススキと桑の枝葉を束ねたサンに塗り、部落の入口の数カ所の木に張 った所である。 新里には5ヶ所あり、残りはノロ殿内、ソージリー、新里マガヤー、德森グワーにあったといわれる。

ここからは佐敷の町や知念半島ものぞめる。土帝君の道を西に進むと先日訪れた小谷集落に出るのだが、そこへの中間地点あたりに名合邑があったとされている。


以上が、新里集落の発祥の地の古島にあたる名合邑周辺の文化財だ。この名合邑を第一期とすると、第二期が14世紀初期に移り住んできた佐銘川大主、手登根大屋、池原按司達の佐銘川系門中が集落を形成したとある。次はこの佐銘川系の文化財を巡る。


宮城殿 (ナーグシクトゥン)

土帝君から上の樋川に戻り、ここから土帝君方向と逆に伸びる側道を進むと道沿いに宮城殿 (ナーグシクトゥン) がある。 佐銘川系の手登根大比屋 (テドコンヤヒク、尚巴志の弟の大平田ノ比屋の息子) の子である手登根里之子 (テドコンサトヌシ) の住居跡といわれる。 手登根里之子は、王府から新里村を領地としてあてがわれたという。 ここは昔の番所跡ともいわ れている。 琉球国由来記には「宮城殿 新里 稲穂祭ノ時 神酒一 (百姓) 同大祭ノ時、神酒二 (百姓) 供之。 バテンノロ祭祀也」 とあり、場天ノロにより稲穂祭と稲大祭が司祭されたことが書かれている。


カタハライー井泉 (未訪問)

宮城殿 (ナーグシクトゥン) のすぐ近く道を挟んだところにカタハライー川が流れている。この川の付近に、宮城殿 (ナーグシクトゥン) のグサイ (対、鎖、関連) だったカタハライー井泉があると資料には書かれていたが、見当たらなかった。地図上で示されたところに水場 (写真上) があったが、資料に載っていた写真 (下の二つ、別々の資料からなのだが、この二つの写真も同じものとは思えないのだが....) とは違っている。カタハライー井泉は以前はカタハライー川 (大樋川の上流) の麓にあったが、 河川工事で、川の土手の上の崩利下原に移動し、雑石で囲い 仮井戸の拝所を造り、佐銘川系門中が拝んでいる。

佐銘川大主屋敷跡 (場天殿、場天御嶽、下場天御嶽、御天座神、上場天井泉、下場天井泉、伊平屋神、佐銘川大主の墓、場天ノロの墓)

側道を進むと、佐銘川大主 (サメカワウフヌシ) が伊平屋島から移住してきて屋敷を構えた場所がある。

新里集落は、琉球三山の統一を成し遂げた尚巴志の祖父の佐銘川大主 (サメカワウフヌシ) ゆかりの地で、琉球歴史で最も面白い時代がここから始まっている。佐銘川大主 (サメカワウフヌシ) は鮫川、鮫皮 (サ三ガ-) などと色々の当て字が用いられている。佐銘川大主の生い立ちについては第二尚氏時代祭温が「遺老伝」で記載している。農民が反乱を起こし佐敷に逃れたというものだが、これが沖縄では一般的に教えられるもの。物語性が強く、この話は金丸 (第二尚氏初代王尚円) の生い立ちの伝承とほぼ同じで、この金丸伝承の後に創作されたと推測されている。遺老伝の内容は以下のようなもの

  • 伊平屋島で旱魃が起こり飢饉となり、佐銘川大主は備蓄米を農民に配給したが、それでも足りず農民が米蔵襲撃の計画していた。
  • これを察知し、島から逃れ、新里にたどり着き場天港で漁で生活をしていた。大城グスクを通り魚を売りに行っていた。
  • 大城按司が娘の婿選びを占い、指定した日の朝一番に城の前を通った男を婿にせよとのお告げがあった。朝一番に城の前を通ったのが佐銘川大主だった。

祭温の遺老伝から百数十年程後に「佐銘川大ぬし由来記」が書かれている。内容は遺老伝とほぼ同じだ。佐銘川大主の息子の後の尚思紹の生い立ちが追加されている。

伊是名島にも伝承がある。佐銘川大主は伊平屋島を治めた屋蔵 (八倉) 大主の次男で、伊是名島の統治を任され、この地で成功をしていた。それを妬んだ本家の八倉が農民を先導し、佐銘川大主の殺害を計画し、これを知った佐銘川大主が佐敷に逃れたと伝わっている。

伊平屋島に残る伝承では、屋蔵 (八倉) 大主の生い立ちまである。英祖の五男の大里王子が南山グスクの城主となり前南山が始まり、その息子の与座按司と兄の大里按司が王位継承で争い、与座按司は殺された。 (別の説では与座按司の諌言に怒り殺害したともある) その息子が佐銘川大主の父親の富蔵大主 (フクラウフヌシ、後の屋蔵大主) で、伊平屋島の我喜屋に逃れ伊平屋島を治めた。富蔵大主は蔵を八つ持っていたので八蔵 (屋蔵) 大主と呼ばれていた。富蔵大主が亡くなった後にその次男の佐銘川大主が家を継いでいる。

佐銘川大主が、伊平屋島から新里に移り住んだくだりには、色々な言い伝えがある。農民騒動での逃走ではなく、佐銘川大主は「場天に行けば大業が行える」という夢を見て、移住したとある。物語としては面白いのだが、歴史から見ると違和感が残る。

「小説 尚巴志」では、佐銘川大主は、大和向けに、日本刀の柄に使う鮫の皮の貿易で財を成したというストーリになっている。佐銘川大主は鮫皮 (サ三ガ-) 大主と書かれていたことから、この筋立てを創ったのだろう。創作かもしれないが、この地を治め村を強くするために貿易を行っていたことは可能性が高く、その商品に一つが鮫皮だっただろう。

また、新里集落の伝承では、手登根大屋、池原按司 (北山最後の王攀安知の五男の虎壽金 (とらじゅがに) ) と話し合い、一緒に村造りをしたとある。池原按司は北山最後の王の攀安知の五男の虎壽金と尚巴志の妹の場天大ヌルの間に生まれた子と伝わっているそうだが、佐銘川大主の村造りの時代とはずれがある。また、手登根大親 (手登根之比屋) の父は尚巴志の弟の平田之比屋ともあり、これも時代が合わない。多分、佐銘川大主が住み始め、その親類や子孫たちが村を発展させていったと解釈した方が良いだろう。 

伊平屋島から逃げてきて漁師をやっていたという伝承と少しかけ離れている。大城按司が一回の漁師を婿にする伝承はフィクションのように思えるので、個人的には伊平屋島に残る伝承にある与座按司の子孫ではないかと思う。それによれば、佐銘川大主は由緒ある家柄で、大城按司とは間接的につながっている。伊平屋島を治めていたことは大城按司も知っていただろう。大城按司がその手腕に期待して、伊平屋島から呼びよせたというのが妥当ではないだろうか? 「琉球王国の真実」ではこの説をとっている。

屋敷跡は、現在、畑や荒れ地になっており、民家はほどんどない。ここは場天原で、そこにそびえる場天山 (軽石山) が1959年 (昭和34年) のシャーロット台風の嵐と豪雨により崖崩れを起こし、佐銘川大主の住居跡が埋没してしまった。(写真左は崩落前の場天山、右が崩落後。)

崖崩れ当時の写真もあった。写真右上は、山の斜面が崩落しているのがわかる。

屋敷跡は草が刈られ、一面広場になっている。奥に見える小高い丘が、多分、ヤマトゥバンタで、佐銘川大主がここに移住してくる前に住んでいた伊平屋島への遙拝所になっていたといわれている。また、新里の東南にある苗代の名は、かつて、熊本の名和長年 (南北朝時代) の子孫の流れをくむものと伝わり、この子孫にあたる (?) 苗代大屋 (尚思紹の事か?) 等がクボーノ嶽があったヤマトゥバンダーから、熊本の故郷を遥拝していたという説もあるそうだ。別の言い伝えでは、尚巴志が妹の場天ヌルが薩摩から帰るのをここで待っていたので、ヤマトゥ (大和) バンタの名がついたともある。広場ん中にはかつて場天殿があった。

屋敷内には場天御嶽、上場天井泉もあったそうだ。多分このあたりだろう。畑になっていた。

丘陵 (場天山 [軽石山 (カラシヤマ)]) の中腹斜面には佐銘川大主と妻の墓と尚巴志の妹の場天大ノロの墓があったが、これらも崖崩れの祭に消滅している。佐銘川大主夫妻の墓はこの土砂崩れの後、石棺から遺骨を取り出し、佐敷ようどれを作り納めたという。

場天大ノロの墓は元あった場所から、麓の方に拝所 (場天原1066 番地) を設けて拝まれているそうだ。場天大ノロは佐銘川大主の娘と尚巴志の妹もそうなのだが、資料では尚巴志の妹の方の場天大ノロとなっていた。(未訪問)

更に屋敷内には御天座神、下場天御嶽、下場天井泉もかつては存在していた。すべてが佐銘川大主の屋敷というのでかなり大きな敷地だった。写真右も奥に見えるのが現在に新里集落。

道はヘアピンカーブになり、現在の新里集落に通じている。次は第三期 (第五期) の集落となる現在の集落に行く。



イビの森 (ムイ)

現在の集落は沢川原にあり、その高い場所にイビの森と呼ばれる拝所群がある。新里集落の祭祀の中心地になる。1959年 (昭和34年) のシャーロット台風の嵐と豪雨により、場天原の場天山 (軽石山) の崖崩れで、 尚巴志の祖父の佐銘川大主 (サメカワウフヌシ) が伊平屋から渡ってきて屋敷を構えたと伝えられている住居跡が埋没し、その後、拝所の再建の為の現場検証の結果、再建はできないことが判明し、ユタに相談して、佐銘川大主の悪しき後にあった拝所全部 (5カ所) を、ここイビの森にを移すこととなった。崩落から1年後、消失した佐銘川大主住居跡にあった場天御嶽、上場天井泉、下嶋天井泉、御天竺 (天の神への御通し)、伊平屋神 (ヤマトバンタ) の拝所がこのイビの森に移設された。イビの森は元々は村の氏神を祀っていた場所。

御天竺 (ウティンジク、場天御嶽)

佐銘川大主が御天へのお通し (ウトゥーシ) 所、又は、伊平屋へのウトゥーシ (遥拝) をする所といわれている。琉球國由来記には「上場天御嶽 新里村 神名 サメカア大ヌシタケツカサノ御イビ。  場天巫崇所。年浴之時、花米九合五水四合、神酒 (百姓)。麦初種子、ミヤタネノ時、花米九合、芋神酒(百姓) 供之。 同巫祭祀也。」とある。御天竺 (ウティンジク) は場天御嶽ともいわれ、元々は、場天原の一画の場天山と呼ばれていた小高い丘の林の中にあった佐銘川大主の屋敷と伝わる。屋敷の奥に小さな雑石で2-3段重ねて上から蓋のように石が被されていた。 イビの森に移され御天竺神と碑が立てられている。新里集落や佐銘川系の子孫が祭祀ごとに拝んでいる。

イビ御嶽 (サクマキャウノ嶽)

この御嶽は新里部落の守護神として昔からあらゆる祭祀行事で拝まれてきた。大平洋戦争中は出征兵士の武運長久を祈願するため、旧暦毎月の1日 (朔日の拝み チイタチ) と15日 (朔日の拝み ジュウゴニチ) にはこの御嶽とヌル殿内に祈願祭を行なっていた。琉球國由来記には「サクマキャウノ嶽 新里村 神名 西森イシラゴノ御イビ。 場天巫崇所。年俗之時 花米九合、五水四合、神酒(百姓)。麦初種子 ミヤタネノ時、花 米九合、芋神酒 (百姓) 供之。 同巫祭祀也」 とある。このサクマキャウノ嶽については、地元でも知る人もおらず、正確な場所の確認出来ていないのだが、このイビ御嶽がそれにあたるのではとされている。

場天御嶽 (バティンウタキ、場天殿 (バティントゥン) 、上場天之嶽)

場天御嶽 (バティンウタキ) も場天山の佐銘川大主の屋敷跡にあった拝所で、場天殿 (バティントゥン) ともいう。琉球国由来記には「場天殿 新里村稲ニ祭ノ時、シロマシ、神酒二完 (百姓) 供之。バテンノロ、祭 祀也。且 祭之前夜、巫、根神、掟ノアム (区長に相当する、アムは掟の妻) トノヘー宿故、夕食朝 食、一汁一茶ニテ、百姓中より、 賄仕也。」とある。又、同じく琉球国来記の上バテンノ嶽 (神名: サメガア大ヌシタケツカサノ御イベ 昔 佐敷按司御屋敷タル由也) に相当するともみられる。この上場天之嶽では、場天ノロにより年浴、麦初種子・ミヤタネが司祭された。現在は佐銘川系が拝んでいる。

伊平屋神 (イヘヤガミ、イヒャヤガミ、下場天御嶽)

伊平屋神 (イヘヤガミ) もイビの森に移設された拝所で、昔、場天山へ上る道の最上部のヤマトゥバンタにあったという下場天御嶽と考えられている。またクボーノ嶽とも言われていた。佐銘川大主が、伊平屋への遥拝所として用いていたと伝わっているので伊平屋神 (イヘヤガミ) とも呼ばれている。琉球國由来記には「下場天御嶽 新里村 神名 コバツカサノ御イビ。 バテン巫崇所。年浴之時、花米九合、五 水四合、神酒(百姓)。麦初種子・ミヤタネノ時、花米九合、芋神 酒(百姓) 供之 同巫祭祀也。」とあり場天ノロにより年浴、麦初種子 ・ミヤタネなどが祭祀が執り行われていた。現在でも、佐銘川系の子孫が拝んでいる。

上場天井泉 (イーバティンガー)

イビの森東側には場天原 (場天山) の屋敷で佐銘川大主が使用したといわれる井泉を祀る拝所が移設されて、上場天井泉 (イーバティンガー ) と呼ばれている。この井泉は場天殿のグサイガー (対、関連、一鎖の意味) 。佐銘川系の子孫が拝んでいる。


下場天井泉 (シチャバティンガー)

下場天井泉 (シチャバティンガー) は佐銘川大主の屋敷の場天山の下の畑の中にあった井泉で上場天井泉と同様にこのイビの森に移されている。かつては産井泉として利用されていた。場天殿のグサイガー、佐銘川系の子孫が拝んでいる。


佐銘川御殿 (サミカーウドゥン)

イビの森の東隣には、佐銘川御殿 (サミカーウドゥン) があり、神アシャギとも呼ばれている。第一尚氏の祖である佐銘川大主 (サミカーウフヌシ) とその妻である真鶴金 (マヅルガニ、マヂルガニ) を祀っている。現在は佐銘川御殿は消失してしまい、跡地には石碑が設けられている。

2002年に台風で全壊する以前に建っていた殿の写真。手前には現存している神屋が写っている。

敷地内の神屋は残っており、ここでは、尚巴志を養育したという平仲大主 (平仲の元祖) が祀られている。平仲大主の次男 下庫利大主の長男が石原門中、次男が勢理客門中、三男が佐久間門中のそれぞれ始祖で、佐銘川御殿 (サミカーウドゥン) もこの三門中の拝所となっている。


農村公園 (佐久間門毛 サクマジョーモー)

佐銘川御殿 (サミカーウドゥン) の下側には農村公園がある。かつては佐久間門毛  (サクマジョーモー) と呼ばれた広場だった。遊び庭 (アシビナー) だったのではないかと思う。


新里の殿 (シンザトゥヌトゥン)

イビの森の奥には新里の殿 (シンザトゥヌトゥン) がある。この殿は、新里集落の村立てをしたとされる北山王統系子孫の新里大主 (シンザトゥウフヌシ) の屋敷跡と伝えられている。殿はイビの森の南端に昔のままの形で土盛した四方の円形になっている。琉球国由来記には「新里ノ殿 新里村 稲ニ祭ノ時 (旧5月、6月ウマチー)、シロマシ、神酒ニ完 (百姓) 供之。バテン巫祭祀也」とあり、場天ノロにより 稲二祭が司祭されていた。新里集落の風水ともいわれ、新里集落で祭祀行事のたびに拝んでいるほか、新里系の子孫が御願している。


村屋 (ムラヤー) 跡

新里の殿 (シンザトゥヌトゥン) とイビの森の間には、かつての村屋があった場所。現在は広場になっている。


石畳道昔産井泉 (ンカシンブガー)

イビの森への入り口の前には西側に伸びる石畳の道が残っている。


昔産井泉 (ンカシンブガー)

石畳の道を進むと、新里之殿の北側への坂道に分かれ、そこを登ると新里ノ殿のグサイガーの昔産井泉 (ンカシンブガー) がある。 古井泉 (フルガー ) とも呼ばれていた。新里大主時代に産井戸として産湯に利用されていたという。 新里の並里系はじめ各門中によって拝まれている。

勢理客之殿 (ゼリカクヌトゥン、ジッチャクヌトゥン)

イビの森西側の道向かいにある空き地の隅に勢理客門中の祖の勢理客大主 (下庫利 [シチャクリ] 大主の次男 = 尚巴志の弟の平田比屋の五代目) の住居跡がある。勢理客大主はジッチャク ウェーキーと言われた資産家で、この一帯は大主の屋敷であったと伝えられている。この屋敷にあった拝所は勢理客之殿 (ゼリカクノトゥン) に相当すると考えられている。 勢理客大主の屋敷だったので、勢理客之殿 (ジッチャクヌトゥン) と呼ばれている。琉球國由来記には「勢理客ノ殿 新里村 稲二祭ノ時、五水六合、神酒 (地頭)、シロマシ、五水四合 神酒 (百姓) 供之。且、祭ノ日、 バテンノロ、若ノロ、根神へ、朝食五 ツ組、居神四人、掟ノアムへ、三ッ組ニテ、自、地頭 有 地走、也」 とあり、場天ノロ により、稲二祭が司祭されていた。

勢理客の井戸

勢理客之殿がある勢理客屋敷には二つの井戸がある。共に勢理客の殿との関連 (クサイ 鎖い) の井戸で、勢理客大主が使用していた井戸と伝えられている。勢理客の井戸は石垣の中にあった。


上之井戸 (未訪問)

もう一つの上の井戸は少し上の西ン門の古屋敷内にあるそうだが、草が深く探すはあきらめた。


勢理客樋川 (ジッチャクヒージャー) 

勢理客之殿から北東方面の坂を下った所に勢理客樋川 (ジッチャクヒージャー) の跡があった。現在は井戸はなくなって、石積みで囲まれた期の根元に香炉が置かれている。


ヌル殿内 (ドゥンチ、東門 (アガリゾー))

側道からまたもとの道の新里坂に戻り、新里集落方面に進む。すぐに別の拝所に出くわす。ヌル殿内 (ドゥンチ) の神屋だ。 この場所はかつてのヌルの屋敷。戦前は、東門 (アガリゾー) と呼ばれていた。琉球国由来記にある「場天巫火神 (バテンヌルヒヌカン)」に相当すると推測されているが、まだ確定はしていない。「バテン巫火神 新里村聞得大君加那志、アラヲレノ時、奥那原ニテ、バテン巫、大君之御前二出、神御名、テダ白御神ト、女御唄ノフシニテ、付上ゲタル、昔ノ例ハ、為レ 有之ト也 バテンヌル神名、住古テダ白ト云フ。 御同名恐多トテ、中古、改名之儀、立仕ケレバ、神託ニ、ヨナヲシ大神ト、被下タルトナリ。麦稲穂祭三日崇の時、且、毎年三八月、四度御物参之時、佐敷巫火神同前也。年浴之時、花米九合、五水六合、神酒一 (百姓)。 麦初タネ、ミヤタネノ時、花米九合、藩薯神酒(百姓) 供之 根神ニテ、祭祀也。」と書かれており、 場天巫火神では、場天ノロにより、麦・稲穂祭、 三八月四度御物参、年浴、麦初種・ミヤタネが司祭された。 かつては、海外出稼ぎや軍への入隊、出征等に際しても拝まれていた。祠の中には2つの火の神と 3つの香炉が置かれている。香炉は、向かって右が御巣人大神、中央が藩坐那志、左が場天大ヌルとされている。ヌル殿内への階段の所に案内板があり、それぞれの説明が以下のように書かれていた。
  • 御巣人大神 (うしじんてーじん) は琉球開闢に係る阿摩彌姑 (アマミク) の五世。新里では、この御菓人大神にまつわる話として、大正時代の末頃まで「ウシジンヌ トゥミセーン (御巣人が通る)」といって木の葉や松の葉をなびかせ、サーラ サーラと音を立てて竜巻のような風とともに東の方面から押し寄せて来、東門 (アガリゾー) の近くで消えるといい、新里の明治生まれの人々はほとんどそれを目撃しているそうだ。[天孫氏時代における祭祀行事の主導者で斎場御嶽との関連があると言われているが詳細は不明]
  • 藩坐那志 (ばんじゃなし) は、琉球国以前のムラの祭祀行事において最高の統治者、ヌルの始まりの巫神だった。[この巫神は按司の妻か、 または側妻であったと言われている。]
  • 場天大ヌル (ばてんうふぬる) は佐銘川大主 (尚巴志の祖父) の娘とされ、聞得大君 (きこえおおきみ) の御新下りの際にも重要な役割を持ち、タマガファラ (勾玉) を拝領し、その神職とともに代々継承していた。戦前は敷地内に一対の大きな石造りの魔除獅子 (シーサー) が鎮座していて南西と南東に別々に向いていたが、戦争で消滅。


中樋川 (ナカヒージャー)

ヌル殿内の前の道を渡り、下に降りる細い道がある。そこの突き当りには中樋川 (ナカヒージャー) がある。中樋川小 (ナカヒージャーグヮー) とも呼ばれている。かなり古くからあるような石積みの樋川だ。多くの井戸跡がコンクリートで固められているが、ここは石積みは崩れている個所も多いが、昔の樋川の形を保っている。昔はこんな感じだったのが良くわかる。タク川の水脈から松の木をくりぬいて造ったで木樋を通して水を流し、産水や若水に利用されていたそうだ。 戦後、上水道が創設 されるまでは、この近辺の人々は飲料水としても使用していたそうだ。現在では、新里集落や各門中が拝んでいる。


新里公民館

イビの森から坂を下ると集落の中に入る。そこに新里公民館がある。新里の公民館は何度か建て替えが行われているようだ。2000年に発行された字誌新里では、ここはサーターヤーだった場所で、1990年に佐敷勤労体育センターが建てられ、公民館の役割をしていたとある。現在は佐敷勤労体育センターはなく、新里公民館となっていた。2000年以降に建て替えられたのだ。公民館の脇には戦前に沖縄の畜産産業の発展に貢献した新里出身の西村助八氏の顕彰碑 (1941年に東風平の屋宜原に建てられたものを移してきた) が建っていた。もともとの公民館は現在の公民館の隣のゲートボール場にあった。写真右下は1959年に建てられた新里区事務所 (公民館の役割)、中下はそれ以前の戦後に事務所として使われていたもの、入り口には "Shinzato Office” と英語で書かれている。

公民館の隣の旧公民館跡には当時からのデイゴの木が二本立っている。二本揃って生えているので夫婦デイゴと呼ばれている。


前道 (メーミチ)、馬場 (ンマイー) 跡

現公民館と旧公民館跡の南側に東西に延びる道路 (写真上) がある。これが前道 (メーミチ) だった。前道は通常集落の前の道で、沖縄集落は大体傾斜地に造られ、下の方に前道がある。現在の集落の真ん中から北側にこの道が通っている。集落移動の第三期には現在の集落の場所に移って来ていたが琉球王統の祭温時代にこの上の高台に強制移住させられている。これが四期で、沖縄戦後、元の集落の場所に戻ってきている。祭温之時代以降の第四期集落の期間は長く、その時の集落の前道でなかったかと思う。(私個人の推測)  この前道では綱引きが行われていたが1959年 (昭和34年 シャーロット台風による山崩れがあった年) を最後に、それ以降は綱引きは行われていない。

この前道に沿って、一段低くなっているところがある。現在は駐車場になっているが、かつては馬場 (ンマイー) だった。昭和19年までは日本海軍の兵舎と送信所が建てられていたそうだ。戦後は新里に沖縄民政府や刑務所が建てられ多くの人が集まってきた。そのため、この馬場跡にはテントや丸太で作られた簡易宿泊所が建てられていた。


徳森小 (トゥクムイグヮー)

馬場 (ンマイー) 跡の東の端には、小さな徳森小 (トゥクムイグヮー) と呼ばれる広場があった。この広場は、前に広がっていた畑で働いていた人たちの農作業の休憩場所でもあり、学校の帰り道でひと休みした場所でもあったそうだ。何百年も、集落住民の憩いの場所だったことから、跡地はちょっとした小ぎれいな庭として今でも大切にされている。この場所の古写真が、掲載されていた。木にはボンベ鐘が吊るされている。集落内放送が無い時代はほら貝、ラッパや太鼓などが使われていたが、戦後はボンベ鐘が使われ、色々な叩き方で、伝える内容が異なっていた。

  • 小中学生の集まり: 連続7回の2~3回打つ
  • 青年会の集まり: 連続2回の3~4回打つ
  • 婦人会の集まり: 連続3回の3~4回打つ
  • 警防団の集まり: 連続4回の3~4回打つ
  • 常会の集まり・・・・→カーン カンカンカン次第に小さく打つ    など


国元の神アサギ、村元の神アサギ (未訪問)

沖縄の集落には、神アサギ (神アシャギ) と呼ばれる拝所を、屋敷敷地内に離れを作って祀っている。国元のアサギは琉球の国を始めた人 (神) を祀るところ。新里集落では並里 (ナンザトゥ) 系の元屋 (仲嶺井門) の屋敷内にある。ここには、琉球神道の神々の香炉が祀られている。 一番 - 阿摩彌姑 志仁禮久、二番 - 天美人 巣出美人、三番 - 天済大神加那志、四番 - 天帝子とある。アマチジョウガマやタクの御嶽のところに墓があった人物 (神々) たちだ。集落によっては、村立てをした人を村元の神アサギを別に造り祀っているが、新里集落の村元は並里 (ナンザトゥ) なので、同じ神アサギに祀っている。もう一つの神アサギは元祖もとと呼ばれ、その家の始祖を祀っている。ここの仲嶺井門の神アサギには国元、村元、元祖もとが祀られている。ここは見落としていたので、次回、次の集落訪問の帰りにでも寄ってみる。



ダロームイ

国元の神アサギ、村元の神アサギの前は急斜面になっている。ここはダロームイと呼ばれている。ムイ (森) とあるので、かつては機が生い茂っていたのだろう。


龕屋跡

国元の神アサギからダロームイの急坂を上がり切った先に、死者を乗せてお墓まで送る龕 (ガン) を保管していた龕屋跡がある。戦前は別の場所にあり、小谷集落と共有されていたが、沖縄戦で焼失し、戦後には元の場所は米軍用地となったので、現在地に造られた。

戦前の龕屋は県道137号を津波古に向かう所にあり、周りは門中墓地帯になっている。


メーヌカー墓

戦後の龕屋がある側の森の中に幾つかの墓があった。資料にはメーヌカー墓とあったが、写真はなく、どれがそれに該当するのかは分からなかった。


桃原 (トーバル) 拝所

新里集落から東に外れた所、かつての佐銘川大主屋敷跡がある丘の下の畑の中に桃原 (トーバル) 拝所と書かれた木の札が立っている。マーチムイの拝所とも呼ばれている。この辺りは首里の旧士族が移って来て帰農した桃原 (トーバル) 屋取集落があった場所だ。1959年のシャーロット台風により、この上の軽石山が崩落し、桃原集落は全滅。当時の住民は兼久や那覇など、県内各地に引っ越していき、桃原屋取集落は消滅してしまった。この様な札が立ててあることから見ると、今でも元住民がここにきて御願をするのだろう。


西の竜宮 (イリヌリューグー)

新里集落の最後の訪問は、かつての海岸線にあった「海の神への拝所」である二つの竜宮神の拝所だ。まずは西の竜宮 (イリヌリューグー) を訪れる。ここは天孫子龍宮ともいう。新里が島添大里間切時代からあった古い竜宮神。この辺りは新里マガヤーの三叉路あたりまで入り江になっており、「西側の海への下り口 (イリヌウリグチ)」と呼ばれていたという。 海に下りる手前には、ヤーグヮー (竜宮 リューゲー神が祀られている小屋) があったという。 

東の竜宮 (アガリヌリューグー)

もう一つは、現在川になっている、かつての海岸線を東に進んだところに東の竜宮 (アガリヌリューグー) がある。こちらは「東側の海への下り口 (アガリヌウリグチ)」といわれている場所。 場天ノロが薩摩から帰国の際に真先に上陸した所で、海上の無事を龍宮の神に感謝する「御通し」の拝所。 佐銘川竜宮とも呼ばれている。 この場天ノロには言い伝えがある。
  • 昔、薩摩の殿様から 「良い人、優れた人」 を連れてくるよう要求があった。 琉球の役人が、これを「美人」と聞き違え、場天ノロを送った。場天ノロは、薩摩の殿様に大変気に入られた。 しかし、場天ノロは神職の役目があるため琉球へ帰らねばならず、殿様に乞い、何とか帰る許しをもらった。その時、場天ノロは殿様との間に子を身ごもっており、帰りの船上で出産した。その子を琉球へ連れて帰るわけにはいかず、海に投げ捨ててしまった。 場天ノロが新里に帰郷して以降、ムラに不運が重なったが、新里の人々は、これを海に投げ捨てられた子の祟りと考え、供養するためにこの拝所を建てた。

これで、新里集落の文化財は見つからなかったものもいくつかあったのだが、いったん終了とする。未訪問の文化財は、旧佐敷村の残りの集落訪問で時間が余ったら再度チャレンジする予定。




新開地区

最後に訪れた竜宮神の側を流れる川に架かる第二新開橋を渡った所が、戦後、海を埋め立てて新たな行政区が誕生している。新開区で、野球場や公園が併設されている住宅街になる。佐敷町は1960年代から一気に人口が増え始め、その対策として新開地区が埋め立てられ、1970年代にはマンションや公民館の建設が行われた。新しい地域なので、文化財はない。写真は上が兼久海岸からみた新開地区、左下は公民館、右下は集合住宅地区の様子。


新開は2020年末現在では旧佐敷村の中では津波古に次いで2番目に人口の多い地区になっている。

1974年に住宅への入居が始まってから、毎年人口は急速に増え、2005年には1400人に達するまでとなっている。その後は、理由は不明なのだが、人口は徐々に減っており、現在は1164人で、全盛期から17%程減っている。何故だろう?集合住宅は1974年に建てられてから、既に50年近くなり、建物、設備の老朽化が課題だろう。与那原にマリンタウンができ、そちらの方が那覇にも近く、設備も新しく、新規入居者にとっては見劣りがするのではないだろうか?


新里集落には3回訪れたが、まだ見つけられない文化財が多く残っている。この後は旧佐敷村の残りの集落や旧知念村集落を巡る際に何度か訪れて探すことになるだろう。

新里はかつての佐敷村の中心だったせいか文化財が多かった。訪問後の編集には数日かかってしまった。


参考文献

  • 佐敷村史 (1964 佐敷村)
  • 佐敷町史 2 民俗 (1984 佐敷町役場)
  • 佐敷町史 4 戦争 (1999 佐敷町役場)
  • 南城市史 総合版 (通史) (2010 南城市教育委員会)
  • 南城市の沖縄戦 資料編 (2020 南城市教育委員会)
  • 南城市の御嶽 (2018 南城市教育委員会)
  • 字誌新里 (2000 佐敷町字新里区)
  • 琉球王国の真実 (2016 伊敷賢)
  • 新 琉球王統史 3 思紹王 尚巴志 尚泰久 (2005 与並岳生)
  • 尚巴志伝 (酔雲)
  • 南城市見聞記 (2021 仲宗根幸男)

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