Okinawa 沖縄 #2 Day 114 (05/07/21) 旧玉城村 (5) Oyakebaru Hamlet 親慶原集落
旧玉城村 親慶原集落 (おやけばる、ウェーキバル)
- 琉球ゴルフ倶楽部
- ウカマー井泉
- 上江洲ロお宮 (四班のお宮)
- 親慶原コミュニテイセンター (公民館)
- お宮
- 生川 (ウブガー)
- 大川 (ウッカ-)
- 長嶺井泉 (ナガンミガ-)
- 知念高等学校跡
- 三班のお宮
- アシジャ井泉
- 城間井泉 (グスクマガ-)
- 六班のお宮
- 六班の井泉
- 神山井泉 (カミヤマガ-) [未訪問]
- 天次門 (アマチジョー) ガマ
- 滝ノ口 (タチヌクチ)
- 南風原知念線
旧玉城村 親慶原集落 (おやけばる、ウェーキバル)
18世紀末に首里より士族の糸洲家がこの地に移住し帰農したのをはじめとして、小波津家などが、次々と移住してきて、屋取集落を形成したのが、親慶原集落の起源とされている。屋取集落は琉球王朝時代から次のように4段階で行われている。これに沿うと、親慶原集落は第二次屋取が始まって間もなく、この地に移ってきたと考えられる。現在、村にある門中は34もあり、多くの帰農士族がいたことがわかる。
- 第一次屋取: 1713-1751 12代尚敬王 ー 嫡男でない次男、三男など貧乏士族や零落士族に転職許可を与えれ政策をとった。
- 第二次屋取: 1795-1875 15代尚温王から明治の廃藩置県まで ー 第一次の帰農制作に一定の成果が見え、この屋取が貧困士族の解決策と認識されたことと、科挙と呼ばれた官吏への登用試験が実施され、試験に通らない士族が増加し職を失った時代背景もある。
- 第三次屋取: 1879-1909 廃藩置県から明治の土地整理まで ー この時代が一番悲惨な期間で、廃藩置県で大量の士族が職を失った。士族は帰農せざるを得なかった。この時期が屋取集落の発展期にあたる。
- 第四次屋取: 土地整理以降 ー 集落化した屋取集落が小字として行政区分で独立し、土地所有権が得られる様になったことが、屋取集落への移住の要因となっていた。
この地には次々と首里や那覇から人が移住してきて、大正の初めには、この親慶原集落が属していた垣花村とほぼ同じ人口にまでなった。1920年 (大正9年) に親慶原集落は垣花二区として行政独立をしている。
人口についてはその変遷が分かるデータは揃っておらず、グラフで把握することは難しい。資料からは、大正時代は垣花とほぼ同じ人口とあるので、300-400人程度で、それが戦前までは少しずつ増えていっただろう。沖縄戦後は、仲村渠住民が村が米軍に接収されて戻れなく、この親慶原に住んだとあるので人口は700-900人になっていたかもしれない。更に、この近くに米軍基地 (現在の佐敷にある知念分屯地) があり、軍労務者が多く移住してきたとある。1960年の人口データでは、旧玉城村の中では、最も人口の多い三つの地区の一つだった。沖縄が本土復帰し、米軍が引き上げ、軍施設が解放されたことにより、軍労務者の引き上げ人口が減ったと書かれている。その時点での人口が約1000人とデータでは出ている。そうすると本土復帰前の全盛期は1300人程いたのかもしれない。その後人口は増えて2010年には1400人になったが、翌年に1200人に200人 (38戸) も一挙に人口が減っている。この理由は書かれていないが、人口と戸数を見ると外来者の引き上げ (自衛隊員など) ではないので、何らかの行政区分の見直しによるものではないかと思う。その後、人口は少しずつ減っている。戸数は増えていっているので核家族化、少子化が進んだことによると思える。
1919年の地図には二つの集落がある。北の方は下親慶原、南の方は上親慶原で、帰農士族はこの主要な二つの地域に分かれ、その間にも小集落に住んでいた。その後は上親慶原を中心に集落が拡大している。上親慶原のすぐ東に米軍基地、後に自衛隊知念分屯地があり、それが上親慶原が大きくなった理由だろう。
親慶原で行われている年中祭祀は下記の通り。屋取集落には珍しく、各班が村の守り神の拝所を設置し、現在でも御願が行われている。一昨日に訪れた喜良原では1916年に糸数二区から喜良原区へ分離した時に、全班共通の守り神の拝所 (風水、お宮) を設置したが、この親慶原では各班でお宮を設置している。これは親慶原の人口がかなり多く、全体のお宮よりは各班のお宮の方が運用しやすかったのだろう。
親慶原集落訪問ログ
今まで使っていたアプリはアップデート開発中止で最新iOSに更新すると作動しなかった。今まで作成していた訪問ログの地図が作成できず、代替アプリを探すのだが、当面はこれで記録を残すことにした。
琉球ゴルフ倶楽部
まずは一昨日訪れた喜屋原集落の公民館まで行き。琉球ゴルフ倶楽部の外側の道を北に進む。この琉球ゴルフ倶楽部は米軍が基地と使用していた場所で、米軍撤退後、ゴルフ場となっている。米軍基地があった当時は、仕事を求めてこの親慶原に多くの人が移動してきたといわれている。この琉球ゴルフ倶楽部は沖縄では人気の高いゴルフ場だ。
ウカマー井泉
琉球ゴルフ倶楽部の外側の道沿いに集落南西部にウカマー井泉がある。ウカマームイと呼ばれている小山の谷間に井戸がある。石造りの階段を降りていくと水場があり、井戸の上には祠が置かれ拝所となっている。親慶原にあった7つの班のうち二班と四班により使用されていた。現在でもこの班の住民に拝まれている。
上江洲ロお宮 (四班のお宮)
ウカマー井泉から集落の少し内側、親慶原集落では南西部になるのだが、住宅地の中に小山があり、その上に拝所がある。上江洲ロお宮とか四班のお宮と呼ばれている。1977 ~ 78年頃に玉城園地地主会の資金で造られたので、新しい拝所だ。 このお宮は四班によって拝まれている。
親慶原コミュニテイセンター (公民館)
この地域は親慶原でも民家が集中して多くの住民が住んでいるところで上親慶原と呼ばれている。この場所が元々何だったのかは書かれていないが、多分サーターヤーだったのかもしれない。
お宮
親慶原コミュニテイセンター (公民館) 後方の岩山頂部に拝所がある。沖縄戦後の復興が始まりつつあった1951年に当時の区長が中心となり造られた。コンクリート製の祠があり、内側には郷土の開祖 (産土神)、水の神 (生命の神)、火の神 (文化の神) が祀られている。祠の正面上部には十字形の射抜きがある。 (写真左下) この様な印が拝所にあるのは初めだ。創設当初は、祠の後部面に「この目標を通して天地の造主たる准一の神を拝すべし」の文言が日本語と英語で記されていたそうだ。沖縄の文化の自然崇拝、先祖崇拝、多神崇拝とは少し異なっている文言だ。かっては米兵が遊びに来て、礼拝することもあったそうだ。キリスト教の霊拝所と考えられていたのだろうか?ただ当時にあった、その文言はキリスト教の教義でもあるので、この拝所を造った人はそれを意識していたのかもしれない。
お宮は1月2日の初起し、5月のアプシバレー、12月24日の御願解きの村落祭祀で祈願されており、すべての班がこのお宮を御願しているので、親慶原の最も重要な拝所だ。
祠の右手の岩には石碑が建ち、香炉が置かれている。天智門女竜宮王御神 (あまちじょうめりゅうぐうおうおんかみ) と書かれている。糸満では二つの竜宮神の拝所を見てきた。白銀堂にあった弁天負しろの大神と島尻大里グスクにあった仁天屋しろの大神だ。その他はほとんどが那覇にあるので、それは今後、那覇を巡った時に出会うだろう。
天智門女竜宮王御神は、那覇の沖宮に主祭神として祀られている神代一代の中女天神代で、天照大御神にあたる。琉球では、天照大御神はまず琉球に降り、そして本土に移ったとされている。天照大御神は3度降臨したとされ、それぞれの時代で天受久女龍宮王御神 (御先、てんじゅくめりゅうぐうおうおんかみ)、天智門女龍宮王御神 (中代、あまちじょうめりゅうぐうおうおんかみ)、天受賀女龍宮王御神 (今代、てんじゅかめりゅうぐうおうおんかみ) と呼んでいる。ここは二度目に降臨したときの中代の天智門女竜宮王御神 (あまちじょうめりゅうぐうおうおんかみ) を祀っているというわけだ。何故、沖宮以外、ここにも祀られているのかは不明だそうだが、沖縄でお通し (ウトゥーシ、遙拝所) が多くあるので、ここも沖宮に祀られている天受久女龍宮王御神の遙拝所的性格なのかもしれない。
お宮の祠の左手に戦没者慰碑が建てられている。この慰霊碑は1951年にお宮とともに建立された。53名の犠牲者の名前が刻まれている。
祠の奥には簡易水道で使われていた水タンクの跡と前には黄色く塗られた酸素ボンベの鐘があった。一昨日もそうだが、今までいくつかの簡易水道の水タンク跡を見てきた。もう使用していないので取り壊してもいいのだろうが、村ではあえて残しているようだ。水に悩んでいた村の生活が、簡易水道の設置で、大幅に便利になった。そして上下水道の整備、村の歴史は水の確保の歴史でもあったので、あえて簡易水道の水タンクを残しているのは村の歴史を後世に伝えようとしている一部なのだろう。
お宮から見える集落の様子。
生川 (ウブガー)
お宮のすぐ北側に親慶原県営団地がある。平成5年に建てられ、3棟構成で合計56戸ある。
県営団地の道向かい (西側) にある生川 (ウブガー) の跡が拝所として残っている。現在は井戸は埋められてその面影はなくなっている。親慶原部落の始まりとともに飲み水として使用していた。
大川 (ウッカ-)
県営団地2棟の道向かい (北側) には立派な井戸跡がある。大川 (ウッカ-) と呼ばれている。親慶原集落の簡易水道の水源であった。ここからお宮にあった水タンクまで水を引いていたのだ。人口が増加するのに伴い、生川 (ウブガー) を使用するようになったそうだ。かつては、旧知念高校 (この後訪問) の学生の飲料水として使用されていた。
長嶺井泉 (ナガンミガ-)
大川 (ウッカ-) から少し西に行くと民家の後方の畑の中に長嶺井泉 (ナガンミガ-) がある。どこにあるのかはなかなかわからなかったのだが、御願所ト言うことなので、住民が音ずれているはず、どこかに入り口があるはずと探すと、民家の塀の脇が少し草が踏み固められているように見える。そこから畑の中に入っていくと、草の中に井戸があった。かつては長嶺家の飲料水として使用されて、その後、二班の近隣の家により使用されている。二班によって拝まれている。
知念高等学校跡
長嶺井泉 (ナガンミガ-) の西、公民館からは来たになる少し高台になっている場所に広い広場があった。その一角に知念高等学校跡の石碑が置かれていた。先ほど訪れた大川 (ウッカ-) はこの高校で使用されていたのだ。知念高等学校は現在は与那原にある。何故、「知念」なのかというと元々は、戦後間もない1945年 (昭和20年) 11月に知念市志喜屋区に琉球政府立知念高等学校として創立されたが、戦後の混乱の中、僅か20日間で、百名に移転し、ここも4ヶ月で、ここ玉城村親慶原に移転してきた。ここでは約6年間運営された。1952年 (昭和27年) に現在の場所の与那原町に落ち着いた。戦後の混乱期で翻弄された高校だった。20日間しかいなかった知念だが、名前はいまだに知念高等学校としてのこしている。これも沖縄の歴史の一ページだ。
三班のお宮
知念高等学校跡のすぐ下の民家の隅に三班のお宮跡がある。この場所は親慶原発祥の地とされており、親慶原で最初に建った屋敷跡で、ここから集落が始まったという。親慶原は、糸洲家をはじめとして、首里系士族が移住してできた屋取集落で、当時は垣花集落に属していたが、1920年に行政分離ししている。三班のお宮ではあるが、二班、三班の住民によって拝まれている。祠の側には恒例の酸素ボンベの鐘が吊るされている。
アシジャ井泉
三班のお宮の西側に少し行ったところの雑木林の中にアシジャ井泉 (別称 アシザ井泉) がある。飲料水として使用されていたそうだ。五班によって拝まれている。
城間井泉 (グスクマガ-)
親慶原地区の中を走る県道137号の西側は一面畑が広がる。その畑の中に城間井泉 (グスクマガ-) がある。城間家の近くにあるので、こう呼ばれているそうだ。現在、農業用水として使用され、六、七班によって拝まれている。写真左上の丘陵の上の向こう側が糸数地区になる。
六班のお宮
県道137号の東側は少し高台になっており、この近辺は集落北部にあたり下親慶原と呼ばれる。この高台の上に六班のお宮がある。元は現在地から南西約70mの県道137号線沿いにあったが、1980年頃の崖崩れにより、現在地に移動された。祠に向って左側にある石には「下慶原 天地創造之神 再建 昭和五十五年十二月吉日 御仕立」と刻字されている。六、七班によって拝まれている。
六班の井泉
六班のお宮の前に、崖を下る階段があり、その下には六班の井泉がある。ここも六、七班によって拝まれてれている。
神山井泉 (カミヤマガ-) [未訪問]
六班のお宮から県道137号線二向かって坂を下った林の中に神山井泉 (カミヤマガ-) があると資料にはあった。入り口らしきものはあったのだが、草が密集していたのでそれ以上中に入ることは断念した。飲料水として使用された。六、七班によって拝まれている。
資料に出ていた神山井泉 (カミヤマガ-) の写真
天次門 (アマチジョー) ガマ
県道137号線の西側の畑の向こうに横たわる丘陵の斜面の上部に尚巴志生誕の地と伝わるガマ跡がある。天次門 (アマチジョー) ガマと呼ばれ、天続城ガマとも書かれ、別名をアマチグスクとも呼ばれている。苗代大親 (なーしるうふや、後の第一尚氏初代国王尚思紹) は佐敷間切新里村の豪農、美里子 (んざとぅぬしー) の娘と深い仲になり、うちに美里の娘は身ごもり、このガマで出産したと伝わる。親に内緒での出産で、一時は赤子を見捨てようとしたが、それもできず、ガマ戻ってみると、鶏が赤子を抱いて温め、犬が乳を与えていたという。己の誤りを恥じ入り、赤子を連れ戻り、親の許しを請い、苗代大親とともに大事に育てたその子が後に三山を統一した尚巴志となったという話。これには別バージョンもあり、美里之子の娘は、産まれたばかりの赤子のことを父に言い出すことができず、泣く泣く赤子の生命を絶とうとした。そこへ白髪の老人が現れ、「この子はただ者ではない」と言って、苗代大比屋のもとに赤子を届けた。老人によって助けられた赤ん坊だが、美里之子の娘は、どうしてよいかわからず、今度は赤子の尚巴志をひと目のつかないところへ捨てたのが天次門 (アマチジョー) ガマという。尚巴志の誕生の逸話は別にもあり、尚巴志が生まれ捨て置かれた場所は、佐敷にある苗代大親屋の屋敷跡に近い「つきしろの岩」とする伝承もある。こちらは赤子を抱いて温めたのは、鶏ではなく白鳥となっている。
この天次門 (アマチジョー) ガマは標高160mの場所にあり、美里子の娘が住んでいた佐敷からは標高差120m以上もの急斜面なので、ここまで来たとは信じがたい。どちらにしても後世に尚巴志を神格化する作り話だろう。
急な斜面を登ると、コンクリート造りの拝所が見えてきた。拝所の中には4つの香炉が置かれその背後がガマになっている。祠からガマの中が覗けるのだが、暗くてよく見えない。沖縄戦当時は、住民がこのガマに避難していた。
祠の下にも拝所があり、更に祠から上に上った所にも拝所が置かれていた。
滝ノ口 (タチヌクチ)
アマチジョウガマの麓に滝ノ口 (タチヌクチ) と呼ばれる井泉がある。沖縄戦当時、アマチジョウガマに避難していた人々の飲料水として利用し、井戸の前は畑で芋が植えられておりそれを食していたそうだ。 この井戸は六、七班によって拝まれているほか、ガマに避難しこの水で命が助かったということで感謝の拝みに来る区外の人もいたそうだ。今でも水が湧き出ており、水たまりには多くのシリケンイモリが泳いでいた。水質は良いのだろう。
南風原知念線
滝ノ口 (タチヌクチ) の目の広場 (畑) の隣に南風原知念線が通っている。今日集落に来る途中で大城ダムを通った際に、この南風原知念線が見えたので、帰りはこの道路を通って帰ろうと思い来たのだが、生憎、自動車専用道路だった。ここから知念半島に通じている。この道路はまだ工事中なのかと思っていたが、調べると麹は終わっているようだ。ただ、入り口は立派なのだが、左右一車線で、その横にはもう二車線を造ろうとしていた橋げただけが残っている。どうも計画では片側二車線の計画だったが、何らかの理由で片側一車線で終わってしまったようだ。
南風原知念線が通れないので、帰りは佐敷経由で帰ることにした。天次門 (アマチジョー) ガマから佐敷までどのような道なのか知りたくて、ちょっと遠回りになるのだが、帰りは佐敷までは標高差160mの下り坂、その後もほとんど登坂がないので、少しは楽に帰ることができるだろう。
参考文献
- 南城市史 総合版 (通史) (2010 南城市教育委員会)
- 玉城村史 (1977 玉城村役場)
- 南城市の御嶽 (2018 南城市教育委員会)
- 南城市の沖縄戦 資料編 (2020 南城市教育委員会)
- 王城村グスクとカー (湧水・泉) (1997 玉城村投場企画財政室)
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