Okinawa 沖縄 #2 Day 72 (24/01/21) 旧糸満町 (1) Itoman Hamlet 糸満集落 上組/西組/中組

旧糸満町 糸満集落 (いとまん、イチマン)

西組 (ニシグミ、西村、西区)

  • 白銀堂
  • 中之御川 (ナカヌウカー)
  • 子之御川 (ニーヌウカー)
  • 弁天負しろの大神
  • 糸満満子の墓
  • ウサーン
  • アナギの竜宮神
  • スージーグヮー、門小 (ジョーグヮー)
  • 威部之前之門 (イービンメーンジョー)
  • スーシ
  • 勢理之井 (シリーンカー)
  • 富盛門 (トゥムインジョー)
  • 富盛ン門ヌカー
  • 長嶺門 (ナガンニンジョー)
  • 西区公民館
  • 根前小門 (タンメーグヮーンジョー)
  • 根前小ン門ヌカー
  • 高良小門 (タカラグヮーンジョー)
  • ユームチガー

中組 (ナカグミ、仲村、町端区)

  • 町門(マーチンジョー)
  • 町ン門之井 (マチンジョーヌカー)
  • 町ン門竜宮神
  • 糸満港
  • 兼久小門 (カニクグヮーンジョー)
  • 兼久小門之井 (カニクグヮーンジョーヌガ-)
  • 西新地門 (ニシミージンジョー)
  • 町端公民館
  • 鍛冶屋門 (カンジャージョー)
  • 鍛冶屋井 (カンジャーガー)
  • 鍛冶屋門竜宮神 (カンジャージョールーグーシン)

上組 (ウィーグミ、上之平区)

  • タキグサイヌカー
  • タカザキ
  • 伝馬井 (ティンマガー)
  • 祝女殿内 (ヌンドゥンチ)
  • 井戸拝所跡
  • 殿内屋 (トゥンチャー)
  • 殿内屋之井 (トゥンチャーヌカー)
  • 黄金森 (クガニムイ)
  • 白銀森 (ナンジャムイ)
  • 蔵元井 (クラムトゥガー)
  • 湧川井 (ワカーガー)
  • ウスクガー

昨日、一昨日と雨が続き、外出できなかった。旧高嶺村の最後の集落の真栄里を予定していたんだが、真栄里には二つのグスクがあり、二日間の雨で雑木林中はぬかるんでいるだろうから、乾いたころを見計らって訪問することにし、今日はその次に訪問を予定していた旧糸満町の訪問に切り替えた。かつてはこの旧糸満町が兼城間切の一つの字だったのだが、文化財が多く存在しており一日では回れない今日はその三分の一を目標にして巡る。



旧糸満町 糸満集落 (いとまん、イチマン)

旧糸満村は北は報得川を挟んで字兼城、西川町、東は字照屋、南は南ン潟 (ヘーンガタ) を経て字真栄里、潮崎町に接し、西は東シナ海に面している。糸満は沖縄方言ではイチマンと呼ばれている。その云われについては色々な伝承がある。この土地で最も古い井戸といわれている白銀堂の前に在るシリンカー (シリンシンガー) を掘った時に、水の湧き出る穴から、アジカーと云ふ一匹の大きな蟹がイトウ・マン (絹糸) を銜えて這って出て来たのでイトゥマンなった。別には、イユ・トゥイ・アマミ (魚捕海人部) が変化したとの説を唱える人もいる。

糸満村は、琉球王国時代の17世紀には、島尻兼城間切 (後に兼城間切と改称) に属し、その後兼城間切は幾たびか構成する字の入れ替えがあったが、糸満は廃藩置県まで兼城間切の字として続いた。1880年 (明治13年) 沖縄県布達時には島尻地方兼城間切糸満村となり、1896年 (明治29年) には島尻郡兼城間切糸満村となる。1908年 (明治41年) 島尻郡兼城村を兼城村 (= 字照屋、字兼城、字座波、字賀数、字波平、字武富、字阿波根、字潮平を) と糸満町 (= 糸満村) に分割した。1961年には兼城、高嶺、三和 (真壁、喜屋武、摩文仁) の3村を合併し、1971年に糸満市となって現在に至っている。ここでは、琉球王朝時代から明治時代の糸満村 (字糸満) の文化財を巡る。

人口統計が始まったのは1880年 (明治13年) でその時点でこの字糸満の人口は既に約5500人にものぼり、今まで訪問したどの字よりも多い。1961年に人口が急増し3倍にも増えている。その後、ほぼ横ばいとなり、1976年以降は減少に転じ、2004年に下げ止まり、それ以降は横ばいとなっている。人口は全盛期に比べて三分の二程度だ。資料ではこの人口の増減の背景については一切触れられていない。本当はその理由が一番知りたいのだが、このように事実だいけを淡々と説明しているだけの資料が多いのは残念だ。2004年の2000人程の人口減少は糸満町から分離した西川町が統計から外れたことによる。


糸満集落文化財訪問ログ


西組 (ニシグミ、西村、西区)

字糸満には13の小字があった。現在は区になっている。まずはそのうち最も北側にある西組 (西区) と上組 (上之平区) から見ていく。


まずは西区から....

西区は元々は西村、そして西組だった地域国道之西側は明治時代に埋め立てられて多くの漁師が住居を構えていた。それ以前は国道の東側の高台が中心だった。そこには上の地図で薄赤くなっている場所が門中の本家之屋敷があった所を示しており、この西村に多く集まっている。各屋敷の縄張りは碁盤の目の様にはなっていないので琉球王統の初期の時代から集落が形成されていたことがわかる。


白銀堂

白銀堂は字糸満に位置しており、古くから糸満の人々に最も崇敬される拝所。糸満街道沿いにコンクリート造りの島居から中に入る。敷地内にはいくつもの大きな琉球石灰岩がある。そびえ立っている。鳥居の右側の岩の下部の洞窟が赤瓦葺きの建物が白銀堂と呼ばれている。


この建物の奥には洞窟があるのだが、中には入ることはできず、一般の参詣は洞窟の外側から拝むようになっている。洞窟の中にはイビが置かれ、琉球国由来記の寄上 (ヨリアゲ)  神名 白銀之御威部にあたると考えられている。この場所はイビの前 (メー) と呼ばれている。

洞窟内のイビの前 (メー) から外側の建物の辺りまでが、琉球国由来記の殿 (トゥン) に当たる。明治以前は建物もなく、このイビの前を簡単な期の策で囲っていただけだった。明治末期に写真左にある瓦葺きの建物が建てられ、そして様な1932年 (昭和7年) に昭和天皇即位の御大典記念事業として、本土の寺社建設様式で境内に配電が造られ白銀神社となった。

イビの前 (メー) の洞窟は裏側に通じており、その出口にはアーマーグヮーと呼ばれる拝所がある。

敷地内の東側、イビの向かいの岩下にある拝所はウタキと呼ばれ、コンクリート製の階段を上ったところに香炉が三つ置かれている。南山・玉城・今帰仁へのお通し御嶽と呼ばれたり、カニマンウタキとも呼ばれている。

威部のある白銀堂の裏手は大きな岩石が立ち並んでいる。

その敷地内やその周辺には古墓などがあり、一帯は聖地とされている。

この白金堂には伝承が残っている。この伝承で出てくる「意地ぬ 出らー  手引き、手ぬ 出らー 意地引き」(いじぬ んじらー てぃーひき、てぃーぬ んじらー いじひき)[怒りに負けたら手を出すな、手を出すのなら怒りをおさめよ。] の諺の石碑が建っている。この石碑の左側には1932年 (昭和7年) に白銀神社の改築事業の記念碑がたっており、御大典記念改築碑と刻まれている。

この伝承は類似したものが幾つかあり、微妙に背景とか登場人物の名前などが異なっているのだが、一つは球陽外巻の遺老説伝 (1745年) で登場する美殿 (ミドゥン) と根人腹 (ニーチュバラ) に伝わる白銀岩之由来 (1822年) に登場する薩摩の侍の児玉左衛門を組み合わせているものがあったので紹介しておく。沖縄県立博物館が作成した沖縄の民話を集めたサイトに紙芝居形式で、シマクトゥバ (沖縄方言) と現代語での語りのサイトともあり、これは面白い。 この話はこの糸満だけではなく、那覇市久米、読谷村渡慶次、読谷村伊良皆、読谷村瀬名波、島尻郡伊是名村にも同じような言い伝えがある。この糸満での話が広がったのだろう。

この白銀堂の由来についての伝承は糸満市の各字やその他の地域で同じように伝わっているのだが、旧高嶺村与座集落に伝わっている話は少し異なっている。登場人物が異なり、その役割も変わっている。金を薩摩の児玉荘衛門 (=児玉左衛門) から借りたのは引物蒲主 (ヒチムンカマス―) という首里商人となっている。引物蒲主が金を返すことができず、娘を売って金を返すというと、児玉荘衛門は娘を売るとは何ごとかと怒り、刀で切ろうとしたときに、首里勤めを隠居し与座に住んでいた百名三郎 (ヒャクナサンラ―) の息子で糸満で漁師をしていた糸満馬子 (イチマンマンクー) が漁から帰ってくるときに通りかかり、仲裁に入った。この時に糸満馬子が 児玉荘衛門に言った言葉が「意地ぬ 出らー 手引き、手ぬ 出らー 意地引き」(いじぬ んじらー てぃーひき、てぃーぬ んじらー いじひき)[怒りに負けたら手を出すな、手を出すのなら怒りをおさめよ。] であった。その後の話は同じ流れとなる。こちらの話の方が筋がしっかりしている。一般的に伝わっている話の鐘を借りた本人が激怒している貸主をいさめたというのは少し妙だ。それに白銀堂裏には糸満馬子の子孫が現在でも住んでいるのだが、与座に伝わっている話のほうが誇らしいだろう。



子之御川 (ニーヌウカー)、中之御川 (ナカヌウカー)

白銀堂敷地内には拝所となっている井泉が二つある。敷地北側隅のものを鳥居を入って左側のものを中之御川 (ナカヌウカー)、駐車場の奥には子之御川 (ニーヌウカー) がある。祭祀の際にはこの白銀堂の中では、威部 (イビ)、御嶽 (ウタキ)、中之御川 (ナカヌウカー)、子之御川 (ニーヌウカー) を決められた作法で拝んでいる。今日訪れた際には、次から次へとお参りに来る人がいた。お盆に載せたお供え物と平御香 (ヒラウコウ) を携えて回っていた。 大城さんが説明してくれたのだが、そろそろ旧歴の年末が近づいてきているので、この一年の感謝と来年の安泰を祈る師走拝み (シワーシウガミ) に来ているそうだ。この師走拝み (シワーシウガミ) は旧暦12月の大安の日を選んで行うそうだが、今日はまさに12月12日で大安だった。沖縄では今でも昔から続く行事や祭祀は旧暦で行っている。大城さんも旧暦を中心に生活が動いていると言っていた。


中之御川 (ナカヌウカー) はナカスユーヌウカーとも呼ばれ、コンクリート製の枠に屋根の付いた覆いを設けられている。カーの枠の正面手前には香炉が置かれ、これは近世未の兼城間切の総地頭であった第二尚氏17代尚灝王 (1804年-1834年) の第七王子の尚慎 玉川王子朝達が寄進したものといわれる。香炉を寄進したという言い伝えは幾つかの訪れた拝所で目にした。王府時代には、江戸立のような旅役の大任を任せられた人が、無事に仕事を済ませたお礼で、石灯籠や香炉を寄進する習慣があったそうだ。この玉川王子朝達の寄進した香炉は兼城集落の前之殿内 (メーヌトゥンチ)とシラタキ にもあった。座波集落の殿 (トゥン) と中之御嶽にも寄進された香炉がある。 この糸満には白銀堂洞窟内に一基、ウサーンに一基、トゥンチャーに一基ある。

子之御川 (ニーヌウカー) は白銀堂敷地の子の方角にあることから子之御川という。カーの内部は石積みで囲われ、地上部にはコンクリート製の覆いを設け、正面前には炉が置かれている。現在も水が沸いている。かつては、旧暦1月1日の早朝、ムラの神人であるノロ、根人、根神、二ーブトゥイ (柄杓取り) の屋号 大殿内 (ウフドゥンチ) と屋号 徳屋 (トゥクヤ) が白銀堂に集まり、ソーグヮチウガミ (正月拝み) が行われ、このとき最初に拝むのがこのニーヌウカーであった。門中や個人による拝みは、この儀礼が終わってから行われた。元日に各門中が行うミジトゥイ (水取り)、ハチカーミジナディー (初川水撫で) などで拝まれるほか、現在も門中や個人が白銀堂を拝む際には、威部 (イビ)、御嶽 (ウタキ)、中之御川 (ナカヌウカー)と共に必ず拝まれるカーとなっている。


弁天負しろの大神

白銀堂の鳥居を抜けると左側には、弁天負しろの大神の御嶽がある。これも竜宮神を祀っている。

弁天負しろの大神は、琉球神道の龍神である天風龍大御神 (あまふうりゅうおおかみ) の長男で卯の干支の龍神。

2月12日 旧暦の正月に再びこの白銀堂に立ち寄った。糸満の人は初拝みは白銀堂に行く。白銀堂の威部 (イビ)、御嶽 (ウタキ)、中之御川 (ナカヌウカー)、子之御川 (ニーヌウカー) を決められた作法で拝む。今日は次から次へと車が境内に入ってくる。車から降りてきた人たちは重箱詰めたお供え物のウサンミ (御三味) を携えて、この4つの拝所を順番に拝んで帰っていく。テレビ局が来てこの御願をとっていた。多分今日のニュースで流されるのだろう。

門中正月御願

2月12日 旧暦の正月白銀堂の後、小波蔵集落へ向かう途中。糸満の街中に門中の名前が書かれたのぼりを見かけた。旧正月では門中がその本家にあいさつに行き先祖を拝む。その本家にのぼりがたてられているのだろう。ここにもテレビ局が取材をしていた。帰りには登りはかたずけられていた。


糸満満子の墓

白銀堂北側の琉球石灰岩の崖に糸満満子の墓なるものがある。糸満満子とはいうが、これは女性の墓ではなく、先ほど訪れた白銀堂の伝承の美殿 (ミドゥン) の墓だ。根人腹 (ニーチュバラ) に伝わる白銀岩之由来 (1822年) ではこの美殿 (ミドゥン) は馬子 (マンクー) に変わっており、この馬子 (マンクー) が根人腹 (ニーチュバラ) の始祖の玉城按司の子 百名三郎 (ヒャクナサンラー) の息子だという。この馬子 (マンクー) の墓であり、満子 (マンクー) の墓として残っている。馬子、満子は当て字なので、同一人物の事。この一帯は昔は根人腹 (ニーチュバラ) の屋敷があったそうだ。


ウサーン

糸満満子の墓の近くにウサーンという拝所があり、ウサワンヌウタキともいわれる。このウサーンはかつてはウチャハンやウサファンとも呼ばれていたので、琉球国由来記に記載のある糸満に隣接する兼城村の拝所として記載があるオチャハノ嶽 (神名 ヨリアゲマウリ白カネノ御イべ) ではともいわれている。このウサーンを探したのだが、資料の写真と同じようなものが見当たらない。そこで白金堂で掃除をしていた女性に聞けば判るかもしれないと思い引き返し聞くと先ほど探していた時に見つけたこの場所だという。これがきっかけでこの女性 (大城栄子さん) と色々なことを長い時間話すことになる。大城栄子さんはこの糸満に生まれ育った人で、糸満市西区の区長をしていた人だ。色々と糸満の事を話していただいた。その幾つかはこのレポートで随時書き留めておくことにする。

ウサーンは、コンクリー基壇の上に北向きに香炉が二つ並び、向かって左のが「井戸ノ神」と記されている。基壇の左側には各門中が個別に造った香炉が幾つもが置かれ、このうちの古い香炉は、近世未期に兼城間切按司地頭の玉川王子朝達の寄進したもの。今帰仁、伊波、中城、首里、那覇、瀬長などの御嶽やカー (井泉) などのウトゥーシ (遥拝所) だそうだ。

ウサーンは小高い丘の上にあるのだが、そのウサーンがあるところの真下に井戸があった。このウサーンと関係があるのかを大城さんに聞いてみた。直接の関係はなくこの井戸はノロのような特別な人が拝むところで一般の人は拝まないそうだ。もう少し詳しくきいてみたい。井戸にもランクがあるのだろうか?


次は西区の海岸線にある文化財を巡る。


アナギの竜宮神

この場所は西村ではなく、小字沖之島で、現在は西川町に属している。この沖之島はアナギと呼ばれる離れ島で、かつては塩田が存在し、製塩業が営まれていた。戦後、糸満漁港の整備が開始され、1954年 (昭和29年) に浚渫により完成した水路が報得川から運ばれた土砂で堆積し、1959年 (昭和34年) の再浚渫の際に沖之島と沖縄本島間の海域が埋められ、1966年 (昭和41年) 以降の公有水面埋立事業により、周囲も埋め立てられた。本土復帰後の1973年 (昭和48年) に、沖之島が存在していた場所に造船所が建設され、2006年 (平成18年) まで同地で操業していた。

明治時代に埋め立てられた場所と戦後に埋め立てられた沖之島の間には報得川が流れている。もともとは報得川が流れ込む海だった場所だが、埋め立てで報得川が延長された形だ。この報得川を渡ってしばらく走ったところが沖之島だった。

このかつて沖之島の場所にアナギの竜宮神があったという。現在は移設されているのだが、資料では正確な所在地が載っておらず、琉球石灰岩の岩下にあるという説明で、それらしき岩を探し、沖之島があった場所を走り回った。やっと見つけた。近寄ると、資料に載っていた写真と同じだった。糸満は漁師の町で、危険な海で漁をする住民にとっては、海での安全を司っている竜宮神は非常に重要な神だ。この後幾つかの竜宮神を見つけることになる。この拝所も竜宮神を拝む場所とされ、岩の下部の西側、南側、東側の3か所に祠と香炉があり、このうち西側には「龍宮神社」、東側には「七龍宮神」の碑も建てられている。この拝所は現在地より東側にあったが、ここに移設されている。


スージーグヮー、門小 (ジョーグヮー)

かつての糸満の中心地であった場所に向かう。中心地は西村でそこには9本の入江があり、誓うには漁師が住んでいた。明治時代にその入江を埋め立て、沖縄では海人 (うみんちゅ) と呼ばれる漁師が自分たちが使っていた入江跡一帯に住み始め、路地ごと血縁者が集まり門 (ジョー) と呼ばれる共同体を作り、漁や生活など、互いに協力しあっていた。この9つの門小 (ジョーグヮー) は北の5つが西村渠 (シンダカリ 西村 現在の西区) に、南の4つが仲村渠 (メンダカリ 中村 現在の町端区) にある。西村渠 (シンダカリ) は、この漁師町では最初に出来た村で、仲村渠 (メンダカリ) は次にできた地域。糸満ハーレーでは「西村」「中村」に「新島」をあわせた三村で競い合う。


威部之前之門 (イービンメーンジョー)

後で訪れる白銀堂の前にある路地で、白銀堂の威部 (イビ) の前ということでこの名がついている。沖縄では門はジョーと読む。本土でいう「もん」Gate の意味はない。もともとは原野を意味し、それが通り、大通りという意味になった。沖縄の至る所でこの門 (ジョー) に出会うが、それは「通り」と考えればよい。


スーシ

威部之前之門 (イービンメーンジョー) の路地を進むと海岸に出る。そこにスーシと呼ばれる拝所がある。スーシは波打際の意味のスーチの転訛と考えられている。この拝所も海の神である竜宮神の遙拝所とされ、参詣する人が海側を向くように東向きに建てられたコンクリート造りの祠がある。内部には香炉が1基置かれている。海岸線の位置が変わるたびに拝所を移動したとも伝わっている。旧暦5月4日のハーレー行事では、御願バーレーが済んだ後に白銀堂でハーレー歌を奉納するハーレーシンカー (漕ぎ手) への応対を済ませた神人達がスーシへ移動し、御願バーレーが無事終了したことを竜宮神に報告する。なお、かってはアガイスーブの済んだ後にも拝まれたという。


勢理之井 (シリーンカー)

富盛門(トゥムインジョー) の路地の国道の向かい側に井戸跡が残っている。勢理腹のムートゥである勢理の祖先が掘ったので、シリーンカー (勢理之井) と名付けられている。字糸満の村建てのカーともいわれ、「糸満」という地名はこの井戸から糸をくわえたカニが出てきたことにちなむとの伝承がある。現在も水量は豊富だそうだ。半円形の石組みで、前庭部は石敷きになっている。正面の琉球石版岩の縁には、釣瓶の上げ下げで擦り減った跡が何か所も残っている。シリーンカーは字糸満の代表的なンブガー (産水) の一つで、元日の朝の若水はこの井戸から汲む習わしであった。元日に各門中が行うミジトゥイで拝まれるほか、根前小ン門や富盛ン門の門御願でも拝まれている。


富盛門 (トゥムインジョー)


富盛ン門ヌカー

富盛門 (トゥムインジョー) にあるカーで、このカーの水は塩分が多く含まれることから、ウスガー (潮川) とも呼ばれた。現在も水量は豊富で、方形の掘り抜き井戸。1935年 (昭和10年) ごろ、防火用水として設けられたカーといわれ、日常生活でも洗濯などに利用された。毎年旧暦2月と12月に行われる富盛ン門の門御願では白銀堂などを巡拝し、最後にこのカーを拝んでいる。


長嶺門 (ナガンニンジョー)


西区公民館

長嶺門 (ナガンニンジョー) を抜けて海岸に出るとそこに西区公民館がある。知り合った大城栄子さんが区長をしていたところだ。大城さんが区長の時代の2014年に現在の建物に建て替えられている。


根前小門 (タンメーグヮーンジョー)

この門 (ジョー) は道幅が極端に狭い。車は入れないだろう。


根前小ン門ヌカー

西区の根前小ン門にあるカーで、方形の堀り抜き井戸の地上部にコンクリ―ト製の屋根付きの覆いを設け、正面前には鉄製の格子扉を取り付けている。近住民の飲料水のほか、洗濯などに利用された。汚れた着物やおしめなどを洗う場合は、まず海水で洗ってから、このカーの水をすすぎに利用したという。


高良小門 (タカラグヮーンジョー)


ユームチガー

西区の町ン門と高良小ン門の中間辺り、民家の密集する場所にあったカーだが、現在は埋められてカーの形は確認できない。その跡地とされる場所を町ン門の門御願で拝んでいる。


中組 (ナカグミ、仲村、町端区)

町門(マーチンジョー)

これで9つの門小 (ジョーグヮー) の内、西組の5つを見終わった。残りの4つは中組 (仲村、町端区) なのだが、この4つの門 (ジョー) も散策する。まずは町門(マーチンジョー)で海岸之方に市場があったので町門(マーチンジョー)と呼ばれる。沖縄では町小 (マチグヮ) という言葉が良く出てくる。マチグヮは商店街とか市場の意味。大城さんはこの通りに住んでいるそうだ。


町ン門之井 (マチンジョーヌカー)

これで9つの門小 (ジョーグヮー) の内、西区5つを見終わり、国道の東側へ移動する。西区の南端の上之平区と町端区の境界近くの町門(マーチンジョー) に町ン門之井 (マチンジョーヌカー)がある。近郊住民の生活用水と利用され、この周辺のかまボこ製造業者もこのカーの水を利用していたそうだ。町ン門では旧暦2月、6月、12月の門御願で拝んでいる。大城さんに教えてもらったのだが、門御願 (ジョーウガン) とは各門 (ジョー) の住民が年に四回に拝所を巡るそうだ。もう何百年も続いている。大城さんは、これからも従来通りの作法で続けていきたいのだが、若者はなかなか理解してくれないと悩みを話してくれた。


町ン門竜宮神

町門 (マーチンジョー) を抜けて海岸に出たところに、もう一つの竜宮神に拝所がある。町ン門竜宮神という。町ン門の人々が門御願で拝む拝所の一つ。この港には多くの漁船が停泊していた。大城さんには旧正月に戻ってきなさいと言われた。今年は2月12日が旧暦正月に当たる。この日は一斉に漁船に大漁旗が掲げられ圧巻だそうだ。港では新年の祭りがあるという。ぜひとも来てみたい。その時の模様は、このレポートに追加することになるだろう。


糸満港

糸満は漁師の町。明治時代から埋め立てが繰り返されて、今では糸満港は立派な港になっている。

大城さんが話してくれたのは糸満の女性についてだ。那覇の人たちが言うには糸満の人たちは気性が荒い。最も漁師として生計を立てている糸満の人たちは、内陸部でサトウキビ栽培を生業としている人とは生活が全く異なる。漁師の仕事は危険なもので、沖での漁は生命の危険を覚悟して船出をしたという。糸満の人たちは遠くはフィリピンやインドネシアまで漁に行き、その地に根を下ろした人もいるそうだ。多くの冒険野郎を輩出している。このような中で、気性は荒くなければやっていけないだろう。それにもまして糸満の女性はもっと強いと話してくれた。旦那が持って帰ってきた魚を那覇まで運び売りさばくのは女性の仕事だった。糸満から那覇までは馬車道だった小禄のガジャンビラを通って、頭に魚を入れたバーキと呼ばれるかごを載せて行商 (カミアキネー) 行ったそうだ。12キロほどの距離を歩いていった。生ものなので早く売りさばく必要があり、道を小走りに急いだそうだ。時には悪い男たちにちょっかいをかけられることもあり、糸満の女性はひるまずバーキに入れていた包丁で負けじとやり返したそうだ。那覇ではイユーコーンチョーラニー(魚を買いませんか)と声をかけ売りさばいた。大城さんがそのイユーコーンチョーラニーの掛け声を見せてくれた。何とも風情のある抑揚だった。この行商で儲けた利益は女性たちのもので、旦那には渡らない。これが糸満特有の習慣だ。これをワタクサ―という夫婦別財で妻は個人の財産を持っていた。それはこのカミアキネーで稼ぎ貯めたものだ。それは夫は漁師でいつ未亡人になるtも限らない、葬式も出さねばならず、その後は自立していかなければならない。そのための資金で家庭では嫁に行くときにはワタクサ―をしっかりと貯めるようにと言われていたそうだ。糸満の女性はたくましい。大城さんも糸満の中心地の西区を仕切る区長をつとめたのだから、たくましい女性だったのだろう。

この港では、有名な糸満ハーレーが行われている。去年は新型コロナで開催が中止になったのだが、大城さんは今年はぜひとも開催してほしいと言っていた。ハーレーは糸満の中にある西村、中村、新島の3つの地区の競争になる。昔はそれぞれの地区で各門中が所有していたサバ二で予選が行われ、それに勝ち残った組が糸満ハーレーに挑むことになっていた。優勝した家はその年は生活が困らないといわれた。糸満で最も活気がある行事だ。ハーレーの本選では御願バーレー、青年バーレー、クンヌカセー、アガイスーブの4つの競技が行われ、それぞれの優勝と総合優勝となる。御願バーレーはまだまだ競争よりは神事の性格が強く、優勝チームは白銀堂での式典に参加する名誉が与えられている。協議の途中でサバ二を一度転覆させ、もう一度立て直して競争をする変わった趣向がある。これは糸満で始まった協議といわれている。(以上は大城さんが話してくれた)

この港には2月12日 旧暦正月に戻ってきた。先日糸満の白銀堂でであった大城さんから教えられた糸満漁船の大漁旗を見に来たのだ。糸満港に停泊している漁船の多くが大漁旗を掲げ、今年の豊漁を願っている。漁港の場所にある公民館前では漁師たちが集まり御願をしたのだろうが、ここに到着した時には既に終了した後だった。


兼久小門 (カニクグヮーンジョー)


兼久小門之井 (カニクグヮーンジョーヌガ-)

兼久小門 (カニクグヮーンジョー) にあるカーで、兼久小ン門では、門御願でこのカーを拝んでいる。


西新地門 (ニシミージンジョー)


町端公民館

西新地門 (ニシミージンジョー) と兼久小門 (カニクグヮーンジョー) の間の海岸沿いに町端公民館がある。隣の西区公民館と数十メートルの距離。


鍛冶屋門 (カンジャージョー)

9つ目、最後の門 (ジョー) 。鍛冶屋と名ついているが、この付近に鍛冶屋があったからこの名が付いたそうだ。


鍛冶屋井 (カンジャーガー)

鍛冶屋門 (カンジャージョー) が始まる国道1号を隔てた山巓毛 (さんてぃんもう) のがけ下に鍛冶屋井 (カンジャーガー) がある。かつてこの付近に鍛冶屋があったことから、カンジャーガー (鍛冶屋井) と呼ばれている。カンザーガーやサンティングサイヌルーグシンヌカー (山巓グサイの竜宮神の井)とも呼ばれることもある。元日に各門中が行うミジトゥイで拝まれるカーの一つ。


鍛冶屋門竜宮神 (カンジャージョールーグーシン)

鍛冶屋門 (カンジャージョー) を海岸側に抜けたところに、また別の竜宮神を祀った拝所がある。

これで9つの門小 (ジョーグヮ) を巡り終えた。各門 (ジョー) との間には所々人が一人通れるくらいの細い路地が通っている。これは本土でも古い港町にはよくある町並みだ。

それぞれの門 (ジョー) には沖縄の赤瓦屋根の平屋がいくつかある。



上組 (ウィーグミ、上之平区)

つぎは上之平区に移動....

上之平区はかつては上組で、タカザキ丘陵の斜面に集落が広がっている。ここも家屋の縄張りは不整形なので糸満之集落の初期の姿を残しており、糸満門中の多くの本家が屋敷を構えていた地域だ。



嶽グサイ之井 (タキグサイヌカー)

白銀堂の裏にある岩場の古墓がある場所から、更に奥に進むと、西区から上之平区に入る。ここにも古墓がある。

ここには糸満の門中屋敷の密集するタカザキと呼ばれるの丘で、その中腹の雑木林の中に嶽グサイ之井 (タキグサイヌカー) ある。琉球石灰岩の岩の下に井戸をかたどったブロック製の方形の枠が設けられ、その正面前には香炉が置かれている。傍らには「根川神」と刻した碑も立てられているが、その意味などは不明。元日に各門中が行うミジトゥイで拝まれるほか、赤比儀腹では旧暦8月のアミクゥマチーでタカザキの遥拝所とともに拝んでいる。グサイと呼ばれているので、白銀堂の御嶽なのか、この後に訪れるタカザキの御嶽との対なのだろうか?井戸跡の傍らにはトーテークー神と書かれた拝所がある。トーテークー神とは土帝君 (トゥティークー) の事だろう。


タカザキ

上之平の丘陵の頂部を目指して上る。この場所は琉球石版岩のタカザキの丘をと呼ばれている。頂上への途中にウトゥーシバンと呼ばれる拝所がある。國火神と書かれた拝所と古墓がある。ウトゥーシバンと呼ばれているので、どこかの御嶽へのお通し (ウトゥーシ  遙拝所) なのだろう。

頂部の崖の縁近くには香炉が2つ置かれている拝所がある。勢理腹が設けたといわれ、アミクウマチー (天久御祭)、ナキギンウマチー (今帰仁御祭) の行事で今帰仁や天久を遥拝となっている。

この拝所の右側にも拝所がある。低いプロック塀の前に香炉が置かれている。赤比儀腹の遙拝所といわれている。

更にこの隣にはまだ拝所がある。國軸神の拝所とテーラウ川の井戸の拝所がある。この拝所についての情報は見つからなかった。

このタカザキ頂上から糸満を臨む。



伝馬井 (ティンマガー)

上之平区の集落の東外れにあるカーで、王府時代にこのカーで汲んだ水を伝馬船に載せて報得川下流にやってきた交易船に運んだことから、ティンマガー (伝馬ガー) と呼ばれるという。円形の枠を設けた掘り抜き井戸で、手前には香炉が置かれている。


祝女殿内 (ヌンドゥンチ)

上之平の住宅地の一角に石垣囲いの民家がある。ここには糸満ノロのノロ火ヌ神などを祀る神屋が建てられている。祝女殿内と呼ばれている。ヌンドゥンチのお宮とも呼ばれている。屋号も祝女殿内の門中腹だ。戦前にあった祝女殿内は、首里の真壁殿内から移築されていたのだが、沖縄戦で焼失し、戦後、白銀神社の社殿などを解体した資材を使い、昭和20年代に建てられたもの。この敷地は民家で人が居住しているので、自由には中にはいれないのだが、資料によると、神屋の内部には、正面奥に3つの祭壇があり、奥の壁には「白銀神」の文字が鋳出された金属製の円鏡が立てかけられているそうだ。


井戸拝所跡

祝女殿内 (ヌンドゥンチ) の近くで見つけた井戸跡。香炉が置かれているので拝所としての井戸跡だ。資料には載っていなかったので詳細は不明。


殿内屋 (トゥンチャー)、殿内屋之井 (トゥンチャーヌカー)

報得川に架かっている兼城橋の近くに殿内屋 (トゥンチャー) と呼ばれる拝所がある。火ヌ神を祀る拝所で、琉球国由来記に記載の糸満里主所と考えられている。ここの火ヌ神は里主所火ヌ神、すなわち地頭火ヌ神と考えられる。殿内屋 (トゥンチャー) の敷地内、火ヌ神を祀る建物の右手前に井戸跡があり、トゥンチャーの敷地内にあるためトゥンチャーヌカーとか、ウビーガーとも呼ばれている。円形の石積みの枠が設けられていたのだが、コンクリートが割れ、石済みが崩れてしまっている。この枠の一部に香炉が残っている。これで拝所と分かった。この井戸は元々水の湧くカーではなく、儀礼用の空井戸と考えられている。ここで疑問が沸く、なぜあえて空井戸を造って拝所にしたのだろう。単に拝所でも良いはずだし、殿内屋 (トゥンチャー) 内に造ってもよかったのではないだろうか? 元日に各門中が行うミジトゥイで拝まれるほか、門中や個人でトゥンチャーを拝む際にはこのカーもあわせて拝まれる。井戸の脇に置かれた石製の香炉はトゥンチャーの南のクガニムイとナンジャムイへのウトゥーシ (遥拝) となっているそうだ。


黄金森 (クガニムイ)

殿内屋 (トゥンチャー) の南西にクガニムイ (黄金森) がある。ここに拝所があると書かれていたのだが、場所ははっきりとは分からない。森 (ムイ) となっているので、それらしき茂みを探すと、上の方にそれらしき森 (ムイ) があり、そこに行き、入り口を探す。何度か行ったり来たりし、あきらめかけたときに茂みに中に細い石の階段が見えた。そこかもしれないと中に入ると、拝所があった。高台にコンクリート造りの祠がある。カニマン御嶽と呼ばれているところだ。

この拝所の裏、北側斜面の一角にも拝所があり、ここもクガニムイの一部。本来のクガニムイは斜面の岩下にある拝所で、以前はこの一帯には雑木が生い茂って足を踏み入れるのも困難だったため、先ほど見つけた高台の頂部の祠はその遥拝所として設けられたものともいわれているのだが、詳しいことは明らかではなく、ウマチーやウハシなどの行事でも、斜面にある拝所を拝む門中と、高台のを拝む門中とがあるそうだ。


白銀森 (ナンジャムイ)

黄金森 (クガニムイ) と対をなすと思われる拝所に白銀森 (ナンジャムイ) がある。クガニムイの東側にある雑木の茂った小高い場所がナンジャムイとされ、その一角に拝所があったといわれる。ナンジャムイの場所や拝み方は門中や個人によってさまざまにいわれ、詳細について不明な点が多く、白銀堂裏の丘一帯がナジャムイであるとの説や、ナンジャムイの拝所は、現在はクガニムイに合祀されているとの説もある。



蔵元井 (クラムトゥガー)

国道から緩やかな坂を少し上った途中に、勢理 (シーリ) 腹のナカムートゥのひとつである蔵元 (クラムトゥ) の屋号にちなんでクラムトゥガー (蔵元ガー) と呼ばれるというが、詳相は不明。現在も水量は豊富で,中をのぞくと錦鯉が泳いでいる。元日に各門中が行うミジトゥイで拝まれるほか、玉城門中では1月3日の神年頭にこのカーを拝んでいる。


湧川井 (ワカーガー)

マチンカーの東側、上之平区と町端区の境界にあるカーで、ワカーガー(湧川ガー)、またはワカーという。コンクリート製の囲いを設け、その上には鉄製の格子状の覆いが掛けてあり、カーの向かって右手に設けた小さな祠の中には香炉が置かれている。元日に各門中が行うミジトゥイで拝まれるほか、町ン門では立御願とシリガフー御願で拝んでおり、ムートゥの屋敷が近くにある玉城門中では、1月3日の神年頭に拝んでいる。


ウスクガー

上之平区の南端、ワカーガーの南側にあるカーである。琉球石灰岩の切石積みで半円形に囲われた井戸で、向かって右には香炉が置かれている。町ン門では立御願とシリガフー御願にのカーを拝む。また、以前は保才門中も拝んでいた。

今日は大城さんと出会えたことが一番の収穫だった。白銀堂の掃除中だったにもかかわらず多分一時間以上も話に付き合ってくれた。知識も豊富で何よりも糸満の文化や習慣を愛し、明確な意見を持っていた。文化財をどうとらえるか、どうしていくのか、その課題は何かにつてもいろいろと話し、意気投合した感じで、大城さんとの会話が弾んだ。週に二回ほど白銀堂之清掃をしていると言っていたので、あと何回か糸満を通るので、機会があれば再度話をしてみたい魅力的な人だった。


参考文献

  • 糸満市史 資料編13 村落資料 旧糸満町編 (2016 糸満市史編集委員会)
  • 古代琉球王朝の発祥地 : ふるさと与座村の歴史散歩 (2000 伊敷賢)
  • 沖縄・糸満の昔話 (1996 糸満市教育委員会)

0コメント

  • 1000 / 1000