Okinawa 沖縄 #2 Day 73 (26/01/21) 旧高嶺村 (5) Maezato Hamlet 真栄里集落 (1)
旧高嶺村 真栄里集落 (まえざと、メーザトゥ)
沖縄戦遺構
- 白梅の塔
- 萬魂之塔
- 寺 (ティラ、南禅廣寺)
- 下の壕 (マチドーヌティラ)
- 山形の塔
- 眞山之塔
- 上の壕
- ウティルガー [未訪問]
- バックナー中将慰霊碑
- 栄里之塔
糸部 (イトゥブ) 部落
- 湾口 (ワングチ)
- 東ン門のアサギ
- アガリントー [未訪問]
- 糸部 (イトゥブ) 大屋子世 (ユー) [1/30に訪問]
- 下糸部之殿 (スムチブ、シチャイトゥブヌトゥン) [1/30に訪問]
- ウィーチブ [1/30に訪問]
- 勝連山 (カッチンヤマ)
- [殿内屋 (トゥンチャー)]
- [勝連之御嶽 (カッチンヌウタキ)]
- [軸シンバン]
- [ウサチカッチンユー]
- [栄元のクサイガー、仲門のクサイガー]
- [ヨサンガー]
真栄里部落
- 栄元の神屋
- 屋号 三男前徳門 東角の拝所
- 仲門
- 30番地の拝所 [未訪問]
- 前真知田 東角の拝所
- 東井 (アガリガー)
- マーチンサーの拝所
- 49番地の拝所 [1/30に訪問]
- 前道 (メーミチ)
- 倉ヌ跡 [未訪問]
- メーミチの拝所
- 村屋 (真栄里公民館)
- 西井 (イリーガー)、西之大井 (イリーヌウフガー)
- 神道 (カミミチ)
- 中之御嶽 (ナカンウタキ)
- ザハニヤ
- 仲間之殿 (ナカマヌトゥン)
- 越地 (クイージ) の神屋、島当 (シマタイ) の根屋
- クニヒヌカン
- 大栄
- イビルグサイ [未訪問]
- クミントゥン
- ナカヌトゥン
- 真栄里の石獅子
クール―部落
- ロンドン杜公園
- 越地之殿 (クイージヌトゥン)
- 越地西側のアジシー
- 殿 (トゥン)
- 地頭ビヌカン
- 龕屋
- ドンドンガマ
- フカマユー [未訪問]
- ジョーンチムイ [未訪問]
- フルゴー道
- 山城のアサギ
- ナンデー父の墓
- ナンデー母の墓 [1/30に訪問]
- クールーガー
- 南之井 (ヘーンカー)
今日は旧高嶺集落の最後の訪問地の真栄里集落を巡る。集落に向かう途中、報得川沿いの農道に入った所で、道路に犬がうずくまっている。近寄ってもそのままで、動かない。道路上には何か吐いたのだろうか、液体が道路に広がっているようだ。何かあったのだろうか、病気なのか?事故でもあったのか?疲れて休んでいるだけなのだろうか?近づいて声をかけるのだが、こちらを見ているだけで動かない。首輪をしているので、この近くで飼われているのだろう。このまま、見過ごすのは忍びない。事故か病気であれば、獣医に連れていくべきか?飼い主が見つからなければ、この犬の面倒は自分がすべきことになるが、借りているアパートはペット禁止なので、病院で回復したとしても責任が持てる状況ではない。犬とか猫の保護施設を調べるが、この地域には見つからず、相談するところもない。自分にできることは、飼い主に連絡することしかないだろう。この脳槽を通る自動車を停めて、心当たりを尋ねるが、手掛かりは見つからない。この近くの与座集落の幾つかの家を周り、この犬の写真を見せ、飼い主を探すも、成果はない。住人とも話し、公民館に飼い主探しを頼むのがベストだろうということになり、公民館に赴き、写真を見せてお願いすることになった。飼い主が見つかり、保護してくれれば良いのだが.... ある人は捨てられたのかもしれないと言っていたので、少し心配だ。ペット可のアパートならば、連れて帰ってもよいのだが、このような時にどうすべきなのかは良いアイデアが出てこなかった。この後、集落巡りに戻るのだが、飼い主探しにかなりの時間を費やしたので、今日一日で予定している文化財をすべて見ることは難しいだろう。残ったのはもう一度くればいい。この後も、この犬の事が気になり、集落巡りには、なかなか集中できなかった。
旧高嶺村 真栄里集落 (まえざと、メーザトゥ)
北は字糸満、字照屋、字国吉と接し、東は字真壁、南は字伊敷、字小波蔵および字名城、西は潮崎町と接する。現在19の小字で構成されている糸満市では西崎町に次いで広い字になっている。琉球王統時代、当初、兼城間切に属し中城村と称していたが、間切境の変更により高嶺間切に編入され真栄里村に改められた。
言い伝えによると、真栄里は元々三つの集落から形成されたという。東から糸部 (イトゥブ)、真栄里 (メーザトゥ)、クールーと呼ばれ、それぞれが独立したムラであった。クールーは先中城ともいわれ、護佐丸の中城入りに伴って先の中城按司が移って来たため、その呼び名が付いたといわれる。先中城按司の孫の真栄里按司次男の高嶺大主はイトゥブを起こし、糸部大屋子となった。
主要産業においては農業ではサトウキビ栽培が主だが、戦前はサツマイモの栽培も盛んであった。戦前は米も生産していたが、現在、水田はない。近年は、野菜栽培や熱帯果樹培も盛んになっている。
1976年に人口が急増している。これは真謝原市営住宅が建設され多くの人が流入したことによる。その後の人口増加も1989年 (平成元年) に県営真栄里団地の入居がはじまったことによる。1996年をピークとして、人口が激減しているが、その原因については触れられていない。その後人口は増加に転じて、コンスタントに増えて現在に至っている。
真栄里は旧高嶺村では明治時代から常に人口の最も多い字であった。他の字と比較して人口に開きはだんだんと大きくなっている。と言っても他の市や町に比べれば、人口増加率は低い地域だ。これは糸満市に共通の課題だろう。
糸満市史 資料編13 村落資料 旧高嶺村編に記載されている文化財
真栄里集落文化財訪問ログ
犬の飼い主探しを頼んだ与座公民館から大里を抜け、国吉まで来た。真栄里集落はこの国吉の隣の集落で、国吉から真栄里にかけては沖縄戦終盤の激戦地だった場所。この場所にはこの沖縄戦の遺構や慰霊碑がたくさんある。まずはこの沖縄戦遺構を訪れる。
白梅の塔
国吉から真栄里に向かう途中のサトウキビ畑の中に丘があり、そこに白梅学徒隊の慰霊碑がある。白梅学徒隊は八重瀬町富盛の八重瀬岳の第24師団第1野戦病院が6月4日に解散した後、戦場をさまよった後、16人学徒隊が移動して辿り着いた豪である。6月21日から6月21日に米軍の猛攻撃を受け、多くの犠牲者が出た。白梅の塔は、戦没した白梅学徒隊及び沖縄戦で戦死、或いは戦争が原因で亡くなった教職員と同窓生149柱の鎮魂と、世界恒久平和を祈念して昭和22年1月に建立された。入り口を入った場所には地蔵も設置されている。
白梅学徒隊の慰霊碑は他に富盛の八重瀬岳野戦病院跡、分院であったガラビ壕のヌヌマチガマ側にも建立されている。本土では軍属として靖国神社にも合祀されている。
当時沖縄県は女学生の動員に抵抗していたが、結局陸軍第32軍 (司令官 牛島満中将) に押し切られ、15~19歳の女子学徒は看護要員として野戦病院に送られることになった。戦前、沖縄には21の中等学校、高等学校があり、そのすべてで学徒動員が強要された。女子学徒隊はひめゆり学徒隊 (師範学校女子部と県立第一高女)、瑞泉学徒隊 (県立首里高女)、積徳学徒隊 (私立積徳高女)、梯梧学徒隊 (私立昭和高女)、なごらん学徒隊 (県立第三高女)、宮古高女学徒隊 (県立宮古高等女学校)、八重山高女学徒隊 (県立八重山高等女学校)、八重農女子学徒隊 (八重山農学校) などが組織された。
白梅学徒隊の生存者の一人がこの悲惨な戦争を語り伝えるために読み聞かせの活動を行っていた。それが本となっていたので、ここに載せておく。
萬魂之塔
白梅の塔の前にもう一つ慰霊塔がある。萬魂之塔は、国吉集落の住民によって建立をされた慰霊塔。沖戦当時、激しい戦闘がり広げられた国吉一帯では、終戦後、付近から収集した遺骨を集落南西側のガママープと呼ばれる壕に集めていたが、1955年 (昭和30年)、現在地に塔を建立し4,000余人の戦没者の遺骨を遷骨した。字国吉では住民441人の内147人が犠牲になっている。
寺 (ティラ、南禅廣寺)
白梅之塔の隣にお寺の堂之形をした拝所があり、ティラ (寺) とか南禅廣寺と呼ばれている。また、マチドー (巻堂、松堂) の寺 (ティラ) ともいわれている。伝承によると、11世紀ごろ義本王の時代に早魃と雨がそれぞれ7か月続き、洞穴から蛇が現れて人々に危害を加えた。祈祷師の呪文によって一旦は鎖まったものの、蛇はしばらくして再び現れ、この地の祭祀を司っていたビジルという女性もその犠牲となった。そこで国吉のハーという人が唐へ出向いて呪文を習い、ついに蛇を減ぼした。テイラはこの蛇とビジルを供養するものといわれる。お堂の中には龕の様なものがあり、その前に3つの香炉が置かれている。沖縄戦で焼失したが、戦後は1953年 (昭和28年) に再建され、1979年 (昭和54年) には現在の建物に改築された。毎年旧暦9月9日、近年では旧暦9月の吉日に、ムラの人々の健康と安全、豊年等を祈願するティラムヌメーという行事が行われる。かっては大屋復の本家の屋号 大屋の当主が代々ホーイといってティラの祭祀を司る役目を担っていたが、1983年 (昭和58年) 以降、ティラムヌメーは区長を中心に行うようになっている。ティラとは神が鎖座する洞窟のことを指すといわれ、赤瓦屋根の建物のすぐ側に洞窟がある。
下の壕 (マチドーヌティラ)
ティラの横に洞窟がある。八重瀬岳にあった第24師団第1野戦病院が移動してきて、この真栄里の自然壕で。この壕では傷病兵の手当や看護が白梅学徒らにより行われていた。6月21日には米軍の馬乗り攻撃を受けて、白梅学徒の6名が戦死してしまった。6月23日が沖縄戦終結の日なので、僅か2日前の出来事だ。八重瀬岳で解散した白梅学徒は幾つかのグループに分かれて、戦場をさまよったのだが、この場所にいた第24師団に合流しなかったグループの犠牲は少なかったので、何とも不幸な出来事だった。
山形の塔
この地は沖縄戦終盤の激戦地で、この戦いで日本陸軍の主力部隊が第24師団に属していた歩兵第32連隊で、山形県出身者で構成されていた。歩兵第32連隊の上部組織の第32軍司令官の牛島満中将が6月23日に戦死し、この日で沖縄戦は組織的には終結したのだが、第24師団長の雨宮巽中将が6月30日に戦死し、歩兵第32連隊のの上級司令部が不在となった後も、この歩兵第32連隊の連隊長の北郷格郎大佐の下、数百名の残存将兵がこの国吉台の洞窟陣地を堅持し、遊撃戦を展開し、アメリカ軍を悩ませ続け、8月15日の日本のポツダム宣言受諾まで抵抗を続けた。ポツダム宣言の事実を確認した後、8月28日にこの場所で軍旗を奉焼し、8月29日に歩兵第32連隊の第二大隊残存将兵約300名の武装解除となった。9月4日には歩兵第32連隊の第一大隊の武装解除が行われた。この場所に第二次世界大戦で犠牲になった山形県出身者の慰霊塔を建てている。沖縄戦戦没者765柱、南方諸地域戦没者25,612柱、その他地域戦没者14,457柱で総数40,834柱が合祀されている。塔の横にはウフ壕 (田原屋取壕) と呼ばれた陣地壕とその入り口に観音堂がある。このウフ壕には真栄里集落の住民が避難していたが、歩兵第32連隊が移動してきて、壕から追い出されたといういきさつがある。
沖縄では沖縄戦終結日ついては、6月23日として記念日に制定されている。この日は第32軍司令官の牛島満中将が自決して、沖縄での日本軍の組織的戦闘が終わった日だ。しかしこれには異論を唱える人も多い。この国吉などで局地での戦闘がその後も9月4日まで続いたことや、南西諸島の日本軍代表が降伏文書への調印が行なわれた9月7日が妥当との見解だ。
この山形の塔の道路を挟んだところにも歩兵第三十二聯隊終焉の地と書かれた石碑が建っている。
眞山之塔
山形の塔の奥にも慰霊塔が建っている。沖縄戦に於ける第24師団戦没者の慰霊塔。歩兵第32連隊が属していたのがこの第24師団なので、歩兵第32連隊だけではなく、すべての部隊の犠牲者を慰霊しているのだろう。
上の壕
眞山之塔の脇に上の壕跡が残っている。壕の中には入れないのだが、壕の入り口が見える場所に慰霊碑が建てられている。上の壕は軍の資材置場で食糧弾薬倉庫となっていた。白梅学徒隊の休憩所としても使われていたそうだ。6月22日の米軍の猛攻撃でこの上の壕にて白梅学徒隊2名が戦死、その後重度のやけどを負った1名が翌日に米軍の病院で死亡。八重瀬岳の解散後、国吉方面に戦場を彷徨った24名のうち17名が犠牲となった。(46名の生徒のうち22名が沖縄戦で戦死者がでている)
ウティルガー [未訪問]
先ほど訪れた山形之塔のところにあったウフ壕に避難していた住民が住んでいたところが 田原屋取集落でウテル原という小字にある。その田原屋取集落の裏手に井戸跡があると書かれていた。石灰岩台地の岩間から湧き出す力ーで、水量豊かな清水で、現在でも近隣の農家がパイプを引いて農業用水として使用しおり、綱引きの際に東マールーが拝んでいるそうだ。この井戸を探したのだが、確かに畑には給水パイプが引かれており。それをたどって井戸跡を探すも見つからない。雑木林の中に入っていくと、幾つかの香炉があるのだが、現在でも拝まれているような感じではなかった。この辺りにあるのだろうが、結局わからなかった。
バックナー中将慰霊碑
下の写真は白梅の塔がある歩兵第三十二聯隊陣地あたりから真栄里方面を見たところで、この辺りが激戦地になっていた。写真の中ほどにある林に栄里之塔とバックナー中将慰霊碑が建っている。
この林辺りは米軍に制圧され、歩兵第三十二聯隊陣地の北側の国吉集落と、歩兵第二十二聯隊が守っていた真栄里高地も6月17日に米軍に占領されていた。つまり、6月半ばには歩兵第三十二聯隊は北と南は米軍に抑えられ孤立していた。国吉集落の制圧には6月11日から約一週間かかり、米軍の沖縄戦では苦戦した場所。この国吉での戦いで米軍の被害は非常に多く、戦死者は1000人を超え、21両もの戦車が撃破されている。この地での戦闘は前述のように9月4日まで続く。この国吉での戦闘については資料を十分に読み込んでいないので詳細についてはまだ知識不足だが、四面楚歌の中で数か月も持ちこたえた歩兵第三十二聯隊は相当優秀な部隊であったことがうかがえる。ただ、米軍はこの地で抵抗を続ける日本軍を3か月近くも制圧しなかったことに疑問が沸く。戦局は牛島中将の自決で、実質上、在沖縄日本軍は壊滅、これ以降は掃討戦となり、沖縄戦の終わりが見えていた。大勢に影響がないこの国吉での掃討戦で犠牲を出すよりは、自然に降伏するのを待つほうが得策と判断したのかもしれない。それだけ歩兵第三十二聯隊は軍事的には優秀な部隊だったことは米軍も認識していただろう。もう一つの疑問は、逃げ場もないこの地で孤立して6月17日から8月末まで、歩兵第三十二聯隊はいかに生き延びたのだろう。兵站路は遮断され、物資の補給はなく、国吉、真栄里も米軍に占領され、集落での食料の確保も不可能な状態だったはずだが、サトウキビをかじって生き延びたのだろうか?
米第十軍司令官サイモン・B・バックナー中将は1945年6月18日、戦闘指揮中にこの地で戦死する。バックナーは当時日本陸軍に既に識別されており、バックナーが前線視察に訪れると日本軍の標的となり砲火が激しくなった。そのため、バックナーの前線視察は将兵には歓迎されていなかった。この日も、バックナーは部下の忠告を聞き入れず更に前進し、重榴弾砲による砲撃が開始された。(写真真ん中の林の丘がバックナーが前線視察のために上っていた。)
この場所からは真栄里集落から海岸線まで見渡せ、日本軍がいる国吉・与座方面も一望できる。
砲弾はバックナーの立っている付近に集中し、砲弾か石灰岩の破片を受けて倒れたバックナーを、補佐官ハバード達が自ら負傷しながらも、ほかの将兵の手助けを受けながら物陰に運び、その場にいた衛生兵に加えて3分後に駆け付けた軍医が輸血をしたが、出血が激しく、甲斐なく10分後に死亡したとされている。このバックナー中将の死により、米軍兵士の日本軍、日本人に対しての憎悪が増し、戦争は一層悲惨な展開になったともいわれている。これはアメリカ軍史上において最高位の階級で戦死した事例となっている。1952年に米軍の手により記念碑が建立されたが、1974年にキャンプフォスターに移設されたため、1975年6月に沖縄県慰霊奉賛会により現在の碑が建立された。この慰霊碑がある場所にはバックナー中将だけでなく6月19日に与座岳の戦いで戦死した米国陸軍准将クローディアス・M・イーズリー追悼碑と東風平で戦死した陸軍第24軍団大96師団歩兵383連隊の連隊長エドウィン・T・メイの慰霊板 (右上) もある。バックナー中将の慰霊碑の前にはバーボンウィスキーが供えられていた。この慰霊碑辺りは綺麗に整備されているのだが、地元の人たちや在沖米国領事館の協力の下、海兵隊や陸軍の隊員たちによって清掃活動が行われているそうだ。
栄里之塔
シージ原の北端、市道田原線沿いに建つ慰震塔で、毎年5月間日に字主催の慰祭を行っている。激戦地だった真栄里では、終戦後に集落周辺で見つかった遺骨を、アーマーガー近くの壕に安置し、程なく壕が遺骨で一杯になったので、1952年 (昭和27年) 現在地にコンクリートプロックで納骨堂を建立した。これまでに収骨した遺骨を火葬して納骨堂に納め、納骨堂の側に栄里之塔と刻まれた石碑を建てた。遺骨はその後那覇市強名の中央納骨所にされている。沖縄戦では真栄里集落の964人中343人が犠牲になっている。
立て続けに沖縄戦の遺構を巡り、その場所で何が起きていたのかを調べ考えながらだったので少し気が重くなった。この場所は今では想像もつかない悲惨なことが数か月にわたって起きていたのだ。気を取り直し、真栄里集落に移動する。
湾口 (ワングチ)
真栄里集落はかつては3つの村が合併して現在の真栄里集落が形成されている。東から糸部 (イトゥブ) 村、真栄里 (メーザトゥ)、クールー村であった。まずはかつての糸部 (イトゥブ) 村 (現在の小字の東江原) から見ていく。この東江原の西側は底原 (スクバル) という地区であまり民家はなくサトウキビ畑が広がっている。谷のようになっているので底原 (スクバル) と呼ばれる。ここに向かい御願をする場所がある。ワングチと呼ばれる場所だ。祠や香炉はなく、道路に座り海に向かって御願をする場所。ワングチは湾口と書く。かつてはこの付近まで海があったことからこの名が来ている。 綱引きでは、真栄里の東マールー地区がここから西の方向に見える海を臨みリューグ (龍宮神) を遙拝している。
東ン門のアサギ
集落の東の屋号 国吉新屋小屋の屋敷はかつては東ン門の屋敷だったそうで、この屋敷の南角に東ン門のアサギがある。この東ン門は古くは東マール―の元 (ムトゥ) と言われ、綱引きの際には東マール―が拝んでいる。
アガリントー [未訪問]
ウテル原の西側、東江原との境界、東ン門のアサギ近くに、大きな岩が立つ原っばがあり、アガリントーまたはアガリーントーと呼ばれる。岩の根元には香炉が置かれていて、綱引きのときに東マールーが拝む。かっては綱引きが近づくと、この場所で東マールーの若者たちが棒術の練習をし、女性達はその近くの小道で踊りを習ったという。この岩の北側には一回り小さな岩があり、岩の上に香炉が置かれており、同じく東マールーが綱引きの際に拝まれている。というのが資料の説明なのだが、岩の北側の小さな岩は見つかり下の写真なのだが、探し方が悪いのか肝心のアガリントーが見つからない。この場所は草が腰辺りまで茂っており、奥に進むことができず断念。綱引きの際には草刈りが行われているようなので、その際に再度訪問してみよう。
糸部 (イトゥブ) 大屋子世 (ユー) [1/30に訪問]
ウテル原の内、東江原との境界近くの雑木林の中にある。イトゥプ大屋子が祀られている。家形の古墓の他にカー跡やヒヌカン等がある。綱引きのときには東マールーが拝んでいる。
下糸部之殿 (スムチブ、シチャイトゥブヌトゥン) [1/30に訪問]
ウテル原の西側、東江原との境界近くの雑木林の中にあり、イトゥブ大屋子ユーの西に位置する。琉球由来記にある下糸部之殿 (シチャイトゥブヌトゥン) と思われる。ウマチーには仲添腹、仲ケ小腹が川門腹にミキを届け、スムチブで3腹が揃って祭祀を行う。綱引きのときに東マールーが拝む。
ウィーチブ [1/30に訪問]
ウテル原の西側、東江原との境界近くの雑木林の中にある。ここも琉球由来記にある下糸部之殿 (シチャイトゥブヌトゥン) と言われている。古墓やヒヌカン、カー跡がある。この一帯はかつて竹藪だったことからダキヤマヌウタキとも呼ばれている。越地腹はウマチーでここを拝む。綱引きのときに東マールーが拝む拝所の1つ。
勝連山 (カッチンヤマ)
集落の東側にカッチンヤマと呼ばれるところがある。かつては雑木林だったのだが、その中に多くの拝所やカー跡が所在し、ムラや門中が拝む他、綱引きでは東マールーが拝む場所だ。今は庭の様に整備されている。
[殿内屋 (トゥンチャー)]
市道沿いにあるのだが、建物は四隅のわずかな壁と天井だけの造りで、はじめは気づかず駐車場と思っていたのだが、北側角にヒヌカンが祀られているので拝所だとわかった。トウンチャーまたはカッチンヌトゥン (勝連の殿) と呼んでいる。仲門腹では、ウマチーの際、建物内に座したカミンチュにミキを捧げ、残ったミキを参加者でウサンデー (供物を下げていただくこと) する。
[勝連之御嶽 (カッチンヌウタキ)]
かっては伊波ヌウタキとも呼ばれていた。かつての糸部 (イトゥブ) 村の中心の拝所だろう。セメントで固められた拝所で、手前に香炉が6つ並べられている。これは、栄元腹、仲門腹、東門小腹、仲ケ腹、比嘉腹の各腹と真栄里にウスデーク (臼太鼓 地元の踊り) を伝えたという人の香炉という。かって、この場所では旧膺8月15日に女性達がウスデークを踊ったと伝わる。
[軸シンバン]
トウンチャーの南側に自然石を並べ、中央に香炉が置かれているな拝所で、国軸番または国軸と呼ばれている。
[ウサチカッチンユー]
カッチンのウタキの側にあるセメントで固められた古墓で、ウサチカッチンユーまたは伊波ユーと呼ばれ、仲門腹の先祖が祀られていると伝わる。隣接する香炉は東辺名・上里への遙拝のためのものという。
[栄元のクサイガー、仲門のクサイガー]
市道沿いに二つのカー跡がある。栄元のクサイガー小石を円形に並べて枠取られている。もう一つの仲門のクサイガーは石を方形に並べて枠取られている。
[ヨサンガー]
カッチンヤマ内の南側にヨサンガーと呼ぶチンガー (握り抜き井戸) がある。戦前期の早魃の際に掘ったという水量豊富な井泉で、簡易水道が供給されるまで利用されていた。現在は危険防止ため、セメントで覆われている。カーの傍の大きなガジュマルの根元に香炉が置かれている。
栄元の神屋
勝連山 (カッチンヤマ) の前の道路を境に西側は小字 真栄里原となり、3つの村の合併前の真栄里村が始まる。この道路の境の場所に屋号 栄元は真栄里の嶽元 (タキムトゥ) といわれ、タキニーガン (嶽根神) を輩出している有力門中の一つだ。屋敷内にアサギと古墓があり、綱引きでは東マールーが拝んでいると紹介されているのだが、民家で私有地なので中には入れず、道路からは神屋だけが見える。
屋号 三男前徳門 東角の拝所
嶽元の栄元の南隣には屋号 三男前徳門の屋敷があったが、その東角の道路沿いに拝所があるが、名称は不明。戦後にできた拝所で、嶽グサイ (嶽腰当) の火の神 (ヒヌカン) を祀っているという。綱引きで使用する東マールーの綱や獅子をこの屋号 三男前徳門とその南隣の屋号 前門小の屋敷東の米蔵に置いていたことに由来する拝所ともいわれ、綱引きの際に東マール―が拝んでいる。
仲門
栄元の神屋から少し北に行ったところにある仲門は東マールーのムートゥ (元) で、東南角にあるアサギの中には神棚があり、様々な祭祀で拝まれている。綱引きで東マールーが使用する旗頭や獅子等の道具類もこの建物で保管されている。屋敷東角にはウスク (アコウ) の大木が茂り、その根元に玉城ミントゥンと関わりがある人の骨が入った甕が埋まっているといい、玉城ミントウンユーと呼んでいる。また、大木の手前にあるプロック積みのには屋敷内から出てきた骨が祀られているという。その側にはカー跡があり香炉が置れている。いずれも綱引きで東マールーが拝んでいる。この拝所も民家の中にあるので外から写真を撮らせてもらった。この仲門腹ではウマチーの際には午前中に本家の屋敷とカッチンヤマ、午後に真栄里グスク等の拝所とカーを拝むんでいる。午前に回る拝所は ①仲門のアサギ ②カッチンヌウタキ ③仲門の床の間 ④仲門の屋敷東角にある古墓 ⑤玉城ミントウンユー ⑥トウンチャーのヒヌカン ⑦袖シンバン ⑧カッチンヌウタキ ⑨ウサチカッチンユー ⑩仲間のクサイガ- ⑪栄元のクサイガ- ⑫ヨサンガ-、午後には ①ウィンカー ②ウフアジシー ③ターチュージョー ④クバユ― ⑤ナカヌトゥン ⑥ウーアジシー ⑦ナカヌウタキ ⑧トゥンチャーを巡る。
30番地の拝所 [未訪問]
集落後方の30番地の敷地内には、墓や家型の祠、ヒヌカン等が置かれている。名称は不詳であるが、いずれも戦後拝所として祀るようになったという。綱引きのと東マールーが拝んでいる。これが資料での説明で、住所検索で30番地を調べるが、30番地はない。現在、人が住んでいない場所は住所番地検索には登録されていない。29番はあるのでその隣ではないかとその地に行くと空き家になっている。草も生え放題で中に入ることをためらった。ただ拝所となっているので、これほどまでにあれてるはずがないだろうから、ここではない可能性が高い。番地が順番に振り当てられているのはないので、この場所については地元の人に聞く以外わからないだろう。
この真栄里も含め沖縄も昔からの集落には空き地や空き家が目立つ。地域としては人口が増加し続けているところが多いのだが、昔ながらの集落は過疎化が進行している。これは集落では門中意識、血縁の族意識が強く、外からの流入者を歓迎しない風潮や先祖から受け継いだ土地之売却には消極的なことがある。ほとんどの集落が昔からの住宅区画がそのまま残り、アパートや商店はあまりない。一部の集落は拝所を一か所に集め区画整理を行い新しい街に変わっているが、これは例外的なものだ。この真栄里集落は保守的な集落なのだろう。他の集落に比べて、空き家や空き地が目立っている。空き地は売らず、神屋を建てているところが多い。ここで撮った写真はごく一部だ。
前真知田 東角の拝所
仲門から少し集落中心方面に進んだ住宅の合間に屋号 前真知田の屋敷があり、その東側角に拝所がある。シーシガナシ (獅子加那志) の魂を祀っている。ノロを祀っているともいう。綱引きの時に東マールーが拝んでいる。
東井 (アガリガー)
東井 (アガリガー) は集落のほぼ中央にある井戸で、水員は良く戦前までは飲料水として、戦後は濯場として利用された。1913年 (大正2年) に井戸改修工事を行った際、井戸後方にある東井之マー (アガリカーンマー) またはアガリヌアシビナーと呼ばれる広場にはガジュマルの大木が枝を広げる。1929年 (昭和4年) には、井戸の屋根をコンクリートに改修した。カーの南角に円箇形で中心部が窪んでいる石灰岩が置かれ、女性が髪を洗ったり、バサージン (色蕉市の着物) 等を洗ったりするのに利用したものが残っている。東井 (アガリガー) の南側にはナカンクムイという溜池がある。
中道 (ナカミチ)
東井 (アガリガー) とナカンクムイの場所を南北に集落を突っ切っている通りが中道 (ナカミチ) でここが集落の目抜き通りだった。
マーチンサーの拝所
東井 (アガリガー) の西にはマーチンサーの拝所がある。中軸あるいはムラ軸ともいわれる。敷地内には小石を積み回した古墓があり、マーチンサーアジシーと呼ばれている。粟石造りの家型の祠は戦後、個人が設置したものといい、その脇にある香炉を綱引きに東西マールーが拝んでいる。ウマチー等でグスクに向かう途中、カミンチュを載せた馬をここで休ませたという。
49番地の拝所 [1/30に訪問]
集落のほぼ中央に位置する屋号 新盛物の屋敷後方にある拝所で、ムラアジシーともいう。戦後にできた拝所で石を積み重ねた墓とコンクリート造りの墓がある。
前道 (メーミチ)
集落の南側には大通りがあり、かつての前道 (メーミチ) で、道幅はかなり拡張されている。
前道 (メーミチ) の西側はメーミチ広場になっている。この広場は戦前戦後は村の5つのサーターヤーの内、2号、3号、4号の三つのサーターヤー集まっていた。この道路とこの広場が真栄里大綱引きの会場となっている。
倉ヌ跡 [未訪問]
屋号 徳真知田の屋敷内の南側、コンクリートの台座の上に香炉が置かれていて、綱引きのときに東マールーが拝む。首里王府時代、上納用の米や粟を保管する倉があったそうだ。とあるのだが、現在も人が住んでおり作業所の様だ。その敷地内の奥に拝所らしきものが見えるが、敷地内なので中に入ることはためらわれた。
メーミチの拝所
メーミチ広場にある石垣の上には小さな拝所があり、綱引きの際に東西のマールーがそれぞれここを拝んでいる。伝承によると、拝所がある家のカミンチュの娘がよその土地に嫁いだ後、この家の石垣が崩れ落ちてしまったので、娘が急ぎ香炉を造り、その後は石垣は崩れることはなくなったという。
村屋 (真栄里公民館)
メーミチ広場を通り、前道 (メーミチ) の西の端から北側に入ると、かつての村屋之場所があり、現在は公民館が建っている。公民館の前は広場になっており、西井之マー (イリカーンマー) と呼ばれている。
西井 (イリーガー)、西之大井 (イリーヌウフガー)
公民館の前に西井 (イリーガー) があり、戦前までは飲料水のほか生活用水として使用していた。昔はこのカーの西側には西之産井 (イリーヌウブガー) があったが、危険であるとして埋められている。
現在は西大栄小の屋敷角にカー跡を示すコンクリートの円筒と香炉が置かれ、西之大井 (イリーヌウフガー) と呼ばれている。綱引きのときに西マールーはイリーガー、イリーヌウフガー跡を拝んでいる。
井戸の前には先ほど訪れた東井 (アガリガー) の場所にもあったイリーグムイと呼ばれる溜池がある。
神道 (カミミチ)
ヌルや神人が拝所を巡るときに通り道をカミミチと呼ぶ。真栄里集落にその一部が残っている。人が一人通るのがやっとの狭い路地で、村屋から中之御嶽 (ナカンウタキ) に通じる。
中之御嶽 (ナカンウタキ)
公民館から神道 (カミミチ) を北に進むと、真栄里集落の屋号 仲門が管理する中之御嶽 (ナカンウタキ) がある。敷地にカーの跡やヒヌカン、古墓がある。ウマチーや綱引き等で拝まれる。
ザハニヤ
中之御嶽 (ナカンウタキ) の少し東にあるコンクリート造りの拝所 (写真の奥のクリーム色の建物) で、管理は屋号 前川門が行っている。真栄里里主の子の座波大主を祀ってあるという。綱引きのときに東西のマールーがそれぞれ拝んでいる。
仲間之殿 (ナカマヌトゥン)
村屋の北、中之御嶽 (ナカンウタキ) の西に、旧家 仲間の東隣に位置する周囲を竹藪で囲まれた拝所である。拝所敷地内には古墓やミチムンがあり仲間ヌトゥンといい、ウマチーや綱引き等に拝まれる。ホーイ仲間之殿ともいい、仲間の屋敷後方にはホーイと呼ばれるコンクリート建ての拝所がある。さらにその後方の丘上の雑木林の中にも古墓があり綱引きのときに西マールーが拝む。
越地 (クイージ) の神屋、島当 (シマタイ) の根屋
仲間之殿 (ナカマヌトゥン) のある通りを少し西に行くと集落の西端になる。ここに真栄里の草分け筋の家の1つで、かってはクイージヌル (越地ノロ) を出していた越地 (クイージ) 門中の神屋 (写真左上 手前の建物、写真右上) がある。越地は島当 (シマタイ) から養子を迎えたこともあり、越地ノロを島当 (シマタイ) ヌルとも呼んだ。現在、越地屋敷内には越地のアサギとは別に、西側に島当の根屋と呼ぶ神屋 (写真左上 奥の建物、写真左中) もあり、ともに綱引きのときに西マールーが拝む。「由来記」には、ソフヅケナ巫とあり、拝所にソフヅケナ巫火神と記載されている。また、西角には沖縄戦で後継者が途絶えた、同腹に所属していた家を祀るプロック積みの祠や火の神もある。越地腹ではのウマチーの際には ①越地の母屋の神棚 ②屋敷内の南角のアサギ ③屋敷裏東側のアジシー ④カーオー(③のアジシー横) ⑤越地ヌトゥヌ ⑥チングスクへの遙拝 (⑤の前方より東の方角を拝む) ⑦地頭ヒヌカン ⑧トウン ⑨ウィーチブ を巡る。
クニヒヌカン
越地の神屋の後方にブロックを重ねて家型に造った祠があり、クニヒヌカンと呼ばれている比較的新しい拝所で綱引きのときに西マールーが御願している。
大栄
越地の神屋の北側、集落の北の端にノロ元でもあり、西マールーのムラムトウ (村元) でもある屋号 大栄がある。ウールンチ (大殿内)、またはヌンルンチ、あるいはカミンヤーと呼ぶ。門中の祭祀だけでなく、ムラや西マールーの祭祀に拝まれる。敷地内には神屋があり、ヒヌカン (火之神) とビジュルなどがあるが、中には入れない。琉球国由来記にある島尻中城巫火神と考えられている。ウマチーでは、まず大栄の台所のヒヌカン (火の神)、仏壇、門中の神d棚、東側別棟の大殿内の神棚・ヒヌカン・ビジュル (賓頭盧) を拝み、次の順序で各拝所を回る。①ウィーンカー ②カーシリガー・ヘーンカー・ナカンカー ③ウーアジシー ④ターチュージョー ⑤クバユー ⑥ナカヌトゥヌ ⑦ウーアジシー(③) ⑧ナカヌトウン ⑨仲間ヌウタキ ⑩ナカヌウタキ
中城按司護佐丸が減ぼされた時、その三男盛親と乳母が、隣の村の国吉ヌ比屋に守られて、国吉のティラ (南禅廣寺) や先中城に隠れたと伝わる。盛親は乳母の実家のこの大栄にかくまわれ、先中城按司に武術を教わりながら成長したという。国吉ヌ比屋の妻と乳母は姉妹だったといわれ、乳母は、盛親の実母であったという説もある。
イビルグサイ (未訪問)
大栄の屋敷前方に、小石を凹状に積み上げた拝所と、コンクリートで固めた墓がある。墓に納められている骨は、大栄の屋敷裏から移したものだという。綱引きのときに西マールーが拝む。この場所を路地から探している時に、そこの住民が家から出てきて、この路地も敷地内なので、中に入らないように注意され、それ以上探すことができず断念。地図上では道になっているところが敷地内の事もある。以前にもそういうことがあった。特に墓とか拝所は地元の人にとっては神聖な場所なので、興味本位の写真撮りを快く思っていない人もいるだろう。そちらを尊重すべきだろう。
クミントゥン
大栄の後方の丘陵頂上付近に、北面するように香炉が置かれている。綱引きの際に西マールーが拝む。久米島から来た久米按司が築いた拝所ともいわれている。この近くにもコンクリート製の祠の拝所などもある。
ナカヌトゥン
越地の南にある仲ケ腹が管理している拝所で、周囲を漆喰で固めた古墓があり、手前に香炉が4つ置かれている。ウマチー等に門中が拝む。
真栄里の石獅子
真栄里村の西の端には石獅子が残っている。この石獅子は比較的新しいものだそうだが、それ以外の情報は見つからなかった。この石獅子があるところには神屋がありその他にもいくつかの拝所がある。
ロンドン杜公園
旧真栄里村から三つ目の村であるクール―村に入る。クールーは先中城ともいわれ、護佐丸の中城入りに伴って先の中城按司が移って来たため、その呼び名が付いたといわれる。先中城按司の孫の真栄里按司次男の高嶺大主は糸部 (イトゥブ) 村を起こし、糸部大屋子となった。かつてのクール―村の南側は現在の萬謝原の北部、クール―村の北側は現在の内間原の南部にあたる。クール―の北側はロンドン社公園になっている。
ロンドン社公園のある丘陵地から見える風景。かつての海岸線はもっと内陸部に入り込んでいたそうだ。
越地之殿 (クイージヌトゥン)
集落西のロンドン社公園内の広場東側に位置する、プロック造りの拝所でヒヌカンが2組ある。島当の殿とも呼ばれる。ムラや門中が拝んでおり、「由来記」には越地之殿とある。
越地西側のアジシー
越地ヌトゥンの北側にある古墓で、綱引きのときに西マールーが拝む。
殿 (トゥン)
集落西、ロンドン社公園内の広場東側に、四隅の小さな壁と天井でできたコンクリトの建物があり、トウン (殿) またはトンチャー (殿内屋) と呼ばれる。ウマチーにカミンチュが集まる所で、ここから越地ヌトゥンを拝むという。
地頭ビヌカン
集落西、ロンドン社公園内の広場東測に位置するコンクリートの祠で、地頭ビヌカン (地頭火の神)、地頭ミチムン、地頭ビーと呼ばれる。祠の中に3個の石を並べたヒヌカンと香炉が置かれている。この拝所は2002年 (平成14年) の公園整備の際に現在地に移されたが、それ以前は現在地より南側にあり、そのすぐ東にはウシグヮーグルシーと呼ぶ場所があった。
龕屋
集落西、ロンドン社公園内の広場に、龕を納めるコンクリート造りのガンヤー (龕屋) がある。この龕屋は、2002年 (平成14年) の公園整備の時に建設されたもので、それ以前は現在地よりも南西側のフルゴー道近くにあった。チャーギ (イヌマキ) でできていた戦前の龕は沖縄戦で焼失し、戦後1953年 (昭和28年) に新たに作ったもの。毎年、旧8月の初寅の日に、龕屋でガンゴーと時ばれる儀礼を行っている。
ロンドン社公園の北側は広大な雑木林が広がりその中を散策できる遊歩道が完備されている。その道を歩くと、所々に古墓が残っていた。
ドンドンガマ
アミヤ原の東南丘優E、アーマーガーの方の林の中に位置する自然洞窟で、凹地状の入口を中に下りると古い墓があり、手前に香炉が置かれている。海ヤカラー (漁に長けた) と呼ばれた男と旧家の仲間の娘との恋物語の舞台となった場所といわれ、旧正月16日のジュールクニチーと7月7日の七夕の前に仲間腹で周辺を清掃している。かっては子どもが生まれたり、人が亡くなったりすると拝みに来ていた。綱引きのときには西マールーが拝んでいる。
フカマユー [未訪問]
ロンドン社公園内、ドンドンガマの南側には丘陸西面の岩陰を掘り込んでつくった墓があり、フカマユーと呼ばれ、香炉が置かれている。綱引きのときに西マールーが拝む。と資料にはあるので、ドンドンガマからコンパスでその南側を探すのだが、見つからない茂みが深くそれ以上進めず断念。拝所となっているので、どこかに入り口があるはずだが、ここも地元の人に聞かなければわからないだろう。
ジョーンチムイ [未訪問]
萬謝原の東端にある小高い丘をジョーンチムイ、またはクガニムイ (黄金森) といい、頂上付近に香炉が置かれている。カラティービラを挟んで北側の雑木林の中にも香炉が置かれており、ともに綱引きの時に西マール―が拝んでいる。資料の地図で示された場所はそれらしきところだが、草が生え放題で腰辺りまで伸びている。中に入って探すのだが、あまりにも草が深く断念。このような雑木林に入るたびに体中に草の種子が引っ付く、そのたびに持参しているブラシで払い落とすのだが、粘着質で衣服に絡みつき綺麗には落とせない。それでこのような草むらに入っていかねばならないときは、時々気おくれがする。
フルゴー道
ロンドン社公園はクール―村の北側の丘陵地にあり、クール―村からロンドン公園内にある各拝所にはこのフルゴー道を通り御願に来ていた。現在は階段になっているが、昔は急な坂道に石を敷いて登っていたのだろう。このフルゴー道を通りクール―村へ降りる。
山城のアサギ
屋号 山城は真栄里の旧家の1つであり、綱引きやのムインバイ際に同家のアサギを西マールーが拝んでいる。
ナンデー墓
ナンデー (ナンレー) は、中城護佐丸の三男盛観ゆかりの地というが、詳細は不明。また一方では、ナンデーとは何代も前の古い時代を意味しているともいう。内間原のほぼ中央の丘陂上、真栄里 (メーザトゥ) グスクの雑木林にある古墓をナンデー母の墓といい、クールー集落内の山城の東の丘上の雑木林の中にある古墓をナンデー父の墓と呼んでいる。両方とも西マールーが綱引きの際に拝んでいる。
ナンデー父の墓
ナンデー母の墓 [1/30に訪問]
クールーガー
クールー集落の西側にあり、戦前からクールーの飲料水や生活用水として使用されてきた。現在では、水量は少なくやや濁っている。元々は半円形の石積み井戸だが、現在はその四方と屋根をコンクリートで囲っている。市道田原線を挟んで南側にあるヘーヌカー (南の井泉) に対し、クールーガーはニシヌカー (北の井泉) ともいわれる。
南之井 (ヘーンカー)
クールーガ-のすぐ近くにもう一つ井戸がある。南側にあるので南之井 (ヘーンカー) ト呼ばれている。
今日の前半は犬の飼い主探しで時間を使ったので、予定していた文化財をすべては見ることができなかった。残りは次回に持ち越しとなった。この犬の飼い主が見つかったのか、見つからずそのままになっていないかが気になって集落訪問には集中できなかった。
参考文献
- 糸満市史 資料編13 村落資料 旧高嶺村編 (2013)
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