Okinawa 沖縄 #2 Day 115 (08/07/21) 旧玉城村 (6) Oyakebaru Hamlets 堀川/志堅原集落

堀川集落 (ほりかわ、フッチャー)

  • クマギイ井泉
  • 拝所
  • フスミ井泉
  • 堀川 (フッチャー) 拝所
  • 堀川公民館
  • 堀川農村公園
  • 満水井泉 (マンスイガ-)

志堅原集落 (しけんばる、シチンバル)

  • ガフ
  • 根屋 (ニーヤ)
  • 神屋
  • ビンジン
  • 殿 (トゥン)
  • 慶良間山 (キラマーヤマ)
  • キージ墓
  • クニジクバン
  • 志堅原公民館
  • 仁川 (ジンガ-)
  • 女仁川 (ミージンガ-)
  • 名称不明墓 (女親フジの墓) [未訪問]
  • イヌイ山
  • ミシラギ



堀川集落 (ほりかわ、フッチャー)

堀川集落は戦前に奥武の屋取として始まり、雄飛川を挟んだ港川を始めこの一帯の採石業に従するものが多かった。

沖縄戦後、1946年 (昭和21年)、玉城区より先遣隊として男子70 名が一団となって採石業に着手し、その傍ら、住家建築をなし、家族受け入れ準備を進め、当時、日系ニ世チャーリーの取り計いにより、割当家屋73揀を買い受け住家建築し、365人の家族を受入れ堀川区として独立行政区となった。1947年 (昭和22年) には世帯数105戸、人口527名にもなっていた。1951年 (昭和26年) には簡易水道が施設された。1960年 (昭和35年) には港川と堀川を給ぶ現在の橋が完成した。1964年 (昭和39年) には、弁務官資金によって吸い上げ式ポンプアップによる水道が完成し、水に不自由なく生活することができた。採石業を主体にして成り立ってきた戦後の新しい部落。

戦後の新しい集落としては500人を超える比較的大きな集落であり、現在は人口600人を超えている、玉城区の中ではちょうど真ん中に位置するぐらいの人口を抱えている区になっている。

明治時代之地図には集落もなく道も走っていなかった。戦前に屋取集落ができたころは、港川へは北側から大きく迂回して採石場に通っていたことがわかる。


堀川集落は屋取集落なので、御嶽や殿は無い。生活に密着していた井戸への御願は行われているようだ。


堀川集落訪問ログ


先ずは先日訪れた前原集落まで行き、そこから海岸を目指す。向こう側に海が見えてきた。堀川集落までもう少しだ。

堀川集落が向こう側に見える。

クマギイ井泉

集落民家の地域から西に外れた雄飛川沿いにある畑地の隅にクマギイ井泉がある。雄飛川のすぐ側にあるので、台風等の高潮時は海水を被ったため、飲料水には向かなかったそうだ。

堀川集落へは雄飛川を渡った所から始まる。この橋は、1960年 (昭和35年) に完成し、港川と堀川が結ばれるようになった。現在ではもう一つ道路ができ、便利にはなったが、以前は、八重瀬、糸満方面にはこの橋が架かる道が唯一のものだった。

拝所

集落は他の多くの集落と同じように高台の傾斜地にある。まずは集落の西の道を登ると、道端に拝所が置かれていた。資料には出ていないので、詳細はわからないが、どこかの門中の神屋だろう。神屋の前方には井戸跡と三つの石の祠が置かれていた。神屋の中は綺麗に整頓されて、幾つもの香炉と火の神が祀られている。

フスミ井泉

坂道を登り切った所に、雄飛川に降りる急な階段があり、その下にフスミ井泉がある。沿いにある井泉。かつては堀川集落で一番水質のよい水が汲めたそうだ。この急坂の登り降りでの水汲みは大変だっただろう。現在、井戸は枯れてしまい、水はもはや湧いていない。

堀川 (フッチャー) 拝所

集落上部の中心地に堀川 (フッチャー) 拝所がある。この拝所は昔からあったものではなく、現公民館の建築後、集落の人々の心の拠り所として設けられた。拝所のそばの石碑には、「新生字堀川記念碑」と刻まれている。石碑の後部に、字の有志が米軍の協力を得て1946年に集落を興した旨が刻まれている。公民館も米軍高等弁務官資金で建てられたという。堀川は屋取集落で、移住してきた当時は拝所などはなかったのだが、沖縄戦の後、村を村民の協力で復興し、玉城から独立した事で連帯感が生まれたのだろう。琉球では村興しの際には御嶽を造っていたので、その伝統に倣い、ここも村興しで村民共通の拝所を造ったと思う。

堀川公民館

堀川 (フッチャー) 拝所のの場所に堀川の公民館がある。堀川拝所はこの公民館が建設された時に、造られている。

堀川農村公園

公民館の近くに農村公園がある。かつては何だったのかはわからないが、サーターヤーだったのかもしれない。公園内にある東屋で暫く休憩を取る。


満水井泉 (マンスイガ-)

先程訪れたクマギイ井泉からそれ程離れていない場所に、満水井泉 (マンスイガ-) がある。この井戸雄飛川沿いにある。集落から外れた南側に位置している。明治時代、堀井戸 (栗石製) として造られ、上水道が完備されるまで生活用水として使用された。クマギイ井泉と同じく、台風等で高潮になると海水を被るため、飲料水には向いていなかったそうだ。


堀川集落は屋取集落なので、文化財は限られおり、これで終了。次は隣の志堅原集落を巡る。



志堅原集落 (しけんばる、シチンバル)

志堅原は具志頭新城より来た志堅原大屋子、または、百名より来た志堅原大主が村の世立初と考えられている。志堅原大主の在所は根所となっており、集落内に根屋が残っている。この根屋がある場所は屋号 謝名だが、この謝名は世子がなく、糸数から玉城按司の裔孫糸数村比嘉からの分家として移住したと伝えられている米須、糸数があの後を継ぎとなっている。志堅原集落は玉城村でも中位の部落となっっている。志堅原集落は戦前には移民部落ともいわれるほど、外国移民が多かったので、部落の経済もだんだんよくなっていたが、沖縄戦により灰麈と化してしまった。1946年 (昭和21年)、玉城区より分離し志堅原区として独立することになった。海外引揚者等が多くなったので、元東地 (アガリンチ) にあった住民は堀川区に合併されたが、戦前よりも戸数人口は多くなっている。

志堅原集落には醜童 (しゅんどう) という演目の打組踊りが伝わっており、玉城村無形文化財に指定されている。対照的な各二組の美女と醜女が互いの情感を掛け合いながら展開される。緋色の衣装に鮮やかな髪飾りをつけて優雅にう美女に対し、醜女は地味な衣装に安物の大きな簪を指して滑稽な仕阜て両者の対比を描いている。この演目はお面を用いて踊る唯一の古典舞踊て、琉球王府時代より踊られていた。

明治時代は200人程の小さな集落だったが、その後は増加化率はそれ程ではないにしても、人口はコンスタントに増え続けている。


志堅原集落で行われている年中祭祀は下記の通り。


志堅原集落訪問ログ

堀川集落からは港川バイパスを登り志堅原集落の北側に出て降りて行くルートとした。集落の上部に古墓があるので、北側の集落上部から巡る。
バイパスから集落へ降りる所が志堅原地区の北の端になるのだが、そこにシーサーが置かれていた。新しいシーサーだが、シーサーは村を守る役目なので、志堅原地区を守るという想いが込められているのだろうか? ここからは志堅原集落とその向こうに奥武島の集落が臨める。

ガフ

集落に入る手前、集落の北方にガフと呼ばれる古墓がある。林の中にある石積みの墓で、志堅原で最初に造られた墓というから、かなり昔、琉球王朝時代のものだ。約100年前に早死にする人が多くおり、この墓を拝まなくなったのがその理由とされて、再び、拝むようにしたという。その効果なのか、それ以降は早死する人の数が減り、集落は栄えるようになったらしい。

根屋 (ニーヤ)

ガフから南に進み集落に入った所に志堅原の村立てをした志堅原大主の在所といわれる根屋 (ニーヤ) がある。屋敷跡は空き地になっており、そこに根屋 (ニーヤ) の神屋が建てられている。神屋内には幾つかの香炉と火の神が祀られている。神棚の前には大きなトタン張りの箱が置かれている。獅子舞の獅子を保管していおり、7月17日に獅子の毛調べを行うそうだ。

神屋

資料には載っていなかったのだが、根屋の周りには幾つもの神屋がある。このほかにも幾つもの見かけた。資料では志堅原集落には三つの門中があったと書かれていた。通常は門中の元屋に神屋を置くので、これ程多くの神屋があるのは何故だろう?分家した人たちが独立して神屋を建てているのだろうか?

ビンジン

根屋の直ぐ東側の民家の隣の雑木林の中にビンジンと呼ばれる拝所がある。病気等の快復や子供の健やかな成長を願って拝まれる。資料ではこの場所は養い親 (ヤンネーウヤ) の屋敷跡といわれていると書かれていたが、誰の養い親なのだろうか? 多分集落の有力者だったのだろう。

殿 (トゥン)

根屋の直ぐ東側に殿がある。広場の中央に祠が建っている。五月ウマチーでは字富里の世礼 (シリ―) 腹門中も参加して祭祀が行われている。まだ富里は訪れていないのだが、この集落と何か関係があるのだろう、富里を訪れる際に分かるかも知れない。


慶良間山 (キラマーヤマ)

殿の東側、集落の西の端に、小さな丘があり、そこに幾つもの香炉が置かれた拝所がある。慶良間山 (キラマーヤマ)、又は、上ヌ殿 (イーヌトゥン) と呼ばれている。集落北西端部にある拝所。慶良間の漁師がシケにあい、灯の見える方向に向かい流れ着いた場所と資料にはあったが、ここは海岸から距離もあり高台で、漂着した人たちと何らかのいきさつでここに拝所が設けられたのだろう。

キージ墓

慶良間山 (キラマーヤマ) がある丘の下に立派な亀甲墓がある。その墓の隣に下部が石積みの古墓があり、キージ墓とかアジシー墓と呼ばれている。ここでは、綱引終了後、綱引で引いた綱の尾部を燃やす儀式が行われるのだが、何故かまでは書かれていなかった。本当はその背景が知りたいのだが..

クニジクバン

集落の拝所は殆どが先程まで廻った集落の上部にかたまっている。これは古琉球の集落の典型的な作りで、最高部に御嶽、その下に有力者の屋敷と神屋や殿、そして時代とともに集落は下に広がって行く。次は少し下り集落の真ん中付近にある拝所を見学。クニジクバンと呼ばれる拝所が集落中央部の民家の塀の脇にある。前ヌ殿 (メーヌトゥン) とも呼ばれている。漁師が、漁の報告と海の恵みへの感謝をする拝所だそうだ。昔、奥武の漁師たちが漁をしていた時、志堅原の漁師が網を投げた。その網は、船の群れの上を飛び越えたため、奥武の漁師たちはその怪力に驚き、「捕った魚は志堅原に持っていくので漁は遠慮してほしい」と頼んだ。その後、奥武の漁師が魚を持ってきたのがこの場所だといわれる。この場所にはかつての村屋 (ムラヤー) が置かれていた。

志堅原公民館

クニジクバンから少し降った所、集落の前道にあたる幹線道路沿いに現在の公民館がある。この道路が集落の南端にあたる。公民館は小さく特徴もない建物だが、入口付近に力石が残されていた。大事に保管しているのだろう。

仁川 (ジンガ-)

公民館の南側を海岸に向かう道の途中に井泉が二つがある。まずは仁川 (ジンガ-) で言い伝えでは、海岸にあるミシラギに難破した外国船を繋いだのだが、その乗組員は朝鮮人で、この井泉が彼らの故郷にある仁川に似ていたのでそう呼ばれるようになったという。琉球国由来記のヅン川之御イベに相当すると考えられている。ツン川之御イべでは、琉球王府の役人による「御正月祈願」と「九月麦初種子」、また、大勢部御使による祈願 (12月) が行われた。

女仁川 (ミージンガ-)

仁川 (ジンガ-) の道向かいには女仁川 (ミージンガ-) と呼ばれる井泉跡がある。難破し志堅原に仮住まいしていた朝鮮人が、生活用水を汲んだ井泉という。

名称不明墓 (女親フジの墓) [未訪問]

仁川の後側の傾斜地の雑木林の中に仁川を発見した女親 (イナグウヤ) フジの墓があると、資料には書かれていたが、あまりにも草が深く生え放題で、中に入る事は断念した。資料に載っていた写真を載せておく。


イヌイ山

集落の南東の端にに志堅原農村公園があり、その中にある小さな岩山に御嶽が残っている。イヌイ山とかミノ山と呼ばれている。昔、奥武島との間の海にあるミシラギ瀬で朝鮮の船が難破した折に、救助された乗組員が仮住まいした場所と伝えられている。イヌイ山は、1月1日の初御願と、6月25日のヤマアキの村落祭紀で祈願されている。琉球国由来記には、イヌイ山は「イヌリノ (神名: 敷地カナマンノ御イベ)」で当山ノロの崇所の一つと記されている。イヌリノは「祈りの御嶽」の意で、イヌイ山の「山」は奄美諸島では御嶽を意味することもあるので、それに関係しているのかも知れない。(沖縄本島では「御嶽」あるいは「森(ムイ)」と称するのが一般的で、「山」と呼ばれるのは数少ない)


ミシラギ

イヌイ山からの崖下の海中の大岩がミシラギで、朝鮮の難破船を係留した岩岩といわれており、御嶽となっている。この朝鮮の難破船に関わる拝所はこの志堅原集落や奥武島に多くある。志堅原集落の祭紀では、イヌイ山から遙拝される。奥武のハーリーの際にも拝まれている。御願ハーリーの儀式で神人、ハーリーの漕ぎ手がこの岩を沖の船上から拝んだ後、競漕が始まる。琉球国由来記の「ミシラゲ瀬 (神名: ミウハタヤトハタ照司ノ御イベ)」に相当する。「ミシラゲ瀬」では、琉球王府の役人による御正月祈願と九月麦初種子、また、大勢頭部御使による祈願 (12月) が行われた。左の写真は仁川がある海岸から撮ったもので海底が現れているのだが、数時間に奥武島に渡ってそこから撮った際は海面がかなり上昇していた。


これで志堅原集落の文化巡りも終え、この後、奥武島の文化財をめぐり始めたが、暑さで体力も消耗しているせいか、少し辛い。帰りも1時間以上かかるので、この島で暫く休憩して帰途に着いた。

家に帰ると今日はハプニングがあった。部屋に入ろうとカギを回すのだが硬くて開かない。これは時々あったのでなんとか開くだろうと、力を込めてカギを回すと、カギが折れて、鍵穴に鍵が残ったままになってしまった。もう既に6時近く、一般のカギ店は閉店しているので。仕方なくカギのレスキューサービスを調べて電話をするが、繋がらない。やっと繋がった会社から那覇の提携先を探すも、対応できる所なしと断られた。やっと探し当てた鍵屋さんは緊急対応はしておらず、明日の午後になるという。今のところこれがベスト。さて今晩はどうするかと思案、インターネットカフェは緊急自治宣言化で、時短営業で泊はない、マクドナルドも現在はデリバリーのみの営業。それにマンションの入り口はセキュリティーで部屋の鍵でしか入れない。一度出ると、誰かが入るのを待たねばならない。今晩はマンションの階段の踊り場で過ごすことになった。さあ、明日どうなることやら。

マンションの階段の踊り場はしたがコンクリートなので寝心地は悪いのだが、疲れているせいか、何とか寝ることができた。朝起きて、カッターで何とか鍵穴に残っているカギを取り出し、近くの鍵店の開店を待ってそこに行き、合いかぎを作ってもらった。(折れた鍵の合い鍵を作ってくれるところはあまり無い様なので幸運だった) 合い鍵を持って帰る。マンションの入り口はこの鍵で開いた。ただ部屋のドアは、また鍵が回らなくて折れてしまわないかと心配だったが、今回は力も入れずにすんなりと開錠。これで一件落着。鍵レスキューに頼むと最低でも一万円はかかるところ、一晩外で明かした甲斐もあり、合い鍵代の千円で抑えられた。沖縄では即時対応はほとんどないそうだ。


参考文献

  • 南城市史 総合版 (通史) (2010 南城市教育委員会)
  • 玉城村史 (1977 玉城村役場)
  • 南城市の御嶽 (2018 南城市教育委員会)
  • 南城市の沖縄戦 資料編 (2020 南城市教育委員会)
  • 王城村グスクとカー (湧水・泉) (1997 玉城村投場企画財政室)

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