Okinawa 沖縄 #2 Day 116 (12/07/21) 旧玉城村 (7) Nakayama Hamlet 中山集落

旧玉城村 中山集落 (なかやま)

  • 崎間子 (サチマシー)
  • 中山の石獅子 (古島北)
  • 殿 (トゥヌ)
  • 上之井泉 (イーヌカー)
  • 古井泉 (フルガー)、クブー [未訪問]
  • ジーハンタ
  • 名称不明拝所
  • 新井泉 (シンガー)
  • 中山区の石獅子 (東)
  • カンサギの神屋
  • 中山の石獅子 (西)
  • 中山の石獅子 (南)
  • 中山の拝所
  • 中山公民館
  • ガルガー滝



旧玉城村 中山集落 (なかやま)

伝承によれば、いつの頃かははっきりとはしないのだが、中山部落にはかなり昔から人が住んでいたと考えられる。中山部落には昔から崎間 (サチマ) 門中の先祖が住み、玉城按司の配下にあって農業を営み、使用人をして鍛治屋を設け刀や農具を造り貢いでいた。現在鍛治屋跡といわれている敷地があって毎年御願が行なわれている。また玉城城下に位置することや、玉城、中山部落の獅子が雌雄一対を分け合っていることから、大昔には、玉城部落と一つではなかったかとも推測されている。

現在の中山集落は背後に玉城グスクのある丘陵の斜面、標高70-85mぐらいの所にある。この集落は戦後移動してきたもので、それ以前は更に上の標高100m之所に広がっていた。南側は海岸に召しており、その向こう側は隣の集落がある奥武島になる。

その後、島尻の真壁按司が戦いに敗れ、その奥方 (おなざら) が身重のまま難を逃れ志堅原の東りバンタの崖下で泣きかくれているのを、中山の人々が介抱し、當山集落で男子を出産し、その後、中山集落で生計を営むようになりその子孫が真壁門中といわれている。中山集落には7つの門中があり、真壁門中はその中でも有力門中の一つだ。別の有力門中の宮平門中は垣花 (和名村) から移り住み、東り門中は浦添の仲西殿内からの分れで、現在の中山部落を形成しているといわれる。
戦前までは国道331号線道路 (百名バイパス) の上方にあって樹木蒼として昼尚暗く、地形が傾斜しているため、交通や農耕に不便で、村歌に「里がくらさや仲栄真村」とうたわれていたが、戦後は文化生活を営むようになり、それにつれ、大部分が国道に面した場所に居を構え、交通、農耕に便利な部落となった。

人口は地形もあり、元々多かった集落ではないのだが、沖縄が本土復帰して、徐々に減少し現在は全盛期の三分の二以下になってしまった。集落を巡っても、商店もなく、隣村の奥武が便利になって、人口も旧玉城村では最も多く開けている。敢えて新しく不便な中山は条件は良くないと感じた。

中山は南北に広いのだが北の3分の一は琉球ゴルフ倶楽部、真名kあの三分の一は急な丘陵斜面地、で南側の3分の一が集落の生活圏で、集落が集まっているのはその北側斜面で、南側は平坦な耕作地となっている。民家の変遷もほとんど変化がないことがわかる。

中山で行われている年中祭祀は下記の通り。古くからの集落ではあるが、他の集落に比べて少ないが、他の資料ではこれ以外の祭祀も紹介されていたので、これ以外にもまだ行われていると思われる。


中山集落訪問ログ



以前訪問した糸数集落の麓の糸数入口交差点を東に向かい、富里集落を通って中山集落の北側丘陵の中腹の山道を進む。

崎間子 (サチマシー)

集落北方の傾斜面の中腹を横断する道沿いに古墓があり、鍛冶屋の墓と伝わっている。 崎間子 (サチマシー) と呼ばれている。かつて中山では崎間門中の先祖が住み、 玉城按司の配下にあって農業を営み、使用人をして鍛冶屋を設け刀や農具を造り貢いでいた。その崎間門中の先祖の墓と考えられている。ちなみに崎間子の「子」は尊敬の意を込めた敬称で「様」と同じようなニュアンスだそうだ。
ここは標高110mぐらいの高台でこの下に集落がありあり、集落の更に下に海岸線まで畑となっている。奥武島が綺麗に見渡せる。引き潮で海岸にはイノー (サンゴ礁に囲まれた浅い海、礁池) が現れていた。

中山の石獅子 (古島北)

崎間子 (サチマシー) の奥の林の中は広場になっており、広場の岩場に石獅子が置かれている。中山集落の古島は現在の場所より更に北側の丘陵の上部にあった。このあたりが古島の北の端で、集落を守るために石獅子が置かれていたのだろう。糸数方面を向いているが、特定の場所の火返し (ヒケーシ) だったのか、通常の集落の東西南北の四隅に置かれていたのかは資料には書かれていない。中山集落には5体の石獅子があるそうだ。古島時代の石獅子と移住後の現在の集落の石獅子とが混在しているようだ。この後、どれだけの石獅子が見つけられるだろう。

殿 (トゥヌ)

崎間子 (サチマシー) から道を更に進むと、丘陵の森の中への入口がある。殿 (トゥヌ) への登り口だ。石畳の道が森の中に伸びている。道が二つに分かれている。上への道を進むと、祠が見えてきた。ここが殿だ。
この場所は、中山で最初の家があったところと伝えられ、祠内には火ヌ神が祀られている。 戦前は赤瓦葺きの祠だったそうで、その後も何度も葺き替えられたのだろう、祠の前の広場には葺き替えられた赤瓦が残されている。この殿は琉球国由来記の「中栄間之殿」 に相当するとみられる。「中柴間之殿」では、 玉城ノロにより稲二祭が司祭された。
資料には殿周辺にも、殿の守り神といわれる拝所が4ヶ所あると書かれていた。 二つは見つけたが、残り二つは分からなかった。
先程の道の分岐点まで戻り、下の道を進む。この道の先に幾つかの井戸跡があるのでそれを探す。道の途中に小さな石の祠があった。殿の守り神の一つなのだろうか?

上之井泉 (イーヌカー)

道を更に進む。この道の先に幾つかの井戸跡があると書かれていた。この辺りにあった古島に住んでいた住民の飲料水として使用されていた。まずは上之井泉 (イーヌカー) があった。現在は水は枯れている。 正月に初御拝の際に拝まれている。

古井泉 (フルガー)、クブー [未訪問]

資料では、上之井泉 (イーヌカー) から更に奥に入ると、古井泉 (フルガー) とクブーがあると書かれている。両方とも拝所となって正月に初御拝の対象となっているので、道の側にあるのだろう。資料にあった写真を手がかりに森の中を探す。それらしき所はあるのだが、香炉などは置かれておらず、これでは無いだろう。森の奥まで入って探すが結局見つからなかった。この二つの井戸も古島時代には飲み水として使用されていた。三つも井戸があった事からも、この南側が古島だった事がわかる。

ジーハンタ

崎間子 (サチマシー) まで戻り、現在の集落への急坂を降りる途中にジーハンタという拝所がある。現在の集落の北部にあたりゲートボール場となっている。この場所はジーハンタ毛 (モー) と呼ばれ、ジー (土地)、ハンタ (崖)、モー (野原) とという意味。先人の遺骨が祀られている神聖な場所。広場の入り口のところには簡易水道の水タンクが残っている。
広場の一角にコンクリート造りの祠がある。拝所の中に向かって右側の祭壇 (写真左下) では知念グスク按司から中山の統治を任されていたジーハンタ子 (シー) とその妻子が祀られているという。左の祭壇 (写真右下) については不明。この拝所には中山集落以外にも知念字知念の大屋門中の人も拝みに来る。
ジーハンタ周辺には、ジーハンタの守り神といわれる拝所が4ヶ所あると書かれていたが、そのうち3つは見つかったのだが、もう一つは草むらの中にあるのだが見つけられなかった。
見つからなかった4つ目のジーハンタの守り神の写真が資料に載っていた。
四年に一度、ジーハンタ祭 (ジーハンタ・スージ) が行われていて、この祭りは中山集落では最も重要な祭祀にあたる。インターネットでこの祭りの様子があったので、写真を拝借した。

名称不明拝所

ジーハンタから道路を挟んだ斜面の道の途中に生えているアコウの木の下に拝所がある。拝所である。 資料ではこの木の根元に切石があり木の根が巻き付いているとあるが、石は見当たらない。道の少し下には木で造った小さな祠がある。今はここが新しい拝所となったのだろうか?
ジーハンタがある場所は戦前まで集落があった場所で、ちょうど、中山トンネルの上になる。何故、戦後住み慣れた場所から下に移住したのかは書かれていなかった。この丘陵の上は、戦後は米軍の沖縄統治のための広大な敷地となり、その施設や住居が造られていた。その地位に住んでいた住民は帰還がかなわず、移住を余儀なくされた。この中山集落もそのケースだったのかも知れない。

新井泉 (シンガー)

中山トンネルを西側に出た北側に新井泉 (シンガー) と呼ばれる井戸がある。名前の如く、比較的新しい井戸で、主に戦後集落が移動した後に使われ、この上に設置された簡易水道の水タンクの水源となっていた。集落の北側に 後方にある。井戸のある場所までは、立ち入り禁止の表示がかかっていたので、行けなかったのだが、水路を勢いよく水が流れている。現在でも雑用に使われているそうだ。正月の初御願で拝まれている。

中山区の石獅子 (東)

中山トンネルの東側、国道331号 (百名バイパス) 道路脇の丘に別の石獅子がある。かつては中山集落の北東の端にあたる所。現在の集落の北の端になる。

カンサギの神屋

ジーハンタから坂道を降って行くと少しずつ民家が現れ出した。現在の集落のほぼ北部にカンサギ腹門中の神屋がある。 かつてカンサギはずっと上にある殿の前にあった。集落が移動した際にカンサギも移動したのだろう。おそらく神屋は民家の敷地内にあるので、見ることは出来なかったが、資料に写真が載っていた。カンザキ腹門中は中山集落の祭祀を主導した家だそうだ。 嶽元 (タキムトゥ) にあたるのだろう。
ここから集落が斜面に広がり、海岸へは広大な畑となっている。

中山の石獅子 (西)

カンサギの神屋から集落内に階段があり、そこを降りた所に3体目の石獅子があった。石獅子は海岸方向を向いている。かつて死者を弔う場所として崇められていた奧武島へ向けて置かれたそうだ。ここはかつての集落の南の端だったのだろうか?それとも集落が移動してきた際に、北から厄除けとして造られたのだろうか?
現在の集落は規模は小さく、道路は斜面に沿ってS字型に走り、その間の移動は階段となっている。また細い路地が幾つかあり、戦後すぐに造ったと思われる石畳も残っていた。

中山の石獅子 (南)

中山の石獅子 (西) のすぐ下に4体目の石獅子があった。こんなに近くに2体もの石獅子があるのは何故だろう? これも海岸方向を向いている。
中山集落には5体の石獅子があるのだが、この後集落をまわったが、最後の一体はとうとう見つからず。残念!


中山の拝所

現在の集落の東側に拝所がある。資料には載っていなかったので、集落が移動してきてから造られたのだろう。


中山公民館

現在の集落の南側 (海岸側) に公民館があり、その前は農村公園となっている。公園内には酸素ボンベの鐘が吊るされていた。


ガルガー滝

集落から大きく西に外れた所にガルガー滝がある。沖縄では数少ない大きな滝の一つだそうだが、観光名所としては開発されていないようで、手持ちの資料にも載っていない。畑の場所から水路沿いに遊歩道があるが、草が深い。年に数回しか草刈りはしないので、訪れる時期によって当たり外れがある。遊雨歩道沿いには何箇所か広場になって石のベンチもあるので、少しもったいない気がする。遊雨歩道の行き止まりに滝があった。細い滝だが、勢い良く流れ落ちている。
シンガーの場所に行った際にこのガルガー滝を上から見てみたく百名バイパスから見下ろしたのだが、高所恐怖症なので欄干から身を乗り出し見る事ができず、滝は見れなかった。反対側の遊歩道側はスマホを目一杯上にあげて撮影。遊歩道の木の柵が写っていた。

これで中山集落見学は終了。予定では隣の玉城集落も巡りたかったが、一日中、炎天下で外にいるので、暑さでバテてしまった。熱射病注意報も連日出ているほど暑い。時々は日陰で休憩を取ってはいるが、とにかく暑い。ガルガー滝を訪れた際に、パラパラと雨が降ってきた。雷も鳴っている。これで、今日はおしまいにして、帰ることにした。1時間かけて家の近くになった時に本降りとなり、その後豪雨に変わった。いよいよ沖縄の夏が始まったのだろう。これからはスコールの季節となる。


今日は、殿を訪れた際にオオゴマダラ (大胡麻斑) に出会えた。オオゴマダラは日本では南西諸島でしか見れない日本最大級の蝶々で、羽を広げると13cmにもなる。人間を警戒しないのか、逃げずに周りをフワフワと飛んでいた。木の葉っぱにとまった所を、スマホをかなり近くまで近づけ撮影。この蝶々の事は沖縄でもニュースに出てくるので知っていたが、なかなかお目にかかれなかった。これ以外にも沖縄では多くの綺麗な蝶に出くわす。スマホでの撮影は難しく、未だ撮影成功していない珍しい蝶にも出会っている。
今日はこれ以外にもマングースを見かけた。自転車で走っていると、前を道を横切って行った。帰りには道路で自動車に轢かれたマングースを見かけた。この近くには多くのマングースが生息しているのかも知れない。20世紀初頭にハブの数を減らすために放たれたのだが、実際にはハブの駆除には役立たず、ヤンバルクイナなどの絶滅危惧種を捕食して問題になって、沖縄ではマングースの駆除を行っている。以前は沖縄の観光の一つにマングースとハブの決闘ショーが行われていたが、今は動物愛護団体からのクレームで行われなくなった。

参考文献

  • 南城市史 総合版 (通史) (2010 南城市教育委員会)
  • 玉城村史 (1977 玉城村役場)
  • 南城市の御嶽 (2018 南城市教育委員会)
  • 南城市の沖縄戦 資料編 (2020 南城市教育委員会)
  • 王城村グスクとカー (湧水・泉) (1997 玉城村投場企画財政室)

0コメント

  • 1000 / 1000