Okinawa 沖縄 #2 Day 140 (28/10/21) 旧真和志村 (11) Matsukawa Hamlet 松川集落

旧真和志村 松川集落 (まつかわ、マチガ-)

  • 茶湯崎橋跡 (チャナザチバシ)
  • 指帰橋 (さしかえしばし、サシケーシバシ)
  • 養蚕試験場跡
  • 大道松原 (ウフドーマツバラ)
  • 松川殿内 (マチガ-ドゥンチ)
  • 村屋跡 (松川公民館)
  • 水神、松川村御風水神、村中軸、唐御通し、収糧シディ毛 (メーシディモー) の拝所
  • 遊び庭 (アシビナー)
  • 前之井 (メーヌカー)
  • 上之井 (ウィーヌカー)
  • 上之井 (ウィーヌカー) 水神 (ミジカン)
  • 殿之毛 (トゥンヌモー)、殿之毛公園
  • 殿 (トゥン)
  • 新屋敷 (ミーヤンチ) 神屋
  • 西 (イリ) 神屋
  • 製糖屋井 (サータヤーガ-)
  • 尻之井 (シリンカー)
  • 官松嶺 (カンショウレイ)、官松嶺記
  • 松川樋川 (マチガーヒージャー)
東京から沖縄に帰ってきてから、体調が思わしくなく2週間は集落巡りを控えていた。それと東京訪問記の編集を、体調之様子を見ながら進めた。やっと東京訪問記も終え、体調も回復したので、今日から集落巡りを再開する。まずは近場から再開。今日は旧真和志村の松川集落を訪問する。ここからは3~4キロ程なので、徒歩にて巡ることにする。



旧真和志村 松川集落 (まつかわ、マチガ-)

松川の始まりは琉球王府時代の1600年代初期と考えられている。新垣、豊村門中の祖先 (新屋敷 [ミーヤシチ]) と、仲村渠、玉城、金城門中の祖先 (西 [イリ]) が同時代に移住してきたのが松川集落の起源とされる。当時は人家が 二軒しかなかったので、村の名称も内金城といわれ金城村の屋取扱いだった。琉球王府時代は、首里王庁の直轄の首里三平等 (真和志の平等、南風の平等、西の平等) の一つの真和志の平等に含まれており、真和志の平等松川邑と呼んだり、 真和志の平等茶湯崎村と呼ばれたりしていた。後に、王府の行政区画が整備され、間切制度となった際に首里三平等とは区別して真和志間切が誕生し、松川は真和志間切に移管された。当時は首里金城村と呼ばれ、のちに茶湯崎村、さらに松川村と名称が変わっていった。 明治の初期には、90軒ほどの集落に発展していた。

松川村は松川前原に金城川が流れ、松川後原には真嘉比川が 流れ坂下で会合して、 安里川に落ちていく。川沿いの土地は肥沃で、河川の水利用によってこの一帯は米作りが盛んだった。その後、人口増加、自然災害などで飢饉が起こり、食糧増産のため二毛作である甘藷栽培が普及し、従来の水田 が畑に変わっていった。

松川村の信仰の中心は七神を祭る殿之毛で、村の諸行事の儀式や祈願は、殿之毛拝所で行なわれている。

松川集落 (松川地区) の人口データは、資料によって大きな食い違いがあるので、どれが正しいのかはっきりしない。人口が多く記載されているデータを使ってグラフを作る。マクロ的には、明治時代は真和志村の中では2番目に人口の少ない小さな村だったが、現在は3番目に多い地区となっている。人口増加のきっかけは、明治時代の廃藩置県で士族が職を失い、屋取として、首里から真和志地区之農地を求めて移ってきた。二番目には、沖縄戦終結後、元の地域に戻れない那覇の住民が真和志村に住み始めたこと。三番目には1976年で沖縄本土復帰後、本土から転入者が増えたことがある。1990年以降は、近年はほぼ毎年人口が微減しており、現在の人口はピークだった1984年に比べて、17%減っている。これは他の旧真和志村の地区では、下落率が高い方だ。

明治時代は集落は小さく、当時は地域面積の71%が農地で、旧真和志村のなかでは耕地面積が一番広い字だった。現在は地域内のほとんどが民家や公共施設となり、住宅地も飽和状態でこれ以上宅地開発の余地は少ない。


松川集落の祭祀一覧


戦前の松川集落


松川集落訪問ログ



茶湯崎橋跡 (チャナザチバシ)

安里川と真嘉比川の合流地点よりやや上流の真嘉比川に架かっていたの茶湯崎橋跡 (チャナザチバシ) で、那覇から首里に向かう旧道にあった。橋の創建年は不明だが、1674年に木橋から石橋に架け替えられたという記録がある。琉球王国時代の茶湯崎橋は現在より西側にあり、現在の橋は移動している。橋跡には案内板が置かれている。それによると、かつてはこの辺りまで船が遡ってきており、18世紀の政治家の蔡温は、ここ茶湯崎村に湊を造り、交通の便を良くし、首里まで商船を入れて交易をするという計画を考えていたようだ。だた、これは実現しなかった。

当時の茶湯崎橋が1700年代の首里古地図 (写真左下) に表わされている。また明治時代後半の古写真 (上) もあろ、写真左隅にこの橋が移っている。首里古地図には橋を渡った所に石碑が描かれているが、これは明治期まで残っていたが、道路整備のために撤去されて現存しておらず、古写真 (右下) として残っているだけだ。この橋が架かっていた坂道は人里から離れ真夜中に強盗や幽霊が出るという物騒なところで、妖精の伝承もたった。それを鎮めるため、1519年に日本僧の日秀上人が橋の北側に碑を建立した。碑には、梵字が刻まれて、一般の人には判読できず、「文字ン故事ン判ラン松川の碑文 (ムジンクジンワカランマチガーヌヒムン)」といわれていた。

1945年(昭和20年) の沖縄戦の後、道路整備の際に、もとの茶湯崎橋の道は旧道となり、橋の北側の電車軌道跡 (1933年 [昭和8年] 廃止) が新たな県道となり、川筋も変えられ、1953年  (昭和28年) に橋の位置を移動させ新しい茶湯崎橋が竣工した。これが現在の茶湯崎橋にあたる。


指帰橋 (さしかえしばし、サシケーシバシ)

琉球王国時代に茶湯崎村の茶湯崎橋付近には指帰橋 (サシケーシバシ) という橋も架けられていた。真嘉比川、安里川、金城川の三つの川流の合流地点にあった。遺老説伝に、「石を築して橋と為す。 此時海潮出入し水深く江広くして北山の諸船此の湾に至り泊まる。而して海水張り来り、淡水の為に帰らざる有り。困りてその橋を名づけて指帰橋と曰く」記されているように、かつてはこの辺りまで小舟が行き来していたといわれている。指帰橋は川改修工事のため取り壊され、戦後の1957年に架設され、現在の指帰橋 (さしかえしばし)は、2002年に改修されたもの。現在の指帰橋は当時の名を受け継いだだけで、当時の指帰橋 (サシケーシバシ) の架設場所は不明。「指帰」という名称は、三流が交差し水が指し返す様子をそのまま形容したものだそうだ。 (この橋の近くにあった「指回碑」を名称の由来とする説もある)

養蚕試験場跡

大道通りから安里川に架かる恵波橋を渡った所は集合住宅街になっており、何棟もマンションが立ち並んでいる。昭和の戦前まで、この場所と、少し北の坂下通り近く尻之井 (シリンカー) 辺りに、養蚕試験場が置かれていた。明治初期の廃藩置県以降、職を失った旧士族のあいだで養蚕をするものがみられはじめ、1897年 (明治30年) に、沖縄県は養蚕奨励のため専任技手を農事試験場におき、場内に桑園を設けて各町村の巡回指導などを行い一般への普及につとめた。大正時代には、養蚕は沖縄全県下に普及し、第一次世界大戦による絹糸価格の高騰で、製糖業不振を補う手段として積極的に奨励された。1928年 (昭和3年) 沖縄県立養蚕試験場が独立する。


大道松原 (ウフドーマツバラ)

現在の大道通りは、琉球琉球王国時代には那覇から首里城二向かう道だった。首里観音堂付近から大道地域にかけて道の両脇には見事な松並木が続き大道松原 (ウフドーマツバラ) と呼ばれていた。1501年に第二尚氏王統の第3代尚真王が、尚家宗廟の円覚寺を修理するための材木として、大道毛の丘に松の苗一万株を植えさせたことから始まり、万歳嶺 (現 観音堂)、官松嶺 (現 ノボテル付近) から大道地域にかけて松並木が広がった。1879年 (明治12年) の沖縄県設置後、この松並木は切り倒され、1945年 (昭和20年) の沖縄戦後、道路の拡張整備や宅地化により周辺は大きく様変わりし、首里那覇屏風図 (写真左上) に描かれた松原之面影はなくなっている。


松川殿内 (マチガ-ドゥンチ)

茶湯崎橋跡から効果になっている自動車専用道路の脇の旧道を進むとその北側は人が一人通れるぐらいの路地が何本も走っている。この路地は地図には載っていない。その一角に松川殿内 (マチガ-ドゥンチ) があったそうだが、どこがそれだったのかは分からないが、路地の片隅に拝所が残っていた。この付近に松川殿内があったのだろう。


村屋跡 (松川公民館)

旧道に戻り、高架道路の下のトンネルをくぐりを首里方面に進む。

松川公民館に着く。戦前の地図を見ると、この場所は村屋とある。昔からこの場所にあったのだ。戦前は「倶楽部」と呼ばれ、赤瓦葺木造本 建築の建物でだったが沖縄戦で消滅。 戦後、1947年 (昭和22年)、松川住民が収容所から帰還し、萱葺き木造の 公民館が再建された。老朽化で1968年 (昭和43年) に、鉄筋コンクリート三階建て建て替えられた。現在の公民館は、2015年に建て替えられたもの。


水神、松川村御風水神、村中軸、唐御通し、収糧シディ毛 (メーシディモー) の拝所

松川公民館の横には二つの石碑が建てられた拝所がある。一つは水神の碑で、松川集落で活用水や防火用水に利用されていた上小掘り、中小堀、前ヌ小堀の三つの池 (クムイ) が埋め立てられた際に、それぞれの池の神 (龍宮神) を祀っている。もう一つは村の守り神の「松川村御風水神」、村の測量基点の「村中軸」、芋マチーの際に拝んだ「唐御通し」、収穫した稲や穀物類を干して脱穀する場所だった高台を拝んだ「糧シディ毛 (メーシディモー) 」の四つの拝所となっている。


遊び庭 (アシビナー)

公民館から旧道を北に進むと、高架道路に出る。その入り口が少し広くなっており、脇にはちょっとした花壇があった。ここは、かつては村の若者たちが集う遊び庭 (アシビナー) だった場所。


前之井 (メーヌカー)

遊び庭 (アシビナー) から更に北に進むと、井戸跡がある。昔からの村井 (ムラガー) だった前之井 (メーヌカー) というので、昔の村の前方にあった井戸だろう。


上之井 (ウィーヌカー)

前之井 (メーヌカー) の北側に殿之毛入口が見えている。この入り口にも井戸跡がある。御嶽案内の神を祀る上之井 (ウィーヌカー) で、戦後もしばらくは松川集落の飲料水としてよく利用されていた。夏の炎天下でも湧き水は冷たく、人々は側を通りかかると、クワズイモなどの葉で、柄杓を作り汲み取ってのどを潤す姿がよく見られたという。集落の慣習行事として上之井の神水は、旧正月の朝早く家の男の子が水を汲み、親戚の仏壇への若水 (ワカミジ) を届けていた。


上之井 (ウィーヌカー) 水神  (ミジカン)

上之井 (ウィーヌカー) の上には、この井戸の髪を祀っている祠が置かれている。 


殿之毛 (トゥンヌモー)、殿之毛公園

上之井 (ウィーヌカー) の脇に殿之毛と書かれた石碑が建っている。殿之毛 (トゥンヌモー) は松川の守護神の七神を祀る松川の聖地として1700年代中期に整備されたところで、松川集落が形成されたときから聖地として村民の繁栄や五穀豊穣を祈願し、門中や各家庭の安全健康を祈るため一族を中心に巡拝する所だった。当時の摂政の具志頭蔡温の治山治水事業の一環として、個々にも保安林や応急よう建設資材として松が植えられていた。この殿之毛の北方から南西方向にかけて集落が形成され、茶湯崎村と称し、また、俗に「首里坂下」とも呼ばれていた。後には中山伝信録には松川村とも表記され、 松川脇地頭の所領地だった。明治初年に正式に松川村と改称されている。沖縄戦で首里坂下方面は激戦地で、殿之毛の樹木、井戸、拝所も弾痕が生々しく大きな被害を受けていた。1987年に整備されたのだが、その後、拝所の風化や擁壁の崩壊が進むなど景観も悪化していたことから、2015年に殿之毛公園として整備されている。階段を上った所には、村の復興記念として酸素ボンベが吊るされ残っている。


殿 (トゥン)

上之井から階段を上った広場の奥に殿 (トゥン) がある。この殿は松川 (茶湯崎) の拝所だ。この村には御嶽は存在せず、この殿が中心之拝所になっており、琉球王国時代は、神女組織の頂点の聞得大君の直接の配下にいた「三平等の大あむしられ」の一人の真壁大あむしられの管轄地域だった。もともとは現在の殿之前方にあったが、後方に移設改修された。殿の前の広場には奉納相撲場が移設されている。松川の祭事では、ここの殿の神々を拝み、前の広場で踊りや旗頭が奉納されている。戦中はここで出征兵士の武運長久を祈って戦地へ送り出した。綱引きの綱作りもここで行われている。上之井から階段を上った広場の奥に殿 (トゥン) がある。もともとは現在の殿之前方にあったが、後方に移設改修された。殿の前の広場には奉納相撲場が移設されている。松川の祭事では、ここの殿の神々を拝み、前の広場で踊りや旗頭が奉納されている。戦中はここで出征兵士の武運長久を祈って戦地へ送り出した。綱引きの綱作りもここで行われている。

殿には七つの神が祀られ、祠の中にそれぞれの香炉が置かれている。真ん中に村の守り神の「御嶽火之神」が置かれ、向かって右にはビジュルの「鬢頭盧尊神」、土地の神の「土帝君」、鍛冶の神の「金満善神」、左側の三つの香炉はお通し (ウトゥーシ) で、知念玉城へのお通しの「東代御返し」、 中山へのお通しの「中山御返し」、北山へのお通しの 「北山御返し」の合計七つの神が祀られている。


新屋敷 (ミーヤンチ) 神屋

殿之毛の向かい、には新垣門中と豊村門中の先祖を祀っている新屋敷 (ミーヤンチ) 神屋がある。集落が形成された時からの有力門中で、根屋でもある。

新屋敷神家敷地内には三つの祠がある。一番前にある祠 (写真上) は、ここにあった井戸を祀っており、井戸の上に祠が建てられている、その後には、鬢頭盧神の拝所 (写真中) で、更に後方には大和人の墓 (写真下) があり、薩摩の武士を祀ったとも言われ、戦前はヨロイの入った壺が残されていたという。


西 (イリ) 神屋

新屋敷 (ミーヤンチ) 神屋の少し上にも松川村が出来たころから、当屋敷に住んでいたといわれている仲村渠門中の西 (イリ) 神屋がある。西 (イリ) と新屋敷 (ミーヤンチ) 両家とも、松川での祭事では、この両屋敷内に祀られている拝所が拝まれている。 


殿之毛 (トゥンヌモー) のところで旧道は途切れ、消滅してしまっている。北側を走る現在の坂下通りに向かい、他の文化財を訪問する。



製糖屋井 (サータヤーガ-)

坂下通りに向う途中に製糖屋井 (サータヤーガ-) がある。 この付近に昔、製糖所 (サータヤー) があったといわれ、砂糖 (サーター) 製造の時には、ここの水を使用したといわれている。


尻之井 (シリンカー)

坂下通りに出る。坂下通りは、官松嶺、万歳嶺があった一連の丘の尾根部分を通っているように思える。南側の斜面から麓には、殿之毛 (トゥンヌモー) と茶湯崎 (松川) 集落が広がり、北側は急な崖になっており、その下にも後原の集落が広がっていた。この北側集落は廃藩置県の頃に形成され、集落内の細い路地の間に、その時代に造られた井戸跡の尻之井 (シリンカー) があった。後原集落の人々はシリン井の湧き水を神水として利用していた。ある。屋根は、1940年 (昭和15年)、紀元二千六百年の奉祝記念事業として当時の隣組がコンクリート造りにされている。


官松嶺 (カンショウレイ)、官松嶺記

坂下通りに戻り先に進むと、バス停の脇に官松嶺記のレプリカが展示されている。

オリジナルは1497年 (尚真21年) に、下今帰仁那 (シチャナチジナー) とも呼ばれていた官松嶺の頂上に建てられていた。下ミヤキジナハノ碑文ともいう。撰文は第四代円覚寺住持種桂により、「尚真王が諸官僚に命じて椎松 (松の苗) 数千株を植えさせ、官松嶺と号した記念に立てられた。」とある。沖縄戦で破壊され、残った上半分が沖縄県立博物館、美術館に保存されている。

この碑が建てられていた官松嶺 (カンショウレイ) はこの日の少し上にあるノボテルの場所だった。丘の上部は削られてしまっている。


松川樋川 (マチガーヒージャー)

ノボテルの敷地内に松川樋川 (マチガーヒージャー) があるので、受付で見学の許可を得て向かう。この井戸跡は戦争で埋もれていたのだが、旧都ホテル建築工事の際に発見され、場所を少し移動して復元されたもの。首里古地図にも、官松嶺の下へ通じる旧道の側に井戸の印が記されている。この井泉があった事で、この集落に人が少しづつ増えていった。かつて、この松川の女性は美人ぞろいと評判で、首里城に上がる役人の目に留まることが良くあった。それで、この湧水は「美人の水」とも言われていた。また、首里の若者たちが松川の美女をめあてに、毎夜松川通いを繰り返し、村では困り、「美人の水」の松川樋川を埋めてしまった。これ以降、松川では美人は生まれず、ミィーハガー (ブス) が続出し、今度は「松川ミィーハガー」の評判がたったという昔話が残っている。


首里観音堂 (山川)、萬歳嶺、万歳嶺記

ノボテルとなっているかつての官松嶺から坂下通りを更に登ると、別の丘がある。坂下通りから、旧道に入り登っていく。左上写真の中の左の道が坂下通り、右が旧道になる。琉球王国時代は萬歳嶺と呼ばれ、官松嶺が「下ナチジナー」と呼ばれたの対して、萬歳嶺は「上今帰仁那 (ウィーナチジナー)」と呼ばれていた。現在は、臨済宗慈眼院 首里観音堂が建っている。観音堂は、以前は、この前方にあったが、この萬歳嶺に移って来ている。この場所は、行政区域では松川ではなく山川に当たるのだが、先ほどの官松嶺と対の様な存在だったので、ここに記載しておく。門の上には戦時中に破壊されたのだが、平成18年に復興された立派な梵鐘がある。門を入ると、石碑がある。第二尚氏王統の第3代尚真王が、この地を遊覧した際に、民衆から万歳の声がわきおこったことから、1497年に丘の頂上に「万歳嶺記」の碑 (上ミヤキジナハノ碑文) を建立し、これ以降。この丘は「万歳嶺」と呼ばれるようになった。

1617年、後に国王となる第二尚氏第8代尚豊王 (在位1621年 - 1640年) が人質)として薩摩に赴いた際、父の尚久 (第二尚氏王統5代尚元王の三男) は息子の無事な帰国を祈願し、同年に尚豊が無事帰国したので、翌1618年に尚久は万歳嶺の南斜面に千手観音像を奉じ、観音堂と慈眼院を建立した。

その後、観音堂は旅の安全を祈る場所として人々の信仰を集めていたが、1945年の沖縄戦で焼失し、万歳嶺記の碑も破壊された。戦後、万歳嶺の頂上付近を削り、観音堂が新たに建てられたのが現在のもの。万歳嶺記の碑も、残った一部を台座に組み込み、復元されている。

撰文はは漢文で書かれ、「嶺はみな松なり、蒼翠四時を貫して積なり、勁操千載を堅く、黄鶴その上に唳きて神仙の駕を馭し、霊珀その下に在りてこの土の珍を産す。松のいのちながし (寿) にかけて萬歳嶺の名を得た。金闕金刹、崢嶸として上に連なるものは王府の梵宇なり。瓦屋茅舎、曠闊として下に接くものは民居漁市なり、坎に当たりて回巒・重嶂の煙霞の表に屹立するは、朝望の佳致なり。 兌に当たりて落潮・斜陽の島嶼の交わるに渺然たる晩眺の幽趣なり」とある。

境内は綺麗に保たれており、

これで今日の松川集落巡りは終了。ここから家まで4km。体調ももとにもどっているようだ。家まで帰り、今日の歩行距離は13km。


参考文献

  • 真和志市誌 (1956 真和志市役所)
  • 松川字誌 (2010 松川向上会)

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